ぶつぶつ 05年まで
| 0511戦後、人を殺したことのないこの国をこよなく愛し、誇りに思う |
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この文章を書いている間、衆議院選挙が行われ、その会議で、憲法改正が論議されることは疑いない。
多数を占める与党の、憲法九条改正案では、
「新条項で自衛軍の保持を明記。国際協力については「国際的に協調して行われる活動に積極的に寄与する」との理念をうたい、参加できる旨を規定。これにより、海外での武力行使を事実上認めた。(毎日新聞8月1日)
とあり、
1)集団的自衛権
2)国際協調による海外での武力行使
を認めるとしている。
ということは、もしも
2003年3月のイラク侵攻開戦の時に、日本国が、自民党案の「憲法」を持っていたなら、イラクに派遣された自衛隊は、正当に、武力行使を活動内容として、派兵されたことになる。つまり、理由はいかにせよ、日本軍が、他国民を殺すということが正当になされるわけである。
そしてその理由は、
日本外務省の弁では、上記2)の国際協調による海外での武力行使によって承認される。大量破壊兵器を持つ国への攻撃である。
あるいは、
米国がテロ戦争を被って、その報復あるいは先制自衛として、イラクに反撃し、集団的自衛権と日米安保によって半ば自動的に日米軍事行動がなされるのである。
上記のことは恐らく本筋において間違いないと思われる。
そのようなことが有って良いのか。国際協調と集団的自衛権の名のもとに、戦闘が行われるのは間違いない。平和を唱えながら、都合のよい時だけ戦争を仕掛ける。その土俵にこの国は乗ってはならない。
九条を守り、戦闘行為をしない方向こそ、唯一の平和への道だと確信します。専守防衛に徹すること、その道を守り、世界に広めることこそ、歴史の痛みを供養することであり、ただ一人も殺さない、不殺生を実現していくことと思います。
何卒、御勘案の上、この世紀の分岐点において、真の平和楽土実現のため、本旨に御賛同頂きますよう、伏してお願いいたします。
石手寺加藤俊生
一、「 宗教者九条の和 」にご参加ください
一、「 映画リトルバード 」をご鑑賞ください |
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| 0512マネーゲーム |
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マネーゲームという言葉が一人歩きしだして久しい。マネーゲームとは何だろう。働かずに儲けること。お金をお金で手に入れること。投機の博打。あぶく銭。その逆は実体労働。実際に働くこと。汗をかくこと。
正直者が馬鹿を見る。真面目は意味がない。そんなことさえ口にしない汚い時代になった様な気がする。どうしてかというと、方や汗水垂らして働いて千円未満。方や、株やインターネットで、汗を流さず数億円を稼ぐ。ばかな話である。先日も、なんとか銀行が、間違いで数百億円の損失を出した。その一方で、何億円を儲けた人がいる。
こんな時に何と言おう。抜け目ないとか、賢いとかいうのだろうか。そんなばかなである。働かずに儲ける一番がアメリカで次が欧州で次が日本だろうか。ひところは、何もかもがメイドインジャパンで嬉しかった。私たちは汗をかき、働いて社会に製品を送り出していたのである。それも問題がなかったわけではないが、今はすべてメイドインチャイナである。
働こうにも働けない時代が来ている。その一方で、マネーゲームで儲ける人々がいっしょに住んでいる。できるならば、そんな人々といっしょには住みたくない。なぜなら労働意欲がなくなるからである。
貧しくても良い、みんなで汗をかき、励まし合い、助け合って生きる世の中が欲しい。
沖縄戦で家族を失った、大城氏の言葉をかりれば「これからの世の中は貧しくても平和な社会であってほしい」。
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0510今、障害者について考える時
―いま障害者の生きる共生が狭くさせられつつあるのではないか。わたしたちはもっとのんびりとゆっくりといっしょに生きようと思う―
国会で「障害者自立支援法」が成立されようとしています。この法律の元では、障害者の方々が通所施設(作業所・授産施設)に通うのに、一定のお金を支払わなければならなくなります。 石手寺で通所施設をつくる計画があります。こうなると恐らく施設は成り立たなくなると思われます。この弱者への負担増と思われる法律はこの国の歩む方向を象徴しているようにも思います。今一度、考える時ではないでしょうか。
0507戦後、人を殺したことのないこの国をこよなく愛し、誇りに思う
この文章を書いている間、衆議院選挙が行われ、その会議で、憲法改正が論議されることは疑いない。
多数を占める与党の、憲法九条改正案では、
「新条項で自衛軍の保持を明記。国際協力については「国際的に協調して行われる活動に積極的に寄与する」との理念をうたい、参加できる旨を規定。これにより、海外での武力行使を事実上認めた。(毎日新聞8月1日)
とあり、
1)集団的自衛権
2)国際協調による海外での武力行使
を認めるとしている。
ということは、もしも
2003年3月のイラク侵攻開戦の時に、日本国が、自民党案の「憲法」を持っていたなら、イラクに派遣された自衛隊は、正当に、武力行使を活動内容として、派兵されたことになる。つまり、理由はいかにせよ、日本軍が、他国民を殺すということが正当になされるわけである。
そしてその理由は、
日本外務省の弁では、上記2)の国際協調による海外での武力行使によって承認される。大量破壊兵器を持つ国への攻撃である。
あるいは、
米国がテロ戦争を被って、その報復あるいは先制自衛として、イラクに反撃し、集団的自衛権と日米安保によって半ば自動的に日米軍事行動がなされるのである。
上記のことは恐らく本筋において間違いないと思われる。
そのようなことが有って良いのか。国際協調と集団的自衛権の名のもとに、戦闘が行われるのは間違いない。平和を唱えながら、都合のよい時だけ戦争を仕掛ける。その土俵にこの国は乗ってはならない。
九条を守り、戦闘行為をしない方向こそ、唯一の平和への道だと確信します。専守防衛に徹すること、その道を守り、世界に広めることこそ、歴史の痛みを供養することであり、ただ一人も殺さない、不殺生を実現していくことと思います。
何卒、御勘案の上、この世紀の分岐点において、真の平和楽土実現のため、本旨に御賛同頂きますよう、伏してお願いいたします。
石手寺加藤俊生
一、「 宗教者九条の和 」にご参加ください
一、「 映画リトルバード 」をご鑑賞ください
0505尼崎JR事故に思う
人が死んでしまった後に何をか言わんである。
それでもいくつか言いたい。
