懺悔の文
未だ善と悪とをわきまえず、われ知らずして湧き起こる『ものほしさ(貪欲)』と『いかり(瞋)』と『ごうまんな無反省(癡)』によって、生み出される身と口と意の誤りを、われ、今、悔い改める。
三帰(弟子某甲 尽未来際 帰依仏 帰依法 帰依僧)
仏(苦しみのない生き方の実現者)と、法(その歩むべき教え)と、僧(ともに歩む仲間)とに、心から尊敬し、よりどころとする。
人身受け難し、今已に受く、仏法聞き難し、今已に聞く。この身今生に於て度せずんば、更に何れの生に於てかこの身を度せん。
十善戒
弟子某甲 尽未来際 不殺生 不偸盗 不邪淫 不妄語 不綺語 不悪口 不両舌 不慳貪 不瞋恚 不邪見
開経の文
無上甚深微妙の法は、百千万劫にも遭い遇うこと難し、我今見聞し受持することを得たり、願わくは如来の真実義を解したてまつらん。
仏説摩訶般若波羅蜜多心経
観自在菩薩行深般若波羅蜜多時照見五蘊皆空度一切苦厄舎利子色不異空空不異色色即是空空即是色受想行識亦復如是舎利子是諸法空相不生不滅不垢不浄不増不減是故空中無色無受想行識無眼耳鼻舌身意無色声香味触法無眼界乃至無意識界無無明亦無無明尽乃至無老死亦無老死尽無苦集滅道無智亦無得以無所得故菩提薩た依般若波羅蜜多故心無け礙無け礙故無有恐怖遠離一切顛倒夢想究竟涅槃三世諸仏依般若波羅蜜多故得阿耨多羅三藐三菩提故知般若波羅蜜多是大神呪是大明呪是無上呪是無等等呪能除一切苦真実不虚故説般若波羅蜜多呪即説呪曰羯諦羯諦波羅羯諦波羅僧羯諦菩提薩婆訶般若心経
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人の心は、行いに現れる。行いを正すとき、人は、おのずと道(幸福)へと導かれる。
発菩提心真言
おん ぼうじしった ぼだはだやみ om bodhicittam utpadayami
オーン われは菩提心を、起こさん。菩提心とは、あるとき一つの心が起こる。「自分はこのままでいいのか? 湧き出ずる欲望にまかせて生きていたのでいいのだろうか。より良く生きん。有情とともに歩まん、生命を大切にせん」と。
三摩耶戒真言
おん さんまや さとばん om samayas stvam
オーン まさにほとけと同じにならん どうかより良き心よ、我に生じたまえ。
開経偈
如常 今仏の法を聞く。さとりが生じますように。
我々が、実際に、『ある』と思っているもの、例えば、この世とか、私とか、他人とか、物とか、というものは、果たしてそのようにあるのであろうか。たしかに有るのではあるが、それは、我々の心を離れてとらえられるものではない。実際にあるにはあるのであるが、ひとり物が存在したり、ひとり心が存在したりするわけではない。こころ豊かな人には、物も豊かに語りかけて美しく、こころ貧しい人には、物も暗く映る。私が、今、見ているもの、思っているもの、感じているものは、私が、今、まさにこの世と『かかわっている』、その『ありさま』なのである。『そのもの』は存在しても、見られた形がそこにあったり、快い美しさがそこにあったり、いとしい可愛さがそこにあったり、いわんや、『自分のもの』であるそれがそこにあったりするものではない。
「私にとってこそ」、それらのものは、美しくも、醜くもあり、その形をしてその場所にあるのであり、また、「そのものであるからこそ」そのものは、そのものならではの仕方で、とらえられているのである。この意味で、「とらえられたもの」とは、私の心の豊かさであり、「私の心」は、ものに映し出されるのである。
私の『思い』(意識)また私が思っている『住んでいる世界』というものは、『深い深い私』と『世界』との『かかわり』であり、私は、『私そのもの』を知ることもできないし、『世界そのもの』を知ることもできない。ただただ私は、その中にあって、『世界』を解釈し、逆に、「世界とはこの様なものである」と思いなして、その自分で想定した『住みかとしての世界』に安住しているのである。たとえば、
食欲深きひとは、おいしい食べ物と、食堂を中心として世界を描き、
慈悲深きひとは、人の心に感じて、喜怒哀楽の世界を友にする。
この『住みかとしての世界』は、ひと(また生き物)さまざまであって、その人の、人となりによって仮に完成されて、それぞれに、その人の『欲望の遊び場』を提供している。 これが『空』なる世界の一面である。
世界の『枠組み』は、そのひとの信ずる世界観によって組み立てられ、
世界の『彩り』は、そのひとの心の豊かさによって感じられる。
しかし、この根底にあるものは、私が人間として生まれたこと、
私が、私の経験によって育ったこと、このことである。
