被災者六カ月目の発言 PDF被災者六カ月目の発言
 謹んで東日本大震災で亡くなられた方のご冥福を祈り、ご遺族のお悲しみをお察しし、家を失われた方、仕事を失われた方、故郷を失われた方、それぞれの悲しみと困難の苦しみを想いお見舞いし、回復と復興がなりますように心からお祈り申し上げます。
 当連絡会は、五月二十一日に第一回の追悼と祈りと被災者の交流会を開始し、毎月交流会を重ねました。三十世帯約五十名の方が参加されています。「同郷のもの同士、東北弁で久しぶりに語り合い、ホッとしました」との感想のように、お互いの心を開きながら始まった交流か会ですが、半年を迎えるにあたり、各人が経験した困難とその時の想いと決心、そして現在の状況、心境、そして今、言っておきたいことを書いてまとめることとなりました。


 


テーマ
@、避難の様子と愛媛へ向かう決断やそのとき思われたこと
A、現在の生活状況や、現在抱えている問題と思い
B、将来への展望や期待など
C、国や、人々、東電、などに対して言っておきたいこと
D、被災者の会として主張したいこと

 約二十通が集まり、今後も継続して受け付けます。
 内容は、予想はしていましたが、大変真剣で深刻なものとなりました。
事務局 石手寺加藤俊生 


@水素爆発で急に恐怖が現実になった。脱出する人で空港も満杯状態。子供連れはリスクが大きすぎる。祖父が少ないガソリンで脱出計画。ギリギリ千葉まで到着。祖父母はそこに残り、私と子供たちで愛媛へ。子供には旅行、と言い聞かせ、私は気が張りっぱなし。松山に着いても残してきた近所の年寄りに片っ端から電話。困りごとは代理で市役所に交渉(全て断られたが。)でも、1、2週間で収まるかも、という期待は消えなかった。
A自主避難なので故郷の役所は「勝手に行ったんだろ」。と態度はもちろん、女の職員には口でも言われた。地元に帰れるタイミングを測ろうにもこれでは無理。
 年寄りだけが残って力を合わせて農家をやっているが、それを食べてよいか調べられる簡易検査機のようなものが各家庭に欲しい。この状況が長引く以上、汚れた土壌が回復する希望より、共有できる道を模索して欲しい。全てを国や市に要望するつもりはない。日本人1億人の知恵を出し合い、共存方法や除染の有効方法、色々集結してほしい。管総理をつるし上げるのはもう見たくない。揶揄するなら改善して原発を収束出来る人だけに資格があるだろう。逃げないで歯をくいしばって下さっている姿に感謝する毎日です。
B Aと同様
C 一つだけ言いたいのは九電だろうが四電だろうが、今の福島を収束できる智恵と行動力のある会社だけ原発再開すりゃ良かろう。現況を収束できる力もない人達が何を持って安全!と言えるのか理解しかねる。いざ事故がおこりゃ、あなたがたはかやの外。(安全だとテレビで言っている方々)現場の人達がかわいそうで申し訳ない。(私達だけが遠くに逃げてつくづく申し訳ない)
D主張は良い。(要らない)辛さを共有できる場があるのはそれだけで純粋でホッとする。避難者として暮らして数ヶ月、この頃、中東の人々で国を追われた難民や、そのキャンプを思い出す。人事ではなくなっている自分にハッとする。


 60数年の人生の中で我が身に及ぶ天災はあまり記憶にありません。私の住む一帯は岩城の国と呼ばれ、岩盤は強固なようです。海からも50km超離れており、台風が直接通過することもほとんどありません。冬の雪も昨今は少なく人が亡くなる程の災害は無く、大災害は全く他人事でした。3月11日午前中までは・・・
 地震後時間が過ぎる毎に被害の全容が判明し大きく報道されていましたが、原発のメルトダウンは一言も報道されなかったと記憶しています。
 3月17日早朝、小さな子供の居る娘と、妹夫婦に促され、自主避難を決意しました。
 3月22日から愛媛県松山市の市営住宅にお世話になり現在に至っております。数え切れない程の援助を戴き、御礼の言葉もありません。心より厚く御礼申し上げます。
 福島では余震こそ頻発しておりましたが住居周辺はインフラも問題無く、住むにはそれ程困難ではありませんでした。むしろ海岸方面からの避難者が多数来訪しており、人口増加でにぎあい始めた程です。避難者のお世話もせず、自らが避難した己を一時は責めることもありましたが、原発のメルトダウンが公にされてからは、松山市の避難は正しい判断だったと思うようになりました。幼い孫や子供たちの事を考えれば避難できた境遇であった事を幸せに感じます。
とは言え、我が家へ帰りたい気持ちは変わりません。特に85歳になる母の帰宅願望は強く、説得に苦慮しています。人災と言われる原発事故が身近で起こり、突然我が身に降りかかってきても逃げることしか対処法が見つかりません。情報も信憑性がなく政治も迷走しており収束の糸口も見えない状況にイラ立つこともあります。その気持ちを静め将来を冷静に考える機会を与えて下さった石手寺様と仏様の前で心を落ち着かせようと思っている昨今です。
@居住区の放射線量は1.04マイクロシーベルト/H 8月18日現在コンマ以下になったら帰宅したいと考えています。
 3月17日出発、車で日本海経由3泊4日で松山へやってきました。今考えれば出発が遅かったように思います。政府の発表を信じたのが甘かったと考えています。
Aおかげ様で快適です。毎に孫と遊んでいます。
B早期帰宅を望んでいます
C原発再開はくれぐれも慎重に願いたいものです。人間がコントロールできないものは使うべきでないと考えます。住めない国土が生まれることは経済活動以前の問題です。
D1、原発事故の早期収束(冷却安定状態)
 2、生活可能な環境の回復(除染)
 3、充分な生活保障(経済回復支援含む)
 ※被爆医療の専門医師及び器材を福島県へ集積する事を望む。将来は福島県が世界の被爆医療の先進地となるでしょう。


