| 07年同行二人 | |
| 0701痛みを力に変える | |
| 0702毎日若者が戦争で死んでいく痛みの中にある仏教の共感線 | |
| 0703お彼岸 | |
| 0704仏教と釈尊と弘法大師 | |
| 0705毒矢の譬えに仏教の法脈がある | |
| 0706タイ南部救援 スマトラ沖震災救援ボランティア 平和と笑顔の会報告 | |
| 0709仏さまとご縁を結ぶ 菊花灌頂祭 | |
| 0710ビルマの人々を救え 平和を愛する人々の連帯 | |
| 0711新年のこよみ | |
| 0712年あらたなり | |
| 0701痛みを力に変える | |
| 痛みを力に変える 一月十七日は、阪神震災で亡くなった方の御供養と再建の祈りを行いました。思い返せばちょうど十二年前の朝五時四十六分に不気味な揺れを感じて起きました。お昼頃にはテレビで倒壊した高速道路やビルや家々そして立ち上る火災の黒煙が写されました。 私たちは四人でトラックに毛布や炊き出しの資材を載せ救援に行きました。各地から集まってきた文房具を何十という避難所に配る毎日、公園で炊き出しをして「ネギだけください」といわれた時の驚きや、おじいさんの表情や、救援に来ていた県職員との出会いや、いろいろなことを思い出します。 被災者は遮るものも無い中で暮らしたいへんでしたが、私たちも必死でした。いったい何をしてあげられるのだろうか。役に立つことができるだろうと意気込んできましたが、なかには「不完全燃焼だった」と、充分に仕事が発揮できずに落胆して帰る若者も多数居ました。私たちも一時は「ボランティア難民」となりました。ボランティアだけど仕事が無いのです。ボランティア失業者でしょうか。しかし、目の前には日々の生活に困窮している人々が歴然と居るのです。問題は山積しているが、仕事が無い。実は仕事が無いのではなく、仕事を生み出せなかったというべきでしょうか。 スマトラ沖地震の救援にタイ南部に行っていますが、前回行った時、宣教師のウォルターさんが言いました。「正直と思考と労働が大切だ。そして目的はボート造りではなく人間の発展だ」と。今から考えれば、まさにそのような情況に在ったのです。人を失い、家を失い、職を失い、故郷を失い、生活基盤を失って人々は困窮している。そしてそのことに対して何ができるかを大勢の人が考えボランティアとして立ち向かって行った。 最初の一年は、避難所から仮設住宅への移動でした。私たちはその後何度か現地へ行きましたが、有効なボランティアはできませんでした。石手寺の境内で炊き出しをしてその募金を現地に送ったりしました。その間焼け野原で人々は花を捧げ、遺品を拾っていましたが、その地に友人と共にお経をあげて回りました。その時、私は初めて御布施をいただきました。いただいたと思いました。貴重な体験でした。私自身は、翌年力不足を感じてカウンセラーの資格を取りに一年勉強しました。二年目には最早、愛媛という遠方に居てはボランティアとしてできることは無いだろうという気持になっていました。 そこへ、伊予柑ゼリーを神戸に運ぶという話が来ました。私は是非運転手をしたいと申し出ました。「それに加えて何かできないか。水軍太鼓の演奏ができるから仲間を集めてみよう」ということで、伊予柑と太鼓演奏激励が決定しました。行き先には助役さんが今治出身ということで宝塚が選ばれました。自分自身は文房具配りでほぼ被災地一円を走り知っていましたが、その中でも長田区、鷹取地区、そして伊予柑を配ってきた山の手の仮設住宅群はどうしても行きたかったのでした。そんなことで、宝塚を回って、中央仮設へ行き、鷹取にも行くということで出発しました。 宝塚での演奏は予想とは違って喜ばれました。「ご自分で太鼓を打ってみてください」「スカッとしますね」「久しぶりに気持が晴れました」。お世辞だろうと思いながら人々の顔が伊予柑のようにだいだいに光って元気に見えました。仮設を何ヶ所か周り、高校の同級生にも会いました。世の中は広いようで狭い。でも広くてどうしようもない。現地のボランティアの人にカレーをいただきながら叱責を受けました。そういえば最初の東灘では「何故神戸なん」という言葉を差し込まれました。痛い言葉でした。なぜ神戸で松山でないのか。言い換えれば、なぜ、私はボランティアであり、相手は被災者なのか。傷ついたものと無傷のもの。それは一種の対立なのです。 現地のボランティアの方の指摘は結局、打ち合わせ不足だったということでした。このミーティングで「被災者を道後温泉に招待する」という破格のことが決まります。費用は要ります。対費用効果がどうなのかを考えてしまいます。私たちはいったいなんのためになんの救援をしているのかです。 この現地のボランティアとの話し合いと要望によって、毎年の交流が着実に始まりました。愛媛から神戸まで何百`を何度も車で走りました。今年も一月二十日に行きます。 その一方で、大阪からこんな電話がありました。「愛媛に在住の被災者のケアをしてほしい」と。震災ボランティアは沢山あるだろうから私より適任者が居るだろうと、保留していた所、ある日、悩み相談に「地鎮祭はどうしたらよいでしょうか」という相談がはいりました。「なんだ、かんたんなことですよ」と切り出したのですが、どうも様子が違うのです。よくよく聞いてみると、震災で人が死んでいるという。その地鎮祭をどうしたらいいか言うのです。そして「松山でも被災者が集る場所をつくってください」ということを受けました。こうして大阪のりんりんさんから貰った十六軒程の愛媛在住被災者への連絡が始まりました。 一軒ごと三時間も四時間も話しました。何度も叱られました。「ボランティアといって何ができるというのか。何をしいてるのか」ということです。愛媛に来れば助かると思ってきたのに、「放置されている」。「まわりの人は冷たい」。「分かってもらえない」。「愛媛の人が冷たい」というのもありました。「不登校になった」。「震災の話をする相手がいない」。「早く忘れろと冷たいことを言う」などでしょうか。 どの言葉からも、生活が苦しいということ、特殊に見られる一方で本当には分かってもらえないという気持が溢れていました。車のナンバーが神戸というだけで声をかけられるのが嫌だというのもありました。 私たちは本当に共感ができたのてのしょうか。助け合いができたのでしょうか。そもそもできないものかもしれません。しかし何かが狂っているように思います。それは私たちの痛みの基準でしょうか。 その翌月から、私たちは被災者の交流会を始めます。毎回、五、六人でしたが、ボランティアを入れて十人ほどで交流会をしました。子供のことや仕事のことなど、特に被災した時のことを同じ地区に住んでいた人は、昨日のことのように語り合っていました。そんな時はボランティアが入っていく余地はありません。そんな中で、神戸方面へと一人一人と帰っていきます。みなさん、本心は帰りたい気持でした。引っ越しの手伝いもしました。トラックを借りて、荷物を運び出し、船で神戸へ上陸。何度目の神戸だったのだろう。荷物を積む時、県営住宅の通路の狭いこを知りました。 こうして半分の人は帰りました。そのうち、三百名の名簿が手に入りました。その方々に毎年、その年の念珠を籠めて追悼式の案内を送っています。「生きる」の短冊をお送りしました。「家に貼っているよ」という方も居て、役に立てたのかなと思う時もあります。今できていることは、それと、伊予柑を送ること。そのぐらいです。それでも、当日は十数名の方が来られます。 残念なことは、もっと早くに被災者の名簿があれば、みなさんと交流をできたことです。早い時点で、この県に多くの被災された方が居ることを知り、その所在地を把握していたなら、もっと一緒にいろんなことを考えられただろうと思います。どうしてできなかったのかを悔やみます。障害者の家族を持ち、ご自分も不自由な体で、なんとか後々家族が暮して行けるように頑張られた方。亡くなられましたが、その方が点けた灯が今も境内に灯っています。その方とも、もっと早くに会っていれば、いろいろな申請も一緒に行くことができました。そして様々な補助は本当に役に立ったのです。行政の動きがなければ仮設住宅もその他の支援もできませんでした。しかしそのことは、裏を返せば、被災者やボランティアの意見が行政に入っていきにくい問題があるということを示しています。 震災から十二年。みんな歩いてきました。その中で、中心は被災者です。その前に亡くなった方です。そして被災者です。ボランティアはそれをサポートします。 果たして、被災者が歩むことをみんなで一緒に考え、行って来たのかを、真剣に問わねばなりません。 ウォルターさんが言いました。「正直と思考と労働が大切だ」と。 被災者の困難に正直に向き合うこと。そして共に痛み考えること。そしてそのために労働すること。そして人間が成長すること。その中に生きている意味があるのではないでしょうか。 できなかったことばかりですが、私はこの間、いくつもの教訓を得ました。 御供養の時、私は亡くなった方と、被災し参列している方々と自分の心が少し合わさったように感じました。当然輪の中心は違います。しかし錯覚であっても良い、心が合わさったような気がしました。それは痛みを共有するということ。一緒に考えるということ。一緒に歩くということ。 そして、痛みを一緒に生きる力に変えていくことだと感じました。 |
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| 0702毎日若者が戦争で死んでいく痛みの中にある仏教の共感線 | |
