今、仏教を問う



 自分に不幸が突き当たった時、例えば、銃で撃たれたり、子供が殺されたりした時、自分はどのように反応するでしょう。世界では、人が人を殺したり、痛めつけたり、貧困を放置するということが、行われ、そのことは何度も何度も繰り返されています。
 あの世があるかないかを別にしても、この惨劇の繰り返しは地獄輪廻というほかはありません。
 もしも私達が、貧困と暴力から自由になるなら、私達の涅槃幸福は、もっともっと私達に身近なもとなるでしょう。逆に、虐待と恥辱の真中で、涅槃を獲得するということは、不可能に近いことだと思います。
 最も古いお経の中の、その中の最も古いと言われる場所にこう書かれています。

 武器を手にして撃とうとする時、恐怖が人々を覆った。人々は互いに対立し、闘争し始めたのである。そのことをどのように克服したかを語ろう。sn935偈

 この後、私達の内部に在る荒れ狂う煩悩が、自分や他人を不幸へと導くことが説かれています。つまり、自分自身に突き刺さった煩悩の矢を抜けというのです。その矢は、富への欲望であったり、保身であったり、快適への欲望であったりします。そして、慈悲の経に於いて、煩悩の矢を抜いたものは、次の心を持てといいます。

 あたかも、母親が自分の子供を守るように、全ての生き物に対して同様の心を起こせ。sn149偈

 荒れ狂う煩悩の矢を抜くということと、他者を慈しむということの関連は、よく分かりません。しかし、釈尊が、武器を振り挙げて敵対し合い殺し合う人々を見た時、それは、他人事ではなく、自分の生存闘争や、自分のいやらしさの発見でもあり、同時に、仲良く生きていこうとする、元来の慈悲心発見でもあったのでしょう。
 此処に見られるのは、闘争と共生との狭間で揺れつつ、地獄をつくり出す人間の深い洞察に他なりません。
 もとより、仏教の根本問題は、四諦すなわち苦集滅道です。苦しみを無くすということです。どのレベルにおいて苦しみを無くすのかは、それぞれ議論の分かれる所ではあります。しかしながら、仏教の根本問題が苦しみからの解放であることは論を待ちません。そしてその解決方法は、戦うことではなく、煩悩を静めることと、生きることへの友情を広げることではないでしょうか。


煩悩を静めること


 武器を持った時、人々に恐怖が広がった。撃つ者も、撃たれる者も、それを見る者も、その恐怖は伝播していく。恐怖は一挙に広がり、人々を猜疑心に陥れ、人々を対立と不信と痛めつけあいの地獄へと落とし込んでいく。そのことの恐怖は、今回9.11でテロが起り、大統領か叫び、人々が戦争へと雪崩込んで行った異様さと異常さに現実として行われました。
 テロとその報復によって何万人が死んだのです。多くの人は反対しましたが、国家の決議と同盟国の賛同によって、白昼公然と人殺しは徹底的になされました。
 私は、今まさに、釈尊と同様の時代に生きているんだという実感を伴っています。地獄は繰り返されているのです。地獄は輪廻しているのです。

 人々は苦しんでいる。ある者は、武器を取り、ある者は、煩悩の矢に突き動かされて、自分や人々を苦しめている。水の少ない池で魚たちが生き延びようと、互いにぶつかり合いながら飛び跳ねるように、人々は闘争している。sn936偈。

 釈尊は、「何故だ」と問い「わたしにもあなたにも、同様に煩悩の矢が刺さっている」と発見するのです。釈尊は、敵を責めず、また自分を責めるのではなく、同様に苦しむ私達の自分自身の中に、同様の原因を発見したのです。
 ここには、既に、自分も他人も同じように煩悩に苦しむ生き物(有情)だという深い見抜きがあります。同じ悩めるもの、苦しむものとしての痛みを基点としたあたたかな眼差しがあります。
 欲望に囚われた物に目が眩んではならない。自分自身の心の幸福を学ぼう。sn940偈。 


友情を広げること


 私たち人間の生き様ときたら、私と同様に彼らは生きているし、彼らと同様に私は生きてい。だから自分の身に引き比べて、殺したり、殺させてはならない。sn705偈。

 単純明快な答えがここにあります。私が武器を手にして怯えるように、相手も怯える。私が貪るように、人々も貪り、私が平和を求めるように人々も平和を求める。みんな幸福になろうともがきながら、地獄に苦しんでいる。私達は同様に煩悩にあくせくし、努力しては傷つけあう、苦しみの生き物である。その生き様を仏教は有情とか衆生と呼びました。
 慈悲というのは、一人高見から見物して、他人を憐れむことではなく、また、他人の幸福を単に望むことではありません。同じ痛みを持つものとしての眼差しを保つことなのです。
 彼らも私も同様であるという事実を知ることです。
 戦争の中で、息がこと切れようとする少女がわが娘の姿と重なる時の、いたたまれない気持ち、息子を殺した敵を「殺せ」と命令する時の復讐心に同調してしまう気持ち。私達には様々な自分にも知り得ないいくつもの気持ちが同居しています。それらを一つ一つ見ていく時、私も人々も同様の痛みを背負っているのではないでしょうか。
 そのことを理解し、他者の気持ちが分かり始めるのが、釈尊の云う慈悲であろうと思います。慈悲とは、高邁な精神ではなく、私達の苦しみの存在そのものの、分かり合いが基盤なのです。


他人の痛みがわかること


 それでは、釈尊の気持ちになるために何をしたら良いのでしょうか。
 一つでも多くの他人の生を生きることだと思います。それは、いろいろな人生を知ること、そしてその人生が自分とは別物ではないということを知ることでしょうか。言い換えれば、それは、他人の痛みを分かることです。他人の痛みはあくまでも他人の痛みであり、他人がいくら弾丸を浴びようと、私は痛くありません。しかし、ある時、突然他者の痛みが痛いほど染みる時があります。


何人も排除しないこと


 もう一つ、他者を差別しないことだと思います。経には「あらゆる生き物に対して無量の慈しみの心を持て」とあります。
 今時代は、勝ち組と負け組の二股区別の時代へと急速に旋回しています。時代はカーストへと逆行しているようですらあります。特定の人は良き人で、仲間であり、特定の人は悪しき人で、人間外であるという考え方です。自己責任の考え方が、福祉の世界や、努力の世界に持ち込まれたならば,それは貧富の差や暴力を肯定する闘争思想となります。
 低カーストであろうと罪人であろうと、サンガに迎え入れた釈尊はこう語ります。「人間に区別はない、あるのは名称だけである」また、「生まれによって区別されることはない、行為によって尊者である」と。sn611偈。
 何人に対しても、排除することなく、痛みを分かること。ここに、釈尊より綿々と続く、不殺生慈悲さらには涅槃の根源があるのではないでしょうか。
仏教インデックス 新聞など
仏教 集団的自衛権は徴兵制への道
破戒不殺生戒

石手寺住職より