仏教の三つの毒とは@むさぼり・欲望、A怒り・恨み、敵対心Bおろかさ、無関心です。
これを戦争に当てはめると、釈尊の言ったことがよくわかるように思う。
@むさぼりから、利権の争いが生じます。損得を離れ、そして、A報復への恨みと、誰かが先制攻撃してくるという恐怖を離れ、B死んでいく人々への無関心・無知を克服していけば、戦争は止んでいくと思います。
戦争と三毒
お大師さんは、今、苦しんでおられるだろう。また、争いを始める。また人が人を殺すといって。
お釈迦さんの一族は出家者を除いて、大国に皆殺しにされた。お大師さんの時代、辺境の地は蝦夷と呼ばれ、多くの囚人がお大師さんの地に運ばれ働かされた。どの宗教も不殺生を説く。不殺生は、題目ではなく、お釈迦さんの生き方、お大師さんの生き方から出た、生活方法であったと考えねばならない。
今、世界は激動している。世界秩序から戦争へ。
世界は昔から暴力に苦しんできた。世界は昔から生きにくさ、飢え、暴力、搾取に苦しんできた。そして、今、世界は戦争へと進んでいる。それは、私達が見てみぬふりをしてきた、世界に厳然と在る多くの苦しむ人々への、関心を警告している。私達は世界に現実にある苦しみを、忘れて生きてきた。
世界に苦しむ人々は、9、11という事件によって、私たちと繋がった。
私たちが忘れていた、苦しみ多い娑婆の世界は、しっかりと私達の世界と陸続きになったのだ。
私達はまるでテーマパークに居て、帰宅後の汗と涙を知らない赤子のように、世界の苦しみを忘却してきた。私達はまるで、そのテーマパークの品々が、天から降ってきた 贈り物と思い込み、実は多くの貧困者の汗によってつくられた物であることを知らないかのように、夢に浮遊してきた。
しかし、9、11でピノキオの時間は止まった。9、11で多くの命とともに崩れさったのは、その輝かしい不滅のテーマパークの巨塔だったのである。私達の富の象徴、私達の希望の象徴、私達の生き甲斐の象徴は、脆くも崩れさった。私達が自分の将来像を重ねた憧れのエリートたちとともに。
その上、その破壊者たる主犯は、消し去ればよい悪ではなかった。そうではなく、富を奪われた者、暴力に虐げられた者達であった。つまり、私達の安穏の巨塔を壊した者は、自分自身の暴力に喘ぐ人々であり、即ち、自分たち自身の暴力だったのである。
富を分かち合うことに因ってではなく、富を集中する事によってせり上がった巨塔は、根を枯らし、根が反逆する事によって自分の重さで崩れ堕ちた。
私達が着ているこの服は誰がつくったか。時給いくらで造られているか。私達の時給の百分の一かそれ以下だ。私達が食べる贅沢は、誰の汗によるか。その汗の主は一生かかっても家族に寄せられぬ食種でないか。私達が使う道具は誰が手によって道具となったか。
私達の快適と快楽は,まったく、虚構の上に成り立っている。我が生きる糧は、我が同胞、我が肩を並べる友人がつくりだした物ではない。我が思い上がりにより、我が下僕につくらせた物である。私達は私たち自らは手を下さない。しかし、金銭の暴力を通じて、金銭の奴隷たちに暴力と非道な契約をなさしめ、弱い人々をして労苦せしめ、ついに、金銀を紡ぎだしているのである。
これは、罪ではないか。仏への罪、冒涜ではないか。自分自身の内なる仏たる純粋なものへの殺傷ではないか。私達は、快楽を求めて実は他人を殺し、自分自身を殺傷している。自分を殺している。
生きるとは快楽に愉悦してただ生を持続することではないだろう。生きるとは、みずからの尊厳を確かめることではないか。生きる尊厳がなければ、私達は生を受けるべきではなかった。生まれて来なかった方が良かった。
私達は自分自身の来所を問いたい。自分自身の生きる価値を問いたい。私達を育んだ父母の愛情を確かめたい。私達を育んだ人々の誠意と真摯さを確かめたい。
今、世界は岐路に立っている。破滅か涅槃か。
今、私達は岐路に立っている。生きて良いのか、生きて悪いのか。
しかし、それ以前に、私達は知るべきである。
私達は、自ら生産しない以上、既に死んでいるのだ。
私達は、脚下照顧すべき時に居る。自分の足元を見るべきだ。