国鉄が民営化された後予讃線の特急に乗った時のことを覚えている。以前は座席に座りのろいが本を悠々と読んだ覚えがあった。ところが、二十分早くはなっただろうか、飛ばす車体はけたたましく揺れ、歯車が飛ぶのではないだろうかという不安と騒音の恐怖に「どうでもなれ」と思ったのを覚えている。いつかは死ぬと思った。
今回の事故を起こした運転手。はたしてどのような気持ちで運転していただろうか。待っている叱責だろうか。言い訳の仕方であろうか。遅れて当然のスケジュールをスピード違反当然で駆け抜けながら、それでも叱責され、だれも守ってくれない世界をどのような気持ちで走っていただろうか。彼は苦しみの余り自殺したのかもしれない。自分からではなく、境涯が殺していった。何より思うのは、「つらかった」だろうということである。
そして多くの人が知っていて、だれも彼を助けなかったということである。
もうけ一番、事故は仕方ない。指摘され放置しても殺人罪にならない。
稼げ、稼げ、稼がないやつは穀潰し。どこかの首相が先頭切ってそう言ってた。
なぜ、監獄に入らない。権力者は心せよ。
宗教者九条の和結成
清水寺さん法隆寺さん金閣寺銀閣寺さんも呼びかけて会ができました。あなたも入りませんか
不殺生戒を持つ仏教者は、「他者を自分と見て、殺さない、殺させない、殺されない」。正に「憲法九条は、仏者の願い(方丈師匠曰く)」である。世間にいながら不殺生を貫くことはこの法を守り世界に広めていくことであろう。
仏教者は、武器を持たず、戦わず、対立しない。
敵をつくりだすのではなく、和をつくりだそう。平和は握手を広げること。
0504ホームレスさんと花見に行った
ホームレスはお酒が好きである。でも働いている人はみんなお酒が好きである。でもお酒が好きなのと、お酒で気を紛らわすのとは全然違う。私もお酒には飲まれるほうである。飲まれるとは、意識を奪われる、そして、気が大きくなり、ストレスを発散した様な気になるのである。
しかし、それは欺瞞である。昼間、世間を気にして、小心なために言いたいことも言えず、我慢すると、酒の力を借りる。他にも大きな力の前に自分が無力で弱いと、酒の力を借りる。
さて、ホームレスといっても、この日の面々はみんな働いている人ばかり。ホームレスは働いてないとおもうのは無知だ。たいてい働いている。でも毎日は仕事がない。また、五十を越えると雇用されないから缶集めをしている。家を持つには何万円も要る。私も、失業したら、まず家をリストラするだろうか。ホームレスの多くは、借家にいたことも納得できる。
みんなが仕事に就ける様になること。これは国の仕事なのに、小泉さんはやらない。怠慢だ。
ホームレスの人は、素直だった。捨てるものがないのは心にとってはいい。
持つほどに絡められるとは我が心なり。
真実と批評と未来、温故知新に寄せて
私の足があなたの足を踏んだとしよう。あなたが言う。
「足を踏まれたのですが(あやまってください)」私はたいしたことないと思っていたので、「ああそうですか」と答える。
「今、踏まれたんですけど」
「いや、踏んでない、当たっただけです」
「踏んだでしょう」「踏んでいません」「では当たったことは認めますか」「いや接触です」「当たったでしょ」「当たっていない」
ここまでは、真実の問題。私の足が動いて、あなたの足の上に行ったことは間違いないだろう。
次に、その評価。あなたは痛がっている。踏もうとしていなくても、私の行為に因るものなら、私に非があることになる。着地場所不確認だろうか。
今後気をつけます。ということだろうか。
私が踏んでいないと言い張ったのでは、どうにもならない。正確には私の身体移動によって、他者を傷つけたということになるのだろうか。歴史問題は、真実の所の問題である。日本軍が中国に入って何千万の人を殺した。その他の加害をした。そこの所を認めないとか認めるとか、歴史学者の決定に従いたい。その善し悪しはその上で決めたい。
0502アジアとのパイプがほしい
今年は戦後60年らしい。先の大戦は、アジアの助け合い国家を目指して戦うといいながら、アジア二千万人、日本三百万人を殺し、多くの痛みを広げて終わった。その償いはどうなったか。その痛める魂は、憲法九条をどう考えているか。
アジアで大地震が起こり、多くの人が呻吟している。今こそともに痛み、ともに生きる、共感共生の生き方か求められているのではないか。仏教は平和と慈悲を説く。生きるもの全てが安穏であるようにと仏さまは祈っている。
その力を受けて、私達は共存の希望へと進むときではなかろうか。みなさんの募金を得て、救済へと進みたくご協力をお願いいたします。
0412阪神震災十周年とイラクなど戦争拡大に思う
阪神震災では六千人が死んだ。中越地震では犠牲者は数十名だっただろうか。その違いは、越後の家は積雪に対しての強固な家の造りにあったと報じられている。堅固な家は人々の命を守り、逆に弱い家は人の命を奪う。震災が単に天災ではないという由縁である。何事も、人智のできうるかぎりのことはしたいとの思いが深く深く残念無念につながっていく。何かができるということを私達は大事にしたい。
それに対して、世界の各地では戦争が続いている。そして拡大しているかに見える。「だれかが戦争をしたがっている」とは先月号の語りである。
冗談ではなく、「だれかが戦争をしたがっている」のではないか。
米国が始めた戦争で多くが死んだし、なにより何人死んだか、ファルージャという市はどうなったかを報道されないし、だれも語ろうとはしない。しかし、私達の首相が「よし」といいまた「よし」といってできたことである。そのひとのことを私は不適格者と呼びたい。なぜなら、人々の命を守るのが一国の首相たる人の使命だからである。
人の命を守る。簡単なことではあるまい。しかし、「殺さない」ということ。だれかが困っていたら「助ける」ということ。これは単純明解であろう。
私は忘れない。阪神震災のときもそうだった。「個人救済は自由主義にはなじまない」とかなんとか言って、被災者の立ち上がりに援助を怠った。中越でも、方向性は出さないし見せない。アフガンやイラクの戦争では、「人道支援」「日米同盟」を繰り返すだけで、自国や自分だけよかったらあとはどうでもよいという風潮の吹聴であろうか。
新しい時代が来たものである。ブッシュ大統領が「味方か敵か」と脅し首相が「日米同盟が滅ぶか」と国民を恫喝する。その裏には利権や保身や金や名誉がごろごろして見える。そんなことを思うのは幻想だろうか。それとも、赤く黄色く閃光が走る町空の下で、何が起こっているのかと問う時、「人が死んでいく、どんどん死んでいく」と答えるのが間違っているというのか。
災害で人々が傷ついていく。町にはホームレスが凍えていく。国も町も人も私も無為無策である。一切皆空である。いや一切苦というお釈迦さんの悟りである。いや一人食いの恐怖政治である。
人身売買大国だと日本は言われる。その犯罪を取り締まる国際刑事裁判所ができたのに日米は賛成していない。さすがに日米同盟である。世界の多くの富を独り占めにし浪費して、有り余る食料が世界の貧困に届かない様にしている。情けない状況だ。