| 毎日若者が戦争で死んでいく痛みの中にある仏教の共感線 最近二つの仏教に出会いました。一つは昨年の「高藤さんの講演」の直後の対話の中で、もう一つは昨日の「えひめ丸事件を考える集い」の質疑の中の薄井さんの答弁の中ででした。二つとも戦争中に私たちはいかにあるべきかという態度の持ち方での解答においてでした。 私は先代師匠の遺言でもある憲法九条を仏教者の悲願とすることを深く肯定しています。この国は憲法九条をはずせば必ず他者を殺す国になっていくだろうという確信があるからですが、それとは別の意味でつまり九条というものが単に政治的な意味合いで有効だというだけでなく、精神的にも有効であるという意味でです。憲法九条は精神的にも仏教的だということです。ひょっとすると武器を持たない戦争をしないということは、仏教の根幹に関わることであり、戒律に於いてのみならず、私たちの精神の持ち方、心の有り方そのものであって、仏教者が生きていく生き方そのものだということなのです。 難しいことはさておき、高藤さんの行っておられたのはイラクの復興支援でした。イラクの人々に彼女は、ストリートチルドレンの仕事づくりや、学校援助の話をしていくのですが、報復ではなく復興をというストーリーは簡単には受け入れられなかったと言います。目の前で肉親を肉片へと変えられた人々にとって、報復の怒りは当然のことであり、何より家族を殺されたという痛みと怒りはどうしようもないということです。もしも私がそのように家族を爆弾で殺され肉親を拷問へと連れて行かれたならば、気も狂わんばかりでしょうから、その痛みと怒りを復興へと振り向けよと言われても、私は一生を報復に賭けると言わないとは限りません。 彼女はこうも言いました。「私は一人の人間として、彼らの援助に来たのに、彼らは「お前は日本人かどうか」を聞く」と。肉親を殺された人々であり痛みと恨みにある人々は敵と対局する世界に住んでいるのです。敵対の世界です。彼らの心は敵対・対立のかたちになっています。そして敵は米国や米国人、同盟国や同盟国人です。首相が国際貢献だと力説しても彼らは言います。「日本の自衛隊は米軍を空輸し、米軍の落とした爆弾で人々は死んでいく」と。高藤さんらが捕えられた所は、ファルージャというイラクの町でした。その町は米軍の攻撃で廃墟となりました。何千という人が殺されたといいます。日本で私たちの町が攻撃されたらどうするでしょう。防衛する。つまりファルージャの場合米国と戦いました。それは米兵を殺すということになります。だから「お前は何人だ」となるわけです。 「お前は日本人かどうか」。敵でなければ解放されるが、敵であれば殺されるのです。 また高藤さんはこう言いました。「銃を持っていたイタリア人は即刻殺されました。持っていなかったものは助かりました」と。そして私たち日本人は丸腰でした。だからすぐには殺されず、「私たちが何をしにイラクに来たかを何度も何度も説明しました」と言います。 銃を持たないということは、重要です。戦う意志がない。戦う用意をしていないということが重要です。少なくともイラクの武装兵力といわれる人々の中の少なくない人々がしようとしていることは防衛であって侵略や人殺しではないということです。当然すべてを敵に回すこともできません。しかしそれ以上に人々はもともとは平和を愛する心の方が強いのではないでしょうか。そこへ米国が攻め入ったということでしょうか。それを支持したのが日本であり、日本人としてイラクに対した時、「日本人かどうか」を問われ「銃を持っているかどうか」を問われたのです。 仏典には書かれます。スッタニパータの611には「身を禀けた生きものの間ではそれぞれ区別があるが、人間の間ではこの区別は存在しない。人間のあいだで区別表示が説かれるのは、ただ名称によるのみ。」と説かれています。 そして、650 には、 「生まれによって(バラモン)となるのではない。生まれによって(バラモンならざる者)となるのでもない。行為によって(バラモン)なのである。行為によって(バラモンならざる者)なのである。」ここでバラモンとは、643に、「生きとし生ける者の生死をすべて知り、執著なく、幸せな人、覚った人、──かれをわたしは(バラモン)と呼ぶ。」云々とあります。 私たちは、煩悩によって名称に拘るのです。煩悩によって名前に迷うのです。よくよくその人を見れば、名称では把握できない本性があります。バラモンという人が居るわけではなく、バラモンの行為を行っている人もあれば、バラモンだと偽ってバラモンでない人もいるわけです。名称、名前に拘るのは迷妄だとされます。そして、戦争においてこの迷妄は極限に達します。つまり、敵を憎み怒ることにより、私たちは敵をつくるのです。米国人は敵である。その同盟国であり武力を空輸する日本と日本人は敵である。そこには報復の連鎖だけが用意されています。 確か、高藤さんは語りました。私は仏教を生きているのだと思ったとの意味のことを語られました。それは報復ではなく、国や民族に囚われず、一個人として人の幸福に光を絞るということだと私は理解しました。丸腰であり、名前に迷わされず、お互いに平和と幸福を願う生き方というのでしょうか。 問題は、そのことを高藤さんが、イラクと深く関わる中で導き出したということです。戦争の解決、戦争の出口として、仏教的生き方を引き出したということです。その意味は、敵対しないこと、丸腰であること、怒りではなく平和の創造へと心を向けること、怒りを再建に変えること、痛み怒りを人間の平和へと向かわすことです。 次に、薄井さんの語りはこうでした。 「私には毎日毎日兵士が死んでいくことが耐えられません」。彼女は米国に住んでいます。彼女が米国に渡ったのはちょうど9、11の直後でした。政府はテロの恐怖を煽っていたようだと言います。「テレビでは毎日、米兵が何人イラクで死んだということを報道します」。その一方でアメフトの番組の間で「海軍のコマーシャルが出ます。海軍に入って将来を開こう」と。 米国では、貧困層は軍隊の恩恵を求めて入隊する若者がたくさんいることはNHKでも放送されて衝撃を受けました。軍に入れば、学資援助や、国籍の取得や、多くの特典を得られます。資金も人脈もない人々は将来を開くには入隊しかないのです。しかし、入隊とは軍と契約する事であり、「イラクへ行け」と言われれば拒絶できず、すれば軍法会議です。逃亡は重罰にもなります。報道された二十歳の若者は、入隊まもなく前線へと配置されました。それは信じられない報道でした。 そして実際に、貧困層の若者が次々と死んでいく。日本では想像できない事が米国では毎日続いていると言います。「イスラムは恐い、テロリストは恐いということを政府が報道する。そして、アラブ系の人やそれと関連したと目される人々が、何の人権もなく連行され、本国へ送還されたりする」というのです。 薄井さんは、「日本には憲法九条があって、本当に良かった」と言われます。九条があるから、日本の若者は戦争に行かなくて良い。 その後、私は薄井さんと握手しながら語りました。彼女は言いました。「帰還兵の中で仏教に目覚めていく人が多い」と。 日本では仏教はどちらかというと精気を失っている。なのに、戦争で地獄を通った兵士たちが仏教に救いを求めているのです。これは一つの事実です。空想ではありません。事実です。 会場には、えひめ丸事件で息子さんを亡くされた家族の方も来られていました。私は毎年石手寺で御供養をさせて頂いているお礼を頂きました。息子さんを失いその悲嘆は消える事がないという事を仰られ、ただただ自身の無力さと人間の痛みを感じるのみでした。彼女は「この会で人の心をもらった。みなさんがこうしてくださる事を嬉しい」との意味の事を語られました。そして「息子がいるということをどれほど頼りにして生きていたかという事がしみじみとする」とのことを語られました。その痛みはしかし、幾多の他の痛みと共鳴して鳴りやみません。 この痛みを解決するのはいったい何なのか。この疑問はどんどん膨らんでいきます。そして仏教とはなになのか。 一つの結論は、「権力、武力からは何も生まれない」ということでした。 イラクで肉親を失った報復へと走ろうとする人々が、そのことを知っています。 そして、アメリカでテロを恐れ、先制攻撃をしてしまった人々が今、無残な結末と日々死んでいく若者を前に、そのことを知っています。武力からは何も生まれない。 そのことを仏教は訴えてきた。そういうとブッダに対して失礼でしょうか。 仏教の解決するべき問題は「生死にあり」と言います。生死とは人生の苦痛です。ならば、その最たるものこそ敵対と殺し合いです。そしてそれを傍観する権力者と利権集団は虎視眈々と己が利益と快楽を¥に喉を掘っているといえば怪奇すぎるでしょうか。 煩悩の矢によって人々は武器を取り、敵対し、安住の場所を崩しているとはスッタニパータの最古の部分です。ブッダの深意は奈辺にあったのでしょう。 大切なこと、それは、対立という虚栄、虚構、本来望んでいない痛みと怒りと恨みから来る敵対幻想のなかにますます他者を貶め自分を損なっていく心理の行程からの脱却をブッダが目指したということでしょうか。 それ以前に、バラモンとはで示したように、生き物の真の生き方とは、生きるもの全ての幸福を願ったもの、実現するものという生き方に乗っ取った生き方をすることであるという正鵠の提示でしょうか。実際、報復する相手などいないし、痛みは出口を塞がれているわけです。その出口のない中で再発の防止が叫ばれ、真理の探究が叫ばれ、自己の浄化と生死の解明による喜びが実現されるとしか言いようがありません。 |
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| 0703お彼岸 | |
