ヒロシマこの夏聞いた話し


許すまじ原爆を



 戦争はいけません。勝っても負けても利はありません。地球、宇宙、空気、水、これ以上汚れると生物の全てが、絶えてしまうかもしれません。
 八月六日警報解除後の午前八時十数分、一発のピカドンで広島を建物とともに、生きた人間まで忽ちに焼いた。
 院内へぞくぞくと運ばれた被爆者、病院はあふれる程になり、廊下まで並べられました。糧抹廠にも学徒動員で若い子が沢山来ていたのに、点呼の後トラックで分散して方々の倉庫へ行く途中ピカドンで焼けたのです。母が恋しい年頃の女学生も沢山いました。家にいたなら両親に甘えられる子供が、ケロイドで目も見えず、口も腫れ上がって、やっと動く手で、みずと書くのです。
 軍医殿が、「水をやってはいけない、すぐ死ぬる」と言われたが、水を飲まなくても死ぬ命なら、最後の水をあげよう。母さんとも言えず、水を先に欲しがっているのにと、左手で口をこじあけて、水を少しずつたらして飲ませてあげました。「ゴク、ゴク」とかすかな音を残して、三口、四口と飲んで、息が絶えてしまいました。人殺しでしょうか。どうせ死ぬのなら最後の水をあげたい。そのまま逝かれてもとあげたのです。
   音たてて水を飲みいる被爆者
   汝もそのまままなこ閉じて終るか

自分の目の玉を呑んだ被爆者

 目の玉の飛び出した子を橋の元に置き、お母さんは「水をあげるね」とタオルをもって川へ下りました。
 その子供は身動きも出来ない、九割がた死んでいるような男の子、でれんとした手が目の前で不意に動いて、顔をさぐると目の玉に触り、その目玉を思わず口へ、はっとする間に左手が同じように動いて、左目玉を口に入れたところへ母親が上がってきたんです。
 私は「目玉自分で呑んだ」と口にだすと、その母は思わず走り寄り子供を抱いて、空洞になった目の穴へタオルの水をたらした。そして寝さすと、指を口に入れまさぐりました。
 指先に目の玉一つ、「片方でも目があると、あの世でも便利がよかろう」とうつぶして、片方の目に涙して泣き、泣きじゃくりながら口をこじあけて、タオルで末期の水をあげました。
 最後の気力で、水が欲しかった子供は手でまさぐり、やわらかい目玉を呑んだのです。目玉のない子に泣く母、想像できますか、ここは地獄かと自分の存在さえ分からぬ程の気持ちで黙って立ち去りました。

わが子の屍を焼く

 学校へ駆けつけた両親は、子供を焼いて骨を拾ってやろうと庭に深く堀り、爆風で倒れた家の板や木切れを集めて焼いていました。「暑かったろう、喉が渇いたろう」と、夫婦が代わる代わるに水をかけては焼いていました。手足が伸びた時、軒先の青い物干し竿で寄せるのですが、竹が生なので、油がじゅうじゅう吹き出るのが子供の黒い涙のように見えました。二百体、三百体と一緒に重油をかけて焼かれるよりは、との温かい親心だったのです。
   屍焼く青き竹より吹き出ずる
   油は幼な児の黒き涙か

群衆が川を呑んだ

 八月の熱さと火に追われ、喉のかわきで水を求めて、川へ川へと人が押しかけ人の上に人がのめり、水辺でおいしく呑んで、そのまま息絶えた人、水に手をつけてよう飲まずに気力をなくして川へ沈んだ人、潮が満ちると多くの人が海へ流され、呉や山口、岡山から来られた軍属が川舟で死体の浮いたのを引き寄せて船で運び、広場で皆と焼かれました。

被爆死者の火葬の山よりうめき声

 広い所で何百体かの死者が積み重ねられて、重油で焼かれるのです。火をつける前に側を通った時、うめき声がしたのです。「う、う、う」死体が正気づいたうめき声だったと確かに思われましたが、火はつけられました。

はだしの被爆者を太陽と業火がおっかける

 命からがら逃げる被爆者は裸足、八月の太陽と業火が音をたてて追いかけるんです。でも逃げ切れた人は幸せ、途中で倒れたり、逃げられなくなった人は、皆焼け死んだのです。

 ヨーロッパや、アメリカでも反核運動は盛んに行われているのに、被爆国日本の若者が一番戦争とか核兵器に無関心な人が多いとか、今は物が豊かにあり、何でも金さえ出せば手に入るため、自分さえよければと利己主義が増えている。それはやはり心配です。これから若い人が守ってくれなきゃいけない地球です。
 とにかく被爆者というので冷たく見る人があるのです。広島と長崎の投爆で、日本が降参して今日の日本の平和がきたことを考える人があるだろうか。老人も子供も女も無差別に焼き殺されました。幸い命があった人も、五十年経った今でも後遺症で苦しんでいるのです。だから核は怖いし、二度と許してはならないのです。
沖縄戦回想