人間にできることをする。できる限りのことをしても尚災害が人々を苦しめるのは我慢しよう。しかし、できることをしない。いやそれどころか自分だけ生き残ろうとする。そんなうんざりした世界に今私達は生きている。
募金をしボランティアに勤しんでいる人々には頭を垂れよう。そしてその意気込みが世界に広がる様に期待したい。
0412精神障害者とのふれあいバザーに参加して
道後中学校で「精神障害者とふれあうフレームづくりとバザー」があった。楽しい交流をしよう。また、精神障害を理解し、ともに生きるノーマライゼーションの社会をつくろうというものである。
実は、精神障害を患った場合、この世で生きていくのは苦しい。病気がそもそも精神の不安を起こす上に、人々からも冷たくされることが多い。その上、仕事に就くことも難しいし、人々とふれあう場所も少ない。
実際、お寺には、多くの方が悩み相談に来られるが、その内の何人かは精神病院や心療内科に通っている方である。
みなさんは、ここで、精神病院と聞いてどう思われるだろうか。ちょっと心配になったり、退いて構えることがないだろうか。
一般的に私達は自分が理解できないものに対して不安を抱く。そもそも人間の心は外からは見えないから、一度人間不信をいだくと猜疑心が広がり、人間関係がうまくいかなくなることはだれしも承知のことであるから、私達は礼儀や、顔つきや、言葉づかいを気をつけて、他人に親しみ恐れられないようにし、また機嫌を取ったりしながら生きている。
なかなか、この世で生きていくのは骨の折れることである。しかし逆に、私達が他人を押し退けて生きているとしたらたいへんである。やはり、私達は自分が生きるのが精一杯で、病気の人や弱い立場の人をかえりみず、押し退けていないだろうか。または、冷たい素振りをしていないだろうか。
その日は、作業所のメンバーさん(障害をもった人)とともに額縁を子どもたちがつくった。子どもたちは「楽しかった」「私だけの世界にひとつのフレームができた」と喜んでいた。
喫茶コーナーでは、話が盛り上がり、盛況な一日となった。そして、私達はメンバーさんの声を聞いた。明星会という精神障害者を支援しともに暮らす会の代表の方が紹介する。
「今から、メンバーさんの話を聞きます」。男性が話し始める。その人は私にこんな俳句をくれた方。「秋バザーコーヒー一杯母の味」。彼が話す。
「僕は大学のとき、友だちにいじめられました、それがもとで精神障害になりました。たいへんつらいことでした。いまは作業所でクッキーをオーブンで焼く仕事をしています」。
次の女性が語る。生徒も子どもたちもお母さん方も真剣に聞いている。大勢の前で話すのは勇気のいることだろうと思いながら、目に涙がたまってくる。
「今日はみなさんとフレームづくりができて楽しかっだです。こういう機会をまたもちたいです」。彼女もいじめられてきたという。次は男性。
「統合失調症という病気がありますが、風邪と同じような病気です。治って調子のよいときはまったく問題のない病気です。・・・今日つくったフレームは心の窓です。世界にひとつしかない自分だけのフレームに、一番大事なものを入れます。あなたは何を入れますか」。
「私は自分を入れます」。祝谷の公民館長さんが言った。
フレームづくりを通して、すこしひとのこころを見た。悲しさを湛えながら今日は喜んでいるこころ。人生の宝物は知らないところにいっぱある。
しかし、あたりまえにいっしょに暮らしていれば、彼らの悲しさを内に秘めた表情は、心からの喜びになっていただろうと感じる。
04099.11のいのり
二千四年九月十一日。あれから早三年。その間に戦争は広がり何万の人が死んだ。家族が泣いた。その何倍の人が手足を失った。心を失った。
御詠歌の方々に御詠歌をお願いしたら二十人ほどが集まっての供養と祈りになりました。禅宗の僧侶さんもきていただき、心通う祈りができました。「だれにも仏性があります。子供や両親や知人を殺されたものの痛みはだれでも同じです」そして、本堂のお薬師様の前に集まった私達の心はみな同じように、痛みを共有しつつ同じ方向へと向いていました。チェチェンという国では人々の二人に一人が殺されたといいます。その隣の国の学校で何百人という子供を中心とした人々が死にました。どうしてなんでしょう。
私達は心を痛め、心に平和を祈り、不殺生を誓いました。以下はその時の表白です。
謹んで仏菩薩そして、われらと衆生の善意発願に申し上げます。二千一年九月十一日ニューヨークでの事件では多くの人々が亡くなり傷つきました。人間が操作した飛行機がタワーに自爆して、多くの人を道連れにするという、驚きと、許せない怒りと、自殺という理不尽な悲しみを伴うものでした。
大統領は「新しい戦争、テロとの闘い」と呼び、報復戦争をその後展開することとなります。アフガンで多くの人が死に、イラクでは大量破壊兵器という大義もないままに、何万の人が死にました。その多くは、子どもを含む一般人であり、ファルージャなどでは、無差別の爆撃で何百人という人が死に続けています。
この間、テロはおさまるどころか、最近では北オセチアにおいて学校で何百人が死にました。子どもを殺され肉親を殺された人々の痛みは、出口を失い報復へと痛みの連鎖を繰り広げています。
ここに私達は、人々の痛みを共有したいと感じると共に、力や武力ではなく、話し合いによる和解の道があると信じます。また、テロにのみ解決を見いだそうとする現実の中には、弱肉強食を肯定する暴力や、貧富の拡大、生活格差や暴力支配という解決すべき問題が多々あると思います。
ここに、
一つ、暴力によるあらゆる犠牲者に対し黙祷し、その痛みを感じ、安寧を祈り、その声を聞きたい
一つ、真の解決は、暴力貧困の解消であると考える
一つ、私達は不殺生を誓う
我と衆生の善意発願の御前において黙祷祈願いたします。
世界と衆生に安穏と平和のあらんことを願います。
平成十六年九月十一日
0404イラク・ファルージャの大虐殺
4月11日 オキュペーション・ウォチ掲載
米軍はファルージャで、クラスター爆弾や大砲を使って、罪もない女性や子供たちをすでに数百人殺した、と現地の目撃者は告発している。その残虐さは、イスラエル軍によるジェニンの難民キャンプでの大量虐殺よりもひどいと描写する人々もいる。
筆者はこの3日間、ファルージャから負傷者をバグダッドに運び出した友人たちと電話で話した。ここに彼ら3人の証言を書きつづることにする。
*イタリア女性、ポーラ・ガスピローリの証言
ファルージャでは大量虐殺が行われています。すでに470人が殺され、1700人以上が負傷しています。停戦など、実際には履行されてはいません。市民の中で、女性や子供たちの多くは街を逃げ出そうとしています。
バグダッドへと向かう橋も、米軍により破壊されました。米軍は救急車にまで発砲するので、路上の負傷者を病院に運ぶことさえできません。
私はもっとイラクにいたいのですが、危なくてこれ以上ここには居られません。すでに外国人が27人も人質にされています。イタリア人の私も誘拐の目標になっているんです。私は飛行機でアンマンに飛びます。
*今日、そしてこの数日間、ファルージャにいた友人男性の証言