| お彼岸 太陽が真東から昇り、真西に沈む一週間をお彼岸といいます。あの世とこの世に架け橋がかかる日といわれ、お彼岸には、あの世の方々に会えるといい、また、修行が叶い易いとも言われます。 世俗には、お墓参りをして亡き母や父やあの世の人々に会うことを大事にしますが、仏教では六波羅密の修行をします。その意味は、あの世とは悟りの世界であり、自分が悟るということがあの世に行くことであり、そしてあの世の人々に会えるということだからです。 つまり、心が悟れば、あの世に到達することになります。そのためには六波羅密が大事だということです。六波羅密とは施、戒、忍、進、禅、恵であり、布施、戒律、忍辱、精進、禅定、智恵です。 布施は、自分のことをさておき他人のために骨折ること。与えることです。 戒律は、悪を行わないこと。一切衆生を自分と同じと観て、痛みを与えないことです。また、心身を清らかに保つこと。嘘を言ったり邪なことをして心を乱さないことです。 忍辱は、耐え忍ぶこと。他人のことや外界の騒めきに心を動かさず、泰然自若として平常心を保つことです。そして怒らないこと。 精進は、努力すること。修行へ修行へと心を向けること。 禅定は、心の安らぎを楽しむこと。生きていることをそのまま感謝すること。そして、満足の心を楽しむこと。 智恵は、仏さまの生き方を身につけること。布施から禅定を喜んで行い、生きる喜びを得ること。 簡単に言えば、悪いことを行わず、人に施し、怒らず、努力して、そのことを楽しく過ごすことが仏さまの智恵と知って、ますます行うことです。 日頃の私たちはどうでしょう。心配が多く、生きていくのにあくせくし、あれが欲しいあれがしたいとのぼせ上がり、不満を募らせたり、得るほどに不満になり、自分のことばかりに一生懸命で他人には迷惑をかけ、つまらない日々を過ごしている野ではないでしょうか。 仕事に追いかけられ、遊びを追いかけて疲れ切り、大事なことを見失っていることはないでしょうか。 自分のことばかりにうつつを抜かしていませんか。 人が困ることはしていませんか。 イライラしていませんか。 怠けていませんか。 不満を募らせていませんか。 間違った見方をしていませんか。 そんなところでしょうか。自分で苦しい世界を創り出していませんか。もっと智恵をもって、自分で自分の世界を書き換えてみませんかというのです。 ある修行僧がこう言いました。 「人はみんなひとり相撲をしている」と。 自分で創り出した相手と取っ組み合いをしているというのです。取っ組み合いをする相手なんか居ないと彼は言います。 話は変わりますが、あるお経にこう書かれています。 「みんな死ぬものと心得るならばもろもろの争いはなくなる」と。 あるホスピスの本に書かれていましたが、不治の病などで死を目前にした人は、何によっても死を乗り越えることができないので、自分の考え方を変えることによって死を乗り越えると。 ある女性が、余命あと三カ月の宣告を受けて苦しみました。幼い子を残してはどうしても死ねない、なんとしても生きていなければならないという気持はなかなかなくなりません。そのなかで、死の恐怖もあったでしょうし、子どもを残す不安もありましたが、ついには自分の考え方を変えなければこの痛みを乗り越えることはできないと考えるのです。 確かに、死はだれにも逃れることはできません。財宝を積んでも、名誉を投げ出しても、死と取引することはできません。その時、人は、自分の考え方を変えることによって死を乗り越えるのです。いままでの自分の考え方が間違っていたというのです。 貯蓄や財宝や名誉などは何の意味もないことが分かってくるでしょう。それでも子どものことが不安です。自分の死の恐怖があります。 死の恐怖はどうやって乗り越えるのでしょう。 残していく子どもの不安はどうやって乗り越えるのでしょう。 その本では、阿弥陀さまを信仰することによって乗り越えるあります。私であれば、お大師さんを信じることによって乗り越えます。お釈迦さんの教えによって乗り越えます。 それは善意というものでしょうか。人が人を思うという事実でしょうか。お釈迦さんは、死の恐怖はあなたのひとり相撲だと言い切りました。みんな死んでいく。恐いと思うから恐いのだと。 お大師さんは、あなたは一人ではないと諭しました。私も居る。あまたの善意の人々が居る。この世にもあの世にも善意の仏さまたちが居るから大丈夫だと言いました。 その教えは、施、戒、忍、進、禅、恵の六波羅密になります。 怒らず人の痛みを知り施し合い、一人ではなくいっしょに生きよう。 恐れることなく安心し、外へ外へと求めることなく自分を安定させ、仏さまの生き方をしよう。というのです。 お彼岸は、お彼岸の心を持ち、他者と生きる喜びを分かち合い、少しく布施を施し合いましょう。 |
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| 0704仏教と釈尊と弘法大師 | |
| 仏教と釈尊と弘法大師 弘法大師正御影供に 私は、真言仏教徒であるが、しばらくの間、お釈迦さん・釈尊のスッタニパータのパーリ語原文に浸っていた。このお経は最古のお経と言われるものである。これは釈尊の言葉を伝承しつつ滅後しばらくして書かれたものではある。とはいえ現在私たちが窺い得る最古の釈尊ブッダの言葉なのである。 だから、私はこのスッタニパータを読みつつお釈迦さんに出会うことが出来るという感慨に浸りながら、難解なお経の世界を漂うわけである。このスッタニパータは五章から成っていて、読み込んでいくとその内容はかなり異なっている。諸先生の言うように、その第四章が最も古く成立し、その後第五章、そして一、二、三が順次出来たのであろう。 そのスッタニパータ・古経集の第四章七七二にこう書かれている。 「私たちはまるで閉ざされた洞窟の中に生きているようである。そこは何重にも彩られた煩悩に覆われていて、迷いの奥深くであるのに、私たちはそこに安住している。このめくるめき魅惑の世界から離れて独り修行(厭離)しない限り、人間とはそのように生きるしかない。というのは、この世に生きる限り私たちは魅惑する物欲や欲望の数々に襲われ、人間とってそれを捨て放つのは困難であるからである。 魅惑の数々を求めることによって生きる人々は、快楽にがんじがらめになっていて生きることを貪る。彼らは決して解脱して自由にはならない。何故なら、解放は他によってなされるものではなく、自分の欲望如何にかかっているからである。目の前の魅惑物の数々や過去の記憶の魅惑の数々を握って放さないから、未来や過去をあれこれと期待する。 彼らは魅惑の数々を貪り、無我夢中になり、沈んでしまっている。だから欲望を捨てることが出来ず、不安定な生きかたをしてしまっている。そして、次はどのような生き方になるのだろうと、苦しみにつきまとわれ悲嘆するのである。」 あるいは八六二 「どうして人間は、闘争したり論争するのか。そのあげくに負けては悲嘆し、勝っては傲慢になる。私こそはと自我意識にのぼせたり、陰で悪口を言ったりする。どうしてそうなるのか。それを教えてください。 それらは、心がほだされ思い焦がれること(piya,)によって起こる。」 また九三五には、 「対立し闘争し合う人々を見よ。私もまた武器を手にして戦かおうとするとき私は恐ろしくなった。私がその恐怖と闘争をいかにして乗り越えたかを語ろう。 あたかも水が少なく干上がっていく池にいる魚たちが、飛び跳ねぶつかり合いながら生きようともがくように、人々が生存競争に夢中になり、お互いにぶつかり合い対立し合っているのを見て、私は恐怖に襲われた。 煩悩にまとわれた世界はどこも堅実ではない。どの方向に向かおうとしても、どの方向も動揺している。自分自身が安らぐ場所を探してたが、闘争と対立の住み着いていない場所は見つけ得なかった。 生存競争の終極は必ず対立と闘争であるのを見て、私は気分が悪くなった。 その時である。私には今まで見えなかった見がたい煩悩の矢が人々の心臓に刺さっているのを見たのである。 この煩悩の矢に突き動かされて人々はあれが欲しいこれをしなければと思い焦がれ、あの生存この生存へとあらゆる方向へと突き飛ばされていく。もしもその矢を引き抜いてしまうならば、人々は生存競争へと突き飛ばされ殺し合い対立することもなく、悲しみに打ちひしがれることもない。」 引用が長くなったが、これらは釈尊の最も肉声に近い声であり、出家の動機ともなる言葉である。 特に、九三五以下の武器を手にする(attadandaa)で始まる、煩悩の矢によって引き起こされる生存闘争のくだりは、シャカ王子として生れた釈尊が後に一族の全滅という憂き目にあったことを事実と考えるなら、出家動機の大きなひとつと考えられるのである。 この世に生れて、努力して頑張って生きようとしても、それが煩悩という矢に動かされている限り、他の人々と必ず衝突してしまうという現実の恐ろしさは、現代も同様である。低年齢化する受験競争や自己責任を基調として勝ち組負け組を固定化し許容する、情のない社会とその意識、そしてテロ撲滅の大義の下に国家が指導し繰り広げられる戦争という殺害。 一方ではありあまる富を手にし、その陰で多くの人々が貧困にあえいでいて固定化していく現実。この現代の虚栄と貧困暴力と悲しみの事実は、二千五百年を越えて釈尊の言葉と響きあう。 それはある種の、この世で生きることへの絶望を感じさせるのであるが、これらの釈尊の最も古い言葉を噛みしめその現実を想像しながら、共鳴したのがお大師さん・弘法大師の言葉であった。 それは弘法大師の「秘蔵宝鑰」である。くだりはこうである。 「生まれ生まれ生まれ生れて生の始めに暗く、死に死に死に死んで死の終わりに冥し」で始まる。 「(煩悩に走らされるが故に)ありもしない美しいものどもに眼を眩惑され、心は夢現になって迷い、ないものをあると思い込み、酔った心は必死に欲望にしがみつく。飢えた鹿や野生馬が本能のままに食欲性欲を求めるように、人々は欲望の数々を追い求め、ついには殺人、強盗、強姦淫乱、悪口雑言など十悪をなし、酒に浸り、色に耽って後先を考えない。・・・自分の宝を知らず、迷いを覚りと思い、これぞ愚である」 三教指帰の生死海の賦ではこの世の弱肉強食が嘆かれる。 「さまざまな生き物が、生まれては死に、生まれては死ぬ生死の大海原は、欲に迷い 色形に迷って、その生死は際限なく広がっている。この海にはあらゆる姿の生き物が吹き出されまた養われている。・・・ その種々雑多の生き物の中で、うろこをもつものの類は、貪り食らい、怒りやすく、考え浅く、欲は果てしない。財をむさぼり食をむさぼり心がまがり洪水のように荒れ狂って身を滅ぼし、家を滅ぼす。鼠のかじるが如く蚕の葉を食うが如く痛む心も悲しむ心もない。他を省みず今だけ良ければ良い生きかたである。 羽をもつものたちは、他におもねり、他を誹り、悪口雑言、言葉巧みに傲慢で十悪を行う。・・・脅しわめき、目の前の利益に走り、苦しんでは死んでいく。 禽獣の類は、傲慢、怒り、罵詈雑言、嫉妬、自讃、他を毀損、放蕩、放逸、慙愧の念なく、思いやりや哀れみなく、邪淫、邪見、憎み愛し、可愛がり辱め、殺害し、外と争い内輪もめをする。鋸の爪をもち鑿の歯をもち、慈しみなく食らい、虎の目つきで人を脅かし、刹那の快楽に遊び、獅子のように吠えて夜の夢に戯れる。出会うものは精気を抜かれ脳や腸を砕かれる。」 これは、弘法大師が見た、私たち生き物の世界の姿である。