葬式仏教が仏教でないことは明白である
加えて、釈迦尊が四門出遊という死人と病人に出会って青ざめたというのも嘘っぽい
釈迦尊は武士でり弓の名手であった。本当の仏教は釈尊自身が最古のお経に明言している。是非読んでいただきたい。特に仏教入門2を(京大名誉教授荒牧先生が断定される最古経である)。尚、仏教入門3はかなり読みにくいが、冒頭のスッタニパータのアッタカヴァッガの幾つかの短い経を読み比べると、どれが古いかが分かってくる。そしてその先には予期せぬ結果が待っている。それが仏教の原点
仏教インデックス

仏教詩

ブッダ研究館teaching pf buddha
無料PDF書籍・朝の勤行録音
新訳衛門三郎伝説御詠歌 平和観音
福徳授与灌頂 五仏礼拝 戸田恵子 ラジオ出演徳さん遍路 心の旅楽天徳さん
仏教入門シリーズ三冊完成 一冊五百円送料込み 多数の場合は二百円です
クリックでPDFで見れます。石手寺住職加藤俊生著
   仏教入門1経典和訳と四国遍路
遍路行で使うお経を解説し和訳する
またお参りの仕方や遍路の古今や種々の遍路を解説する

仏教入門2本来の仏教・ブッダの真実

これを是非読んで欲しいブッダの全てが語られる。釈迦仏陀の教えを最古のお経と時代背景から掘り起こし、現代の仏教を考える
   仏教入門3最古層の経典の変遷
「スッタニパータからサムユッタニカーヤへ」
原点を読む。人間釈尊の仏教がどのように起こり変化していくかを仏教学的に解説
素朴な教えが無我や無常や縁起説に変遷していく
   善通寺教学振興会紀要21号に論文
武器を手にする経と死後を憂う経の比較により釈尊の原体験を特定する 
簡略に仏陀の根本に迫る
   仏教入門4再生修行・三教指帰と衛門三郎伝説 
弘法大師空海の遍路を解説。また衛門三郎伝説に籠められた遍路の意義を明確にする
   新刊 逆打ち衛門三郎
巷では逆打ちに踊るが、その虚と実を解明する
真の逆打ちの意味は何か
衛門三郎伝説と弘法大師の真の遍路行
弘法大師が24歳で執筆した三教指帰血よって、空海大師の遍路行が明確となる。そしてこの千二百年の間に営まれた真実の遍路の方々が居る。それが衛門三郎伝説き真意てはないか 巡礼遍路研究会第三回発表
  石手寺真言修行法 
真言マントラを発声し、その思いを念ずることによって自己改革し、対立心を克服しみないっしょの心を獲得する
  善通寺教学振興会紀要22号に論文 
「最古経のカーマを解明し無常無我空ではなく抜矢と共苦による平安説法を確定する」
   推薦図書・必読書
ラクシュミー・ナラス、インドの物理学者が解明するブッダ本来の仏教
原文はこちら
 新刊

仏教と金子みすゞの詩



真の仏教と日本国憲法の理想


人殺しの宗教と
皆一緒の宗教



ふしぎ発見

ブラタモリ

羽鳥モーニング
仏教入門1・2
仏教入門1経典和訳と四国遍路
仏教入門2本来の仏教・ブッダの真実
入門@四国遍路で唱えるお経を解説 、特に最古お経、仏陀の肉声、理趣経百字偈を掲載解説。
A本来の仏教・ブッダの真実。お遍路文化を実際のお遍路さんに訪ね、また、ホームレス避難所開設や、毎年の年末の自殺者供養、悩み相談やビルマ戦争孤児救援、戦跡追悼の経験から、仏教の原点を探る 。
最古お経スッタニパータき中でも最古であり、仏陀の肉声でありうる武器を取って恐怖が生まれたの詩を解説。仏教の本質を探る。
ところがである。なんとブッダ釈尊の原点は武士である自身にあったのだ。つまりブッダの悟りは人切り人の解脱である。それは無宿者には無宿者き悟りがあり、困窮者には困窮者の悟りがあるということになる。
そのことが最古のお経にしっかり書いてあるのに驚嘆する。訳して、お釈迦さんの仏教の始まりを解明し、その出家の動機に迫る

