08同行二人
0802この歳で人の温かみを知る 同行二人08二月号
0801大わらじ 喜ばれる喜
0802この歳で人の温かみを知る

 阪神震災から十三年経った。人々もあの衝撃を忘れつつある。一月十七日、毎年行われる追悼供養祭に、若者の姿があった。彼は昨年はお寺にしばらくいて共に修行をした仲でもある。
 知り合ったのは、震災後二年経ってからであった。石手寺で始めた「愛媛県在住の被災者の交流会(お茶飲む会)」で彼のお母さんに会ってからである。
 彼はこう言った。「来よう来ようと思っていたけど、今日追悼供養に来たのは初めてです。十三年経ってやっと来ることができました。今までは毎年この日は布団を被って寝ていました。何も考えたくなかったのです。思い出したくなかったのです」と。後で聞くと「隣の同学校の女の子二人が死んだ」ということであった。
 私は「悩み相談」をしていて良かったと思う。というのはある日、「地鎮祭をしたいが、どのようにしたらいいか」という相談を加藤さんという女性から受けたのが、その交流会のきっかけである。良く聞いてみると「地震で人が亡くなった土地なので」ということである。彼女は私が阪神震災救援のボランティアをしていることを承知の上で電話をしてきた。そして震災の犠牲者の供養をして欲しいということであった。その上、「この松山で、何人かの被災者は、ひとりひとり淋しくしているので、集る場所が欲しい」ということを訴えられた。丁度その頃、大阪のボランティアからも、愛媛に住んでいる被災者の相談をしてほしいという依頼があったので、その加藤さんの言葉に押されて私たちは被災者交流会を始めることになる。その中で、若者とは知り合うのである。
 震災救援といっても、即座に何かができるわけではない。震災後二年経って、私は被災者のお宅に電話を何軒もかけたが、「今頃何の用や、ボランティアいうけどボランティアが何してくれたんや、どうや」という具合であった。「愛媛の人は冷たい、爺さんは淋しく死んだ」とも言われた。
 衝撃的な叱責を食らったのだが、半分は覚悟していた。その通り、私はボランティアといっても十分なことができたとは思っていなかった。「何か役に立てればと思い立って行ったが、何もできなかった」という思いでいた。だからずっと後ろ髪を曳かれる思いで、いつかは何事かをしようと決めていたのである。
 電話での話は何時間にも及んだ。最初は手厳しい叱責から始まり、だんだんと感謝の気持も聞き、そして交流会をしようという話しになり、必ず供養祭には行くからという話になった。
 そんなきっかけで、石手寺の毎年の一、一七の阪神震災救援の供養祭は開かれている。私はその若者を見つけた時、驚いたし嬉しかった。十三年してやっと来てくれた。いっしょに手向けることができるという嬉しさである。その供養祭の後、私は昨日いっしょに四国遍路を体験した宝塚の被災者やボランティアの方々三十名弱といっしょに東雲小学校に防災の話しに行くことになっていたので、その若者に、いっしょに行こうと誘った。彼も行くという。その上、彼は演壇に立って彼の小学校四年生の時の震災の記憶を小学生たちに話して聞かせた。
 紙芝居を見たり、ボランティアの話を聞いた後であったが、若者が話しだすと体育館はシーンと静まり返った。
 「僕は、当時小学四年でした。五時ごろ僕は起きていました。僕は兄だったから二人の弟を助けなくてはと、二階のガラスを手で割って、裸足で弟たちを連れ出しました。一階は、なくなり二階が一階になったようでした。父と母の声はなく、つぶれた一階に生き埋めになっていたのです。お昼過ぎまで、僕たちは父と母に会うことも声を聞くこともでき心細くしていました。本当に不安でしたが、弟たちを心配させてはならないと頑張りました。そして両親は無事に助け出されました。弟たちは飛んで行ってお母さんに抱きつきました。僕は、お母さんに抱きつきたかったのですが、弟たちのことを考えて我慢しました。」
 という話しであった。
 体育館の小学生たちはみんな真剣な顔になっていたし、大人たちは涙するものもあった。私も涙がこぼれた。