私たちはこの目で見たんです。ファルージャから逃れた何千人という人々が、13キロメートルにものぼる車列を作ってバグダッドを目指したのです が、砂漠で立ち往生しているんです。そして米軍は、その難民たちに向かって爆撃しているんです。 米兵はイラク人家族たちを攻撃しているんです!子供や老人や女性たちが、砂漠で米軍に痛めつけられているんです。
ファルージャ市内では、米軍はB52爆撃機を使って、爆撃したんです。彼らは病院も爆破しました。別の病院に傷ついた子供がいたのですが、その子の家族25人が全員、爆撃で殺されたんです。
米軍は空からクラスター爆弾を落としています。クラスター爆弾は地上で3、4メートルジャンプするんです。街の路上では殺されたイラク人がころがっています。米軍は「停戦する」と言いながら、また空から攻撃を仕掛けてきたんです。
これは大量虐殺です。どうか助けてください。世界中の人々に、大使館に抗議するように頼んでください。私たちには外国人が必要なんです。外国人ならここで何かできます。
私たちはこの3、4日間、ほとんど眠っていません。明日は外国人たちで米軍の検問所に抗議に行きます。
*イギリス人ジャーナリスト、レイ・ゴードンの証言
ここはもう狂気のさたです。私は自分の命がどうなるかも分かりません。外国人は徐々に殺されて行くでしょう。ファルージャのイラク人たちは、どんどんと絶望の崖っぷちに立たされています。
彼らの母親や父親や家や犬や猫や・・・すべてが爆撃されたら、イラク人たちは外国人を襲いはじめるでしょう。
- 0309松山市子ども育成条例に異議あり
この条例に保護者の責務として「子どもに深い愛情をもつこと」とある。この背景には、子どもの力が落ちているのではないかという危惧があるだろう。深い愛情ときちんとしたしつけがあれば子どもはしゃんとするのではないか。そんな期待があるのだろう。
しかしである。条例という取決めに「愛しなさい」と書くことにどんな意味があるのだろうか。この条例は宣言条例だと説明されている。ならばただの宣言にするなら問題は少なくなる。しかし条例にするならどう言おうとも取決めである。愛さない人は条例違反である。
私ならこのように書くだろう。
子どもを保護するものは、子どもを子どもの立場に立って大事にしなければならない。子どもは既に一人の人格として幸福を享受する一人の人間である。それに加えて、子どもが保護を受けるのは、自分一人ではその幸福追求が十分にできない場合があるからであり、保護者は子どもを助けて幸福を享受させる必要がある。そして、最も難しいことは子どもは将来にわたって成長していく人格であり、成長過程であるという観点から共に成長しつつ幸福を追求しなければならない問題があることである。
これは保護者の責務であろう。しかし愛することは責務とは言えない。愛するとは保護者が子どもに対して懐く感情であり、自然に発生してこそ意味のあることである。それ以前に、愛には溺愛もあり独占欲もあり、跡継ぎや分身としての愛着もある。確かに他の誰かではなくあなたでないとならないという意味の大事さを含んでいる点では、愛は排他的であって子どもにとっては唯一無二の安らぎと自己の認定をもたらすものである。しかし、その感情は愛せよという取決めから来るのではなく、相手を大事に思う熱心さから来るものである。
この子どもを一人の人格として大切に見る見方は、「子どもの権利条約」などに説明されるものであり、今回の条例中の「深い愛情をもつこと」という責務には、その英知と膨らみは感じられないどころか、個人の内面を規制し、感情という豊かなものを枯渇させていく恐れすらあるだろう。この条例には、郷土愛や厳格なしつけ的なことも書かれており、文脈で見るなら、ここで書かれる愛情は年長者から年少者へという上位から下位の者への押し付けとさえ感じられるのは何故であろうか。
恐らく、この条例には悩みつつ成長しようとする生身の幼い人間が想定されていないし、大きくなっても未だに人生に苦悩する自分の姿が見て取られていないからであろう。
この条例は必ずや将来において大人と子どもに禍根を残すだろう。条例に反対である。
非買という最後で最初の手段。納税拒否もしかり。
戦争をしない唯一の手段は納税拒否だと高橋作家が書いた「ブッダ」が今も門前で売られている。六百円だ。この本は、方丈住職が草案して作家と話し込んだ末に出来上がった傑作である。ブッダ=お釈迦さんについて書かれた伝記的書物は多々あるが、この出来ばえは最高だと思っている。もう一つ挙げるとすればアンベートカル博士の「ブッダとそのダンマ」である。
先日の「不殺生の祈り・追悼」で、福円寺住職が「仏教教団も二千年前に、争いをし殺しあい分裂するという痛ましい事件があったが、そもそも仏教は、むしろ争い殺し合うという戦争のなかから、平和という真実を求めて生まれた教えではないか。・・そして米国兵士の死もイラクの国民の死も、同じ親族の死として痛むのが原点ではないか」との趣旨の話をされた。
仏教の原点は、痛みへの共感であり、戦争ではなく武器を捨て平和を生きることである。その原点を同じくしているのが上記の二つの書物である。
高橋作家は国家が戦争をしようとするとき、私達に可能な行動は納税拒否だという。
ある場所で、不殺生を話し合っていたとき、ある人は「米国製品の非買」を説いた。戦争の裏に見えるどす黒い金への欲望。日本国の政治家もそうではないか。経団連もそうだ。ならば、非買は当然となる。私達は安いものを追いかけるよりも、道義ある製品を買うときに来ている。
道義ある品物とは何か。その製品の由来である。
その製品でもうけているのは誰か。搾取されているのは誰か。その製品に血の匂いはしないか。などであろうか。
いくら優れた製品も、その由来が血塗られていてはならない。今後、イラクの石油は血の匂いがするだろう。それでもイラクの為に買わねばならない時もあるだろう。しかし、私達はそのことを知って買い、時には買わないべきだろう。金を吸い上げて太り、根っこの部分である国民や少数民族を枯らしていく帝国は、その吸い上げるメカニズムを狂わせることでしか克服できないのか。
劣化ウランに殺される米国イラク両市民
劣化ウラン弾を知っているだろうか。
この兵器が最初に使われたのは一九九一年湾岸戦争の時である。その量は国防総省の発表では約三〇〇トン。次にコソボでも少量使われた。最近ではアフガニスタンでも約七〇〇トンが使われた恐れがあるが、国防総省はノーコメントである。湾岸戦争で戦費の約四分の一を負担した日本国にこの責任の一端があることは言うまでもない。
この劣化ウラン弾は、金属の中でも比重が重く、破壊や殺傷能力に優れているし、放射能を放ち始末できない厄介者として放置されていたが、軍事利用で一石二鳥ということで軍事産業に払い下げられたという。そして、この兵器が単に敵を殺傷するだけでなく、後々残留して、人の生育に害を及ぼす放射能汚染源となったという。
戦争に従事した米兵の多くに病気が起こり、イラクでは多くの奇形や癌が報告されているという。イラク政府によると子どもの癌は五倍、生殖器異常出産は三倍、イラク国民全体では癌は三八パーセント増であるという。
