仏教入門

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一、仏さまとは

(一)仏さまのこころ

(二)人への痛みと、人間への痛み

(三)その人

(四)人間の可能性、成長としての仏さま

二、仏さまへの出発

1)人間の心

2)人間の体

3)仏教の見方

増設中

人間の善意への信仰、潜在力への信仰、成長への信仰

この世は、宇宙も人も生き物も私も仏も、みんな同じものから出来ている

物たちに構成され、規制されて生きている私達

しかし、思いがあってはじめて物の世界が変わり、幸福がもたらされる

 この世が楽しくて楽しくて仕方がないという人がいるだろうか。もしも、みんなが随分と幸せで、さして困ったこともなければ「仏さま」は要らなかったかもしれない。何故なら、仏さまは最初に「この世は苦しい」(苦諦)と言われたからである。

 私はお寺に生まれ、多くの人々が寺に参って手を合わす姿を見てきた。そして何人かは寺に上がり込んで相談をされるのを見てきた。また、お遍路の方が暫く逗留して休んでいかれるのを見てきた。だから、人間にはいろいろな人生があるものと多少とも心得て育ったと思っていた。

 しかし、物心ついて、自分で世の中を見聞きしはじめた頃、まだ日本にも残っていたスラムという家並みに出入りする機会を得てから、人間というものは「生きにくい」者であると思いはじめた。それは想像を絶するような困難な家庭や境遇や人間関係の中で育つということであった。人間は実に様々な境遇の中で生きている、心を保っていることの発見である。その後、様々な病気や災害や、また人間による殺し合い、痛めつけ合いが人間の長い歴史を覆っているということを知るのである。

 その「苦しい」人類の歴史は快方へと向かっているかというと、決してそうではない。現代、日本において数万人という自殺者の数は何を表しているだろうか。物は富めどもやる気を失った大人や塾に追われ笑顔を失った子供は誰の目にも明らかになった。そして、共生という美しいスローガンとは裏腹に、一部の富む企業と他の多くの弱小企業、そして一部の高給正社員とパート労働者という構図が、誰の目にも明らかになりはじめた。世界中での「苦しみ」はもっと露骨である。世界、但し発展途上国、その多くが元植民地や被征服地の国では何億人もが飢えているということはどうしてだろうか。そして血で血を洗う憎しみの繰り返しが行われ、その解決への道筋は市場経済の下では、尚一層困難が増幅されているように思われる。世界的にも貧富の差は広がり、その解決は、先ず私達が根本的に考え方を変えて成長することであり、それのみならず、その考えに従って経済など世の中の仕組みを変えていくことに掛かっていると思われる。

 結局、この世は様々な不思議な生き物で満ちあふれているし、その頂点に立つ人間が安穏に生きているのかというと、競争し合い、戦争を繰り返しながら生きている。

 そして、自分はというと物に恵まれ、満足であるはずなのに不安と焦燥のなかで生きている。人間とは、人を苦しめるのみならず、自分が満足することもままならぬ生き物ではないか。この苦悩を出発点として修行を繰り返されたのが過去の仏さまたちであり、今も生き物の幸せを祈る仏さま達なのである。

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一、仏さまとは

1)仏さまとは(一)仏さまのこころ

 金子みすずの詩に「さびしいとき」がある。

▼さびしいとき

わたしがさびしいときに、

よその人は知らないの。

 

わたしがさびしいときに、

お友だちはわらうの。

 

わたしがさびしいときに、

お母さんはやさしいの。

 

わたしがさびしいときに、

ほとけさまはさびしいの。

 

 私はここに仏さまの原点があるように思う。それは私が苦しい時に、その気持ちを分かってくれる誰かがいるということである。世界の苦しみを見据えて生き抜いた人が仏とするならば、その仏さまはずっと私達の苦しみを見守ってくれている。それは人間の優しさへの信仰ということになろう。

 人は権利と義務だけを主張するという。貨幣経済になってから人間は物事をなんでも金の量に換算して考えるようになったという。

 「私には福祉を受ける権利がある」「国民は国家に奉仕する義務がある」。あたかも福祉が当然であり、奉仕が当然であるかの言い分をみんなが持っている。しかし、福祉も奉仕もそれらを支えているのは助け合いの心である。そして、その優しい心もお金に虜になった心で勘定すると「一時間いくら」という安っぽいお金になってしまう。こんな世の中に生きていれば、もしも私達が苦しい状況になっても、助けてくれるのが当然になったり、いくら払えば助かるという換算になる。しかし、それでは助からないものがある。その分が人生の窓口であるだろう。

 人生というのはひょっとすると、いくら満ち足りても、いくら長生きしても、飽食豊満に大成功しても「なぜ生きるか」の意味は出てこないのかもしれない。いわんや戦争や飢餓に巻き込まれて生きたのでは、人生は呪うしかないものであろう。

 こんな世の中で、私達を安心させるのは、

「私を分かってくれる友」であり、何よりも、

「私を常に大事にしてくれる母父」である。

 真に優しい母に育てられた人間は、いつも心が安定し、多少の災難に出会っても乗り越えられるということは周知の事である。架空の話として、世の中全体が「あの少年は、ハイジャックをして年老いた乗客の胸を刺したのよ、鬼よ」と言うときも、その母ならば「あの子に限ってそんなことはない。何かの間違いだわ、もしもそんなことをしたとしても、何かの理由があったのよ、間違えて胸にあたったんだわ。私は彼を信じてる」と言うだろう。必ずしも全ての母父や友人が加害者となった彼を庇うわけではない。しかし、彼を理解しようとする。もう一歩進んで、もとより彼を見捨てないのである。

 そのことは、親鸞の「悪人正機」の説の考察に詳しい。この世に同様に生まれ落ちた生命体が、ある者は裕福の家に育ち、あるものは貧乏の家に育ち、教育的な環境、暴力的な環境のそれぞれの運命の中で、色々な生まれ持った性格が育ち変化していく。その全てが幸せになりますようにと祈っているのが阿弥陀仏であるというのである。

 その原点は、優しい母の子を思う気持ちのような「やさしさ」を持った人が過去に居たという事実であろう。この点は多くの偉大な宗教家に共通しているように思われる。全くの他人に対しても、自分の子供のように愛しく大切に思う人がいたのだ。そして今もそういう人は居るだろうし、私達の心の中に、幾分かはその心がある。万分の一かも知れないがその優しい心があると信仰したい。

 余談かもしれないが「やさしい」の語源は「痩せる思い」である。人の苦痛や悲嘆をみて自分も痛みを感じ、身が痩せるという自分の痛みを意味する。他者が痛むから自分も痛むのである。維摩経に「一切衆生病むをもって、この故に我も病むなり」という一節がある。主人公である維摩居士が寝込むのであるが、その理由は他人の病気を痛んでというのである。