自分は自分で生きているだろうか。他人の犠牲の上に生きていないだろうか。
生きることは困難との戦いである。生きることは苦しい。生きることは他者への迷惑である。他者を傷つけることなくして生きることはできない。しかし、その過ちを知っている以上、私達は後戻りは出来ない。
自らの生存の虚構を突かねばならない。その欺瞞性を暴かねばならない。
自分たちの暴力は輪廻して、自分たちを破壊していく。
その自分たちは自分でありながら他人である。自分も他人も、同じく生きるものである。他人の痛みは分からない。他人は自分と同じでありながら決して分からない他者である。
この時、自分は決して殺されたくないことを思うしかないだろう。私は殺されたくない。決して殺されたくない。自分の家族を痛めつけられたくない。
だからそのように、他人にもすべきなのである。
自分が自分の家族を愛するように、他人もその人の家族を愛する。だから、私は他人を傷つけることはできない。
この世界の痛みはどうすれば無くなる。この苦しみはどうすれば無くなる。この悲しみはどうすれば無くなる。
私達が無に帰ることによってだろうか。私達が無念無想することによってだろうか。
お釈迦さんは教えている。
私達の心身に刺さった矢を抜けと。
私達は私達の内部に悪を抱えている。私達の中に苦しみの源泉を懐いている。私達の生存自身に暴力と苦しみを備えている。
生きること自体が苦しみかもしれない。
しかし、私達は変化を知っている。努力の僅かな効力を知っている。
私達に内在する私達を苦しみへと連れていく矢は煩悩である。
その煩悩とは総じて三毒と言われる。
仏教は煩悩をなくすことによって悟りと至福涅槃が得られると説く。その煩悩は総括すると三毒である。三毒とは貪欲、瞋(怒り)、無知である。
仏教はまず、名利を捨てて発心し、煩悩を消滅する。煩悩は三毒であり、三毒をなくせばお釈迦さんの仏教は成しうるのである。
戦いの始まろうとする時。
戦いという巨大な過ちが吹き荒れようとする時。
私達は三毒をありありと観る。三毒がその姿を顕現するのを在り在りと観る。
三毒とは、何か。
三とは、
一に、貪ることである。損得である。地位である。名声である。金である。快楽である。欲望である。蓄財である。保身である。快楽である。
二に、怒りである。恨みである。憎しみである。そして恐怖である。誰かが襲ってくると震える恐怖である。先にやられるだろうだから先に殺す。その恐怖である。
三に、無知である。蒙昧である。知らないことである。知らないことを知らないことである。自分は完璧だと自惚れることである。未知を尊ばない不遜である。そして、無関心である。無関心とは実は繋がっている自分自身の責任への反逆である。無関心とは私達の友達への暴挙である。それは自分自身のすなおな心を消し去ること、自殺である。
私達は、
貪りを離れよう。
名利損得を離れよう。
求めすぎること離れたい。
私達は、
恐怖を離れよう。
襲ってくる恐怖を離れよう。
他者を信頼しよう。
恐れなく、自分をいきよう。
私達は、
無知を克服しよう。
謙虚になろう。
未知への好奇心を育てよう。
無関心を克服しよう。
知ることは、生きることだとは知ろう。
まず、このように三毒を離れよう。
それは解脱と呼ばれる。自分自身が生み出す煩悩を離れることである。この煩悩は私に刺さった欲望の矢から次々と生み出されるものだから、離れても離れても湧き上がってくる。私達はその度に、煩悩を離れねばならない。
これは、解脱して少欲知足をめざす
次に私達は、生きる意欲を改める。
つまり仏の慈悲に生きることを目指す。
まず、大悲、他人の痛みを分かるという行を行う。他人の痛み喜びを共感することを知るのである。共感し強制使用とするのを慈悲という。
慈悲を意欲として生きることは、煩悩の生き方からの転換であり、大欲に生きる事である。
三毒を離れて解脱し、
利他の行に勤しみ、
慈悲の心に目覚めて、大欲に生きる。
そうすれば、私達は、私達の上に屋上を重ねることなく、また下に、下層を作り出すこともない。苦しめあうことなく、平穏な人生を生み出すことができるだろう。
人類に幸あれ。生きとし生きるものに幸あれかし。