タグ・ロッキー教授によると湾岸戦争では二二万人を越える兵士が障害者になり、すでに一万人以上が病気で亡くなったという。
この劣化ウラン弾の半減期は四五億年なのでこの兵器を使われた場所は半永久的に病気の場所となる。
あらゆる戦争暴力は別国によってではなく国際刑事裁判所によって裁かれねばならない
イラクの地下では暗黒の監獄があり絶え間ない拷問の悲鳴が無い日がなかったという。一方、米国もタリバン捕虜の虐殺を行い、ガンタナモ基地のタリバン収容所では捕虜虐待が行われ大統領は「ジュネーブ条約の捕虜として扱わない」と明言するなど無法行為を宣言している。
これは文明の野蛮 大衆の沈黙ではないか。
私たちに今必要なのは、ブッシュを選ぶかフセインかではなく、個々の非人間的行為を罰する仕方ではないか。
その一つである国際刑事裁判所ができている。
ただし、日本国も米国も参加していない。なぜか。
それは、戦争ができなくなるからである。
私たちは今こそ、死んでいく一人一人に焦点を当てなければならないだろう。苦しんでいる一人一人に視点を定めなければならないだろう。
ブッシュかフセインではなく、個々の問題へと深入りしなければ個人は救えない。
4月11日 オキュペーション・ウォチ掲載
米軍はファルージャで、クラスター爆弾や大砲を使って、罪もない女性や子供たちをすでに数百人殺した、と現地の目撃者は告発している。その残虐さは、イスラエル軍によるジェニンの難民キャンプでの大量虐殺よりもひどいと描写する人々もいる。
筆者はこの3日間、ファルージャから負傷者をバグダッドに運び出した友人たちと電話で話した。ここに彼ら3人の証言を書きつづることにする。
*イタリア女性、ポーラ・ガスピローリの証言
ファルージャでは大量虐殺が行われています。すでに470人が殺され、1700人以上が負傷しています。停戦など、実際には履行されてはいません。市民の中で、女性や子供たちの多くは街を逃げ出そうとしています。
バグダッドへと向かう橋も、米軍により破壊されました。米軍は救急車にまで発砲するので、路上の負傷者を病院に運ぶことさえできません。
私はもっとイラクにいたいのですが、危なくてこれ以上ここには居られません。すでに外国人が27人も人質にされています。イタリア人の私も誘拐の目標になっているんです。私は飛行機でアンマンに飛びます。
*今日、そしてこの数日間、ファルージャにいた友人男性の証言
私たちはこの目で見たんです。ファルージャから逃れた何千人という人々が、13キロメートルにものぼる車列を作ってバグダッドを目指したのです が、砂漠で立ち往生しているんです。そして米軍は、その難民たちに向かって爆撃しているんです。 米兵はイラク人家族たちを攻撃しているんです!子供や老人や女性たちが、砂漠で米軍に痛めつけられているんです。
ファルージャ市内では、米軍はB52爆撃機を使って、爆撃したんです。彼らは病院も爆破しました。別の病院に傷ついた子供がいたのですが、その子の家族25人が全員、爆撃で殺されたんです。
米軍は空からクラスター爆弾を落としています。クラスター爆弾は地上で3、4メートルジャンプするんです。街の路上では殺されたイラク人がころがっています。米軍は「停戦する」と言いながら、また空から攻撃を仕掛けてきたんです。
これは大量虐殺です。どうか助けてください。世界中の人々に、大使館に抗議するように頼んでください。私たちには外国人が必要なんです。外国人ならここで何かできます。
私たちはこの3、4日間、ほとんど眠っていません。明日は外国人たちで米軍の検問所に抗議に行きます。
*イギリス人ジャーナリスト、レイ・ゴードンの証言
ここはもう狂気のさたです。私は自分の命がどうなるかも分かりません。外国人は徐々に殺されて行くでしょう。ファルージャのイラク人たちは、どんどんと絶望の崖っぷちに立たされています。
彼らの母親や父親や家や犬や猫や・・・すべてが爆撃されたら、イラク人たちは外国人を襲いはじめるでしょう。
仏教の心得は、もろもろの悪をなさず、あらゆる善を行うことであるという。
仏教は慈悲の宗教、悟りの宗教であるが、修行の宗教でもある。お遍路に人気が高いのは、その修行によってであろう。お四国は、数少ない整った修行の一つとなっている。
修行とは何かを改めて、何かを得る作業である。そして、心と体の両方を使うことが、修行の特徴であろう。
考えるだけではだめだ。行うだけでもだめだ。考えては行い、行っては考えるのが修行の醍醐味であろう。
悪をなさず、善を行う。あたりまえなのに、奥が深い。
その第一の理由は、何が善で何が悪かは私達凡夫には分からないからである。
石を投げつけられ、村から追い出される乞食を見て、私達は「薄汚いやつめ、二度と泥棒に来るな」と声を聞き「ははあ、泥棒か、仕方ない」「ざまみろ」と思うだろう。 しかし、仏様が見たら「飢えた子どもに食べさそうと一つパンを握っただけなのに、どうして分かってやらないのだ」と嘆かれるかも知れない。
物事の善悪は奥が深い。視点によっても違う。情報によっても違う。見方の深浅によっても違う。
しかし、善悪が分からなくても、その上で私達は修行に取り組む。
それは、善を成せば次の善が見え、悪を成せば悪に深入りする。
または、悪を成さなければ次の善が見え、騙されたと知っても善を行うことで、他人の善が見えてくるからだろう。
善と悪は固定せず、次々と様相を展開していく。悪をなさず、善をなすことによって善悪は成長していくのである。
成さなければ、善悪は真の善悪不明のまま善悪顛倒して止まり、私達は虚偽の善悪の幻影に惑わされるままである。
修行とはまことに不思議である。
弘法大師が二十四歳のときにこう言われた。
「他を誘いて専ら業となし、己を励まして兼ねて功となす」と。
他人が喜ぶことをしていれば、それが、不思議な因縁となって、生きる力が湧き発心となって、自分の悟りへと実っていく。
また、他人の痛みを除くのも同様である。
なんと、人間の知性は低いのか。「ゲームは終わった」ババババンで、市民が殺されたのでは、始めから考えたり、話し合ったりする必要はない。何より、長年の殺し合いの結果、国際連合ができ、国際連合憲章が制定さている。
その第二条に「すべての加盟国は、その国際関係において、武力による威嚇または武力の行使をしてはならない」と定められている。ただし、個別的ならびに集団的自衛権を認める。
だから、問題は今回のイラク攻撃が、自衛なのかどうなのかが焦点となる。
イラク戦争は米国の自衛戦争かと問えば、答えは否である。もう一つの問題は、自衛の中に「先制的自衛」があると言う議論である。
イラクが先制攻撃をするから、先に攻撃するというのである。ありえない議論であろう。テロをされる可能性があるから先制攻撃できるというのなら、あらゆる戦争は可能となる。
もう一つの問題は、国連安保理事会で、集団自衛権を討議するというものである。この会議で、可決されれば、武力制裁の対象になる可能性が生まれる。ただし、先の第二条に、平和的手段によって解決すべきと規定されている。