 誰にも分かってもらえない苦難の中で苦しむということがあるだろう。そんな中で、誰かが分かってくれる、あるいはひとりぼっちではないというのが仏さまの慈悲への信仰である。私のお釈迦さんやお大師さんはそういう仏さまである。

続く

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2)仏さまとは(二)人への痛みと、人間への痛み

 私は広島原爆の被爆者の高橋さんから、その時の体験を聞いたことがある。原爆の悲惨さは言うまでもなかったが、その人間による人間の蛮行への怒りに対して、高橋さんは平和の尊さを訴えるなかで「平和とは人間の痛みが分かることである」と言われた。そしてこの痛みと怒りを乗り越えていくには、この事を語り継ぎ人類が知っていかねばならないと力説され、私達は胸を痛めるとともに熱くした。

 その時、私は「人の痛みを知る」ということと「人間の痛みを知る」ということの二つが隠されているように思った。

イ)人の痛みが分かる

 「太郎さんの息子さんはまだ十五歳なのに、病気で後何ヵ月生きられるか分からないそうだ」「そうですか。かわいそうで何といっていいか、心が痛みます」。

 他人の困難を聞いて涙を流すことは多い。それは人と人が向き合っている瞬間である。人が金や快楽や損得に向き合うことは多くなったが、人が人と向き合うことは減ったように思う。世の中が忙しくなったのか、人間が勘定高くなったのか、優しさをストレスでちびさせたのか。

 かえって、出世もせず、こつこつと働いている人のほうが人間らしい人は多い。頭が良くて地位もある人は、さかしく冷淡な人が多いのではないか。

 人の痛みが分かって、人のために何かするというのは特技のようでもある。損得勘定をしなくて心の底から打ち解けやすく、他人のために与える行為をする人。そういう人に出会うと、心底感心する時がある。そして「あんな優しさを身につけたいな」と思うことがある。色々な技や知識を身につけるのは簡単に思えても、そんな優しさを身につけるのは随分遠いことのように思われる。何か生まれもって欠落している何かを感じる瞬間でもあり、こせこせと重箱の隅をつつくように損得を勘定して、ああだこうだと理屈をこねては焦っている自分が汚らしく思える瞬間である。人の心を洗うような金銭にこだわらない優しく鷹揚な人。そんな人がいる。

 それは天性の優しさというようなもので、「この人は生まれもってやさしい心を持っている」と思わせる人である。だから、私はそんな他人の思いやる心をもともと持っているのかいないのか。少なくとも僅かずつは持って生まれたと信じたいのだが。他人が喜んでいるときに喜び、悲しんでいるときに悲しむ。そんな心を持っていれば人間は性善説の人である。そんな心を持つために、様々な「とらわれの心」を捨てる必要があるのだろう。

ロ)人間への痛み

 私は僅かかもしれないが他人への思いやりを持っている。しかし、そんな人間の姿を見つめていくと「いったい人間はこの世になんで苦しみにやって来たのか」と思い始める。それは人間とはどうしようもない生き物だという諦めと、それでも多少のやさしさを持っているという希望である。

 先の原爆を投下されて、焼けただれる人々の苦痛。その家族の悲嘆。それは一人一人の人の痛みへの共感である。この時、この痛みや恨み越えようとするとき、この原爆を落としたことはどう考えるべきなのであろうか。先の高橋さんは、原爆投下をした米軍のB29エノラゲイの操縦士と対話した。

 高橋さんは言った。

「あなたも二度と広島の悲劇がないように、平和のために努力してほしい」と。すると、

「もしも、私に出撃命令がでれば、また命令に従います」と操縦士は答えた。高橋さんはそれでは気が済まなかったので、「ではまた悲劇が」というと、彼は次のように答えた。

「だから二度と戦争は起こしてはならない」と。

 広島の悲劇に怒る日本国も、朝鮮半島、中国、アジアで多くの悲惨を加害者として行っている。加害者の被害者への共感が弱いからだろうか、もともと人間が利己的で共感共生が出来ないからだろうか。過去の歴史は華々しい発展の陰に、多くの侵略、暴力、拷問というものが累々たる山をなしているのである。

 この時、私達は「人間」というものを考えはじめざるを得ない。人間というものは実は存在しない。在るのは一人一人の個人であり、幸せな人、不幸な人である。しかし、人類の歴史、行ってきたことに向き合うなかで「人間」というものを考えるのである。

 人間とはかくも苦しい生き物であるのか

 人間とはかくも愚かな生き物であるのか

という思いで一杯になる。そして、この解決の糸口は何処にあるのかと問うと、

 「人間の痛みが分かる」

ということになるのではないか。それは、自分というものの根底をも含んだ問いである。「太郎さんが愚かだ」ということと「人間が愚かだ」というのでは意味は大きく違う。「太郎さんが愚かだ」というとき私は含まれないが、「人間が愚かだ」というときは、人間の中に私も含まれる。私も貴方もみんな愚かだというのである。私の愚かさが改善されなければ「平和」はありえない。

 そして、誰かが犯罪を犯したとしよう。その人は人類から排除されるのではなく、私もその犯罪を犯す可能性のあるもの、近いものとして、その行為が問われるのである。

「私も境遇や条件が変わっていれば、そのようであったかも知れない」ということになる。あるいは「私もたまたまこのように生まれたのであるが、あの両親に、あるいはあのように生まれていれば、そうだったかもしれない」という事になる。

 だから、架空としての人間というもの、または、概念としての人間というものを考えることは、遠回りのようで近道なのである。私はこの「自分を含む人間」というものを抜きにしては、共生への方途を掴みえないのである。

 また、人間というものを考えるからこそ、他人に対して寛容になれるし、自分に対して厳しくなれるのである。

 仏さまとは、この人間の痛みが分かることによって、出家を決意した人間の到達点である。お釈迦さまは、二千五百年の昔、人の世は苦しいと考え、その原因の根本は愚かさであると知って、その愚かさ(これを無明というが)を解決しようとした人なのである。だから、苦しみを認めない人には仏教は無縁であるが、全ての生き物はこの渦(輪廻)に既に巻き込まれているのである。

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仏さまとは(三)その人

 

 これまで仏さまの心、仏教用語でいうと「慈悲」の心についてあれこれと考えてきたのですが、仏さまとは何なのでしょう。神なのか、超人なのか、人なのか、それとも。

 神仏を信じないという人が多くなりました。そもそも神仏といっても「神」さまと「仏」さまは全く別のものですから、神を信じるというのと仏を信じるというのでは可なり意味は違います。神というのは、だいたい私達の親分であったり、この世を造った超人、超越者です。人間とは身分が違うのです。

 ところが、仏とは人間があるとき改心し、修行して、覚りを開き、慈悲を行って成長した姿です。それはお釈迦さんの話ですが、空海さんにしても最澄さんにしても、仏教に目覚め、努力して仏に近づいた人々です。だから私達人間と仏さまの距離は「気づき」と「努力」によって縮まるのです。