@避難したのは地震の翌日でどこまで逃げたらいいのか話しながら身をそして子を守る為に必死でした。
 「遠くへ逃げて生活を落ち着かせたい」という気持ちで家族で旅行気分で来ました。
 来た当初は1ヶ月くらいで落ち着いて(原発)帰れるだろうという考えでした。
A現在は団地生活にも疲れ、今後のことも考え、一軒家を借りて生活していますが、市が変わり県や市から支援が十分できてない事を知り、今後の生活費や仕事のことなどが問題として悩んでいます。
B将来は子供たちが地元に安心して帰り生活できるよう早めの復興と原発の事故が二度と起こらないよう大人が将来の展望や期待をいだいていくべきと思います。
C国や東電は隠蔽が多く今の危険さを甘く考えていていらだちを感じます。
 地元でどうしても生活をしたいという人は被爆することを分かっていながらも避難できず辛い思いをしています。
 私の親も弟も半分あきらめ、今の生活を支えています。
 早めの避難、避難後の支援ができていればよかったのではないかと思います。
 地元のみんなは生き地獄だと思います。
D被災者の声を国や東電に伝えられればいいです。


@人生初の避難は3月11日。津波からの避難。高台の畑にある農作業場で近所の3家族とともに余震におびえながら一夜を過ごした。
 3月12日の早朝、地域を一巡。あったはずの集落が丸ごと無くなっている。津波の被害の大きさに現実感を失いそうになるほどだった。この時、知り合いの老人が田んぼをながめながら泥水をなめ「大丈夫だ。田植えまでには間に合うべ」と言っていたことが忘れられない。8時過ぎ白い防護服を身にまとった人たちの指示により原発からの避難が始まった。小高区から原町区へ、この日の夜には放射性物質から逃れるべく郡山市まで逃げた。
 その後、3月15日にはさらに会津若松まで避難。3月下旬の官房長官の「長期化の見通し」の発言を受け、松山市への避難を決めた。当初は1ヶ月程度、子を安全な地で学校に通わせ、自らも自然農法を学び、意味ある避難生活を行う為の松山避難だった。
 松山に来るまでは「混乱」と「不安」、国・東電に対する「いかり」の毎日だった。
 少し「むかっ」とするほど、松山は平和で、人々に危機感がなかった。それが松山に来て初めて感じた事。
A早期に帰れることを期待し、ただただ待っていた非難生活から愛媛で自立し人生を再出発させる新生活へと自らの状況を変える事にした。
 まずは、福島で送ってきた生活に近い形に戻す。そして再びわが道の続きをゆっくりとでも歩み続けたいと思っている。
 新生活を始めるにあたっての問題点は「お金」。
 専業農家として再出発させるには様々な費用がかかる。今年だけでもざっと200万円。どこまで賠償してもらえるのかが問題である。
B私は愛媛で福島の続きをすることを決めた。期間は20年。
 農業を続けながら安全な地で子を育てる。そして20年後どんな形であっても福島に戻りたいと思う。
 政府が明確な帰宅の見通しを立て、的確な支援策を講じなければ個々人が独力によって自らの展望を見いだすのは難しい事だと思う。
 それに本当の意味で日本が将来の展望を見いだすためには、原発の存在しない社会が生まれることが絶対条件だと思う。
 将来への期待は、二度と私たちのような人々を生まない時代が早期に訪れる事。
C国に対し→原子力災害の避難基準となる放射線量を低く設定し直して欲しい。これからを担う子供とこれから生まれてくる子供の未来を守って欲しい。
 東電に対し→国策として進められてきた原子力政策におどらされてきた東電という意味では最大の責任は国にあるのだと思う。しかし、もちろん東電の責任も大きい。我が身を守ることに懸命になるのではなく生きる場を奪われ、苦悩の中にいる人々を救うことをまず第一に真剣に考えて欲しい。
 人々に対し→「明日は我が身」とはどうしても思えないものなのだろう。私もそうだった。しかし、「他人事」としてではなく「我が事」として考える努力だけでもして欲しい。福島の未来と子供を救ってほしい。
D被災者一人一人の力は小さく、声をあげることも、その声を届ける事も難しいと思います。
 被災者の会として主張したいことは被災者同士が言葉を交わす事で自然にでてくるものだと思います。
 連絡会はその皆の意見を聞きもらさず集約し伝えるべきところに伝え、「生きる場」をつくり守っていかなくてはなりません。


