愛と戦争・愛する人と戦争

 私達は愛欲のために戦争をするのだろうか。
 古いお経のスッタニパータの第五十に「実に欲望は色とりどりで甘美であり、心に楽しく、種々のかたちで心を攪乱する。欲望の対象にはこの患いのあることを見て、犀の角のようにただ独り歩め」と書かれている。そして、独り歩め、独り歩めと繰り返し独りを賛美する中で、一行だけ「彼と共に歩め」と書かれる。
 その一行はこうである。
 第四十五偈「もしも汝が、賢明で協同し行儀正しい明敏な同伴者を得たならば、一切の危難にうち勝ち、こころ喜び、念いをおちつけて、かれとともに歩め」。
 良き同伴者を得ることは、良いというのである。色とりどりの甘美な欲望の誘惑にも増して良きものなのである。
 この前後には、いろいろな戒めが説かれている。
 例えば第三十六。「交わりをなした者には愛恋が生ずる」。三十七「朋友、親友に憐れみをかけるとおのが利を失う」と。なぜなら第四十一「同伴者の中におれば、遊戯と歓楽とがある。また子女に対する情愛は抗しがたい」と。この章の最初の第三十五偈には「一切の生き物に対して暴力を加えることなく、そのためには子女を持とうと欲するなかれ」と説かれる。
 自分に子どもができたり、妻を持ったり、親友ができることは嬉しいことである。しかし、その自分より大事な者が、自分の足を引きずるというのであろうか。その最愛の者が暴力への誘因となるというのであろうか。
 ここには二つの誘惑が同時に書かれていて、見分けがたい。
 一つは、遊戯と歓楽である。愚かな同伴者と共に居れば、堕落するだろう。だから堕落するような同伴者は捨てて、独り犀の角のように歩めというのは良く分かる。
 もう一つは、なかなか納得しがたい。それは、最愛の家族や親友を放棄しろというのである。最愛のものは、時として争いの元になる。確かに、財宝や戦力や名声を巡って争うことは古今東西の罪科である。
 しかし、子どもを愛することや、妻を愛することや、親友を大事にすることが、争いの基になるだろうか。
 今、ちょうど戦争が拡大している。
 もしも、テロが来たら、ならず者国家?が先制攻撃してきたら、米国が先制自衛攻撃したらどうするか、という議論がかまびすしい。要は、もしも攻められたら反撃するだろうかという問いである。攻められるのならやられる前に攻撃するかどうかというのである。これを先制自衛というのだが。さてその時の議論で、私個人としては恐らく、やられても不殺生を貫こうという議論も可能である。
 ところが、家族のこととなると議論は一足飛びに、「戦おう」ということになるから不思議である。何かというと、家族が殺されるぐらいなら自分が鉄砲を持って敵を倒すこともやぶさかでないと考える思考形式が健在であるということである。自分はいざ知らず、子どもが殺されるときには、私は銃を取ろうとしそうである。
 ここに、最愛のものへの情に駆られれば、愛し子を守るために戦うという思考の流れが成立していく。
 お釈迦さんはそのことを戒めているのか。全くそうであろう。自分の問題であれば冷静に判断する同じ人間が、愛する他人のためとなると、闘争を是としてしまう。
 つまり、この章「犀の角」の第一偈「一切の生き物に対して暴力を加えること無く」を反故にしてしまう誘惑を子女が持っているのである。
 弘法大師のお通夜の日に、夜を徹することによって会えると切望した、死んだ父母や連れ合いや先立った子どもたちは、この最愛の情をかきたてる煩悩なのだろうか。この世を去って嘆き悲しんで、会いたい会いたいと熱望する相手が闘争の原因だと退けるのがお釈迦さんの説なのであろうか。
 再度、唯一「ともに歩め」と書かれる第四十五偈を読んでみる。
 第四十五偈「もしも汝が、賢明で協同し行儀正しい明敏な同伴者を得たならば、一切の危難にうち勝ち、こころ喜び、念いをおちつけて、かれとともに歩め」。
 四十一偈連なるこの犀の角の章で、唯一「ただ独り歩め」と言わず「かれとともに歩め」と締めくくられる偈文。
 それでは、私があいする子女、家族、親友は「賢明で協同し行儀正しい明敏な同伴者」ではないというのであろうか。
 ここは熟慮の要るところであろう。
 私は私の子どもを何としても守らねばならない。そう思っている。
 もしも、私が、敵の攻撃に際して、「不殺生」を守ろうとするとする。この時、私の同伴者が賢明であれば、私の「不殺生」を理解して、ともに不殺生の立場に立つであろう。