つまり、私を生き続けさせ、支えているもの=『私にもわからない私』こそが、私をして、世界を成り立たしめているのである。
ここにおいて、『私のとらえている世界』は、『空』=私による私だけの世界であって、
普遍性を持たない。また、それは、ことに私の『深層の何か』=身体的欲望と、『そとの世界』との、『かかわり』であって、『空』=もちつもたれつ、ひとときもとどまることがないのである。
だから、我々は、真実を見るために、自分自身を越えなくてはならない。それは、『深層の何か』=欲 煩悩 無明 渇愛 身体 経験 記憶 習慣 菩提心 慈悲 を変化、成長させることである。
また、我々の心、意識というものが『ひとり』存在しないように、
あらゆるものは、何一つとして、単独にひとり存在しているものはない。すべて、ありとあらゆるものは、他のもの、まわりの世界と、相互に、関わり合うことで成り立っている。というより、何一つとして、この世界から、それだけを単独に取り出せるものはないのである。この網の目のように、互いに、もちつもたれつつながった世界で、あらゆるものは、流動しつつ、価値(それぞれの最小単位で、あるいはかたまりとしての他への影響力)を孕んでいる。
『空』を知るとは、自己の『不十分性』『浮遊性』を自覚し、絶えず『ゼロからの視点』によって自己を見失わないことである。
そして、我々は、『空』=『自己の未発達性』『物事の流動的相互関係一体性』を知れば知るほど、不動のもの自覚する。それは、我々が、すでに『生きて、居る』ということ、『苦しむ、痛みを持つ、生きつつあるものである』ことである。私は、私が、深層の何か=欲によって突き動かされるその以前に、私や、生きとし生けるものが『悲しい、痛める、苦しむ』者であることを自覚しなければならない。
われわれの前に、生存の『苦』が、無防備に晒されているのである。
ここにこそ、生きることの第一歩がある。
『空』=『ゼロからの視点』(先入観、自我を投げ捨てすべてを一から考え直すこと) 『流動的相互関係性』(何一つひとりでは存在せず互いに影響しあって流動している)により、我々は、現在の自分にとどまることなく、誤った自我を打ち破り、お互いの生存と調和しなければならない。
ガチン、ガチン、如来の歩む音が響く。ガチン、ガチン、一歩、また一歩。
さあ行こう、みんなで歩もう。希望のかなたへ。憂悲苦悩をなくしながら。 生命にさいわいあれ。
菩薩勝恵者 あるとき、自分をふりかえり、より良く生きようと決心したものは、
乃至尽生死 この世に、生命が発生し、生死を繰り返す、苦しみを見るかぎり、
恒作衆生利 ひとり、安穏に楽しみを貪ることなど出来ず、
而不趣涅槃 ともに苦しみ、ともに努力してやまない。
般若及方便 そのためには、正しい知恵と、正しい実行が必要である。まず、自分は、いったい何が分かっていて何が分かっていないのか。自分とは宇宙の何ものか。何が大事で何が大したことでないのか。生命が自己拡大という盲目的『自我欲』によって生存していること。生命が快と不快の感覚を持ち『痛み』を持つものであること。生命のある者は、世界について知るのみならず自己についても若干の知識を持ち、さらに、他の生命についてもその心というものを多少分かるということ。つまり、自分の生存を批判的にとらえるということであり、他者の生存を評価できるということである。
ここから得られる結論は、『いつもみんなのしあわせを忘れない』ということ、
そして、『欲望のありのままに生きるのではなく、より良く生きようとする』ことである。
このことを知るだけでは不十分であり、このために努力実行して、事実がそのようにならねばならない。
智度悉加持
諸法及諸有
一切皆清浄
欲等調世間
令得浄除故
有頂及悪趣
調伏尽諸有
如蓮体本染
不為垢所染
諸欲性亦然
不染利群生
大欲得清浄
大安楽富饒
三界得自在
能作堅固利
本当の人生を生きたいと思い、永遠の命を得ようと決心した菩薩は、
この世に生と死がくりかえされ、苦しみの続くかぎり、
ひとりだけの幸福に安穏とすることはできず、
我が身を捨てて利他を行う中に、かえって、本来の自己を取り戻すのである。
生物は地上において苦しみながら生きぬいてきた結果、『自分だけが』『私こそが』『私だけの』という『利己欲』を太らせ、この性(さが)によってますます他を苦しめ、自分を苦しめている。真の幸福を得るには、この『我欲』に根ざした妄想を除くほかにない。そのためには、実は、他のためというよりも、自分のためにこそ、利他の行をする必要がある。『自他平等』と言われるが、自分と他人とは同じ生命あって平等であるという意味と、他人とは自分の心の中の一つであり実は自分であるという意味がある。つまり、利他の行を行うとは、他者が自分と同じ『痛みをもつもの』であることを分かることであり、自分の中の他人という自己分裂を治療することでもある。すなわち、