この規定からすれば、やはり、イラク攻撃は正当化されない。国連安保理事会の決議に先立ち、国連総会で審議されたなら、まったく問題外と予想されることからも、いかに怪しく危険なことがなされようとしているかがわかる。
なぜ、このような無法に対して日本国は、追従の構えを見せるのか。一致団結して圧力をかける。ごもっともだが、圧力と殺人とは全くの別物である。
圧力では人は死なないが、武力行使は特に弱い人々が死んでいく。
私のお祖父さんは、湊町で薬屋をしていたという。ちょうど戦時中消防団をしていて町を守ったが家は焼けたそうだ。
戦中どこでも区画整理が行われた。その時、祖父の家はなくなった。無償で国か市のものになったのだ。一家は路頭に迷い土地を追われさぞ悲しい思いをしただろうと思う。
阪神震災の焼け跡地などでも同じことが行われているという。長田区で元地に戻った人はわずかである。町を機能的に新しくする。それもいいだろう。しかし、そこに住んでいた人の町である。その人たちが今どのようにしているのかまったく見えない。マスコミも行政もそのことは伝えない。
ボランティアなんて悲しいものだ。所詮、一時の助け合いしかできない。みんなで作っている共同体が行政なのに、行政はお金儲けしか念頭にないかのようだ。
長田区でも無償で多くの土地が収用されている。あの頃、被災者に復興のための基金を差し上げようという意見が多かった。しかし、国は「個人救済は自由主義にはなじまない」とかのコメントを出したはずだ。ならば、我が家に帰る方策はしたのか。失業対策はしたのか。何もしないなら、区画整理などせずに、地元の自治に任せるのが良かっただろう。
長田や鷹取で仮設に暮らす多くのお爺ちゃん婆ちゃんに会った。その元気な顔を思い出す。しばらく行っていない。というのも仮設住宅がなくなってから、ボランティアも手も足も出せなくなった。みんなばらばらだ。
かかわった人々とせめてもう一度お会いして、お話がしたい。何もできなくて申し訳ないと思う。
焼け野原は必ず、近代都市に生まれ変わる。都市はきらびやかになっていく。人はやつれていく。寂しく一人孤独に。
とうとう最新鋭イージス艦も、遙かインド洋へと向かった。武器を持たない、戦争しないという仏教徒の悲願は崩れているのだろうか。この一年、いろんな事が大きく変わった。
リストラは当たり前。 頑張らない人は墜ちこぼれて当たり前。
国家は弱者救済はあまりやらない。
教育基本法は変える。
愛国心を教える。
日米同盟は既定の事。
地方交付金は削減。愛国心は教えるが教育費は削減。
言葉だけで励ます空威張り国家か。
他人へのいたわりができない人々に愛国心が何を意味するであろう。先の戦争のように、人を大切にしない大義名分の一人歩きが始まるだけではないだろうか。
大事なのは、一人一人を大切にする事である。弱い立場の人を大切にすることである。
それは、その人の声を聴くことだろう。自分が声高く号令をかけることではなくて、その当事者の言葉に耳を傾ける事が大切だ。
今、何が起こっているのか。緊急の課題は何なのか。それは今、一番困難を抱えている人こそが知っている。
少なくとも、それぞれの重要な立場に居る人は、そのことを自覚すべきだろう。
どこかで、良妻賢母の復活という復古調も聞いた。今、家庭で母親がどのような境涯にあるのかを知っての言葉とは思えない。
この国はどこかが逆転している。発想が逆立ちしている。第三者が口出しすべき時ではなく、困っている当の本人の声を聴くべき時である。何が問題なのか。それが問題である。念仏は、仏を知る人にのみ可能である。
問題解決は先ず、問題を当事者から把握すべきである。
仏教はご存じの通り非暴力、非戦です。春にはひさかたに反対集会なるものに参加しました。その時、「われわれは戦うぞー」と連呼していましたが、仏教徒の私たちは「私は戦わんぞー」と言いました。
「あなたは人を殺せますか」と、聴かれれば、「はい」と答える人は居ないでしょう。なのに集団になると人は人を殺せます。残忍な仕方で拷問もするし殺すわけです。だから、一人では殺せないのに大勢なら殺しをしてしまうのです。だから、国家で戦争の用意をしてはいけないと思います。況や、米国と共同作戦をしているときに、そんな法律を作ったら、この国は何処へ行くか分かりません。
自衛は否定しません。しかし、攻められる予測もないときになぜ、そんな危険な法律がいるのでしょう。
日本の憲法、特に九条は、これからの地球が考えていく方向を示していると思います。人殺しの武器など少ない方がいいに決まっています。軍備を縮小して、全ての国から武器を無くしていく方向こそ、これからの人類の取るべき方向ではないでしょうか。
映画を見に行った。題は、「平塚らいてう」。彼女は青鞜社宣言でこう書いた。
「元始、女性は太陽で会った。真正の人であった。今、女性は月である。他によって生き、他の光によってかがやく、病人のように青白い月である。わたしたちはかくされてしまったわが太陽を今や取りもどさなくてはならない。・・・」そしてこの文章は次の一行で終わる。
「烈しく欲求することは事実を産む最も確実な新原因である」との一行で。
映画では、らいてうさんは、若いときに禅堂に通った。そして身心一如とか、身心脱落を修行したという。
後に彼女は回想してこう言う。
「私が、このような女性解放の仕事を行ったのは、全く時代というものが、私という既成概念から解き放たれた器を必要としていたからです」と。
つまり、禅の修行で身心脱落を学び、一切の既成概念、例えば、女は男に従うものであるというような規定の常識を悉く打ち砕いて全く自由な境地と考え方を習得していたから、時代の変化がすうーと素直に入ってきたというのである。時代の要請というより、澄み切った自由な心が、真実を読みとったという方が正しいだろう。
この時の「青鞜」創刊の巻頭は与謝野晶子さんの詩「そぞろごと」が飾っている。
「山の動く日来(きた)る。/かく云へども人われを信ぜじ。/山は姑(しばら)く眠りしのみ。/その昔に於て/山は皆火に燃えて動きしものを。/されど、そは信ぜずともよし。/人よ、ああ、唯これを信ぜよ。/すべて眠りし女(おなご)今ぞ目覚めて動くなる。
一人称にてのみ物書かばや。/われは女ぞ。/一人称にてのみ物書かばや。/われは。われは。」
さすがというべきである。この元を承けて、らいてうは、熱く女性の心を吐露し、良く生きんとする決意を表明するのである。
しかし、彼女は後に、女工哀史に見られる、工場の重労働の十代前半の少女の老婆のような姿に哀れを感じ、更に山村療養の機会にはかつて女工さんが「農村よりはまし」と語った意味を、田畑の労働に悟ることとなる。そうして彼女は終生この道に真摯に立ち向かうのである。