決して誇張された弱肉強食の世界ではなく、後に示すように「他者の痛みを知る」立場に立つならば、私たちの生きる世界は奇異で異様な地獄にも似た世界に見えてくるのである。また、あらゆる生き物をわが子のように見る仏さまの立場に立つならば、痛みの地獄の世界にも見えてくるのである。 釈尊も弘法大師もともに、この世の現実を苦るしみの海として見ていたのである。 弱肉強食 ここで、他を食らうことが何であろうか、他に食われることが何であろうか。諸行無常、生者必滅と思う人は、何の関わりも持たないであろう。仏教と何の関わり合いも持たないのである。 釈尊は、安らぎを求めていた。 あるいは 釈尊は、輪廻からの解放を求めていた。 弘法大師はある所で、こう書いている。「悪業を積んでその後に報いを受けることを人々は知らない」と。つまり、今は快楽に浸っていても、のちのち後で苦しみを受けるから、悔い改めよというのである。 ある所ではこう書いている。 「あなたと私、他と我とは生まれ変わり生まれ変わり、入れ替わっている」と。つまり今日は私が食らう側でも明日はあなたが私を食らうがわであるというのである。 ある所ではこう書いている。 「他者を観ることなおし自身の如し」と。つまり、相手の痛みを感じなさいというのである。また、 「他者を自分のこどものように観なさい」と。つまり、他者の痛みを自分以上に感じなさいというのである。 この世を生死の海と見る時、自他は客観的には同質になっている。 そのことと、将来に困るから仏教に入るということ。 そして、他人の痛みを分かるということ。 もしも、生死の海の外に、別の安穏世界があるなら、皆ともどもに脱出すれば良いのであろう。しかし、釈尊は、十四無記において、別の世界を断定してはいない。では、この世に居て、弱肉強食の痛みを解決するのが釈尊の安穏なのであろうか。 この世を仏さまの楽土にするという考え方もある。私たちは煩悩の矢を抜き、闘争を静め、口論を止め、独り占めを止め、財と友を共有し、肉食を止めていくということを古希世においてすべきなのだう。 釈尊は、苦しみに繋がる一切の煩悩欲求を気をつけて回避せよと説いた。 弘法大師は、「あらゆる仏さまは私たちの心の仏さまである」と言う。 万灯会の願文には、「ありとあらゆる生き物が涅槃の幸福を得るように祈り続ける」とある。 |
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| 0705毒矢の譬えに仏教の法脈がある | |
| 毒矢の譬えに仏教の法脈がある 仏教に有名な毒矢の譬えがある。(『マッジマ・ニカーヤ』(中部経典)の63経「毒矢のたとえ」) ある時、世尊(お釈迦さん)は、サーヴァッティの郊外、ジェータヴァナのなかのナータビンディカの園におられた。そのとき、尊者マールンキャプッタは人影のないところへ行って静思していたが、その心に次のような考えが起こった。 「世界は永遠であるか、それとも世界は永遠ではないか、 世界は有限であるか、世界は無限であるか、 魂と身体は同一なものか、魂と身体は別個なものか、 人は死後存在するとか、人は死後存在しないとか…、 これらのさまざまな考え方を世尊はわたしに説かれなかった。だからわたしは世尊のところへ参って、この意味を尋ねてみよう。」(中略) これに対して釈尊は、「毒矢の譬え」を語った。 「たとえばある人が毒矢に射られて苦しんでいるとする。そこに駆けつけた家族や医者が、毒矢を抜こうとしたとする。しかし、射られた人はこう言ったとしたらどうなるだろう。この矢を射たものがどのような階級の人間か、どのような姿の人間か、矢尻や弦の材料はどのようなものか、そういった全てのことが解らない限りは、矢を抜いてはならない、と。」 マールンキャプッタは言う。「手遅れになって死んでしまいます」 そして釈尊は言う。 「マールンキャプッタよ、人間は死後も存在するという考え方があってはじめて人は修行生活が可能である、ということはない。また人間は死後存在しないという考え方があってはじめて人は修行生活が可能である、ということもない。マールンキャプッタよ、人間は死後も存在するという考え方があろうと、人間は死後存在しないいう考え方があろうと、まさに、生老病死はあり、憂悲苦悩はある。現実にそれらを征服することをわたしは教えるのである」と。 毒矢の譬えは、概略このようである。 苦しみを解決するのが アブラハム・マズロー(1908年〜1970年 A.H.Maslow アメリカの心理学者)は,彼が唱えた欲求段階説の中で,人間の欲求は,5段階のピラミッドのようになっていて,底辺から始まって,1段階目の欲求が満たされると,1段階上の欲求を志すというものです。 人間の欲求の段階は,生理的欲求,安全の欲求,親和の欲求,自我の欲求,自己実現の欲求です。生理的欲求と安全の欲求は,人間が生きる上での衣食住等の根源的な欲求,親和の欲求とは,他人と関りたい,他者と同じようにしたいなどの集団帰属の欲求で,自我の欲求とは,自分が集団から価値ある存在と認められ,尊敬されることを求める認知欲求のこと,そして,自己実現の欲求とは,自分の能力,可能性を発揮し,創造的活動や自己の成長を図りたいと思う欲求のことです。 ここで,敢えて,マズローの欲求段階説を引合いに出したのは,優秀な人ほど,この欲求の段階を駆け上がるのは早いが,自己実現を果たし自己超越の域に達する人はきわめて少ないこと,数多くの人が階段を踏み外し,これまで,その人にとって当たり前だと思っていたことが当たり前でなくなるような状況に陥っています。 人生にとって,失敗を恐れないチャレンジ精神は,きわめて重要ですが,就職・転職・起業・独立にとっても,同じことが言えます。近年,ベンチャーや起業が花盛りで耳障りは良いのですが,成功する確率は千に三つ,慎重な判断と覚悟が必要です。 1.生理的欲求(physiological needs) 生理的体系としての自己を維持しようとする欲求であり、具体的には食物、水、空気、 休養、運動などに対する欲求である。 2.安全・安定性欲求(safety-security needs) 安全な状況を希求したり、不確実な状況を回避しようとしたりする欲求である。 3.所属・愛情欲求(belongingness-love needs) 社会的欲求(social needs)ともいわれ、集団への所属を希求したり、友情や愛情を希 求 し たりする欲求である。 4.尊敬欲求(esteem needs) 自己尊厳を希求する欲求であり、具体的には、他人からの尊敬や責任ある地位を希求 したり、自律的な思考や行動の機会を希求したりする。後者は、とくに自律欲求 (autonomy needs)として、独立に考えられることもある。 5.自己実現欲求(self-actualization needs) 自己の成長や発展の機会を希求したり、自己独自の能力の利用および自己の潜在能力 の実現を希求したりする欲求である。 「生理的欲求」・・・・・空気・水・食物・庇護・睡眠・性 「安全への欲求」・・・・安全・安定・依存・保護・秩序への欲求 「所属と愛の欲求」・・・家族の中に居場所があり自分が愛されること 「承認欲求」・・・・・・自尊心・尊敬されることへの欲求 「自己実現」・・・・・・自分がなりたいのもへの欲求 「自己超越」・・・・・・自分を超えて、特定個人や人々を幸せにしたいという欲求。(マザーテレサやガンジーを思い浮かべてください。) |
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| 0706タイ南部救援 スマトラ沖震災救援ボランティア 平和と笑顔の会報告 | |
| タイ南部救援 スマトラ沖震災救援ボランティア 平和と笑顔の会報告 津波による被害は、想像とは異なる根こそぎ的なものだった。ひどい所では、津波の水は海岸から何百メートルも陸地を舐めて、時には一キロメートル近くも海の底に沈め、その上、洗濯機のようにかき混ぜて、人も建物も粉々に砕いていた。カオラックというリゾート地は高級なホテルが林立していたが、跡形もなく瓦礫のゴーストタウンへと変貌させられていた。 津波が起きたのは二千四年の十二月二十六日のことである。その後、私たちは呼びかけて十数名の僧侶とボランティアが集まり、救援を開始した。そして今回は四度目の訪問であり、私は三回目の現地を踏んだ。 今回の目的は、 @過去三度続けてきた親を亡くした子どもの学資援助 Aパクウィーブ仮設から移動したバーンカイヤの集落の援助 Bビルマ人学校の援助の決定 C懐かしい人々との出会い であった。 有名なリゾート地プーケットの空港に降り立ち、プーケットとは反対の北へとむかって車は疾走した。運転手兼通訳はガイさん。タイ人だが後で聞くと、お祖父さんは中国の中部からタイへと移住して来たという。東南アジアは私たちが思っているより国際的というか、人々の移動が当たり前なのだろう。これから向かうナムケンの町は当然タイの主たる町だが、出会う予定のアイビーさんはビルマ人でシンガポールで勉強した人であるし、ゴーさんはシンガポール人である。人の行き来とネットワークの深さを想像させる土地である。 プーケット空港から北へとトヨタ車は疾走すること一時間半、ナムケンの町に着く。ナムケンは昔は錫の積み出し港として潤い、今はイカ取り漁が盛んな町である。しかし、町は低いなるに立地していたから、津波によって一掃されてしまった。二年前に来た時には、建物は殆ど壊滅的で、既に更地にされていたか、新築を始めていて、もとからあると思われる建物は一つもなかったほどであった。すべて津波で流されてしまったのである。そしてその被害の死者は四千人以上と言われていた。このあたりでも最も被害の大きかった町である。津波は漁港の方から押し寄せ、岸壁を破り、建物を破壊し、人々を渦に呑み込みながら奥地まで攪拌してしまった。想像すると、いかんともしがたい悲惨な光景である。 新しい家は建てたものの、その当時の恐怖で奥地に移り住んでいる人々も多いとガイドのガイさんは教えてくれた。その当時は、人々の死体の悪臭がひどかったという有様である。なんとも自然の猛威は人間にはどうしようもないばかりか、あまりにもひどい痛みをもたらしていく。 