仏教入門3
仏教入門3最古層の経典の変遷
「スッタニパータからサムユッタニカーヤへ」 
スッタニパータ、サムユッタニカーヤ、など最古層のお経を比較して、仏教の源流を見る。
京大の恩師、荒牧名誉教授に確認したところ、スッタニパータ4−15経が最古の経であることの確認を得た。パーリ語原典を解読し、他の古いお経と の関係を見つめる中で、釈迦仏教が長老や弟子によってどのように受容され、展開していったかを追跡するなかで、本来の生活苦や戦争苦や差別苦や同類闘争苦 を原点とし、心の鎮静化こそがその出口であった仏教が、厭世仏教へと転化していく事を見る。またジャイナ教やウパニシャッドとの関係が明らかとなり、その 影響や教理に及ぼす変化を見る。
当初説かれなかった、無我や縁起や空の思想の発端にも迫る
また、密教経典に書かれる難解な記述がウパニシャッドとくにヤージュニャバルキアの思想に淵源があることを見る

仏教入門4
仏教入門4再生修行・三教指帰と衛門三郎伝説
四国88ヶ所お遍路開始1200年記念の年といわれるが、その端緒は何か。そして何が受け継がれ綿々と続いているのか。その原点は、空海聖人の家 からの出奔であり、進退窮まったと慟哭する空海聖人がついに、室戸で谷響きを惜しまず明星来影すと嘆じて、自他兼利済の第二の発心を得た事に尽きる。それ は空海聖人の著書三教指帰を読めば歴然であり、それを解明する。そしてなんと一見陳腐な衛門三郎伝説が、実はその空海聖人の四国遍路再生すなわち第二の発 心、第二の人生の出発点の確保を、庶民に示した事を。
また、三教指帰をみると、空海聖人の主著である十住心論の構成の基が解明される。特に第一住心からの心の出発は圧巻である。
著者・石手寺43世加藤俊生・京都大学仏教専攻
仏教コーナー
仏陀の肉声 最古のお経
我は、相手を討とうと武器を手にするも、痛みが起こり停まりぬ
そのゆえんは、他人を損なえば、他人に痛みあり、それを我もまた痛む
そのゆえんは、敵対せば、我と汝、皆一緒の安楽のくずれるを痛む
人々を見よ、互いにぶつかり合うを見よ、奪い合うを見よ、
和のくずれて我と汝、ともに裂ける苦しみを見よ
我は、この痛みを克服せり、それを語ろう

もろもろの有情がぶつかり合う、それはあたかも水の干上がりゆく池に
魚たちが跳ね合うようであり、そのゆえんを知らず、われを知らず、
他人を知らず、ただただ生きようとして、ぶつかり合い、つらく怒りて、
にくみ、うらみ、またまた、ぶつかり合う
われ、安らかなるところを求めしも、いずれの所も平らかならず、
あらゆる方角へとゆれ動くに、どこへ行くとも、はたまたこの世を捨てて、
別の世を求め、のがれんとも、痛みなき所なし
はたして、いかにしても終には、ぶつかり合うを見て絶望せり

そのときなり、もろもろの有情につき刺さる見えざる矢の見えたり
もろもろの有情、あれこれの見がたき矢に衝き飛ばされて、おのおの、
それぞれの矢の目当てへと疾駆して右往左往し、ぶつかり合い奪い合う

その見がたき矢を抜かば、疾駆せず、悲嘆に沈むことなし
あらゆるところに、あらゆる人々と親しく平等であり平安である
第二経 名識の非私物化と一切所平等平安
生きるとは人や物とのぶつかり合いなるに、我ら、おのれの欲得に照らして出会うものの善し悪しを決定して瓦礫を溜めて自由自在な意思にとどまることなし