@仕事中、地震に遭う。その後、崩れ落ちた国道を避け、県道や林道を抜け家へ急ぐ。両親、祖母、二人の息子の無事を確認。妻はまだ仕事場。次の日の昼頃、二葉町防災無線の指示通り、福島県川俣町に避難。大渋滞でかなり時間がかかったが午後5時頃到着。次の日、妻を探しに避難所を巡り、やっと再会。その後親戚のいるいわき市小名浜に家族で避難。翌日、息子二人と妻の4人で羽田空港に向かうが給油渋滞と道路の破損の為、到着せず、翌日の飛行機で息子2人と妻が愛媛に向かう。自分は車も持っていかなければならないので2日後船で愛媛を目指す。やっと松山の妻の実家で落ちつく。二葉町で生まれ育ったが原発から5kmの警戒区域、周辺に戻れたとしても本当に戻りたい古里には帰れない。残りの人生は西日本で生きていこうと決める。
A現在は県営住宅を出て松山市内の借家に引越ししました。借家の家主が知人ということもあり、家賃は半年間無料にしていただきました。半年後、家賃を払いながら生活していけるか少し不安です。仕事もはじめたばかりなので収入も以前と比べたら半減していますし、子供の幼稚園料などいろいろと大変かなと思っています。
B二葉町に帰って生活するのは無理だとしても自由に入ることができ、物をもちだせるようになって欲しい。
 子供たちが大きくなったら夫婦2人で双葉町に帰って自由な生活ができればと思っています。20、30年後の話でしょうか・・・
C二葉町にある田、畑、山、自宅などを買い取ってほしい。たとえ除染したとしてもこの土地で作った農作物を人々が買うとは思えない。
 愛媛県内でも他県のように民間借上げ住宅の特例措置をとってもらいたい。
D県に民間借上げ住宅の家賃補助をしていただけるようにお願いしたい。
Eその他
 交流会のメンバーの中には子供たちもたくさんいますので子供たちが喜ぶイベントを考えたらどうかと思う。


 先日の6月16日の百ヶ日供養、野垣弁護士の説明会それに被災者との交流が出来、感謝の気持ちでいっぱいです。3月4月5月に続き記録します。
6月1日〜30日まで
1、愛媛県より―夏の見舞金
2、ヘアーサロンおおきた(牛渕団地)より―梅ぼし
3、石手寺より―5月21日 米10キロ酒1升食事
        6月16日 米10キロ食事
4、愛媛県より―カニの食事券
以上を6月中に多大の支援を受け心より御礼申し上げます。

@3月11日午後2時46分震度7強の地震が約4分間なりやまず、それにより家屋の内外が損傷しました。また、3月12日に原発の爆発事故を友人から聞きました。翌日その友人が原発から30km圏内なので避難するとの連絡を受けました。私の息子は子供の放射能汚染を恐れ嫁の叔父(八幡浜市在住)をたより、息子、孫といっしょに愛媛に向かいました。
A現在妻が体調不良であるため内科、歯科、眼科、耳鼻科、整形外科と通院しております。東温市は医療、交通、買物などが整っており、また福島県いわき市はいまだに地震が発生しているということなので9月16日で終了する住宅の申し入れ期間を1〜2ヶ月間、延長できるよう県に相談しようと思っています。
B地震が収束し、放射能が弱まりマスクをかけず外出できる福島になるよう期待するばかりです。
C私達は高齢者なので放射能に対しては少々我慢出来るが子供たちは将来があるので安心安全の原発を心から願ってやみません。
D放射能に対する対応がはっきりしない国や東電は基準を早急に作成し、国民に周知してほしい。


@3月11日震災当日は自宅の駐車場の車の中で過ごしました。翌日避難場所へ集合してもバスが来ないと言う事で自主避難と言われ288号線から郡山方面へ、途中、田村市総合体育館(田村市)へ到着しました。私と子供3人と犬と9日間、体育館で避難生活をして3月12日にやっとおにぎり1個とお水を頂きました。一週間目に自衛隊の方が作ったお風呂に入ることができました。生活用品や食料も入ってきてボランティアを募集して(避難所の中で)皆で掃除や物資運搬、ゴミの片付けなど子供からお年寄りまでの方が協力しあってアイディアを出し、改善しながらの生活でした。実家から帰っておいでと連絡があり4人で相談して帰ることになり、福島空港から伊丹経由で松山へ帰ってきました。あのまま、他の方々といっしょに生活して移動した方が良かったのかと今でも複雑な気持ちです。
A子供たち3人は学校や仕事が始まるので順番に福島へ帰って行きました。犬がいっしょに住めないので今は一人で住んでいます。いっしょに住める所で今、仮設住宅の申込みをしています。抽選で当たれば、福島(いわき市)へ帰ります。
B震災と原発事故での避難で、立ち入り禁止区域内ですので、落ち着いて住む場所が決まるまで何年もかかると思います。
C被災者への保障をよろしくお願いします。