前回は、多くの軍隊が汗を流して、建物を新築していた。タイはたいへん暑い所である。赤道の下なのだから仕方ない。昼間は、仕事ができるような環境ではない。日差しはきつく肌を刺し、動くと疲れが一挙に高まる。そんな悪条件の中を人々は、セメントを練り、資材を運び上げて奮闘していた。今回、工事はほとんど終り、町は生まれ変わっていた。とはいえ、昔の面影は全くなく、全てが新しい別の町のようだと言うべきなのだろうか。暑い所だからか貧乏だからかは分からないが、どの家も小さく、風通しが良くつくられている。エアコンが有るわけではなく、私たちにとってはきつい暮らしだと思う。 私たちは、ビルマ学校を始めていたアイビーさんの所を尋ねた。彼女は、大きな家にいた。その家は、今回、二才から五才ぐらいまでの子どもたちの幼稚園として使いたいと説明する。昨年から彼女は、コミュニティー・デベロプメント・センターという体育館のように大きな建物の三つの教室を借りて、出稼ぎや難民のビルマ人の子どもたちのための学校を始めていた。そして、三つの教室では足りないので、幼児のためにこの家を借りて、保育所兼学校を始めたいというのだ。私たちは当初、小さな校舎の寄付を考えていた。しかし、適当な土地がないのと所有権が明確にならないとの理由で、借家で学校を始めたいというのだ。私たちは、熟慮した上、その借家の手当てと備品の一式を寄付することに決めた。 彼女は今回、ビルマ人学校を始めた理由を語った。英語でのやりとりなので誤訳のあることは赦してほしい。 「私の母は、三千人が通う学校を経営していました。しかし軍隊によるクーデターで、軍隊は学校を取り上げました。両親と家族は今はアメリカに住んでいます。私は、シンガポールの大学に行き、タイ人と結婚してバンコクの北に住んでいました。そして津波が起こったのです。私はテレビで多くのビルマ人を見ました。ビルマ人は貧しい生活をしていたのに津波でもっとひどい目に遭って苦しんでいるのを見て、そしてここナムケンにやって来ました。そして学校に行けない子どもたちにビルマ語とタイ語と英語を教えることを始めたのです」と語ったのです。 テレビや新聞で私たちが知っていたようなことが語られました。ビルマの軍事政権の問題や、難民の問題です。「ビルマ人のタイでの生活は貧しいものです。でもそれでもビルマでの生活よりはましなのです。だからビルマを逃れてタイに働きに来ます」というのです。 私たち日本人もそうでしょう。前日、ブラジルに住んでいる三世の方に会いました。私の書いた短冊を手にしていました。短冊には「ひとの痛みが分かる」と書いています。今お寺参りをして貰って帰る所だといいます。彼らブラジル日系人は、政府の誤報もあってブラジルを新天地として渡航しましたが、多くの人が騙され、債務を負わされ苦難の中で亡くなったり何とか生き延びたりした歴史を持っています。同胞が苦難にあれば、出向いて行って助けたいという気持はみんな共通のものです。 そんな話を聞きながら、また、アイピーさんの涙を見て、私たちはここを援助することに決めたわけです。前回出合った、男の先生にも出合いました。笑顔が美しく、今は売店をつくって、ビルマのお母さん方がつくった布の袋を売って、学校の資金にしているとのことでした。 アイピーさんが言うには、給食を無料で出したいと言います。 そういえば、お大師さん弘法大師は、綜芸種智院を建てました。その学校は、志が在っても学校に行けない人々の庶民の学校でした。建物と、食事と、学資を支給して誰でもやる気の有るものが学問できるという学校です。その内容は、 @食事が出る A宿所が有る B教材の提供 C仏教だけでなく一般教養の提供 でした。それは画期的なものでした。だれでも無料で学問を保証するという理念に裏付けられそれを実行したものでした。今日、義務教育は国家が保証していますが、給食費や教材費が多少とも必要で無料というわけではありません。どの子も同様に学問の機会を与えられるということはもっともっと皆で考え、現代に実現していかなければならないものと考えられます。 してみれば、お大師さんが始めた綜芸種智院、それと同様の理念の学校を今回、私たちは援助することを決定した次第です。少しばかり弟子ここに有りという感慨を得ました。 今後、その学校のようすはメールで送られて来る予定です。楽しみにしています。 つづく。 彼女の話し 06年四月、タイ南部ナムケン村の中央に大きな建物ができていた。スマトラ震災でこの村は4千人の死者が出たというが、その後「地域の共同体発展の為のセンター(CDC)としてできた建物である。私たちは、津波で被害を受けた子どもたち、特に親を亡くした子どもたちを訪ねて、ナムケンの学校へ行き、そこで紹介を受けてここへ来た。ちょうどその時は、65名の子どもたちが集まって、英語の勉強をしていた。ここでは、出稼ぎや難民のビルマ人の子どもたちに、朝食、昼食とビルマ語、タイ語、英語の学習を提供しているという。いずれも無償である。 その「ビルマ学校」のリーダーがアイビーさんであった。 その時アイビーさんから「学校の校舎の援助をしてほしい」という要望があった。詳しい話をメールでもらう事として、その場を去ったのが一年前である。 07年六月、私達は四度目のタイ訪問を行った。 私はまず、私たちが津波で被害を受けた方々の支援に来て、特に親御さんを亡くした子どもたちの学資支援をしていることを話した。そして、今回、ビルマ学校開設の経緯を彼女から詳しく聞くことができた。とはいえ英語での会話だか多少割り引いて聞いてほしい。 アイビーさんが言う。 「私の母はビルマで三千人の生徒が通う学校を経営していました。しかし、軍隊がやってきて没収してしまい、両親と家族はアメリカに今住んでいます。私は、シンガポールの学校に行かしてもらい、タイ人と結婚し、北部に住んでいました。スマトラ地震の津波の時、私はテレビを観ていました。テレビで多くの出稼ぎのビルマ人が困っているのを観ていても立ってもいられなくなり、ここナムケンにやってきました。 私は幸いにも学校に行かせてもらい、文字を読んだりいろいろな力をつけることができました。ここにいるビルマの子どもたちは勉強をする機会を得ていません。私と同じように読み書きができるようになってほしいと思ってこの学校を始めました」。 そしてまたこのように言う。「ここにいるビルマ人はたいへん貧しいです。でもビルマはもっと貧しいのです。まだましだから国を出てくるのです」。北の方のタイとビルマの国境にはたくさんの難民キャンプがある。 インターンシップを振り返って より参考に 研修期間:2006年8月1日〜8月30日 1ヶ月という時間は長いようで、すぐに過ぎてしまうもの。SVAの研修期間に東京事務所の方に言われた一言を思い出し、今実感しています。タイで過ごした1ヶ月間は、本当に駆け抜けるようにして毎日が過ぎてゆきました。 難民として生きるごく普通の人達が、どのような暮らしをしているのだろう。私は自分の目で、耳で感じながら、ミャンマーという国の実情を知りたい。自分の実感したことを、日本の学生に伝えたい。そうした思いから、私はインターンの一ヶ月を通して、キャンプの内外で30家族40人の難民の方々にインタビューを行いました。 インタビューを通して浮き彫りになったのは、私と同じ、ごく普通の人達が、地雷・殺害・レイプ・強制労働といったあらゆる被害の犠牲となっているという事実でした。暗い過去を淡々と語る人や、思い出し怒りに震える人、涙に声を詰まらせる人。彼ら一人ひとりの言葉を聞きながら、理不尽さへの言いようのない悔しさ、あらゆる気持ちが私の胸に押し寄せました。それと同時に、自分の無知さと無力さを感じ、私に何かできることはあるのかと、ひたすら考え続けた毎日でした。 「日本人が私の話を聞いてどうするんだ。信じるわけがない。日本兵もビルマ軍と同じことをしてきたんだから」 あるキャンプに住むご高齢の方が私に言った一言です。インタビューには応じてくれたものの、なかなか弾まない会話の糸口を探していた私には、彼の気持ちを察することができませんでした。想像もしていなかった言葉にショックを受け、戦争の被害がこれだけ根強く残っているということ、自分の生きる社会は彼と繋がっているということを痛感した出来事でした。 相手との信頼関係を築くことの難しさ、そして私は常に私の目の前で起こる出来事の当事者であるという意識。インターンの経験を通して得たことは、私にとって何にも変え難い財産となりました。誠心誠意を持って、相手と向き合うこと。何よりも大切にしたいと思う姿勢を、私はタイで過ごした1ヶ月の中で学びました。 帰国してから、「伝えたい」という一心で撮り貯めた写真やインタビューをもとに、今は大学の講義やワークショップの場で自分の経験を私と同世代の人達に伝え始めています。小さな努力も現状を変えていく力を生む。どんな形であれ、少しでも自分に出来ることを見つけ、行動していくことが大切なのだと思っています。 とにかく毎日五感をフルに使って吸収したい、そうした気持ちで臨んだインターンでしたが、これだけ自分が何かしたいと思い、一生懸命になれたことは、周りの人達の支えがあってこそだと思っています。とても貴重な体験をするチャンスを与えてくださり、支えてくださったSVAの皆さんとその他大変多くの方々に、そしてインターン中に誰よりもお世話になった鮎美ちゃん、菜穂ちゃんに、今は伝えたい感謝の気持ちでいっぱいです。本当にどうもありがとうございました。 |
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| 0709仏さまとご縁を結ぶ 菊花灌頂祭 | |