私は小泉首相を好きではない。理由は戦争の反省をしっかりしないからである。しかし、今回の訪朝には脱帽する。快挙である。実は、このお膳立ては、外務省某局長や川口外務大臣や遡って村山元首相の言葉は歯切れ良く声は不明瞭な「植民地支配と侵略によって、とくにアジア諸国の人々に多大の損害と苦痛を与えた」としての「心からのお詫び」(戦後五十年の村山談話)の積み重ねにあるが、単身の乗り込みには変人の意思を感じる。「何としてもアジアの安定と平和を」の意思を感じたのは私一人ではないだろう。
仏教は心の平和を説くが、心の平和=内なる平和は、日々の努力と他人との和解=外なる平和なくしては確立できない。拉致問題については衝撃的で悲惨な事実提示によって「国際刑事裁判所」等によって、しっかりと国家や個人の犯罪が裁かれねばならないことが示されたように思う。国家の横暴によって個人の運命が意図も易々と翻弄される痛みこそ、もっともっと世界が知るべき闇の重大事だと知らされた。
しかし、その痛みは、韓国朝鮮アジアの人々にとっては、先の村山談話でやっと明白にされた。国家間の戦争というベールに隠されながら、日々上官に虐待される劣悪環境の軍人のはけ口としての蛮行。通りすがりの腹いせのような獰猛な、暴力や略奪や強姦やそして犯罪を隠す為の顔面皮剥ぎという、とうてい人間として想像もつかないような他者への痛みの押し付け。戦時下、日常的になされた暴力が裁かれないで、歴史の陰に横たわっている。
日本においては、歴史教科書から「侵略」や「加害」の文字が消えていく。そして、訪朝前のNHKインタビューで「日本の印象は」と問われた北朝鮮の人が「もちろん、悪いです」どうしてですかとたたみかける質問者に「四十年間も植民地支配を受けたからです」と真顔で答える。その二国間の人々の意識のギャップの裏に横たわる或る真実に、私達はどうして鈍感なのか。それはやはり、国家という暴力装置の裏で、軽くいとも簡単に葬り去られていく、一庶民の命と痛みのように思えてならない。
拉致の犠牲者と植民地の犠牲者を忘れてはならない。
- うちの子が今日はワールドカップだというで早く帰ってきた。「なんだ、学校もみんなで決めれば何でもありなのだ」
何でもありとは一昔前に流行ったことで、今や多少厳格な風潮が戻ってきたのかと思ったら、みんなで騒げば怖くない。昔、擾乱罪とか有ったろうか。お上に楯突けば罰せられるが、お上が国会もサッカー中は止めようというのだから、何でもありなのだ。
何でもありといえば、最近流行るのは、税金の還流?つまり税金の横取りである。誰が取っているのかは云うまい。それと、防衛庁の国民不信である。でも種を蒔いて
- いるのは自衛隊が国民を信頼していないという不思議である。自衛隊は国民が嫌いなようである。それも情報公開をお願いし、国を自分で立て直そうとするボランティアな国民がお嫌いである。リストにして、果ては「反戦自衛官」などと思想を調べてステレオタイプに当てはめようとする。何だ権力の
- 横暴というやつではないか。こんなの昔から現在未来まで流行りっぱなしじゃないか。なんにも新しい事じゃない。新しいのは情報公開さ。そしてボランティアさ。自分で自分の町を守ろうとする行動じゃないか。自衛隊が守ろうとしてょるのは自分の組織じゃないのか。そんな声が聞こえてくる。
この国は今何もかも変だ。ちょっと悪い政治家はどんどん辞めた。しかし、まともに悪い政治家はなかなか辞めない。そして五十数年の平和主義を破って、自衛隊がインド洋に米軍の指揮下で戦闘支援に活動し、戦争事態法という有事法が議論されている時に、人々は頬に日の丸を描いて、学校を休んで声援を送っている。まあ、人類の進歩はこんな所なのだろう。
心底、みんながみんなの庭でボールを蹴ってはしゃぎ回る平和が来て欲しい。
-
0206 自分の仕事
- 「外務省は解体した方がいい」という声があちこちで聞こえる。そういえば前の大戦でも、日米交渉をしっかりと出来ず、泥沼の戦争に突入したのも外務省かも知れない。少なくとも、中国の瀋陽の総領事館事件では、領事館はない方が良かったのだろう。なぜなら、あのビデオが無かったならば、あの五人は本国送還の上、殺された可能性が高い。たまたまビデオは、人間のだらしなさと残酷さを世界に訴えた。 その上、外務大臣は中国を「ウィーン条約を違反した」として非難した訳だが、有事立法やメディア規制三法が上程されている今日、隣国を非難し、対立を顕在化することは大変危険である。というのは、どう見ても、ビデオの領事館職員は、見過ごしているし、その点、全くビデオがなければ「無かったこと」にしたかったであろう。そのことは前後の中国大使の、難民を入れるなという発言と一致する。ならば、少なくとも「中国非難」はできまい。 小泉首相の言うとおり「あせらず、慎重に」成り行きを見つづけて、だらしなく、他人事に、最期まで他人事として見過ごすのが得策であったろう。 そんな、風の悪い、だらしのない生き方がこの国には向いている。だから、防衛庁長官がとうとう認めた、軍隊をインド洋まで派遣したりせずに、だらしなく人助けをすればいいと思う。 目の前で泣き続けていた幼い子供は、難民であり、本国へ返されれば命の保証はなく、本当に泣いていた。目の前の命を助け得ない私たちは猛省すべきである。こんな時に、軍隊の活用を考えるときでは決してない。それ以前の、自分とは何かの問題である。
0206戦争は絶対してはならない
戦争に加担してはならない 何故、平和憲法を持っている国が、こんなに危うい国になったのか。責任を問いたい気持ちになる。とはいえそれぞれ「国益」のために腐心されてのことだろうが、庶民としては、強い国よりは、穏やかな国を望む。国益というよりは、国民益を望みたい。 何故、靖国に行きたがる。 何故、教科書を変えたがる。 何故、軍隊を出したがる。 何故、戦時法制をつくりたがる。 何故、言論の自由を統制したがる。 何故、教育基本法を変えたがる。今、国民に平和主義は浸透している。武器は持たない。争ってまで国益を守ろうとはしない。却ってODAや国連重視など、世界平和に力を注いできた。何故今、軍隊のこと日の丸や君が代や国家というお上のことに力を入れたがる。 不思議、不可思議、 平和ボケではなくて、心から平和を求めている人が多いことを知っての上の、意図ならば、なんとも質が悪いと思わざるを得ない。 地球時代に、いまさら日本日本でもあるまいに。ともあれ仏教は、生きとし生けるものを見ている
0205戦争止めて
パレスチナで戦争が激化している。戦争といってもイスラエルは圧倒的な軍事力を持ち、パレスチナは石つぶてで抵抗している。 だから戦争といっても、優位な方がまず止めるべきものだと誰しも思っているだろう。 誰が見てもアメリカの真似をイスラエルがしている。 誰かは、テロの原因は貧困よりも屈辱感だと言った。屈辱感。心あるものに虫けらのように扱われることである。人間は人間らしく生きたい。その思いが破られるとき、屈辱感を味わう。その思いは恨みになる。 恨みを止めて、戦争を止めよう。この日本も有事法制などを議論している時ではなく、戦争そのものができないように努力していく時であろう。 今、戦争事態への対処の法律をつくろうとすることは、どうみてもアメリカのように軍隊で平和を無理矢理守ろうとする意図に見える。 平和憲法は何処へ行った。あの戦争の反省は何処へ行った。日本が取る道は、武力を整えて万全を期す方向ではなくて、平和的な方法をあくまで模索する方向ではないのか。 軍隊を動かすことは実はたやすいことだ。乱暴な男が問答無用でげんこつを振り回すのに似ている。でもそのことによって取り返しのつかないことがあちこちに広がるではないか。 武器を手にすることは自他共に恐怖を煽ることになる。その後は戦いである。戦いでは必ず弱者が死んでいく。屈辱のうちに。