『我欲』をはなれた本当の心=『般若』と、我欲を退治する利他行=『方便』が必要である。
このように、真実を見抜く知恵と、ひとりも不幸にしない方法を、みんなが出し合って、力を合わせるとき、
すべての命と、ありとあらゆるものが、互いに輝きあい、
互いに喜ばしく、楽しく、美しく、互いに励まし合うようになる。
この時、我々の『我欲』は『仏の大欲(真の意欲)』となり、世間を変革して、
苦しみを生み出すことのない清浄な世界となり。
今は、のぼせ上がって有頂天にあるものも、苦境に喘ぐものも、自ら苦しむものも、自分の『業=生まれ 環境 成長 運命』を自ら改革し、乗り越えて仏の道につくのである。
そのように、『我』も『世間』もともに清らかになるとき、
泥の中にあっても、蓮の花は、花を咲かせるときには、自分の色を失わないように、
欲も、同様に、自ら良く調い、まわりに毒されず、正しい知恵に導かれるならば、
自分を潤して余りあって、諸々の生命をも潤すのである。
小我を離れた大欲は、
大いなる安楽をゆたかにする。
そのように生きるならば、あらゆるところにおいて自由であり、
堅固な、価値を生み出すのである。
おん あぼきゃ べいろしゃの まかぼだら まに はんどま じんばら はらばりたや うん
om amogha vairocana mahamudra mani padma jvala pravartaya hun
オ−ン 不空よ 遍照よ 大印よ 宝よ 蓮よ 光明を放ちたまえ
なすべきことを現実にする実行力よ
あまねくゆきわたる存在力よ
生命に宿れる向上力よ
大事を知り、生きとし生けるものを尊び、自由自在に価値を生み出す意思力よ
物事をあまねく、ありのままにとらえ、いのちの苦しみを見のがさない観自在力よ
生き生きと活動あれ
御宝号
南大師遍照金剛
回向の文
願くは、この功徳をもって、あまねく一切に及ぼし、我等と衆生と皆共に、仏道を成ぜんことを。
生命の流れを見るに、生まれ生まれ生まれ生まれて、生の始めを知らず、死に死に死に死んで、死の末を知らない。
生を好まずして生まれ、死は人の憎むところ。良くも悪くもさまざまな苦しみの生涯を経ながら、父母も生の由来を知らず、われも死の去りゆくところを知らない。
過去をかえりみれば、はるかに暗くして始めを見ず、未来をのぞめども、とりとめがなく終わりを尋ねることはできない。
このように、迷えるままに、朝な夕なあくせくと衣食の牢獄につながれ、遠く近く走りまわっては名声利得の穴に落ちる。さらに磁石が鉄を引くのと同じように、男女は互いを求めあい、親子はあい親しむのに、愛のなんたるか親のなんたるかを知らない。
ついには、強者は弱者を食い殺し、人は殺して足ることを知らず、倉は満てども横取りはやめず、綺麗な眉に狂っては和姦強姦し、他を苦しめるのみならず、自ら罪を重ねて人が変わり苦海にもがくこととなる。
なんらよるべを持たず、心がさわぐままに行なうから、自分を毒し、ますます自己を失う。この結果、欲望の投影したありもしないものに血相を変え、ことの大事が過ぎていくのを幻想とみる。転倒夢想の世界を住居とすることになる。
しかしながら、
この我々が頼りとしている心は性善でも性悪でもなく変化し成長するものである。冬の凍りついた川氷は、春に遇えばすなわちそそぎ流れ、金石も火をえれば溶けるように、すべてのものは、みな、縁より生まれて自分という固定したものがあるわけではない。
しかし、心には心の変化の仕方という法則がある。
良いことを重ねれば心はますます良くなり、悪いことをすれば一回だけと思っていても心は悪へと一歩すすむ。
早く、良い心の展開に身を投げ入れることが大事である。
おつとめの一番は、一、心を落ち着けること(ひごろのあくせくからはなれる)二、心を仏または人(尊敬すべきところ)に向けること三、自分を知ること、自分を取り戻すこと四、すべきことが分かること です。そのために場所をきれいにし、仏様を迎える準備をします。
順序
一、奉仕〔清掃、お供え〕
二、礼拝〔仏教では三度頭を下げる(感謝、尊敬)〕
三、懺悔の文 四、三帰 五、十善戒 六、発菩提心真言、三昧耶戒真言 七、開教の文 八、般若心教または理趣教の偈などお経 九、光明真言 十、御宝号 十一、仏様への感謝と祈願 十二、回向の文 十三、努力実行(肩の力を抜くのも一つの努力)
略す時は、七、八、九、十、十二、又は、九、又は、十、ただし、心と作法は絶対ぬかない。