| 仏さまとご縁を結ぶ 菊花灌頂祭 釈尊(お釈迦さん)が覚りをひらき涅槃寂静を得てから二千五百年。その涅槃の流れは脈々とつづいて今に至っている。釈尊が居なければ仏は居なかったともいえるし、居なかったら誰かが覚りを開いたともいえる。いずれにしても、釈尊以来、多くの弟子が釈尊と同じ道を進み、同じ涅槃を得てきた。舎利子など直弟子に始まり、中国、韓国の僧侶、日本の最澄、空海、法然、親鸞、道元、もろもろの僧侶信者へと、仏教の道はつづいている。 私はこの仏の流れを「善意の流れ」と呼びたい。その人々の共通性は、涅槃と慈悲だと思うからである。先の大徳は、覚りを開き涅槃という満ち足りた穏やかな大海原の心を得て、そして慈悲心をもって人々も共に救済されまた涅槃を得ることを切に願った方々である。みずから助かりひとも助かる、もろびと幸福の道を歩んだ方々である。だから善意の人々であり、善意の流れである。平和な心と、他者の平和を願う心そして行動である。 「仏さまとご縁を結ぶ」とは、その「善意の流れ」に身を委ねることである。一念発起して発心しその道へと飛び込むことである。仏教では「得度」という。度は渡るという意味である。世間を抜け出て、出世間へと渡ることである。世間とは、苦しみの世界、出世間は苦しみのない世界。世間は、弱肉強食、生存競争の争いの世界、出世間は、足ることを知り慈悲心を以て共生を目指す世界。 ある男がいた。彼は真面目な良い子であった。その両親は彼の幸福を想い、彼に勉強をさせた。良い大学、良い就職、良い給料、良い地位。やりがいのある仕事に就くにも学歴が要る、資格も要る。幼い時、友だちはみんな仲間だった。野球をして勝ち負けが有っても翌日には同じ友に戻っていた。そのうち、高校受験が始まり、大学受験へと進んだ。だんだんと友だちは減っていき、友だちは競争相手となった。彼は良い会社へと就職した。そして昇進して課長になる。ある時、彼は下請けの作業員を怒鳴りつけていた。「もたもたするな、いくら払っていると思っているんだ。そんなこともできないのか」。その作業員は言い返してきた。「わたしらは、土日も出勤して毎日この炎天下で働いているんだ。今日は熱があったが借金を背負っているし、家には子どももいる。あんたらみたいに、良い服着て、エアコンがあって、給料と休暇があればおれだって勉強していらあ」。そこに幼なじみの顔があった。いつも野球していたあいつじゃないか。相手もその時、こちらが誰だか分かったようだったが何も言わず眼をふせた。もう昔の友達同士には帰れないのかと思った。 その男は、いつのまにか自分がとんでもない遠い所に来ていることに気づいた。一生懸命、人が寝ている間に勉強して、やっとここまで来た。しかし何かもっと大事なものを置いてきてしまった。人を踏みつけて、その上に築いていた安穏が茨の筵に変わっていく。もっと別の生きかたはできないものなのか。 弱肉強食の生存競争。足ることを知らない欲望。人の痛みを知ろうとしない私利私欲。駆け行けた年月は、目をつぶり没落の恐怖心の上に怯え、座布団に座布団を重ねる夢想の楼閣に駆け上がる狂騒曲であった。彼は、もっと人と人が心から握手でき、共に生きる喜びを感じ合える生きかたを夢想した。何も夢想しなくても、遠い記憶の奥に、幼少の遊び回った時の記憶に、その残影でありヒントは見え隠れしていた。 彼は、その後、足ることを知る安穏平和と人の痛みを知るやさしさの世界を目指すこととなる。 さて、私達はどのような生きかたをみずからに選択すべきなのか。石手寺では秋の大祭、菊花灌頂祭において、善意の流れである仏さまとのご縁を結ぶ、灌頂祈願をします。この機会に、みなさまには日頃の生活に光を当て直し、私達の生きかたと他者と共に生きることを考えてみたいと思います。そして、釈尊以来綿々とつづく「善意の流れ」にご縁を結びましょう。 その一、 懺悔をします。私達は知らず知らずのうちに、他人を傷つけているかもしれません。動物さんに対してはもとより、生命を頂いていることにお侘びをし感謝をしなければなりません。できるならば、そのことを懺悔し直していく必要があるでしょう。そして、あたたかい心で、やさしい思いやりのある言葉をかけているか。ひとに苦痛を与えていないか。あるいは、私たちが着ている服や、使っているものは誰がつくったものなのか。それらのひとはそれ相応のものを受け取っているか。他人に痛みを与えていないか、反省します。 その二、 仏さまとご縁を結ぶ決心をします。善意を信じて人を信じて生きていく決心をします。それを仏心を信じるといいます。仏性を信じるともいいます。私に仏さまの素性がある。他人にも皆、仏さまの素性があると信じます。私たちには皆、「煩悩」と「仏心」があります。煩悩とはその心に水をやり育てれば、自分を損なったり、ひと(他者)を損なったりする心です。やがては鬼になります。仏心とは、それを育てれば、心が安らぎ、慈しみの心が湧いてきて、他者への施しができ、お互いに守り合うことのできる心です。やがては仏さまになります。仏さまとご縁を結ぶ第一は、我と他人を信じることです。我と他人に、良い心、より良くなろうとする心、自他の幸福を第一に思う心があることを信じることです。 その三、 発心します。発心とは決心すること。仏さまの善意の道に入り、不退転、退かないことを決心します。要は善意の流れに入るやる気を起こすことです。真言に「オン ボウジシッタ ボダハダヤミ om boddhicittam utpaadayaami」といいます。全身全霊をかけて覚りを開く心を起こしますという意味です。菩提心を起こすのです。菩提心とは、「信心」と「向上心」と「慈悲心」です。信心は上記のその二で説明しました。 向上心とは、「一生勉強」という意味です。私たちが輪廻する限り、生死の海に生きている限り、煩悩と菩提とは裏腹です。覚りは常にここにあり遠くにあります。涅槃寂静の果実はその都度あらわれるものでしょうか。常に真実を求める所に真実があるという意味、得るにしたがってさらに磨きをかけるという意味と、常に自分の限界を知っておく必要があるという意味があります。真実は簡単には得られないという意味であり、一部の謙虚さを残してこそ、真実は見えるという意味です。 慈悲心は、人々と共に生きているという事実を離さないということ。私たちは、必ず他人とともに生きています。食べて着て寝て、この時どうしても他人様の努力に出合います。労働に出合います。そして地位を目指しても他人を意識しています。一人で生きてはいません。この事実を見過ごす人は自他を不幸にします。私は他人の力の上に生きているという謙虚なここが要ります。そして他人の痛みを知る能力が必要です。それが慈悲心です。私が迷っているように他人も迷っている。しかし、私が何処で迷っているのか分からないように、他人が何処で迷っているのか分かりません。そこに第二の謙虚さもでてきます。人の痛みを知るのは簡単なことではありません。分かったようなふりをするよりは分からないとした方がましです。それが分かるということでしょう。慈悲心は要は「あなたも、大丈夫か。ともにのんびりがんばろう」と背伸びせず今日の今を楽しむ、おおらかな心になることです。そして他人の痛みに耳をしっかりと傾けることです。その態度があれば、人はともに和むことができます。痛みを和らげることができます。「ああ、この世に一緒に居て良かった」と。 その四、 戒律を守ります。戒律といっても、自分も他人も同じ生き物だと知って、殺さない、悪口を言わない、邪心を持たないということです。自分を律していくということです。行いに責任を持つということです。実際には十善戒を守ります。あるいは、他者を観る時に自分としてみる。また他人を観る時、母親が子どもをみる親心で見る。ならば自然と行動が定まってきます。そして、行いに責任を持つということです。これを方便といいます。結果として、「私もうれしい、あなたもうれしい」。「私はうれしい」という言葉を相手から聞かなければ慈悲心も無意味となります。心が通じ合うことが第一となります。 その五、 この仏さまの道の目的は涅槃寂静以外にはありません。あるいは涅槃慈悲にあります。私の心が静寂で満ち足りていて幸福であること。あるいは他者と共に涅槃を共有して楽しいことです。これ以外の、果報を得ているとしたならばそれは仏教ではありません。釈尊とその弟子の流れとは無縁のものです。 要は、自他ともに幸福にあることです。涅槃寂静と慈悲の世界に楽しんでいることです。それは金品や名誉とは無関係のものです。ただただ苦はなく楽の境地と呼ぶしかないのでしょう。涅槃寂静と慈悲三昧です。 その六、 私たちは以上を決定して、仏さまの心と言葉と行動を実際に現します。実行です。この世は瞬時に仏の世界、世界平和となります。 ここまで行けば、仏さまとのご縁が完成です。 |
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| 0710ビルマの人々を救え 平和を愛する人々の連帯 | |
| ビルマの人々を救え 平和を愛する人々の連帯 私が着ている服は中国製で、鞄はベトナム製で、コーヒーの豆はブラジル産。パソコンは台湾や韓国や米国製品で出来ています。美味しい食事は、御馳走といって、人々が走り回って供えられますが、私の便利な生活は、まさに世界の人々が走り回って働いたお蔭です。働くは、はたらく、側=「はた」が楽するという由縁です。感謝していただき、恩返しをしなければなりません。ちなみに石手寺の鐘はしあわせの鐘ですが仕合わせの鐘と書きます。お互いが他を思いやり施しをしあうのが、仕合わせの鐘です。 ところで、世界は平和かというとそうではありません。 「もし世界が百人の村だったら」によれば、 6人が全世界の富の59%を所有し、その6人ともがアメリカ国籍 80人は標準以下の居住環境に住み 70人は文字が読めません 50人は栄養失調に苦しみ 1人が瀕死の状態にあり 1人は今、生まれようとしてます 1人は大学の教育を受け 1人だけがパソコンを所有しています ・・・・・ 私たち日本の国民の多くはその恵まれた1人です。 そんな金持ちの米国や日本が、関わっている戦争にイラクやアフガニスタン、そして今、無関心であってはならないビルマ(ミャンマー)があります。 ビルマは、アジア太平洋戦争において日本軍が侵攻した地域であります。他の国を荒らしたという意味では侵略です。実際、ビルマの独立をめざしたといっても、「日本人からはものは受け取らない」というビルマ人もいます。その方の父母は日本軍に殺されたからです。石手寺にはパゴダがあり、ここには、ビルマで戦死した一万五千の兵士の名前が記されています。遺骨のほとんどは帰国していません。ご存知の通り無謀な作戦で、多くの若者が飢餓と病気と疲労で死にました。