家族を失った人の四国遍路


 さて、この日の前日には、私は宝塚から来た被災者やボランティアの方々三十名弱と共にお四国遍路をした。四十六番浄瑠璃寺から五十三番円明寺まで拝んで回った。
 この一行には、お母さんと妹さん二人を亡くされた方、子どもさんを亡くされた方など重たい記憶に生きている方々が含まれていた。お四国遍路には前々から考えていたプランがあった。地震で肉親を亡くした方や、事故やその他で家族を亡くされた方といっしょに供養の巡礼ができないものかというのであった。
 宝塚ボランティアの亀甲さんとは十年来の助け合いをしているが、彼女が企画してこの巡礼がはじまった。最初は、ボランティアの方しか集らず、被災者も高齢者となり、なかなか思ったようにはならなかった。そんな中で、私も何度かいっしょにお参りをして、「お四国は、様々な心に痛みを持った方々がやって来ます。息子さんを二十で亡くした方などは、持って行き場のない悲しみを懐いて今も回っておられます」などの話をしながらである。
 そうすると、あるバスの中での感想で、「私は二年前に息子を事故でなくてました」と吐露される場面にであった。「またいつの日か相談をしたいのですが」と彼女は言われた。私は、自分ではどうしようもない大きな悲しみだと感じて、ある意味役に立てるだろうかと思った次第である。
 そして、その方は石手寺にも来られ、いっしょに供養もした。後で聞くと「その時は、傷口が開いたような」と言われたそうである。相談するということは、事故のことを思い出したり、言葉にすることである。事故を思い出すのは全くつらいことである。そして事故に向き合おうとすると痛みは極限になるだろう。
 そして、先日の一月十六日、二度目のお遍路を行った。寒風の吹く日であった。時折、日差しが出て光線が薄暗い雲を払いのけたが、どんよりとした雲と、寒い大気は痛い遍路を後押ししているように感じた。それでも三十人で読経していくと何やら重たく暗いものを押し退けていくような感覚にも包まれる。この日は、十年も前に道後温泉にご招待した目の不自由な親子も参加していた。車椅子の参加者もいた。六人ぐらいはその時からのおつきあいである。別名、「被災を縁とした同窓会」と言っても皆さんに笑って貰える雰囲気を一方には携えている。
 被災者と一口に言っても実はさまざまである。当然一番重たいのは亡くなったご本人である。そして肉親を亡くした遺族、友人、知人、隣人を亡くした方、そして助けようとして助けられなかったので見殺しにしたと悔やんでいる方、そして家を失くした方、仕事を失くした方、住み慣れた場所を離れなくてはならなくなった方、さまざまである。
 それぞれに辛いものを背負ってお参りをしている。皆さんいうことは「十七日が近づくと苦しい」ということである。私も、年末の自殺者供養が近づくと苦しくなる。そして十七日にはピークを迎えるだろうか。同窓会の人々に会えると期待する一方で痛みを感じ暗くなってしまう。
 それでも、最後のお寺を打ち終わる頃にはみんな顔が緩んでいたように思う。震災の痛みとその後の出会いといろいろな思い出。このお参りも新しい記憶へと想いが重なっていく。皆さんもお寺で手を合わせる時、遍路として何百年も前から積み重ねられてきた幾多の傷を負った人々の想いを感じながら、その上に自分を重ねてきているに違いない。何万人何千万人がこの地を踏んで、「辺土の土になるとも・・・」と故郷を思いつつ遍路の土地に骨をうずめる気持で打ち捨てては拾い上げた生きていく息吹を、今呼吸しているに違いない。
 遍路はその痛みの累々たる積み重ねの上にその癒しを持っている。