 しかし、理解しないならば、私は理解しない同伴者のために、命を投げ出そうとする。その命を投げ出そうとする行為は、実は、他人を先制自衛の形で「殺す」ことであろう。そのことは第三十五偈に背くことになる。即ち、「一切の生きものに対して暴力を加えてはならない」という前提を覆すことになるのである。
 ここまできて、お釈迦さんが言われたことが、一字一句ではなくて脈絡として、明確になってくるのを見る。
 私達は愛するもの無くしては生きていけない。
 その愛するものとは、最初、第五十に書かれる「色とりどりで甘美であり、心に楽しく、種々のかたちで心を攪乱する欲望の対象」であろう。私達は金品宝石、家具製品、家屋車、そして名声地位、権力等に魅せられて、闘争や苦しみへと牽かれていく。ここでいっているのは過度の欲望ということでいっておこう。欲望の対象に過度に執着することで、苦しみの牢獄へと牽かれ、または他人を傷つけ傷つけ合う闘争の牢獄へと牽かれていく。この点は合点が行きやすい。ところが次に、私達は愛する家族や仲間によって同様に、苦境へと牽かれていくのを見なければならない。
 果して、最愛の子がどうして、闘争や苦の牽引者となるのか。愛するものがあるから苦しみが生じるというは理解しやすい。しかし、愛するものによって闘争が起こるということが、お釈迦さんの発見した見がたい矢であったとは、真っ直ぐには理解しがたいだろう。
 私達は、愛を大事にしている。他人を自分と同様に見て大事にしようとさえしている。なのに、その大事な他人が、闘争への間口を大きく開くという矛盾、転倒錯誤を見抜くのは至難である。わが子を他者による殺害から守るために、他者を殺害するという矛盾がどうして起こるのか。
 自分も、わが子も共に、不殺生を誓うことによってこの危難は去っていくだろうか。
 それとも、自分がわが子も他者も同様に愛することによってこの危難は越えられるだろうか。
 確かに、ここには二つのことが隠れているだろう。
 一つは、慈悲と愛の差異である。
 もう一つは、不殺生戒の堅固さである。
 この二つは入口は別だが、同じことを言っているようでもある。
 スッタニパータ八章第百四十九偈「あたかも、母が己が独り子を身命を賭しても護るように、そのように一切の生きとし生けるものたちに対して、無量の慈しみの心を起こすべし」。
 法句経ダンマパダ第十章第百二十九偈「すべての者は暴力におびえ、すべての者は死をおそれる。己が身をひきくらべて、殺してはならぬ。殺さしめてはならぬ」。
 ここに書かれていることは、ぐるぐると回る輪廻のようである。
 人間の母親はわが子を自分以上に愛する。自分以上に愛するから、その子のためには身命を捨てることもある。即ち身命を賭して「人を殺害」さえする。これはこれで一貫している。
 その一方で,だれもが自分を愛しい。だからその人の立場に立てば、その人を思いやるなら、人は殺害できない。だれもがだれもを自分と錯視し、他者を自分の愛し子と錯覚するならば、殺害などあり得ないのである。これもこれで一貫している。
 愛を捨てれば、殺害は成り立たない。そして愛を全うすればまた殺害は成り立たない。しかし、しかしである。どちかが人間的なのではなくて、どちらもが人間的でないのかもしれないという悪魔の間隙が覗いている。
 他人を傷つけてでも守るべきものが有ってほしいし、傷つけるということによって他人が愛する最愛のものを傷つけるということがあってはならない。
 最後に回帰して来るのは、第四十五偈であろう。
 第四十五偈「もしも汝が、賢明で協同し行儀正しい明敏な同伴者を得たならば、一切の危難にうち勝ち、こころ喜び、念いをおちつけて、かれとともに歩め」。
 私達は生きとし生けるものとして、お互いに賢明な同伴者とならねばならない。それは言うまでもなく「不殺生」に生きる輩であろう。この輪廻は思考の遊戯であるかぎり、どこで降りることもできる。思考の遊戯を越えるには、しっかりと個々の痛みをつかみ取ること以外にはないだろう。
 ならば、人類は生類は、幾重の痛みを積まねばならないのか。
 米兵のように見取られて死んでも一生。イラク市民のように、だれにも見送られることなく生きたことさえ知られずに死んでいっても一生。この痛みをいくつかさねれば、生き物の痛みは解放されるのか。それが輪廻という宿命なのだろうか。

 私達は夢をもとう。大きな夢を。
 いつの日か、人々全員で不殺生を誓える日が来ることを
 夢をもとう
 助け合って生きる日の来ることを
 弘法大師のご命日に誓おう