実にビルマ方面作戦に参加した三十万三千名の日本軍将兵のうち、六割以上にあたる十八万五千名が戦死し、帰還者は十二万名のみであったといいます。 そして、その時、ビルマの国土は荒廃しました。前園先生の話では、今でもビルマの人々の温和なのには驚くと聞きましたが、その痛みはどれほどであったかと思うにつけ責任を感じます。 その後、ビルマは独立し、ビルマでは1988年に民主化が約束されましたが、1990年に軍部は約束を履行しません。その軍政に対して日本国は戦後補償(侵略を認めているのでしょうか)として賠償20,000万ドル(720億円)。借款5,000万ドル(180億円)を払っていますが、それが軍政の援助になっているとの批判も受けてきました。 そして、私は戦後六十年の年、戦争の反省とアジアの貧困解決を願っていたところ、スマトラ沖地震が起こり、多くの人が亡くなり、タイの南部に援助に行くことになります。そこで孤児の援助を目指しますが、その対象はタイ人、モーケン人そしてビルマ人でした。その中でもビルマ人は最も貧しい下層に住んでいます。イカ釣り船の下働きをしているビルマ人、ゴム園に隠れ住んでいるビルマ人。彼らは出稼ぎや難民でした。 事情を聞くと「ここも貧しいが本国ビルマはもっと貧しい。こんなものではない」といいます。そんな中、学校に行けないビルマ人の子どもたちの援助をして学校を開いているところに出合いました。その創始者のアイビーさんはビルマ人でタイ人と結婚してタイに住んでいるというのですが、その理由を尋ねると「私の母はビルマで三千人の生徒がいる学校を経営していましたが軍隊に奪われ、母たちは今米国にいる」というのです。彼らは難民です。そして津波で自国の人々が困っているのを見かねてここナムケンにやって来てボランティアをしているというのです。私たちは、孤児に奨学金や文房具を渡し、学校(寺子屋)の家賃と道具を募金しました。 そして、九月二十七日、ビルマの悲劇が起こりました。 その前々日、私は新聞を見て嬉しさで高揚していました。新聞には大勢の僧侶がビルマのヤンゴンの町を埋めつくして行進していました。非暴力の鉢伏せ行です。赤い衣を纏った何万人という僧侶が先頭に立ち、人々と共に歩いています。経済の逼迫と暴政に喘ぐ人々を見かねてです。 「僧侶たちは不殺生と慈悲の心で立ち上がったのだ」 と私は思いました。「今、坊さんたちが人々のためにがんばっている。人々の幸福がなされるかもしれないぞ」と。 しかし、二日後、人殺しの前に事態は急変します。 そして長井さんは、人々が圧殺されるその様子を全世界に伝えようとして殺されます。彼は、殺され死に行く人々と必死に頑張る人々と、そして私たちとの連帯を橋渡ししようとしたのでしょう。はからずも橋渡しする人が殺され、その映像が世界に流れ、連帯の糸口が傷口となって人々の胸を刺しました。 人々が軍隊に脅かされ飢餓し、それを助けようと命懸けで抗議する人がいる。その人をまた映像配信によって助けようとする慈愛の人がいる。そして私たちがそれをまのあたりにする。そして連帯する。これは他人を思う人々の、平和を愛する人々の連帯なのです。共感と共生の尊い行為なのです。想いを同じくし痛みを共有し、体を張っての行動なのです。 人間がこんなに輝くことがあるでしょうか。他人のために自分を投げ出す。これこそお釈迦さんの無欲の布施、菩薩道ではないでしょうか。そして私たちも、その行為を尊敬して、ビルマの平和のために立ち上がる。ビルマで今、拘束されている人がいます。殴られている人がいます。やめてください。貧困に喘ぐ人がいます。助け合いましょう。その気持をわずかに起こし、気持と行動を捧げようではありませんか。纔発心転法輪菩薩として。 ビルマの僧侶のビルマ青年僧侶連盟からも「日本国内のすべての僧侶と皆さんへのお願い」として「私は日本に住む僧侶、尼僧、在家信者の皆さんに対し、ビルマの僧侶たちが現在取り組んでいる行動に注目され、共に実践してくださることを強く求める」と要請が来ています。この気持にこたえ、自身に不殺生戒と慈悲心を起こして、ともに連帯しようではありませんか。 わが国の日本国憲法前文に書かれています。 「日本国民は、・・・平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持しようと決意した。・・・われらは、全世界の国民が、ひとしく恐怖と欠乏から免かれ、平和のうちに生存する権利を有することを確認する。」 私たちは、ビルマ僧侶、人々、長井さん、平和を愛する人々と共感し共生しましょう。そして、平和を愛する世界の人々と連帯しましょう。連帯とはともに人間の痛みを感じること。ともに平和のために無心になることです。 以下省略 仏教僧が経験した拘禁施設の惨状 2007年10月7日モニー・クリス 【ヤンゴン・AFP】・・・ 釈放された僧侶の一人(18)はAFPに対し、兵士から殴る蹴るの暴行を受けているときでも、仏教の教えに従って、兵士たちが心の平安を得られるようにと祈ったと語る。 「収容された建物の中では、私たち僧侶は囚人と同じように、うつむき、ひざまずかされた。2日間この姿勢を続けさせられ、そして僧衣を剥ぎ取られた。 「軍政に親しい宗派の僧侶から還俗させられた。黄衣を脱がされ、在家のようにTシャツにロンジー姿になるよう強要された。 「僧衣を脱いだ後、再び暴行が始まった。手で殴られ、棒でぶたれ、蹴られた。10人のグループに分けられ、一人ずつ尋問を受けた。デモに参加したか、僧院内での指導者は誰かなどと尋ねられた」とこの僧侶は話す。 尋問が終わると、僧侶たちは60人毎に分けられた。そして教室に閉じ込められた。そして再びひざまずき、用を足す際には隅に行ってしゃがみこむことを強制された。 釈放されたこの若い僧侶によれば、僧侶に対する扱いのひどさに激しく動揺する兵士もいたという。 「仏教徒の兵士たちがやって来て謝罪し、許しを求めた。そして上官の命令があるから仕方なくこのようにお坊さんを扱っているのだと説明した。 「僧侶の中には、仏教徒の兵士に向かって、あなたがたはいつか地獄に落ちると語るものもいた。それを聞いた兵士たちは泣き叫んだ。そうなることわかっているからだ」とこの僧侶は述べた。 囚人のようにひざまずいている僧侶を気遣って、水を持ってくる兵士もいた。 この僧侶は、自分は運が良かった方だと話す。ングエチャーヤン僧院の僧侶が同じ施設に収容されていた。 この僧院への襲撃は周辺住民に衝撃を与えた。人々は血の海や粉々に割れた窓ガラス、床に転がった薬莢を目にした。 「暴行があったのは、ングエチャーヤン僧院の僧侶が兵士に抵抗しようとしたからだ。 「重傷の僧侶もいた。顔を酷く殴られていて目が腫れあがり、開けることもできず、もちろん何も見ることができない。頭や腕に怪我をしていたし、皮膚から骨が出ている僧侶もいた。 「その後囚人たちは、デモの参加者、指揮者、支援者に分けられた」とこの僧侶は語った。 しかし、この僧侶は、自分を苦しめた兵士への怒りがないだけでなく、その兵士たちが最後には自らの過ちを理解できるように祈るのだと力を込めて語った。 「私は兵士たちに怒りを感じてはいない。私は祈ることで、兵士たちに慈しみの念を送るだけだ。兵士たちがいつの日か心の平安を見いだせるように。」 (訳、中山利彦、BurmaInfo) 原文:'Buddhist Monk Recalls Detention Camp Ordeal in Burma,' AFP, October 7, 2007. |
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| 0711新年のこよみ | |
| 生きているということは楽しいこともあれば苦しいこともあります。 禍福はあざなえる縄のの如しというように、楽しいことばかりではないのがこの世の定めでしょうか。また、長い人生には「どうして私にだけこんなに不幸がつづくのか」とか子どもが病気にかかり「私が代わってあげたい、どうしてわが子にこんな苦しいことが」と、つらくて絶望的になり、人や神を呪いたくなるほどの痛みに襲われることもあります。 確かに、「私だけどうして」とか「こんなつらいことが」と思うほどの出来事に出合う時、私たちは他人と比べてしまったり、痛みのどん底でどうしようもなくなることがあります。 あるお母さんは、息子を自殺で亡くしてしまいました。病気で学校をやめ、定時制に行き、そして就職をすることになっていました。「頑張って行きなさいよ」とお母さんは励ましました。その日、息子は笑顔で出て行きましたが、飛び下り自殺をしました。お母さんは言います。「あの日、『行かなくてもいいよ。無理しなくてもいいよ』と言おうかどうしようか迷っていました。そうしていれば息子は死ななかったと思います。私が殺したのです」と。 それに対して私は言いました。「お母さんのせいではありませんよ。気持は十分伝わっていたと思います。どう言おうとあなたの心は伝わっていたでしょう。息子さんは自分で自分の人生を一生懸命に考えて、その結果、自分の生きかたを決めたのです。純粋なかただったと思います」と。 しかし、お母さんは「私が殺した」と今も自分を責めています。 私は年末の自殺者供養の会(12月2日)に一緒に手を合わせませんかと誘っていますが、まだまだ家からは出られない気持だと言われます。 こんな苦しみは他にはないかもしれません。わが子を亡くし、その責任が自分にあると思っておられるのです。側からみれば「なんとやさしいお母さんだろうか」と推測しますが、ご本人は、自分を苛むばかりです。 世間には沢山の不幸があります。交通事故や、病気、災害、暴力、犯罪、戦争、貧困、孤独など多くの痛みがあります。私たちはどうしてこの苦しみに立ち向かわねばならないのか。 みなさんは、年の初めに年内安全の祈願をされます。厄除け招福の祈願です。「一年が無事でありますように」と祈られるわけです。私たち僧侶も仏さまの前でお祈りをします。弘法大師が伝えた真言宗の儀式に則って祈願します。 このとき、みなさまにもお祈りをこのようにして頂きたく存じます。 「家族で守りあっていきますから、ご加護を頂きますように」と祈ってください。 どうしても避けられない災難もあります。しかし、家族で守りあって、気をつけあって避けられるものが沢山あります。