@震災の後の交通網(高速、在来線、新幹線等)がすべてストップしガタガタになった国道を車で移動しました。ガソリンなどの物資もなく不安でいっぱいでした。
 先行きがみえず今後どうしたらよいのか悩み、いくつかの自治体に避難の受け入れの問い合わせをした所、愛媛の窓口の対応が温かく思い切って行ってみようという気持ちになりました。
A二重生活なので地元に残った主人の心配と自分自身の健康にも不安を感じています。
B愛媛の皆さんには本当によくしていただき感謝しています。子供の就職、安定した収入の確保ができればと願っています。
C食べ物の安全確保に留意していただきたいと思います。子供は国の宝です。みんなが安心して暮らせるよう尽力していただきたいです。
D毎日あっという間に時間が過ぎていきますが時々地元のことを思い出しさみしさを感じることがあります。被災者の会で同じく地元を離れている皆様をお話していただく機会に慰められています。




@3/11勤務中(東電独身寮)に被災、翌日12日「とにかく西方へ避難して下さい」という町の放送による指示のため、数人の寮生、スタッフと共に田村市の体育館へ避難しました。その夜はじめて災害の全体像を知り、驚きと同時にある意味覚悟を決めた様な気がします。
 2日位して、会社や子供、親戚、友人と連絡がとれはじめ、とにかく一度愛媛に帰ろうと決心した。寮生(未成年含む)の行き先を確認し、新潟へ非難する方の車に同乗させてもらい3月17日新潟のホテルへ着きました。
 張りつめていたものが切れたのでしょうか?一週間ぶりに入ったお風呂の中で声を出して泣きました。「ごめんね私だけ逃げて、私だけお風呂に入って、私だけおいしい食事をして・・・」ビールを飲んでる主人がなぜか許せない様に思えて、ケンカをしたのを覚えています。3月18日夜、松山に着くまでずっと目頭が乾くことはありませんでした。
Aここ数ヶ月は、家賃と医療費が無料ですし、国民健康保険料と税金の納付が猶予されており当面の生活に困る事はありませんが、6月末で解雇となり、大学生の息子の仕送りもあと1年半、夫婦共に病をかかえながら、わずかな蓄えとわずかな年金で、果たして食べていけるかなあ・・・と、心配事を数えるとキリがありません。
 でも、先日ご住職から、「幸の原点は、日々の食事ができること」だと教えて頂きました。もし、私達がスマトラ沖地震の被災者だったら、もし同じ日本でも昔の民であったら、5ヶ月経った今、果たしてどれほどの人々が生きているだろうか?そして生き残った人々と悲しみと苦しみの深さを想像すると、現在の私達のなんと幸せな事か。
 多くの方々の支援や励ましに心から感謝すると共に、いつまでも甘えてばかりではいられない、しっかり自立して、つつましく生きていこうという思いを強くしています。
B「経済は一流、政治は三流」ずっと云われてきましたが、その経済も、円高や空洞化で三流に?その上この大震災、どちらを見ても期待など出来ません。世界同時株安出口はどこにもない様な気がして、これからの若い人々は大変だなあって、心底心配しています。
 ただ今までは気付かなかったんですが、若い人達の中で価値観の違う生き方をしてる人が増えている。損か得かとか、勝ち負けでなくて「どう生きるか」を基準にしている若者が増加している。そして彼らはこの大震災を経験し、たくましく大きく成長している様に感じています。彼らがきっと、経済的に豊かではくても、心豊かな幸せな国に方向づけてくれると信じています。
C政府、東電、自治体それにマスコミに対しては、もうそろそろ耳障りのいい標語のような言葉や報道は終わりにして、本当の事、総ての事を前提にした現実的な対策と報道をお願いしたいと思います。
 地震と津波の被災者は、家族や資産を根こそぎ失うという残酷な現実と向き合いながら、少しずつ自分の力で未来を切り開こうと立ち上がる姿が報道されますが、原発避難者の中からは、そういう姿がほとんど報道されません。
「もう帰れない、元どおりの生活は無理」という現実を受け入れるところからしか再出発できないのに、誰もその現実には触れようとしない。触れたとたんに受けるバッシングを恐れて・・・そんな現状が悲しくてたまりません。
 自治体は、町を守る事より、住民の未来の幸せを考えた対応をしてほしい。
D県によって支援内容が違い、そのため自立支援となりにくい場合がある。たとえば住宅については他県では借家アパートについての補助金があるし、家電についても赤十字より新品が送られるが、これらもすべて各県の対応に任されている事等を整理し、キチンと要求して、本当の自立支援とすべき。また、自主避難の方達は、むしろ早く家族一緒に生活できる様、徹底除染の要求と共に、まだ避難できずにいる子育て中の方々に対する、経済的支援(住居の提供、家財道具の貸与等)受け入れや、期間延長を要求が中心になると思います。