五時四十六分死んだ方に黙祷
生きている方に励ましを

 今年も一月十七日の五時は冷たかった。ろうそくの灯文字に点灯する。「1・17 きずな 生きる」である。
 「生きる」は短冊にもしたためている。自分で生きる。他人と生きる。の意味である。それぞれの心の痛みは、自分ひとりで背負うしかない。息子を失った母の痛みは、その人にしか分からない。
 その一方で、語り合って分かり合うこともできる。当事者とボランティアが出合って、痛みを分かち合うこともできる。痛みを機縁として共感し、ともに支え合うこともできる。生きるとは自分で生きること。他人と支え合って生きること。この二つの行き来であろう。
 この朝は、石手寺の御詠歌の方や信者さんも多数参加して頂いた。石手の町の方も来て頂いた。「嬉しいです」思わず私はそうあいさつした。そして娘さんを亡くした母親。息子を亡くした母親。肉親を一度に亡くした方。そして十三年目に初めて来た若者。口に出さなくてもそれぞれに誰かのことを思いつつ参加している。マスコミのライトが激しい。「これでは御供養にならないですよ」そういうとライトは一斉に止んだ。静かな厳かな時が流れる。黙祷。それぞれの参加者は自分の人の事を念じた。
 みなさん自分の会いたい人に会えただろうか。
 後で聞いた話し。
 息子さんを事故で亡くした方は「気持が楽になった。良かった」と語ったという。
 宝塚の人々は帰途のバス中、「こんなに人の温かみに触れたのは初めてだった」と語り合ったという。「感動した」「気持が晴れた」「また行きたい」それぞれに感想を述べあったそうな。
 痛みを乗り越えた人の想いは格別であったろうと想像する。こんな所に至るとは私も思わなかった。こんな所とは、人に出会うことである。良い人に出会うことである。いっしょに生きていて良かったと思うことであ。自分のしたことが良かったと思うことである。
 生きていることはある意味、辛いこと、痛いことの連続である。しかし、自分で支え、そして他人と出会い、分かり合い、支え合う時、生きている新しい意味が現れてくる。
 ただ単純にのほほんと生きていたのでは生きる意味は現れて来ないのかもしれない。苦しいことを乗り越える中で、意味が見えて来る。その意味は、しかし、ひとりでは頂けないものかもしれない。誰かと出会い、痛みの意味をいっしょに考え、いっしょに持ち上げ、そして人を大事にしようと思い立つ時に、現れてくるものではないか。
 
 「不完全燃焼」
 「なんで神戸なんや」
 「ボランティアといって何ができるんや」
 「口先だけやろ、売名行為や」
 「何もできん」
 いろいろな苦渋の果てには泥沼だけではなく、生きていくことを鼓舞してくれる何人ものいたわりや言葉があったことを忘れない。
大わらじ 喜ばれる喜 0801