 一般には、仏とは亡くなって清められた先祖を指したりしますが、これは日本的な神さまの意味です。本来の仏は、発心(先の改心、気づき)と修行(仏になるための努力)がなければ有りえません。そして、一度仏になるとその思いやりの慈悲によって私達を救ってくださるという信仰になります。

 私達がお寺にお参りして仏に手を合わせるのはこのためです。この時、仏さまには少なくとも人が人を思いやる善意が籠もっています。そして、人間世界を苦しみのないものにしようとする努力が籠もっています。そして、実際に苦を除き、楽を生み出す力を与えてくれるのです。

 しかし、仏さまに手を合わせて心を清浄にしただけで、苦しみや、病や、災難はなくなるのでしょうか。そのためにはもう一度、仏さまを探究しなければなりません。

 お四国参りをしている時、同行の方が突然言われました。「やっぱり仏さまというのは自分の心のことですかねえ。だんだんそんなふうに思えてきました」と。私は「そうですねえ」と答えましたが、「そうでもあり、そうでなくもあり」という気持ちが残っています。やはり、私達の心とお大師さんやお釈迦さんの心が通じたとき、そして出来れば行動も通じたとき、そうなると、真言宗では「身口意」=「しんくい」と言いますが、行動と言葉と心がお大師さんやお釈迦さんと一致したときに、仏さまとなると答えなければなりません。これは大変な事ですから、お遍路に出て同行二人の時も、お大師さんに引っ張ってもらっていく訳ですが、やはり自分が行くという意味では、仏さまは自分自身だと言うべきかもしれません。

 やはり、仏教は仏さまに頼りながらも自分が遣っていく教えなのでしょう。だから、仏さまとは何かということを考えることが大事になってきます。

 では仏さまとは何か。

 

 「仏」さんとは何か。仏が分かれば仏教は分かったも同然です。ここでいう仏とは亡くなった人をいうのではありません。どの様に生きればいいのかを示す仏さまです。

 もともと仏は仏陀=ブッダというインド語であり、その意味は「目覚める」とか「気づく」とか「知る」です。私は「分かる」というのが良いと思っています。覚るとか悟るとも言いますが、一挙に巨大な真理を獲得するというよりは、「分かる」というのが言いえてているように思います。

 何かが分かって、その方向に進みはじめ、そして到達した人が仏陀=仏なのです。

 それを仏教用語で、

分かること=発心

進むこと=精進(修行)

到ること=涅槃(菩提)

と言います。

 お四国=八十八ヵ所遍路では、四国の四県を徳島、高知、愛媛、香川の順に発心、修行、菩提、涅槃に配列しています。

 

1、発心

 お釈迦さんは、最初に「四諦」を悟ったと言われます。四諦とは「苦・集・滅・道」=(くしゅうめつどう)です。これは、生きるのは苦しい。苦しいのには原因がある、それは集=煩悩である。しかし、苦しみは無くなり清らかな清々しい境地がある、それを寂滅という。そして寂滅=涅槃には、そこに至る道がある。つまり修行の道を歩めば涅槃に至るのである。という真理です。

 まず、苦と集ですが、それは私達が得るに従って不満になるというと分かりやすいかもしれません。これは取り方ですが、私達の毎日は不満と満足の連続で成り立っています。疲れて眠り、疲れて眠る。空腹になり食べ、空腹になり食べる。性欲や諸々の物欲もしかりでしょうか。その事は、決して仏教と無関係ではありません。お釈迦さんもお大師さんも「生き物は食わなくてはならない」また「衣食の牢獄に囚われて働かなければならない」という趣旨のことを述べています。

 特にお大師さんの三教指帰などでは、生死海の譜の中で、生き物が互いに弱肉強食の運命にあることが強調されています。そして、特に人間は食べ物に満足しても尚殺しを行う動物として記述されています。この仏教入門ではその事を書きすぎた嫌いもあります。しかし、石手寺では「悩み相談」を長くやっていますが、そんな中で感じることは、やはり人生は苦しみとの戦いではないかという印象です。ここに四苦八苦を並べてみます。

 生=生まれること

 老=老いること

 病=病気になること

 死=死ぬこと

 愛別離苦=好きな人と別れること

 怨憎会苦=嫌いな人に会うこと

 求不得苦=求めたものが得られないこと

 五陰盛苦、色(物)受(感覚)想(思い)行(衝動)識(意識)が燃え盛る煩悩の苦しみ

 しかしこれらは出家者の苦しみと思われるところがあります。これらの以前に、差別の苦しみとか戦争の苦しみというものがあります。

 食欲苦

 性欲苦

 怨恨戦争苦

 人間関係苦

 生存闘争苦

 名誉地位苦

などなどでしょうか。

 私達の生存、生きていくということが、様々な困難や苦しみ悲しみで満ちていることには異論はないと思います。そのなかでもお釈迦さんが言うように、「武器を手にしたことによって恐怖が起こった」という一節は、人間がお互いに苦しみを起こし始めたという「戦争=痛め合い」にどうしても避けなければならない苦しみが有るということです。しかし、その原因がどこにあるかという問題の解決をお釈迦さんは発見するときに、悟りへの大きな一歩を感じたのだと思います。

 それは、戦争苦や不満足苦の多くが、私達自身に原因があるという発見でした。それは極端には自業自得という文句で表されます。この言葉は良く誤解されますが、人類や生き物全体としては、自業自得なのでしょう。実際にはうまく遣っている人も有れば、ひどくいじめられている人もあり、加害者がいて被害者がいるというのが、現実です。そのことは後で厳密に考える機会を得るとして、人間という者を考えたときには、全て自分の欲求によって自分の世界をつくり出して、その世界に安住したりもがいたりしているということも事実でしょう。

 例えば、昼食を取り忘れ、その上夕食を忘れるということはありません。その時、私達は何でもいいから口にしたいと思います。というより、食べ物を捜して右往左往する自分に自己を見失うでしょう。もっと飢えれば、盗んで食べようとさえする。そしてそのことを誰も咎めることはできないようにさえ思えます。人間はこのように生まれていると言えます。また、いじめにしても、いじめられたものが他者をいじめると言われます。恨みによって恨みはついに消えることはないとは、至極名言ですが、他人から受けた深い傷はなかなか癒えることはなく、報復するかそれとも、どこかで弱者へと吹き出してしまうという人間のあり方=弱さを表しているでしょう。他人から受けた痛みを飲み込んでしまうことはなかなかできません。恨みによってできた傷は、報復のエネルギーを生み出し、世間の見方を歪めてしまいます。