@栃木県足利市に住んでいました。地震でひどく揺れましたが、どうにか家は無事でした。家にテレビが無かったので、インターネットで調べるうちに事の重態さが分かってきました。娘が小学1年生だったので妻に避難をせまられましたが、中古住宅を購入したばかりだったので悩みました。しかし、金銭の問題ではないと判断し、車に積めるだけの荷物をまとめ、家に目張りをし、勤め先に仮病を使い3/13に出発しました。前日、偶然にもガソリンスタンドで20分待ちで満タンにできていてラッキーでした。当日はどこのスタンドも「売り切れ」の看板が出ていて休業中でした。最初は長野の友人宅で一ヶ月程様子をみて帰れればいいな、なんて話しながら長野に入った頃にまた爆発のニュース。予定を変更し、とりあえず徳島県に向かいました。それまで政府には何も期待はしていませんでしたが、対応のひどさに本当にがっかりしました。ローンの事、生活の事、健康の事、全てに不安でした。
A1ヶ月ほど四国を周り、4ヶ月ほど内子の自然農園さん宅で滞在させていただきました。8月にやっと借家が決まり、やっと落ち着きました。が、まだ栃木県の家に荷物が沢山残っているので、なかなか整理できずにいます。
 冷蔵庫と洗濯機の無い暮らしはキャンプ生活に近いかも知れませんが、なるべく楽しんでいます。以前から健康に気遣ってきましたが、今は放射能汚染に脅かされ生きているのがやっとです。
B内子町では役場が主催する「持続可能な町づくりについて」の集まりが、先月から始まりました。月1回を目標としているようです。自分を含めた移住者の多くはエネルギーの自給を主張しています。
 今は東北の瓦礫処理問題に注目しています。内子町でも政府からの質問に対し、「受け入れ能力あり」と回答した為、有志で集まり町長に陳述をしに伺いました。給食問題と併せ回答書をいただきましたが「福島県のものは受け入れない」との事。近県のものも被曝しているので拒否して然るべきです。
 産廃業者の受け入れも心配です。一旦受け入れてしまえば地域全体が被曝してしまいます。愛媛県全体で考えてほしいです。伊方の事も含め県知事の人間らしい対応に期待したいです。
C先日の泊原発の再稼動、もんじゅの事など、怒りを通り越し、あきれてしまいます。インターネット規制法案などの隠蔽工作に必死ですね。負の遺産を残し続ける事に対し、子供達に対して本当に申し訳ないです。このままテレビや学校教育の洗脳行為に甘んじていると、人々の無知はどんどん広がっていくようで心配です。
 今こそ人と人とのつながりを大事にし、大切な情報を共有していく場をみんなで楽しむことが、明るい未来を作る第一歩に思えます。国や東電に対し言いたい事は山ほどありますが、地域やコミュニティ同志で必要なものが交換し合える社会を少しずつ実現できたらなあと思っています。
D被災者、避難者でなければ伝わらない事は沢山あると思います。
放射能の怖さ、原発は人間、自然と共存できないという事。日本の原発を、世界の原発を、全面停止し、それでも幸せに暮らせる事を主張できたらいいですね。
 原発を止めることは地球を救う事だと思います。そしてそれは太陽系、宇宙を救うことだと思います。またそれは循環型社会を楽しむ事だと思います。それを主張したいです。
 いつもお知らせをいただいているのにまだ一度も被災者の会に参加できていません。申し訳ありません。次回こそは、と思っています。楽しみにしています。訳あって車の助手席で書いている為、乱筆お許しください。