もの、他人、世間、我が身、我にぶつかり合って、これあり、あれなしと定め、
また、あれ良し、これ悪し、あれ欲し、これ疎しと、わが見えざる矢に誘われるままに、これは我のものなり、これは他人のものなりと、握りしめて放さざる

しかれば田畑、牛馬、家族など、我がものにあらざるを、我がものと思いなして、我が身はこれこれを領有すと妄想して疑わざるほどに、それを失わば歎き、欲しければ奪う

もし、あれこれを握りしめて、これ我がものなりと思いなすことなければ、あれこれを失うとも、これ失せりといいて悲しむことなし。喪失や老衰の無常に負けることなし

もの、こと、と出会うに、自己中心的に把握したり、私物化することなければ敵対なし、いかなる世にも、いかなる人とも、いさかいなく、親しみあり、一切所に平等平安なり

奪い合う動揺を知り尽くしたる人は、あれこれとたくらむことがなく、だまして得せんと陰謀にあくせくすることなきゆえに、いかなるところにありとも平安なり

かれ、上、下、中とて優劣を目指さず、羨望せず、見下さず、同等なることを安堵せず 見がたき矢は抜かれ、欲望が静まるゆえに、我がものを肥らせては我がままを広げようとせず、奪うことなし、棄てることなし
第三経 大洪水
我らの生きるさまは、すべてを呑みゆく貪欲の大洪水なり。その激流は欲望なり。激流に溺れてすがりつくあれこれの流木は欲望によって色とりどりに構想されていく。

こうして色付けされたものは我らを誘惑して魅惑物となり、次々と生まれては実体化して川底に沈殿して固まり汚泥となる。

この激流と流木が織りなす魅惑物の泥濘は超えがたい

聖者は、この事実を知って魅惑物の汚泥世界を克服する

即ち、過去につくられた魅惑物の汚泥を解体しそこから漏れ出す漏水を干上がらせて、過去に作り上げた虚偽の魅惑物から解放され、過去の魅惑物を反芻して楽しみ、その繰り返しを願うことをやめる。

また、未来を空っぽにする。未来へと流れる愛欲の激流をとめて、未来の魅惑物を構想することをやめる。

そして、現在に、愛欲を走らせて魅惑物を握りしめることをやめる

激流が静まり、妄想は消え、真実が現れ、吸引も衝突もなく平安なり

石手寺加藤俊生訳
理趣経百字の偈
至福への力ある菩薩は独り平安に耽溺せず、全ての有情が救われる日を夢見て、人々と苦を共にする。
心に描くことも働きかけも仏陀の智慧を得るなら、行くべき道を正しく選び、欲望を制して、傷害なく苦しみを離れる。一切の苦を除く清浄なる修行を目的とす るから、世俗に塗れても戒律を犯えず、自発的に生きる喜びに満ちる。泥に咲く蓮のように、欲望と罪悪の汚泥に呼吸しながら、それを改変して安楽を咲かせ る。
人々を平和にし幸福にする目的に生きる者は、闘争餓鬼の六道のなかにあって、ぶつかり合わず、奪い合わず、罪と苦しみを作らず永遠である。
世界平和への意思は大欲であり、大安楽へと到る。その意思力こそ、欲の世界、物の世界、意識の有無を問わず、国境や宗教や差別や、あらゆる障壁を超えて、あらゆる所に自在を得る。我が身を顧みず、勇猛果敢に、その目的を実現して倦まない
逆打ち衛門三郎再来 再生修行 逆打ちの意味
罰当たり地獄行きぞ
いまに衛門三郎みるぞ
 久万の道の駅で若い歩きの遍路さんに逢った。彼は職務質問されることを嘆いていた。不審者扱いされるのだ。ホームレス救援をしていて、同じような嘆きを聞いていたからピンと来た。その彼がこう言った。
 「『今に見ておれ、衛門三郎見るぞ』とよっぽど言ってやろうかと思った」と。
 衛門三郎は生きている。