 「今に見ていろ」というエネルギーは、実は報復の衝動であることが多々あります。その為に余分な闘争をして、他人を傷つけ自分も傷ついていくことが多いものです。こんな時、他人を素直に愛することができず、他人を大事にすることもできなければ自分を大事にすることもできなくなります。結局、冷たく暗い世界をもがくことになるやもしれません。この場合は、他人から受けた傷が原因ですから、本人の罪というより、人間関係の罪、社会の罪と言った方がよいかもしれません。それでも、その歪んだ世界を現出=つくりだすのは他ならぬ本人なのです。その人がつくる世界なのです。そしてその世界が唯一だと信じて生きる訳です。「そんな仕返しの世界に住むのは止めて、素直な世界に生きなさい」といくら説教しても、その人の報復のエネルギーが休まらない限り、その炎は燃えて、苦しみの世界を幻想してしまうのです。

 私達は、生まれながらに食欲、睡眠欲、性欲、名誉・快楽・財産欲などに内側から揺り動かされ、そそのかされ、あらがいがたい衝動に駆られて、そして既存の常識や両親の姿、大人の姿を道案内にして、娑婆世界を渡って往きます。もとより、欲望が無ければ死滅するしかないわけですが、この力を借りながら、不安定な道を歩んでいく訳です。それは自分にとっては確固とした道でありながら、客観的には人間固有の道、この町、このムラ固有の、この国、この地球固有の道だと言わねばならないでしょう。そして私だけの道だとして背負わねばならないでしょう。

 そして、自分ではこれしか見えない自分の道も、この時代のこの場所の私の道だと知って、「より確かな」道を確かめながら歩むことか大事になることは予感されると思います。より不確かな欲望に左右された道から、より確かな至福の道へと次第に切り替えていくことが出来るという確信と期待です。

 今、書いてきたことが、「苦」の原因である「集」=煩悩の事です。私達を生かしているのは欲望です。しかし、欲望がそのまま動いたのでは煩悩となり苦しみを増やします。なによりありもしない世界を現出してしまいます。だから、私達は欲望の選択や切り替えや、新しい欲望の発見成長に期待しなければならないでしょう。

 それを選欲知足、新欲成長と名付けてはどうでしょう。

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 4)人間の可能性、

  成長としての仏さま

▼日の光

おてんと様とお使いが

そろって空をたちました。

みちで出会ったみなみ風、

(何しに、どこへ。)とききました。

 

ひとりは答えていいました。

(この「明るさ」を地にまくの、

みんながお仕事できるよう。)

 

ひとりはさもさもうれしそう。

(わたしはお花をさかせるの、

世界をたのしくするために。)

 

ひとりはやさしく、おとなしく、

(わたしはきよいたましいの、

のぼるそり橋かけるのよ。)

 

のこったひとりはさみしそう。

(わたしは「かげ」をつくるため、

やっぱり一しょにまいります。)

 

 「人生は苦しみである」と書いたら、「暗いなあ」と言われました。確かに、光のない人生なんて生きるに値しません。次々と快楽を求めて、テレビを見て、行楽地へ出掛け、デパートに買物に行って、友達とパーティーをしてというふうにやっていれば、人生は結構退屈しないものになったかもしれません。しかし、その方向にいくら走っても、生きる意味というものは出てこないように思います。

 丁度、先日、自死者(自殺者)の供養会を行いました。これは年に一度行う重たい行事となっていますが、最初はこのような難しい問題を表立って行うのは良くないという思いもあったのですが、やってみると多くの方から問い合わせがあり、何かを得たいという切なる気持ちが伝わってきます。その自殺予防の講演会の中で、このようなお話がありました。

 「死を考えるということは、生きるということを考えるということである」という意味のことです。私が考えるには、死をしっかりと考えられた自殺の人は、生きるということを充分に考えた人だと思います。だから死へ向かうかどうかというと、私のように生を曖昧に楽しめる人間には、どうこう言えないわけですが、何れにしても命を掛けて、生きるということを考えたということには間違いありません。

 死に向かうということは大変な苦痛を伴うことです。そして、その苦痛のなかで、生きるということが分かってくるということではないでしょうか。それは、人生は苦しみである。というより、人生に不可避な「苦」をしっかりと捉えることで、生きる意味が明らかになってくるということだと思います。

 だからといって、単に苦しければいいというわけでは決してありません。苦しみに直面して、あれこれと考え、試行錯誤する中で様々なことが明らかになってくるということです。

 悩み相談をしていますと、色々な問題を打ち明けられます。例えば(脚色しています)「息子が、家族に暴力をふるって仕方ないがどうしたらいいか」というような相談が来ます。最初は、困った様子をあれこれと話されますが、ずっと聞いていますと、「実は、中学のとき、上のこの事で精一杯で、下の子は放っていました。やはり、その時に愛情が足りなかったのでしょうか・・・。実は、下の子にはどうしても私が素直になれなくて、冷たくしてしまいます・・・。」というようにご自分でどんどん話されます。こちらもずーっと黙っているわけではなく、うなずいたり、「そうですね」というにように共感したりしながら、多少話の核心へと一緒に向かうわけですが、やはり、主役はご本人で、相談を掛けてきた人が自分で、どんどん話しながら、問題の謎解きをしていくのです。

 それは不思議なことです。一番困っている筈の本人が、いつの間にか話を自分で勧め、自分で話し、自分で解決していくのです。そして問題点が明らかになったところで、私達は二人で、どうすればいいかを決断していくのです。この決断のときには、やはりお互いの人生観が物を言います。「どう生きるのか」という価値観がなければ解決はできません。上の例では「やはり、下の子は好きでなくて」というのでは困るわけです。困るというより、もう一度その方に人間を好きになる成長をしてもらわないと、解決にはなりません。その父親も、ご自身が成長する途中で傷を負ったか何かで、人を愛することが充分に出来なくなっていると考えるべきなのでしょう。

 という具合に、息子さんの暴力に端を発した苦しい問題は、それを真方向から解決しようとすると、いろいろなことに気づくことになります。そして、実は自分の今までの生き方から培われた自分の人格というものが、物の見方を歪め、行動を奇怪しくし、その結果として回りにも迷惑をかけ、そしてその結果が自分へと跳ね返ってきて、また悪循環を繰り返しているということが見えてくるのです。

 最初は分からなかった様々なことが分かってきます。そしてその気づくことが、自分の生き方を変えていきます。

 子供が非行に走るという事態によって、自分の親としての在り方を反省し、その中で、人生の生き甲斐を見直したという人は少なくありません。残念ながら、会社で疲れ切り、家でも孤立しつづけたお父さんや、孤立無援で延々と独りで子育てをしてきたお母さんは、困難なときに誰にも相談することができないと、孤独に耐えきれず心身の安定を失って、問題解決へと突き進む途中で、挫折してしまう方もあります。しかし、この親子や会社や夫婦の人間関係の困難の中で、私達は自分自身が何者なのかということを学んでいくのではないでしょうか。