@3/14日に福島から名古屋行きの飛行機に乗りました。名古屋行きの飛行機しか空いてなくてそこから広島の親戚のところまで行き、翌日広島から松山に来ました。両親や主人と離れて10ヶ月の息子と2人で避難するか本当にギリギリまで悩みました。子供の身体の事を考えると避難するべきだけど原発がまた爆発して最悪の場合、主人や両親とも会えなくなるんじゃないか?とか一人で慣れない環境で子供を育てて行けるのか?という不安で涙が止まりませんでした。飛行機もこれを逃したら次は無いかもしれないという極限状態でした。あの時のことを思い出すと今でも悲しくなります。空港まで送ってくれた母と別れたとき本当に辛くて震災前のなにげない毎日がとても幸せな日々だったと気がつきました。
A・自主避難なので任意の予防接種が受けられない。子供の医療費を県外にいるという理由で立替。福島県や国、東電からの補償もなければ受けられるはずの行政のサービスはまともに受けられません。でも住民税の納付書は当たり前のように5月に届きました。今、主人が郡山、私と子供が松山の二重生活をしている状態ですが二重生活でも大変なのに医療費の立替や予防接種の実費は金銭的にきつい。
・国が郡山市や福島市を危険と認めてくれないので夫婦間で意見が合わず関係に溝ができてしまった。ちゃんと危険と認めて避難するように国が指示するべきだと思う。
・こんなに汚染がひどくなってしまって原発事故がたとえ収束(放射能もれがなくなる)して空間線量が下がったとしても森林や土壌汚染のことを考えると、いつ福島に戻っていいのかわからない。
C・放射線量が高くても避難区域に入ってなければ安全だと言うのであれば東電の役員や政治家が避難区域ギリギリの所に住んで安全を立証してもらいたい。国や東電のいう安全とはなんですか?
・数ヵ月後に実はあのとき放射線量が高かったとか実はメルトダウンしてたとかその時、言ってくれれば無駄な被爆をしないですんだのに。もうこれ以上ウソはつかないでもらいたい。
・東電は避難区域の住民に支払う賠償金の内訳に精神的損害の金額を入れていたが精神的損害を受けたのは避難区域だけじゃない。原発事故で線量が何十倍になった地域にも損害金を支払うべきだ。
・原発事故は福島県民のせいで起きたものではないし、恩恵をうけていたのも本当に一部だけです。なので福島県出身、福島から他県に来たからと言って差別しないでほしい・・。放射能はうつりません。親がしっかり子供に教えるべき。
D・任意の予防接種を県外でも受けれる(助成してもらえる)ようにしてほしい。
・中通り、浜通りの避難区域外でも線量の高い地域(0.6マイクロシーベルト以上)は避難できる人はするように国が危険と認めて指示して欲しい。最低でも妊婦さんや18歳未満の子供とその親は避難させてほしい。
・放射能汚染や県民の実際の被爆量を隠さず公表してもらいたい。
・震災ででた瓦礫の処理も、放射線量が高いから福島で処分してくれというのをニュースで見たが、福島で処分というなら国が土地を買い取って処分場を作ってその数十キロを一生立ち入り禁止にして人を住まわせないほうがいい。


@今まで生活をしていた故郷を離れる寂しさと東電や国、郡山市に対しての怒りと悔しさ、会社を辞め、愛媛での生活に対する不安
A無職であるため今後の生活への不安
 定職につくことができるか不安
B愛媛に就職して永住したい。
 愛媛にて新しい家庭を築きたい。
C国・福島県・郡山市には自主避難者への生活支援をしてほしい。
 東電には避難区域者への賠償の次に、退社して生活の糧を失った事、また、移住にかかった費用、精神的苦痛等、自主避難者への賠償をすみやかに。
D福島県は生まれてから県民として暮らしてきた自分たちへの県としての責任をまっとうしてほしい。


@電気もガスも水道も止まりお店は復旧しないし、お水も一日の量が決まっていて役場まで取りに行かないといけないし・・・。このままでは子供たちが食べるものがなくなって生活できないという不安がつのってきました。両親も「早く帰ってきて」と電話で話したり「原発も津波も地震も危ないからすぐにでも松山に向かって」と泣きながら言っていました。放射能のことも大変気になるので避難しました。余震も耐えれませんでした。その夜は駐車場のなかで布団を敷き詰めてみんなで寝ました。
A父親(主人)は茨城で一人暮らしています。
今は子供3人のうち上の2人が夜寝るときに「お父さん」と泣きながら叫ぶことがたまにあります。「家族なのに何で離れて暮らしてるの?」と9歳の長女は言います。なだめてはいますがこちらまで不安になります。
 生活は主人のお母さんとお姉さんも一緒に暮らしているし実家もこちらにあるので不便はないです。もっと苦しんで困っている人達がいますので私達は幸せだと思います。色々な人に助けられているなあと実感します。
B原発をなくして、もしくは安全になるまでは稼動させないでほしい。
C一人一人の健康を一生涯保障して欲しい。
 被災された方のカルテをずっと保存したらいいと思う。もし何年後かにがんになったり、体に異常があれば責任をとるべきだ。
D被害にあった人の生活がきちんと戻るように日々努力してほしい。
 もう二度とこのような事が起きないように願うばかりです。