見かけは汚い弘法大師を
追い払う無慈悲な衛門三郎
 衛門三郎の話は、「罪と罰」の話である。衛門三郎はこともあろうに弘法大師を叩き出す大悪人である。私はずっと自分は衛門三郎とは関係ないと思っていた。ところが告白(仏教入門1参照)したように、ある極寒の日、一人の糞尿にまみれた泥酔の老人が門前に横たわって動かない。私は彼を家に入れようとするが悪臭に狼狽していたときだ。師匠はすくっと彼を抱き上げて家に入れた。そのとき思った。
「私こそが衛門三郎だったのだ」
 テレビでは毎日のようにパレスチナの殺戮やアジア・アフリカの飢餓が伝えられる。また、格差で学校に行けない子どもたち、結婚しない若者、子どもをつくれないことが報じられる。
 彼等が我が家にやって来たらどうするだろう。
 学資を貸すか、家に泊めるか、食事を出すか・・・
 追い返すならば、衛門三郎である。
 あかしんごうみんなでわたればこわくない
 戦争もみんなでころせばいたくない
・・・・・・
 やっていないで済ませばそうりの国うつくしく、ほこれば病みゆく罪と罰・門叩く音はすれども声きこえずば地獄ぞ住み処
 仏教は罪の自覚から始まる。
 罪の自覚とは自分が衛門三郎であると知ることである。
 ここに遍路の原点がある。
衛門三郎は逆打ちで大師に会う
 閏年に逆打ちをすると御利益大なり。そのルーツは衛門三郎。石手寺の境内は五仏曼陀羅。五仏を観光客は右に回るが、地元の信者さんは左回りに巡る。
右回りは布施行、左回りは修行
弘法大師は左回りして覚る
衛門三郎も逆打で大師に会う
逆打で三郎が弘法大師に会えたとは、汚い乞食僧の真の姿が見えたということ。
実は弘法大師
見かけはきたない僧
を衛門三郎は追っ払う。三郎には僧の正体を見破る眼力がなかった。見えないものには心に尊いものが見えない。その答えは、「右回りは慈悲」「左回りは修行」に隠されています。

逆打ち・左回りが修行
 いくら慈悲行をしようとしても眼力がなければ施すことはできません。誰に何を施したらいいのか。見かけが綺麗な者に布施して、汚い者には布施しないのであれば、再び訪れた汚い僧を再度追っ払うでしょう。相手が弘法大師だからするのではなく、実はみんな弘法大師なのです。弘法大師も二十歳のときは市中に糞尿を浴びせられながら光明という名の布施者に助けられて苦難の遍路をする一人の遍路人であり、後に室戸で発心して大師への道を発見します。(是非仏教入門4三教指帰を読んでください)
 汚い僧が自分と同じ人間であり、今夜の夜露に苦しむだろうと思うから布施をするのです。
 このとき布施は布施ではなく自分の為となります。では、この眼力はどうすれば身につくのか。無心に不動呪文を唱えて、自分の至らなさを懺悔し煩悩を反省し慈悲を求めるのです。それは右回り、即ち順打ちです。亡き人を供養し、悪業を懺悔し、布施して辺土し、接待される行です。そしてそれを下地として、四年に一度、逆打ちの左回りをします。自分に開眼の時が訪れるのです。貪りや怒りの煩悩によって覆い隠されていた真実が見え始めるのです。瓦礫と宝玉を転倒して見ていた心が入れ代わって、真贋を見抜く眼力が身につくのです。
 では真の宝とは何か。
 衛門三郎は再生して人々の役に立ちたいと言いました。若き空海上人は、石槌を左回りして室戸に「自他兼利済」と第二の発心つまり仏の発心を宣言しました。
発心に二つあり
?自分の為の発心
?自他兼利済(仏の発心)
 三郎が、罪を感じて出奔したのは、自分のための第一の発心である。子どもの死を痛んで供養の旅に出るのも、実は自分のための第一の発心である。三郎が再生のとき、「人のために尽くしたい」と願うのは、第二の自他兼利済の発心である。
 弘法大師が、二十歳で四国に放浪するのも、御自身が進退に谷まって嘆息する自分のための発心である。ついに室戸で明星を発見し「自他兼利済」を決心するのが第二の発心である。
 発菩提心真言には、この「自他兼利済」の願いが籠められねばならない。しかし、そのように心底思い始めるのにはまだまだ時間がかかる。