 そして、この他ならぬ「自分とは何者か」という問題の答えに、生きるということの答えが隠されているのではないでしょうか。自分こそが、世界に光を当てて、その光を頼りに世界を判断し、その世界に対して生きる意味を判定しているという現実が見えてくる瞬間だと思います。

 犬は犬としての光を世界に当てて犬の生き方をし、人間は人間の光の当て方をして人間の生き方をしています。そして仏さまは仏さまの光の当て方をして世界を把握し、仏さまの生き方をするわけです。その中で人間とは、その生き方を動物の方向へも向かえるし、仏さまの方向へも向かえる生き物ではないでしょうか。その向かえる範囲は決して多大な物ではないかもしれません。ほんの数センチか数ミリだけ、上へ行ったり下へ行ったりするだけのものかも知れません。しかし、その僅かな向きの振れが、私達の成長を促し、大きな価値観の違いへと導きます。

 それは、俗には成長といわれるものです。心はどんどん発展していくものです。ずっと留まるものではありません。どんどん変わっていく。その変わり方をどのように自分で制御するかが大事です。そしてその成長とは心の内側を変えることです。そしてその変わった内側から新しい光を出して世界をより鮮やかに照らし、その光を受けて、新しい行動をすべきなのです。それが仏さまが発見した、「行」の生き方に他なりません。その「行」の生き方は、前回書いた、発心の後の、苦集滅道の中の、特に「道」に当たります。道とは正しい道を行くことです。そして正しい道を行くとき、苦しみが無くなり至福が訪れるのが「滅」の状態なのです。

 

▼こころ

おかあさまは

おとなで大きいけれど、

おかあさまの

おこころはちいさい。

 

だって、おかあさまはいいました、

ちいさいわたしでいっぱいだって。

 

わたしは子どもで

ちいさいけれど、

ちいさいわたしの

こころは大きい。

 

だって、大きいおかあさまで、

まだいっぱいにならないで、

いろんなことをおもうから。

 

 こころは、自由自在で大きくも小さくもなる。そして、何を入れておいてもいい。しかし、そこまで自由自在になるには、相当のやさしさと、思慮深さと、困難への暖かな思いやりが要ったであろう。そして何事にもへこたれない希望と、不屈の精神が。

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「生きるとは苦しみである」

二、仏さまへの出発

1)人間の心

▼こころ

おかあさまは

おとなで大きいけれど、

おかあさまの

おこころはちいさい。

 

だって、おかあさまはいいました、

ちいさいわたしでいっぱいだって。

 

わたしは子どもで

ちいさいけれど、

ちいさいわたしの

こころは大きい。

 

だって、大きいおかあさまで、

まだいっぱいにならないで、

いろんなことをおもうから。

(金子みすず)

 こころは無限大に大きいし、針の穴のように小さくもある。

 こころには何でも入りそうだし、入れれないものもある。

 私達にもしも心が無ければ、私達はただ食ったり、遊んだり、働いたりする動物に過ぎないでしょう。ロボットという機械があります。最近では人間よりロボットの方が良く働き、特定の仕事では人間より速く的確に仕事をします。でもロボットには、喜怒哀楽はありません。昔のアニメのアトムは悲しんだり喜んだりしました。鉄腕28号はどうだったでしょう。28号には心は無かったのでしょうか。

 やはり、今のところロボットには心がないと言うべきでしょう。だから、人間が勝手に作ったり解体したりしても罪が問われないわけです。しかし、あんなに一生懸命働いて、楽しくも苦しくもないというのは可哀相な気がします。でも、インドのストリートチルドレン達の苦しい惨状を目の当たりにすると、「心がなくて良かったね」と言ってしまいそうにもなります。この話しは実は、人間の尊厳の話になりますから、いい加減に話すことは出来ません。ここで言えることは、私達はこころを持っているというミラクルな事実です。そして、そのこころが、喜怒哀楽を繰り返し、行動を左右し、生きる意味を考えるということなのです。

 さて、私達には心があるわけですが、もしもこの心が無ければ、私達に行動はあるのでしょうか。腹が減ったという意識が無いままに食事をしたり、貴方が大好きだという恋い焦がれる気持ちもなく結婚したり、子供に恵まれたり(つくったりするひともいる)、仕事したりするのでしょうか。確かに無意識のうちにパンを手にとっていたということもありますが、やはり、意識という関所を通らずして、次々と行動をすることは無いと思います。

 今、心は関所だという言い方をしましたが、関所だとすると一方通行の関所なのか、それとも双方向の関所なのか、どうなのでしょう。

 先に考えたように、心は行動の命令をします。腹が減った、そして、食事をしよう。眠たくなった、寝よう。これらは、自分の欲求に従った行動命令と言えます。また、腹が減った、今は食事時ではない、後にしよう。または、食事より大事な事態が起こっている、救急車を呼ぼう。と言う場合もあります。

 そうすると、心は一つには、自分の内部の感覚などの情報を受けています。そして外部の世界、自分が住んでいる世界の情報を受けています。内部世界といっても、身体感覚もあれば、記憶の世界もあり、理論の世界、理念の世界、目的の世界というふうにいろいろな情報と欲求が絡み合った世界を受けています。

 ややこしくなりましたが、「心は鏡」といわれるように、様々なものを映し出す性格を持っているということです。

 ですから心が広ければ、見たもの聞いたものなど、次々と心に入れる事が出来ます。心が広いとは、好奇心の大きさと、関心の持続と、心の寛容さのことでしょうか。逆に心が狭ければ、偏った一部のことしか入りません。狭いとは、興味が偏っている、自我が強くて他人の意見を受け入れない、勉強をしない、自分の考えが正しいと思って他の考えへと成長しない、自分で物を考えない、食う寝る遊ぶ以外しない、他人に共感したり共生したりしようとしない、ということでしょうか。

 このように書いてくると、色々なことが分かってきます。

 心は「外部の世界」の鏡だと言われるけれど、実は、外部の世界を「そのまま」写し取っているのではなく、心の欲求に従って取り込んでいるということです。写真機は外の世界をそのままに移します。それでも、夕日を浴びた三重塔は赤く空に染み入り、朝日を浴びた三重塔は青く輝き、白昼の塔は眩しく輪郭を焦がします。それは三重塔だけの姿ではなく、その時々に浴びる光との合同の姿なのです。三重塔とお日様とが二人で創りだした姿が、夕日の塔、朝焼けの塔、日中の塔なのです。そしてその光をカメラのレンズがフィルターとなりフィルムの特性と相まってプリントへと流出していきます。