@仙台の者です。
 生後半年の子供がおり、すぐそこまで津波がきたところで余震におびえて過ごしていました。原発の異変はラジオで知りましたが外に出なければ食べ物もガソリンも情報も手に入らないのでできるだけ夫のみが出る形でいましたが、それでもやはり爆発時に仙台に居たことが子供にとって本当に大丈夫か不安が残ります。
 夫は仙台へ越して3ヶ月と間もなく頼れる人どころか知人の一人もいない中での被災でしたので、10日目に我が家に電気がきて地元の家族や知人と連絡がとれてすぐに子供を連れて一旦実家へと帰ることになり、何とか手に入れたガソリンと友人がとってくれた飛行機のチケットで、その翌日に、夫のみを仙台に残し避難しました。1ヶ月程で帰る予定だったのですが、原発の予想を超える状態にそのまま留まり今に至ります。
A私は自分の実家で過ごしていますし、仙台の家も失ってはいません。(車は流されましたが)
 福島から仙台へ避難される方もいらっしゃるくらいですし、本当に大変な方々に比べると申し訳ないほど恵まれた状態にあると思っています。
 子供がいなければとっくに仙台に戻っているでしょうが・・・。
 私は専業主婦で、子供はまだ学校等もないため、土や食べ物の安全が不確かな今は、子供(乳幼児)の健康を優先し様子をみているところです。
B子供が無事大きく、健康に育ってくれればいいです。そのうち次の子を授かり、元気に生まれてくれれば・・・
Cまずは心配して手を差し出して下さった皆様に御礼を申し上げたいです。また、避難所を支えて下さった方々、ご近所の方々、皆様とても温かかった。感謝しています。
 東電―何でもいいから頑張ってください。よくない兆候があればどうか事前に言って下さい。
 国―乳幼児など、より影響を受ける子たちにとって本当にどこまでが安全かなどもっとはっきりさせてほしい。地上50cmで測っても50cmの高さで遊ぶわけではありません。土が口に入ることがあっても大丈夫なのはどこからなのか等不安はつきません。食品も一部でも時々でもなくもっと全てをしっかり調べてからなら安心であるし、東北だからと敬遠されることもなく復興にもつながるのではないでしょうか。
 とにかく乳幼児、妊婦さん等弱者にあわせての安全安心を求めています。「ただちに影響はない」ではなく「今後長期的にも影響はない」でないと困るのです。健康は何にも代えがたいものです。大げさなくらいに対策して下さい。スピードアップして下さい。次世代のことを考えて全て進めて下さい。
Dたくさんの方が心配してくれました。
 たくさんの方が手を差し出してくれました。
 感謝しています。
 いつも被災者の会の案内を下さりありがとうございます。一度も参加せず申し訳ありません。子供が幼い事もありますが、私は仙台からという福島に比べるとずっとマシな所にも関わらず、人からみれば大げさと言われるかもしれない避難をしている事。また、実家の為、不自由もなく友人たちも近くにおりこのような身で行くのは申し訳ない、皆様の中でいたたまれないという思いがあったからです。・・・(ですが土も食品も怖く、やはり慎重に動きたいと考えています)資料、興味深く拝見させていただいております。被災者の方々を支えて下さり頭が下がります。こちらのスタッフの皆様にも感謝致します。


@三月十四日に福島を車で出発。とにかく少しでも早く子供たちを遠くに連れて行かなくては。と思いながら東京くらいまでは車の窓を一切開けずひたすら車を走らせました。子供の将来の事を考えると避難するという事しか頭に浮かばなかったのです。
A現在の生活状況は子供たちも生活に慣れてきたようだがやはり、どこかでがまんや環境の違いからストレスがたまるようでイライラしたり下痢をしたりする時がある。3歳の子供は夜泣きを毎日のようにする。
Bやはり福島が大好きなので子供たちがマスクもせず、何も心配せず生活できるようにして欲しい。
C国も東電も私たちをばかにしすぎている。今になって3・11にメルトダウンしていたとかいろいろ出てきているが自分たちだけの身が守られればイイとか勝手すぎる。福島市も決して低い放射能の数値ではない。住み続ければ必ず危険なはずなのに郡山も福島の人たちは見捨てられた感じ、逃げたい人は勝手にどうぞと言われている感じがする。


@気仙沼で家屋が流失しました。大型犬がいる為に避難所には行けず近所の知り合いの家で10名(二家族)がお世話になりました。流れずに残ったユニットバスを地元の人達がロープをかけ盗もうとしたり配給のおむすびを放り投げられたり数々の辛さを味わいました。
 3月31日から船橋市(千葉県)の一戸建てを借りて住みましたが、県外へ出たという事で支援はありませんでした。(家賃、生活用品等)近所の方々の暖かいご支援で何とか暮らしましたが、借りの住まいでの生活は落ち着かず、さらに夫がガンにな
る、私も血圧が高くなり血尿が出るなど、体調をくずし、何とか家を見つけなければと毎日パソコンで家探しをいたしました。犬がいるので条件が狭くなり、家賃も高く東京など都心は無理と判断しました。沖縄から北海道まで考えたのですが、病気の夫の手を考え、夫の故郷である松山市を選択いたし現在に至ります。しかし、いざ住んでみると話し相手もいなく言葉にも慣れず、マンションにこもり涙するばかりです。借金をして来たので仕事を探したいのですが夫が手術をひかえているのでままなりません。がんばらなければと言いきかせています。でも、何もかも無くし、年をとって新天地でのスタートはなかなか辛いものがあります。

C東京で40年近く暮らし母の介護の為、仕事や住まいを整理し気仙沼へ移住したのが2008年12月です。2009、2月に母が死に家屋のリフォームなどしながら田舎の生活をたのしんで来ました。家は私で17代目でした。土地は地盤沈下で住めそうもありません。
 何とか国が買い取る方向で考えてほしいと思っています。指針を早急に発表して欲しいです。それから義援金も何の音沙汰もなくなりました。
 いったい何がどのように進んでいるのか? 県外に出るとわからない事ばかりです。松山市には五回支援について問い合わせをいたしました。最後の問い合わせは7月でした。引っ越しは八月九日です。その後このような支援のかたちがある事を聞きとても残念に思いました。正直、ひとすぎると悲しみました。