思うとしているは大違い
 弘法大師は「自分も他人も幸福になる」ということを室戸で決心する。これは第二の発心であり人生の再出発=再生である。しかしその決心には重大な問題が隠されている。
 自他が皆一緒に救われることを決心したのだが、その決心には次の三段階があるのだ。
 @正しいと思う
 Aそう願う
 Bそうしている・・・この三つは根本的に違う。
 たとえば、東日本震災で人々が路頭に迷った。
@の人はテレビを見てうなずく。
Aの人は、助けたいと祈っている。
Bの人は既に東北に出かけて毛布を配っている。
 お勤めには「発菩提心真言」が欠かせないが、菩提心とは
?悟りを求めること、
?人々を救済すること
の二つである。私たちは何度も「おんぼうじしったぼだはだやみ(我は菩提心を発起せん)」を唱えるが、衆生再度を念願しているのか。これが逆打ち遍路修行の重大問題となる。
 思うに、衛門三郎は大師を追い払うが、夜露に濡れるのは可哀相だが、家族が大事なのでやめた。つまり弱っている人を助けるのは『Aそう思う』が、『Bそうしている』ではなかった。だから後悔して償いをしようと家出するのである。
 自他兼利済を思わない人が、思うようになるまでは千里も道のりがある。そして実行している自分を発見するまでには万里があるようにも思える。しかしこの違いが分かって、自他兼利済=皆一緒安楽を願う人は、到達しているに等しい。これを、

発心即到=発心すれば即ち到る
 という。自他兼利済を発心すると共苦し
その日から衆生の苦を背負い始める
悩み相談の開始である


衛門三郎の話は、上下逆転の話である。
長者の三郎が、行き倒れ遍路となり、薄汚い乞食僧が、弘法大師になる。
しかし、衛門三郎は、最愛の子どもを亡くし、遍路に身をやつして身の程を知り、考えを逆転させる。建て広げた家屋敷は、高慢を太らせるためではなく、弱い人々を助けるためにこそあったのである(この点は是非仏教入門4をお読みください)。
 大事なのは屋敷か人かと問えば、人が大事であった。それを忘れていた三郎は全てを失ったが、そもそも何も手にしていなかったというべきだろう。
 そして、何も持たない薄汚い遍路は、実は多くの可能性と喜びを秘めていたということになる。
 金ではなく人情だ
と言えば、事足りるようであるが、頭で分かろうとする人間には遠ざかっていく。だから八八の長い長い円運動が待っている。
まるで車輪の上下が逆転するように
不動呪と虚空蔵呪
 不動呪「バザラ金剛よ我を清めたまえ」
 虚空蔵呪「金剛の宝よ出現せよ」
 私たちの心が画用紙だとすると、そこには自分の家や地位や財産や家族や・・・色々なものが描かれていて、ひょっとするとごちゃごちゃである。
 それを消しゴムで消すのが不動呪である。
 すると、真っ白な宇宙が広がる。
 この広大な宇宙の中で
 何を拾い上げるか、何を見るか
 そこに、ただ一つ大事なものを描く。これが虚空蔵呪である。
 しかし、最初から良い絵が描けるはずもない。
 描いては消し、描いては消しして本物ができる。

三郎は、自他の幸福を第一義とした
再生の寺石手寺で生き方が変わる
遍路は癒しの場と言われる。
しかし、自分が癒されただけでは、修行は完成ではない。
弘法大師も衛門三郎も、苦行の果てに得たのは、それまでとは別の生き方である。
生きる方向が変わるのが再生修行
自分本位から、皆一緒の生き方へ
上下転倒して皆一緒なり


この本は仏教入門4「再生修行」の縮刷版です。
是非本書にて弘法大師の遍路行をお確かめください。