 心に映し出された「外の世界」というのはどうでしょう。世界は私が見ようと見まいと、関心を持とうと持たまいと「在る」わけです。赤ちゃんが車内で熱射病になっているのを知らなかったといっても、放置すると死んでいきます。知らないから無いのではなく、知らなくても在るものは在るし、無いものは無いわけです。そして、先の三重塔を照らす光こそが私達の欲求なのです。私達の欲求が外の世界、物の世界に光を当てます。腹が減ると食堂がクローズアップされ、速く帰ろうとするとタクシーが焦点を浴び、途中に旧友を見つけると、ノスタルジーが回顧します。それらに光を当てているのは他ならぬ私であり、他者ではありません。そして、その光は自分の内的欲求、内的状態を反映し、生きざまを反映して、物事を選び、その物へと、赤や青や黄色のそれぞれの光を当てるわけです。

 同じ中華食堂の前に立っても、好きな人はバラ色に見え、胃腸の弱っている時は、そのむつこさに胃の痛みさえ覚えるのは、私の世界であるからに他なりません。ところが、こんな時でも、私達は、別の光も当てています。友人と一緒に食堂を探していたとして、友人は中華が大好きだと知っていたなら、胃の痛みを耐えてでも彼に付き合い人も居るでしょう。

 そうすると、私達は、自分本位の光も発すれば、過去の光や将来の光、そして他者の立場を考えた光、そしてより客観的な光も同時に発して「外の世界」を映し出しているわけです。その光の構成によって、私達は利己的な人になったり、お人好しになったり、世間知らずになったり、理性的な人になったり、律儀な人になったりするのでしょう。

 逆に、恐ろしい事実が見えてきます。

 私達が見ているもの、あるいは見てきたものこそが、自分の興味であるという事実です。自分が見ているものこそが、自分の大事にしているものであるということです。

 「私は家族を一番に思っている」という人が居るとして、残業中に家族の顔が見えてこないとか、ゴルフばかり熱中して胃が痛まないというのであれば、彼は嘘つきだということになります。彼は、他人に嘘をついているか自分に嘘つきです。「私は共感と共生を大事にしている」と言うならば、世界の貧窮者のことが頭をよぎらなければ嘘になります。この点では、その人が見ているもの、そして行動したなかにこそ、その人の価値観=何を大事にして生きているのかということは隠れていると断言しなければなりません。

 私達の心は私達が光を当てたところのものを、当てた光の色で心に取り込みます。

 だから世界は一つであっても、それぞれの人の世界は十人十色になります。そしてその裏側には、私自身という内のまたその内側の世界がドロドロと横たわっているわけです。その深い深い深層の欲求こそが、光の源なのです。この源も見える「外の世界」の色合いに従って変貌して行くわけですが、この深い深層の欲望を知り改めることこそが、仏教の重要課題となります。

 私達の心は関所として、内の世界と外の世界を意識し明らかにしながらも、内の世界に操られ、外の世界に右往左往しながら心の所在を不明にしています。どのような光が内から発せられ、そして外から舞い戻ってくるのか。あるいは、どの様な事実が外の世界にあり、私自身とどうかかわっていくのか。それを知る手がかりこそが、この関所たる私の心ではないでしょうか。

 

▼星とたんぽぽ

青いお空のそこふかく、

海の小石のそのように、

夜がくるまでしずんでる、

昼のお星は目に見えぬ

見えぬものでもあるんだよ、

見えぬものでもあるんだよ。

 

ちってすがれたたんぽぽの、

かわらのすきにだあまって、

春のくるまでかくれてる、

つよいその根は目に見えぬ。

見えぬけれどもあるんだよ、

見えぬものでもあるんだよ。

二、仏さまへの出発

2)人間の体

 ▼花のたましい

ちったお花のたましいは、

みほとけさまの花ぞのに、

ひとつのこらずうまれるの。

 

だって、お花はやさしくて、

おてんとさまがよぶときに、

ぱっとひらいて、ほほえんで、

ちょうちょにあまいみつをやり、

人にゃにおいをみなくれて、

 

風がおいでとよぶときに、

やはりすなおについてゆき、

 

なきがらさえも、ままごとの

ごはんになってくれるから。

 

 ある日、ある美男子が、遠い遠いところへ出掛けることとなった。彼は良くもてたから、みんなに着いてきて貰うものと信じていた。その人には五人の女友達があったが、出掛けることとなった美男子は、その五人に頼んだ。

 「どうか、私と一緒に来てくれ、お願いだ。これは長い旅になる。ひょっとするともうここへは戻れない」

 そして、とうとう出発の日になった。

ところが、一番親しくしていた第一の親友は、家の戸口まで来ると動かない。

 「残念だけど、私はこれ以上は行けません。私ほど、あなたに大事にしていただいた者はないとおもいます。しかし、遠くへ行かれる以上、別の人を捜すしかありません。私はそういう運命ですから」

と言う。

 「私はおまえを一番愛したではないか」とその美男子は、彼女に言い捨てて門を出た。

 しばらく行くと、第二の親友がこれ以上は行けないという。

 「私はここにのこって、貴方のことを

言い伝えましょう。しかし、私に出来るのはそれだけです。どうぞお元気で」

 美男子は寂しかったが、先を急いだ。村はずれにさしかかる頃、第三の親友が切り出した。

 「私はここまでです。どうぞお達者で。いつまでも貴方の幸せを祈っています。私は他の者たちのように決して貴方のことを忘れたりはしません」

 そして、また進むうちに第四の親友が言った。

 「私はここまでです。暑い日も冷たい日も、あなたと共にしてきました。どちらかというとあなたは自分のことに夢中で私のことを大事にはしませんでした。しかし、ずっと私があなたを支えていたことを忘れないでください」

 とうとう美男子は、あまり愛さず、必用ともしていなかった第五の友人と旅を続けた。その友人は言った。

 「とうとう二人きりになりましたね」

 美男子は言った。

 「ああ、とうとう二人だけだ。でもおまえは私と一緒に来てくれるのか。あまりお前のことは顧みなかったのに、来てくれるんだね」

 「はい、私はどこまでも着いていきます。これからは、もっと、私を大事にしてください。私はあなたにいろいろなことを教えるでしょう。様々なことをお見せするでしょう」と。

 美男子は、四人の親友と別れ、遺った一人だけの第五の親友と旅を続けた。

 誰よりも何よりも愛した第一の親友。

 振り向けば常にそこにいてくれた二番目の親友。

 苦しいときは励まし嬉しいときには共に喜んだ第三の親友。

 どんなにきつく当たっても耐えて頑張った第四の親友。

 それらの友はみな「さよなら」をした。そして、今、もっとも疎んじていた最後の友と一緒に歩いていく。

 

 お話はここまでです。これはご存じの四人の妻の改訂版です。ここでは五人です。第一の友は、何でしょう。それぞれ、1財産、2業績、3肉親友達、4我が身体、そして5我が心です。