D石手寺で東日本や福島原発被災者の供養があると知り、出かけました。
 お坊さんが20名位でお経を唱えられて、私達も手を合わせておりましたが、地元の方々がうるさく、また笑い、お経が聞こえず注意したのですが無視されました。やはり当事者でなければこの辛さは理解できないのか、とあらためて思い知らされました。


@三月十二日原発が爆発しました。目に見えない恐怖と子供達を守らなければいけない!それだけ考えました。自分達の車にはガソリンが無く何処のガソリンスタンドも閉まっていた。諦めてた所、母が車も貸してくれました。十三日いわきを離れ東京を目指しました。途中ガソリン渋滞で前になかなか進まず約十時間かけて東京の叔母の家にたどり着きました。十五日東京も危険ということでさらに西に向かいました。何処に行くのか先行きがみえず、とても不安でした。
 静岡、三重とホテルに泊まり受け入れ先を探しました。私達は自主避難なのでいろいろな自治体に直接問い合わせましたが罹災証明や国の指定避難区域外の為、断られてしまいました。弟がネットで愛媛県は受け入れてくれると知り、最初は遠いし迷いましたが離れていれば安心と思い行く決断をしました。愛媛県に来て余震や原発の恐怖から解放され少し安心しました。そして同じ日本なのかと驚きました。それだけ福島は不安と恐怖しかなかった事。普通の日常がどれだけ幸せだったのかと思いました。余震で子供たちは夜も眠れずでしたが、安心して眠れるようになりました。
A愛媛県の西条市、新居浜市、内子町などが被災地の瓦礫受け入れ可能と回答したみたいだ。
 西条市役所に問い合わせをすると、今の時点で瓦礫が送られてくると決まっていないし遠いのでおそらくこないのではないかとの回答。もし決まったらどうするのでしょう・・・
 燃やしても放射性物質は消えないし愛媛の大地が汚染されてしまいます。安心して生活したい。それだけなのに・・・
B子供たちが健康に育ってくれれば。愛媛で安全な水、空気、食べ物を食べさせる事ができて幸せです。子供が大人になったら夫婦で地元に帰るのが希望です。
C暫定基準値をいつまで使い続けるのか。なぜ、暫定基準値内でND表示できるのか?自分たちは子供を守りたい!
 東電は保護する必要があるのかすら疑問です。
 人々に対して。私も原発事故が起きる前は知りもしませんでした。愛媛県も原発があります。いつ地震が起きて福島の様になる可能性だってあります。なってからでは取り返しがつきません。みなさんにもっと関心をもって欲しいです。

 連絡会では八月二十七日会合で右意見をとりまとめ、要望書を作成、後日愛媛県に緊急の三項目要求と要望書提出、記者会見し要望を提示し訴えました。

@被災者の声を国や東電や人々に伝えたい
A放射能測定と情報開示、避難区域の正しい策定など認識提示のお願い
B責任ある補償と生活支援のお願い
C原発に対して

また、自主避難者に対して生活支援や賠償がなされるように決議しました。

文集を拡充していきます。原稿をお寄せください。
また、ホームページにも載せたく、ご意見をお寄せください。発行
東日本大震災愛媛県内被災者連絡会
事務局 石手寺住職 加藤俊生
松山市石手2-9-21?089-977-0870
東日本大震災:「元に近い生活環境を」 県内避難者団体が県に要望 /愛媛

 東日本大震災による県内への避難者らでつくる「県内被災者連絡会」は21日、民間賃貸住宅の借り上げ無償提供制度の導入▽被災者同士の相互交流の支援▽生活家電の支援−−の3点を県に緊急要望した。メンバーらは「元に近い生活環境を取り戻させて」などと切実な思いを訴えた。県は「検討し適切に対応したい」とし、明確な回答は示さなかった。

 借り上げ制度は、県が民間物件を借り上げ無償提供する。公営住宅に比べ場所が選べるなど自由度が高く、都道府県の約半数で導入されているという。

 連絡会の渡部寛志代表(32)が「収入が途絶え、家族と別居するなど過酷な生活をしている」と会員らの窮状を伝え、県保健福祉課に要望書を提出。渡部さん自身も民間物件で暮らし、「『甘えるな』と言われるかもしれないが、避難前と少しでも近い生活をしたい」と訴えた。同課の担当者は「用意した公営住宅354戸には空きもあり、対応できると考えていた。不十分な点があれば検討したい」と述べた。

 被災者交流支援では、連絡会事務局を務める石手寺の加藤俊生住職が、県内約250人の避難者のうち、会への参加者が約50人にとどまることを説明。「生の声が届かないと参加につながらない。避難者の情報を教えてもらうか、県が会を組織するかしてほしい」と要望したが、同課は「個人情報の提供は難しい。県から案内文書を送ることはできる」と答えるにとどめた。

 家電支援では、日本赤十字社による生活家電6点セットの提供を、自主避難者などへも適用することを求めた。【中村敦茂】
毎日新聞9/22