現世涅槃ニルバーナ
最初期の仏教においては、ニルバーナは現世において得られるものと考えられていた(中村元原始仏教の思想p364)

現仏主義

ニルバーナは現世に得られるもの

Dhp89ye anupaadaaya aadaana patinissagge rataa
jutiimanto te khiinasavaa loke parinibbutaa
執著なく貪りをすてるのを喜び、煩悩を滅ぼし尽くして輝く人は、現世において全く束縛から解きほごされている(完全に涅槃している)。
933. ``etanca dhammamann±ya, vicina. bhikkhu sad± sato sikkhe. sant2ti nibbuti. natv±, s±sane gotamassa na pamajjeyya..
Sp933 修行者はこの道理を知って、よく弁えて、つねに気をつけて学べ。諸々の煩悩の消滅した状態が「安らぎ」であると知って、ゴータマ(ブッタ)の教えにおいて怠ってはならない。

中村元どこに書いてあった(中村元原始仏教の思想p364)

方丈師匠言う

仏教はあらゆる教学、既成観念に批判的である。それが三灯明の仏の訓告である。それは仏教を学ぶに当たっての常に心がける注意事項であろう。仏教を自分のものにする注意い条項で仏の教えの一つである。(批判仏教p3)

僧は?く月下の門(縁起と空表紙裏)
生命邪悪説と生命肯論者とはある。佛陀はそれを否定されたか肯定されたか それはその人自身が決定すべきものであろう。

両氏共に佛教を存在論的有の形態として究竟しようとしている。それは佛意に反する。佛は存在の絶対性を否定する事から出発されたのではないか。
津田師には被差別の苦悩が充分解っていない点がある。松本氏や袴田師は差別に対して特異な先入観が働いているが故か存在論的に真実存在は何かにこだわりがあるようにも受け取られる。しかし、仏教の判教又は教判は本来効用の勝負を論ずるもので存在論的な当否については無記として答えないのが釈尊以来の原則であったように思えるがどうだろう。p136

不可知なものへの保留

形而上学説への態度

Sp784 汚れた見解をあらかじめ設け、つくりなし、偏重して、自分のうちにのみ勝れた実りがあると見る人は、ゆらぐものにたよる平安に執著しているのである。

Sp785 諸々の事物に関する固執(はこれこれのものであると)確かに知って、自己の見解に対する執著を超越することは、容易ではない。故に人はそれらの(偏執の)住居のうちにあって、ものごとを斥け、またこれを執る。

Sp781 欲にひかれて、好みにとらわれている人は、どうして自分の偏見を超えることができるだろうか。かれは、みずから完全であると思いなしている。かれは知るにまかせて語るであろう。

無論争の境地は安穏

896 (たとえ称賛を得たとしても)それは僅かなものであって、平安を得ることができない。論争の結果は(称賛と非難との)二つだけである、とわたしは説く。この道理を見ても、汝らは、無論争の境地を安穏であると観じて、論争をしてはならない。

845 竜(修行完成者)は諸々の(偏見)を離れて世間を遍歴するのであるから、それらに固執して論争してはならない。たとえば汚れから生える、茎に棘のある蓮 が、水にも泥にも汚されないように、そのように聖者は平安を説く者であって、貪ることなく、欲望にも世間にも汚されることがない。

837 師が答えた、「マーガンディヤよ。『わたくしはこのことを説く』、ということがわたくしにはない。諸々の事物に対する執著を執著であると確かに知って、諸々の偏見における(過誤を)見て、固執することなく、省察しつつ内心の安らぎをわたくしは見た。」

「この議論は心の平安、涅槃のためにならない」SN.D,p419.

方丈師匠言う

僧は?く月下の門
生命邪悪説と生命肯論者とはある。佛陀はそれを否定されたか肯定されたか それはその人自身が決定すべきものであろう。

仏教の判教又は教判は本来効用の勝負を論ずるもので存在論的な当否については無記として答えないのが釈尊以来の原則であったように思えるがどうだろう。p136