 人が死んでしまうとどうなるのか。それがこの遠くへの出発です。いくら財産を貯めても死んだらついては来ない。業績や名声もついてこない。しかし、人の役に立ったり、誉れは多少遺る。しかし、いずれは消えていく。友人はどうか。私は、肉親や友人の心の中にずっと住み続けるでしょう。そして私が愛した人々の心のながにずっと私は愛されるでしょう。

 そして、体。私達は自分の体を酷使します。あまり大切にしているとは限りません。使うだけ使って、壊れたら静養するが、また直ると酷使する。それが体の運命でしょうか。

 最後に、つかず離れず、別れられないのはこの心です。心は自分そのもののようでもあり、他人のようでもあります。しかし、心が無ければ私は考えることも

、喜ぶことも悲しむこともできません。

心は私そのもの。そして私の窓であり、私の生きているそのものなのです。しかし、心を大事にして、心を育てようとする人は稀です。

 今日は、体の話だったのですが、この五つの中で、体は心に次いで不思議なものです。

 先の話では、カラダは、使えばよい、何かの目的のために丈夫で良く使えれば良いと考えがちではないでしょうか。

 言ってみれば、カラダは、心がいろいろなことを行っていく為の道具なのです。財産を貯めたり、名声を伸ばしたり、友人を広めたりするための道具と思われています。

 また、古くは、カラダは心を縛る牢獄と考えられた時代もありました。それは、体が煩悩を生み出す源泉と思われたからです。例えば、良く観察していくと、食欲は胃袋や味を見極める舌から出てきているとも思われます。

 おいしい味を覚えていてグルメが欲しくなる。良い臭い、良いかみごたえなど、体がいろいろな快感を覚えていて、それを「もう一度」とリクエストするのです。それらは、脳の記憶に蓄えられてもいるわけですが、そのソモソモの快感は体の舌や口や胃や鼻や等によるものではないでしょうか。

 そうすると、私達の心と体は切っても切れないように思えます。小乗仏教のある宗派では、そのことを五感つまり触れたり、味わったり、聞いたり、嗅いだり、見たり、の五つの原因としての目、耳、鼻、舌、身の五根として戒めています。戒めてと言うのは、その五つに振り回されるなというのです。その五つが我が物顔に動き出すと、私達の心がその五根(五つの快楽の根っこ)に操られて、虜になってしまうというのです。このことを執着といいます。

 心が自由ではなくて、不自由になってしまうのです。不自由とは、自分でものを考えるのではなくて、「おいしいなあ」とか「手触りがいいなあ」とか「きれいだなあ」とか「いい音だなあ」とか「この快感」というように、心地よい経験が先走って、私達の思考を邪魔してしまうということです。

 「どうしてもあの心地よさが忘れられなくて、また通ってしまう」あるいは、また買ってしまうということがないでしょうか。

 それは、心では「ダメだ」と分かっていても、「体うらはら」ということになります。

 しかし、心と体はもっと密接に関わっていて、解きほぐせるものかどうかは疑問です。昔からここの言葉では「身」といいます。身とは「心」と「体」の両方が合わさった言葉です。

 西洋では、厳密に精神と肉体を分けて考える傾向がありますが、東洋では一つのものとして考える傾向があります。それを身と名づけます。身とは心と体の分けられない思いの部分です。

 ですが、私達が亡くなると、やはり肉体をおいて、魂だけがあの世へと向かうと考えがちです。それにしても、切っても切れない肉体と魂。私達はもう少し、体について良く知る必用があります。例えば、俗に言う「煩悩」という仏教でもっとも退治すべきものは、心を発生源としているのか、それとも体をその源としているのか。これは重大な問題なのにあまり問われません。それは、ある意味で心が肉体から自由だと安易に思いこまれているからでしょう。しかし、肉体を発する煩悩は実に多いのです。

 「食欲(グルメ)」「性欲(セックス)」「惰眠欲(怠惰)」「快楽欲(快感)」「音(音楽)」等、私達の抗しがたい欲求の内の殆どが体から発しているものではないでしょうか。

 「寂しいから友人が欲しい」とか「もっと生きがいが欲しい」とか「生きてきて良かったという充実感が欲しい」とか「

豊かで含蓄のある心が欲しい」ということの前に、体を源泉とする欲望の数々に右往左往させられることが多いようです。しかし、それは人間が動物として生きて行くからには避けて通れないことであり、巧く使えば楽しみでもあります。

体を源とする欲を適度に満足させ、しかし、適度に満足して心の豊かさへと向かう。そんな工夫が大事ではないでしょうか。 

 

 仏教の見方

▼こよみと時計

こよみがあるから

こよみをわすれて

こよみをながめちゃ、

四月だというよ。

 

こよみがなくても

こよみを知ってて

りこうなお花は

四月にさくよ。

 

時計があるから

時計をわすれて

時計をながめちゃ、

四時だというよ。

 

時計はなくても

時間を知ってて

りこうなとりは

四時にはなくよ。

 

1)悪心にスケープゴートさせない

 これは物話です。サッカーの国際試合でした。日本チームはよく頑張って、もう少しで予選を突破して、ワールドカッブに行けそうでした。最後の試合に勝てば出場が決まります。しかし、最後の何分かでゴールを決められて、負けてしまいました。国の人々はみんな「日本チーム」が勝つと思っていたので、「何で負けたん」「何で」「何で」と口々に叫びました。

 「予選決勝まで良くがんばった」という人もいましたが「M選手があそこで力を抜いたからダメだ」という人、「監督が悪い」という人、どちらかというと、少数の誉める人と、多数の腐って誰かのせいにする人に分かれました。

 結局、試合の後、監督は辞めさせられて、責任をとらされました。

 さて、応援している試合に勝つと、誰かを持ち上げて誉める。そして負けると誰かの責任にしてすます。人間は都合の良いときには、人を誉める余裕を持ち、都合の悪いときには、人をけなす。本当は調子の悪いときこそ助け合い、良いときこそ反省を忘れないべきなのに反対のことをしてしまう。心理学では、これをスケープゴートと言います。だれか悪者をつくり出して、自分の嫌な気分や、集団の嫌な気分を誤魔化して追い出したふりをするわけです。

 試合に負けたが、負けを認めたくない。だから仲間のだれかのせいにする。というわけです。責任転嫁はなすりつける相手は誰でも良いわけで、だから、弱い立場の人が居ればもってこいということになります。こうして弱い人間に悪いことを押しつけて、自分をかばうと言うことになります。もともと、自分の心には、良いこと悪いこと、綺麗なこと汚いこと、好きなこと嫌いなことなど、見たいものも見たくないものも沢山のものがごちゃ混ぜに在るわけで、放っておくとゴミ箱のようになります。だから時々、見たくないものもふたを開けて、「どんなに見たくないものなのか」「実は、そんなに汚くないものなのか」「実は綺麗な物か」という具合に、整理をしておくべきなのですが、どうしても見たくないものもある。だったら、それは自分一人で処理すればいいのだけれど、どうしてもいやだと思うものを、他人になすりつけてしまうのです。