気持を整え、余裕を以て、正しい方向を観て暮していれば避けられることがあります。 そして自分だけの二つの目では見えない落とし穴も、家族の大勢の目で見れば見抜けます。独り暮らしの方はお友だちと、そして仏さまと一緒に観てください。そうすれば、ひとりぼっちの孤独の災難も和らぎます。また、孤独感が招くぬかりも正されます。 一、ひとりでさびしくいると魔が入ってきます。魔というのは気持のゆるみや、やる気の減退です。家族みんな思いやりいたわり合います。また、友だちとともに考えます。 一、仏さまとともに考えます。自分の智慧で足りない時は、仏さまの智慧、仏さまの目で観ます。そうすれば解決方法が見えてきます。仏さまに守っていただけます。 一、心を清く正しくします。心にやましいことがあると心の目が曇り、禍を避けるどころか禍を招き入れます。心を純粋に正しく保って、問題を真向から観ます。 一、煩悩を清めます。煩悩とは自分だけ得しようとか、人を痛めたりする心。 むさぼりの心、 いかりの心、 くよくよする心、 おごりたかぶる心、 こだわる心、 などです。これらの悪心は自分を損ない人を損ないます。また、自分や家族にふりかかる困難を見落とします。心が曇るわけです。 一、あたたかな心を持ちます。人に対する和願愛語です。笑顔とやさしいことばかけ。人に接する思いやりのある顔とことばです。出来れば人の相談にも乗り、親切にし、布施行もします。ボランティアです。 和願愛語は人々をなごませ、人々を幸せにして、争いごとがなくなります。争いが無ければ心はなごみ、安楽で豊かになり、心には余裕が出来て災難を回避します。 また、他人も喜び、私が困っている時に助けてくれます。助け合いです。自ら助け助けられ困難は遠ざかっていきます。 一、何より、このようにしていけば、困難が来ようとも、ひとりで悩むことなく、家族や人びとに支えられて、いっしょに越えていくことができます。つらい時に、「私だけが」と思うことは最もつらいことでしょう。分かってもらえる人がいるということは、災難を軽くします。みんなで一緒に痛みを感じ考えるならば、痛みは軽減されます。それどころか、生きていることの意味さえ感じます。 仏さまとは本来、そのような善意を以て生きる御方であったでしょう。 私たちは分かり合える気持の中で、困難にあっても、安らぎを得るのではないでしょうか。私は、そのような手紙を幾つか頂きました。だからそのように思います。 私たちの痛みは、人びとの善意で守られ、ともにいたわりあい支えあうときに、軽減され、安らぎがあると思います。 仏さまはそのことを約束されています。新しい年を迎えるとき、私たちは仏さまの御札をつくり、いっしょに祈願します。 仏さまといっしょに祈願します。 家族といっしょに祈願します。 私たちといっしょに祈願します。 そして、石手寺では何万人の人びとが集い、ごいっしょに祈願してみんなで守り合います。それを仏さまは大変喜んで居られます。 |
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| 0712年あらたなり | |
| 年あらたなり 太陽と北風 と あなたの宝 私はこの話が好きだ。というのは自分が北風をやってしまっては、楽しい場所を損なってきたからである。 太陽と北風が旅人の服を脱がせる競争をした。言っておくが仏教は競争をしない教えである。だが太陽と北風は競争をした。そして、北風は吹雪によって強風で旅人の服を吹き飛ばそうとする。旅人は、「寒い、寒い、負けるものか」と上っ張りの襟をギュッとつかみ放さなかった。北風が力めば力むほど、一所懸命になればなるほど旅人も一所懸命になったから、とうとう旅人は死ぬ想いで逃げた。 太陽の番になった。太陽は、温かく照りつけた。旅人は即座に服を脱いだ。 さて、悩み相談の電話が鳴る。私は心を落ち着けて受話器を取る。 話の向きは息子さんのことらしい。勉強をしないから「勉強しなさい」と叱るのだが最近では家に戻らないという。そんな子は食べさせることもないし家にも入れない方が良いというので、その様にしたら、本当に家に帰らなくなったというのである。息子さんの友だちに聞くと「息子さんは『僕の親は僕が嫌いなので遇うと小言ばかり言って、とうとう食事もさせない。兄ちゃんは成績もいいからやさしくしているのに僕には冷たい』と言っていた」という。 母親は「息子の将来を心配して泣く想いで追い出した」というのだが、息子はその涙は見ていなかった。 涙は太陽で、言葉は北風である。 もしも母親がこう言っていれば事態は変わっていたかもしれない。「息子よ、お前のことが大事なんだ。目に入れてもいたくないほど大事だ。良い仕事を身につけるのが良いが、どうするかい。たまには五年後のことも考えてみよう」などと。 大事なのは、心の向きで、決めつけた言葉ではない。心の向きが温かければどんな言葉も心を伝えるし、心の向きが我利我利亡者では鬼の心が相手に伝わる。愛された人間は世間に恩返しするから自然と働くし役に立つし、世間で生きて行ける。 というわけでそんなこんなを話しながら相談に乗るわけだが、話を続けていると「実はもうひとつ悩みがあるんです」というこは多い。「実は、連れ合いが浮気をしているようで・・・」というのである。 「そんな人は別れなさい。そうすれば相手も真剣に考えるでしょう」と言ってみたり「最近ふたりで楽しい時間を持ちましたか。ぎすぎすばかりしているとどんどん心は離れていきますよ。心が冷えきっていたら、相手も冷えていきます。長年連れ添った相手を信じましょう。信じるといっても、良い所を思い出して、そこを温めることです」などと綱引きのような話を延々とする。夫婦の関係も親子の関係も、太陽と北風の応酬である。 ところで、私たち私にはどんな太陽が潜んでいるのか。ただただ相手の服を脱がしたいだけの太陽ならば、術策に長けているだけである。北風と変わらない。つまらない相手は早く見切りをつけてもっと良い相手を探すなり、いっそ人間には見切りをつけて損得感情に走った方が良い。 つまり、服を着せる競争なら、北風が勝っていたのである。要は脱がせるかどうかではなくて、何をしてあげたいのか。何を大切にしているのかである。 それが秋に行った福徳授与灌頂祭である。お不動さんと虚空蔵さんの話である。心を清めて、そして何を大事に思うかである。息子に老後を頼むために出世を願うことはないか。息子の誉れを誇りたいが為に、または息子の晴を人に見せたいが為に子供に勉強をけしかけることはないであろうか。そんなのもあって良いが、その前に、一番に本当に子供の事を思っているだろうか。そこが虚空蔵さんの「宝」の話である。 お金や名誉は運不運がつきまとうものであろう。しかし、私たちの心が何を願うかは私次第である。私の想いようでどのようにもなる。 私が名誉や財産や快楽を優先すればそのような人間になるし、私が誰かのことを大事に思えばそのようになる。私の宝ものは自分で決めることができる。ただしいろいろな快楽や不安や世間体や見栄が邪魔するだけである。お不動さんに頼んで心身を清め、煩悩をなくしていけば、人を愛する心が自然と出てくるはずである。それが虚空蔵さんの心である。 真に大事なものを大切にするのである。太陽と北風の話しが言いたかったのはそのことであろう。虚空蔵の宝玉をもってこそ太陽と北風は意味を持ってくる。そして太陽でいくか北風でいくかは薬師如来の話である。阿弥陀の力で相手を良く見て人の痛みを知り、そして方便に責任を持つ。方便とは実際の行動であり、その結末である。私がいることによって大事なものが輝くということである。 あるお母さんが言っておられた。そのお母さんは自殺で息子さんを亡くされたのだが、こう言うのである。 「息子が亡くなって分かったんです。私は息子を生きがいにして生きて来れたのです。息子は先に逝ってしまいました。今も悲しいけれど感謝しています」と。 他人にああせよ、こうせよ、こうしたら良い、こうしなさいという前に、人びとに感謝してみたい。私たちは他人というものを踏み台にして生きてはいないか。それより、他人の心に支えられて生きているということがないだろうか。お互い様という。人間はひとりでは生きていけない。他人の温かな心に支えられて生きている。 そう思えばずいぶんと気が楽になる。そして気が楽になると、何を大事にして何を見て、何をすべきかが見えてくる。 相手を大事にすること、それは相手に大事にされること。それは自分が支えられて生きること。生きていく糧をしっかりと得るということではないか。 新年に思うことはみんな同じだろう。 だいだいと こんぶと するめと かきと お重ね餅である。 家族揃ってだいだい元気で幸福なように みんながよろこぶように ながーくおちついて元気に生きられますように そして実り多い年になりますように 重々重ねてもちついて祈るのである。 新年には、お大師さんの福箸をお配りしている。家族がそろって膝を合わせ、 「昨年はみなさんのお骨折りで無事に過ごすことができました。感謝いたします。今年もお役に立ちしたいと思いますのでよろしくお願いいたします」との気持で、「ありがとうございました。よろしくお願いします」とあいさつをしたいものである。 そして初箸を使って最初の御馳走を配膳し、噛みしめて頂きたいものである。 ついでに、御馳走とは「馳せ走る」と書く。体を養うものをあちらこちらと走り回って用意された命とそのご苦労のことである。 亡き師匠が言われた。「働くは『側楽』。その人のとなり人が喜ぶことである」 「幸せは『仕合わせ』。互いに施しを仕合うこと。幸福を与え合うことである」と。 世の中が、格差の苦しい社会へと落ちていきつつある。富むものと貧しいもの。地位をもつものと支配されるもの。格差は心を差別し砕き和を損なって私たちを競争の地獄へと落とし込みつつある。こんな時こそ、私たちは私たちの宝をしっかりと見つめ握りしめることが必要だろう。 宝は、損得や名誉などの瓦礫ではない。宝は、私たちの命である。想いである。いかに同じ人間として、壁をつくらず自然と握手して生きていけるかであ。 「みんなおなじ尊い命をもっています」 この心で輝き合うのが、不殺生平和の万灯会である。一つ一つの命がしっかりと輝いて互いに照らし合いたい。 |