大わらじ

 年の始めにおおわらじのプレゼントが金剛講信徒会からお寺に届いた。四年に一度のおおわらじの奉納である。
 「今年は奉納の年じゃ」ということになるとみんな心が騒ぎだす。住職としては少々はらはらして注目している。一番の長老でもあり土台づくりから骨組みづくりまで居なくてはならない梶原さんは十二回目だという。四十四年前私が小学校一年生の時からである。
 連綿と絶えることなくその時からこの大わらじがつくられてきた。
 穂の長いわらを植える人、刈り取る人、軽トラックで三台分運ぶ人、十楽殿に仮置きし、正月九日を迎えると土台をつくりテントを張る。翌日、人が集るかと少し心配していたが、どこからともなく人が湧いて出たかのように集まって、仕事が始まる。
 わらをなやす人、すく人、編む人、束ねる人、編んでいく人、結構たくさんの行程があるが、それぞれ誰が配分したでもなく進んでいくようだ。「わーわーがやがや」と喧々諤々喧嘩もしながらも進んでいく。
 大きなひとつのものが出来上がっていくというのは目に見えて心地よいのだろう。みんな顔が活き活きしている。「石手寺のばあちゃんじいちゃんはみんな元気だねえ」とよく言われるが、特にこの日は勢いがある。顔に張りがある。楽しそうだし若返ったようだ。
 つくり始める前に、私たちはお祈りをした。
 一つ、みんなの健康を祈り、生きるもの全ての幸福を祈ってつくりましょう。
 一つ、ご自分や家族の健康と幸福を祈ってつくりましょう。
 一つ、怪我のないように安全を祈願して始めましょう。
 わらじが取り付けられる仁王門は全国の善男善女が通る門である。お遍路さん、観光客、地元の多くの信徒のみなさんが何万人と通る所である。
 「この大わらじ触ったら元気になるのよ」とみなさん言いながらわらじに手を当て神妙にお祈りして通っていく。そして本当に元気になったかのような笑顔で本堂へと向かうのである。「だから、お参りに来るみんなの幸福をお祈りして始めましょうね。そうすればみなさんの清くやさしい心が加わって、それをさする人々に伝わりますよ」と説明する。みなさん「うん うん」とうなづいている。
 そして、特に家族に病気の方がいれば治りますようにお祈りを籠めてつくりましょうと説明する。
 そうして、わらじづくりははじまった。二日目は午後五時ごろまで行った。毎日四十人から六十人、昼飯をつくる人も加えれば七十人の日もあっただろうか。三日目には完成したのだから、多くの人と、努力の大きさが窺われるだろう。
 そうして出来上がった巨大なわらじは堂々としていて白く光を放ち、人々の希望を湛えていた。努力の結晶である。石手寺金剛講信徒会の隆盛と人々の善意の賜物である。
 そして十三日午前には古いわらじが降ろされ昼から新しいわらじの取付がはじまる。
 取り付けはまた大変であった。四年も経つとやり方を忘れている。私も若い方だったので脚立に上って頑張った。いっしょに作業するのは本当に楽しい。みんなと合体したような気分になる。古いわらじを降ろし、新しいわらじを持ってくる。十数人の男女がみんなで笑顔で運んできた時は、それはそれは嬉しそうであった。こんな笑顔はなかなか見れるものじゃないしつくれるものではない。
 みんなわらじに触りたくて仕方ないし、いっしょに居る時を貪るかのようである。
 取り付けは思いのほか手間取った。午後一時に始めて、完成は三時をとおに回っていた。
 完成のお祈りをする。
 新しいわらじが白く光って見えた。実際、まだまだきれいだと見えていた四年前のわらじは少しくすんで見えた。その色は、多くの人に触られ気持を頂いて魂を籠められ重たくなったように見えた。
 新しいわらじはいまここに新しくつくられた多くの人々の想いをそのからだに宿らせて白く光っている。また新たな四年間、此処を通る人々はこのわらじに手を触れて、そしてその手を自分の痛い所、悪い所に当てて健康を取り戻すだろう。まるで魂を持って人々を待っているかのように新わらじは見えた。
 そして旧のわらじは境内の中央に安置された。お参りに来た男の方が、全身をそのわらじに擦りつけるかのように体を合わせている。わらじの魔力を自分の体に得ようとしている。わらの一かけらを持っていく人もある。古いわらじにはお参りしてわらに健康を祈った人々の気持が宿っている。その功徳を貰おうというのである。
 人間の気持は尊いものである。善心、善意というのは尊いものである。人間の気持の全てが尊い訳ではない。つらさを乗り越えて元気になろうという意思。自分の病気の子どもを治そうとする温かい愛情。元気になろう、そしてまわりの人に元気になって欲しいと願う善意が尊い。そして何万人、何十万人、何百万人の気持をこのわらじは受けとめてきた。そして宿している。その善意を体を擦って得ようというのであろう。なにやら神々しいのである。力にあふれているのである。
 その出発点に在るのは、今回もつくり始めに行った、われと他者みんなの健康幸福の祈りである。元気でありますように。みんなも、生きているもの全てが元気で幸福でありますようにという祈りである。
 その祈りの方向へ、みんなの努力と協力と、そして活気と笑顔が加わって、わらじが完成する。そしてその祈りの上に様々な人々の願いと善意が合わさって、四年間の重みを持ったわらじがここにある。そしてお二十日には、焚き上げて灰となる。
 その灰を持ち帰り、自分の痛い所、悪い所に刷り込めばまた健康になる。私にはそんな気がする。

喜ばれる喜

 今年の短冊にはこう書いた。この夏石手寺に合宿した小学生たちがお接待をした。中学生もお接待した。その時、子どもたちは自分らで蒸しパンやおにぎり他をつくり参拝の方々に接待した。貰った方々は大変喜んで笑顔が美しかった。その笑顔を見て子どもたちは嬉しいといった。笑顔と笑顔の応酬である。私がいることによって誰かが喜ぶならばそれは喜びである。私が何かを行うことによって誰かが喜ぶならばそれは私の喜びである。またもう少し生きようかと思う生きる力である。そこで
「喜ばれる喜」と書いた。
 今回できたわらじも他人に喜ばれる喜びに違いない。いっしょにつくる喜び。そして誰かに喜ばれる喜びである。その喜びの姿が目に見えるようだ。お参りする人が、健康を祈願して健脚を祈願しておおわらじをさする姿が目に見えるようである。そのお顔はたぶんその時だけでも元気である。
 こんなことをするために人間は生まれてきたように思う。自分の得たいものを得て喜ぶのも一つであるが、他人が喜び、その喜びを自分が喜んでまた頑張るというのも一興である。いやいやこの方が生きる原動力になる。生きる力になる。自分がいることによって誰かが喜ぶ。それを力として生きる。良い生きかたではないだろうか。