 汚いことをひとにやらせるというのと同じで、心の中の汚い部分はひとに当ててしまう。そして自分はその汚い部分をもっているということが無意識に後ろめたいままに自分を傷つけて、ますます他人へとやつあたりする。これは既に、自分一人では生きていけない弱い自分を、だれかに支えて貰いながら、他人を傷つけているわけです。

2)思い込みからの自由

 さて、先のサッカー戦。「勝つ」と思いこんだ太郎さんは、どうしても負けたことを受け止められない。「良く此処までがんばった」と思えば良いものを、そうは肯定できない。「勝つ」と一旦思ったわけだから、その気持ちを切り替えられないわけです。

 では、始めから「勝つかも知れない」と思わなければよかったのか。たぶん、思わなければ、負けの責任を問い質したりはしなかったでしょう。だから中途半端に強かったチームに責任がある。こう考えるのも同じ、悪者探しのやりかたです。ゲームなんだから、はじめから程々に楽しめば良かった。これがあたりまえの議論ですが、それではエキサイトしないと言って面白がらないでしょう。やはり、「深く思いこむ」ということはそれなりの危険を背負っており、その解き方を知らねばならないのでしょう。でなければ、本当に辞めさせなくても良い人を辞めさせることにも成りかねないのです。

3)思い込みの根拠の希薄・自分と他人

 太郎さんは、試合の後、話のように監督解任の一翼を担ってしまったのですが、その後、自分の出生の秘密を知り、実は自分が韓国人であることを知ります。「自分は日本人ではなかった」と知った太郎さんは、どう思ったでしょう。自分が日本人だと思い込み、「日本チーム」という「日本」の応援をしていたわけですが、だったら、元々韓国チームを応援すべきだったのでしょうか。それともずっと日本人だと思っていきて来たのですから、やはり日本を応援すべきだったのでしょうか。

 理屈はどうでもいいのです。まず太郎さんは、暫くの間、気が動転し、自分は韓国人だと思いました。だから以前ほど、日本を好きではなくなりました。そして次には、「日本チーム」とはなんだろうと思いました。日本人と言われる人が参加しているチーム。いや、外国人もいる。いや、帰化している?いや、協会に楯突いたら選手にはなれない。外人何割までは日本チーム?日本人チーム?

 変な話である。生みの親か、育ての親かのような話。そして監督は外国人?

 どちらにしても、自分が日本人で、日本が好きで、日本のチームを溺愛して、応援するというのは、どこか可笑しいというか、何かのフラストレーションのような気がするのは私だけでしょうか。もっと素直な大事なものが欠落している結果、とんでもない思い込みに、命を懸けている様なところがないかと心配してしまいます。

4)少欲知足とフラットな見方

 どこかで、何かへの不満が募っている。或いは逆に何となく物足りなくて何かしたくてどうしようもない。これも不満の一種であり、不満がはっきりしないだけに恐い不満です。そんな不満があると、何かの事件が起こったときに、そのことの意味づけに重大な間違いを起こします。例えば、犯罪が起こったときなどに、犯人を良く理解せずに刑を重くするなどです。自分の心の中のどこかに、大きな安心、大きな満足がないと、素直な見方はまず、出来ません。「何かやってやろう」「何かに噛みついてやろう」と思っているときは、当然、同じことが起こっても、それをねじ曲げて、或いは、大げさにして問題を大きくしたり、間違った方向へと持っていきます。現代の教育問題や、子供の問題はどうもそのような気がしますが。

5)無・人間が造った世界は人間に責任を持っている

 人間が造ったものは、人間にだけ意味を持っています。自然が造ったものは自然に意味を与えています。だから、人間は自分が思いさえすれば、自由自在に創造できるはずです。自分が全く満足すれば、無でも結構だし、何でも有りの筈です。人間は自分がそうしたいから、そう欲しているだけであり、理由があるとすれば、思い始めた後の協調と、思いやりと、是非だけです。それぞれが何を希求するかは、それぞれの発想にまかされています。

 しかし、それにも関わらず、人間の思いつくところは似たり寄ったりで、あまり変わらない。常に人間のやったことは人間の高さで評価される。だからこそ、重みが大きいのです。自然が造ったものには、自然こそにそれを評価する権利があります。人間が造ったものには人間こそにそれを評価する権利があります。

 逆に言うと、人間が造ったものに関していうならば、人間こそが意味を与えるのであり、光を与えるのは私達自身なのです。

6)空(縁起)物事は変化していく、物事は一つではない事柄の掛け合いである

 宇宙の始まりはビッグバンであると言われてから、仏教の存在論は危機に瀕したかに見えました。ビッグバンのその時には、地球も生命もなく、何かエネルギーだけでした。粒というか、波というか、力というか、力と力が互いに作用し合って異化していき、できあがったのが今の宇宙で、それも益々変化していきつつあるというのが今の宇宙観でしょうか。想像したり、名前を付けることが難しい世界なのです。

 仏教では「これあるによってかれあり、かれあるによってこれあり」というあり方をたてます。あたかもビッグバンで始まった世界を次ぐように、これも、かれもひとつでは存在しない。互いに支え合って在るんだということを説きます。また、時間の流れの中で、沢山の事柄が絡み込んで起こると言うことを説きます。それは逆に、物事に定まった性格はないということを説き、例えば改心すれば即座に改められるという可能性を引き出します。

 縁起の世界では、自分は既に独力で生きているのではなく、多くのものとの相互力で生きていると言うことになります。逆に、個々の単位は好悪を放れて自由な存在だというのです。

7)大欲・より大きなやる気で包んでいく

 人間が考えることは人間にのみ責任を持ち、ものに定まった性はないとすると、一体私達はどこに根拠を得て生きていこうとするのでしょうか。それは、経験によるとしか言えません。試行錯誤ということになります。ここに仏教の大逆転があるわけですが、結論が無いと言っておきながら、実は結論は用意されているのです。

 それは大悲心を持って生きるということです。真言宗ではそれを大欲といいます。仏さまの欲です。ちよっとした「おもいやり」の気持ちを加味して生きていくということです。できれば、仏さまの国をつくってやろうなどと仏教徒気分で生きていく。戦争には参加しない。人殺しは絶対しない。何があっても人を傷つけることはしない。そして、人の痛みには今までより敏感になろうと決心して生きていく。そんな仏教徒の生き方を選ぶことが、最初の大欲の生き方でしょう。

 大欲にはメリットがあります。一は、小さなことにクヨクヨしなくなることです。二は、笑顔が増えることです。理由は、より大きなやすらぎと、より大きな目的は、小さな苦しみを緩和してくれます。そして自分自身から外へと力を向けることは、自分のこせこせした殻を解き放ってくれます。

 

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