『地球市民』の教科書を止めないで0205
現代の危機は無関心と無責任であろう。養護学校では今頃、新しい教科書がたった数人?十数人で始められているはずである。 日本がんばれ。でも世界もがんばれ。これからの世界は軍縮と共存しかない。憲法に書かれている平和。世界から圧政がなくなり、暴力の恐怖の下に生きる人が居なくなりますように。また、飢餓や貧困に苦しむ人が亡くなりますように。この平和の願いは尊いものである。 この願いを温めてきた教科書を捨てようとしているのではないか。 皆さん教科書を読んでみて下さい。 今の教科書が充分とはいえません。でもよりよいものを作り、みんなが生きやすい世の中を創る義務を私たちが負っているのです。自分が幸せであればその分ぐらいはみんなに恩返ししなければ成りません。 一人一人を大切にする地球市民の立場を大事にしたいと思います。
0204僕らの教科書をどうする
新しい教科書が問題になっているのはご存じだろうか。国の行く先を暗示する大事な問題だと思われる。私たち仏教徒としては、普遍宗教を目指して「地球市民」として行動するのか、それとも「日本民族」として行動するのかという、分岐点を感じずには居られない。 仏教はインドで起こり、中国、朝鮮半島を経て日本列島へと来た。スリランカやタイやビルマやカンボジアにも広まった。何故かというと生きているもの全てのための生きる指針だったからである。特定の国や民族に限定されない魅力を持っていたのだ。 争いを繰り広げる村境や国境や、言葉の違いや、肌の色の違いを越えて、「生きているんだ」と実感する人々が、互いに共同して求める生き様が仏教だった。 みんなお釈迦さんのようになりたいと思って仏教集団に入った。仏教集団=サンガに入れば、それまでの身分や出自は問われない。何人であろうか、何の職業に就いていようが、平等に修行者となった。お四国遍路に出て、お互いに人間を感じるのと同じである。人と人とが出会うのが、サンガである。 この国も、戦争を経て、世界の幸せは、国も大事だが、お互いが認め合うこと、地球市民として考え振る舞うことが大切だと知った。強い国、弱い国ではなく、協調し合うことが必要だと考え直したのである。その教えは仏教と同じであると思う。 今必要なのはナショナリズムを越えるナショナリズムであろう。それは、地球市民の立場で、国という組織を活用する事であろう。
02.02 震災とアフガン
いったい何人のアフガン人が死んだのか。いったい何人のアメリカ人が死んだのか。そんな大切な情報がいっこうに聞こえて来ない。それは誰かが意図していることなのか。それとも仕方のないことなのか。 震災から立ち直りつつある被災者の一人の方がこう語りかけてきた。その方は、もう七年経ったし「関西人の気質からしてもはや被害者ではない」と語るのだが、最後に一言、「地震が起こったら、ガスの元栓・・・・・ではなくまず生きているかどうか・・ です。」と。 七年を経て、蘇る生命力に感心しつつあった私は、この最後の言葉に突然七年前に戻された。というより私にはやはり理解できていない、おそらく一生理解できない痛いことが起こったことを知らされたし、今もその中にあった人々の中に痛みが走っているのを見た。 震災の真実かと。 見る人には見えているし、見えない人にはいくら目を凝らしても見えない。 分からないのに分かった振りをしたり、知っているのに知らない振りをしたり、人間は不可解である。それでも分かり合おうとしてみたり、分かって欲しいと努力したりする。 また、遠い国のことを語ってしまうが、遠くても人の命の重さに違いはないはずだ。私と同じ痛みを走らせ、家族へのいたわりを感じ、泣いたり笑ったりしている。 一説には、旧兵器の総入れ替えともいわれる在庫一掃の爆弾に死んでいく人々。地雷に足を奪われ、水を求めて何キロを歩く人々。 その人がもしか、僕の子供だったら娘だったらと想うのは単なる幻想だろうか。 自己免罪のための虚構だろうか。それでも、僕の娘のような女が痩せ細り、僕の叔父さんのような男が死にかけて虚ろな目をした赤子を抱いている。そんな写真がその前に広げられていた夜であった。
ハンセン病の解決とともに 0106七月号
- →今月の新聞 →仏教小豆知識
- ハンセン病は国が控訴を取り辞めて、突然諸氏の口に上るようになった。「差別だったんだ、私達が悪かった」。妙な国である。お上が「よし」と言えば今まで黙視の人々がこぞって口にする。
- ならば、ミナマタ病患者の救済や、原爆症の救済や、慰安婦の問題の放置はどうなる、どうなんだと怒りがこみ上げてくる。エイズもそうだ。殊にミナマタはその直前に上告されているし、被爆者援護の問題ではその後に控訴されている。 騒がれたら涙を流して頭を垂れ、事なかれば、何も無いかのように冷淡に扱うのが首相の器量だろうか。ならばもっと騒ごうではないか。 大衆迎合もひどいし、大衆のお墨付きさえあれば追随もひどい。 自分たちの頭で考えて、もっと握手すべきところで握手することが大事だと思う。 ハンセン病の問題で分かることは、私達が、私こそが差別を温存してきたということである。もっというなら、彼等を離島に隔離し、塀で隠し、差別という見えない塀で二重にこの世から消し去り、生存の場所を抹殺しようとしたのは私達であるということである。 そして、ミナマタの人やその他の、人々に対して今もしていることに気づきたい。
「買ってはいけない」という本が「週間金曜日」という雑誌社から出て大論争になっている。「『買ってはいけない』は買ってはいけない」という本まで出る騒ぎである。有害物質・防腐剤や添加剤が含まれていて危ないというのである。これについては出来るだけ化学物質の入ったものは使わないようにしようという意味では「買ってはいけない」を推薦する。というのは、現代、人間の脳の調子がどうも変なように思うという直観からであって、それ以上ではない。但し、腐らないものや、妙に美味しいもの、それから美容のためとかいうものはいかがわしい。そして、現在ぼろ儲けしている企業というのは、変なものの開発に躍起になっている事実か裏にあるからである。
しかし、ここで言いたいのは、実は「買う」という行為が、社会の大きな問題であるという見方である。買うということによってお金が移動し、あるところに蓄積し、大企業ができて、日本が潤うというのは定説であるが、私達がどごに金を流すかという事によって、世の中は随分、良くなったり悪くなったりするのである。
消費者こそが金の流れを掴んでいる。そういうと血税を土建屋や一部の利権屋に流している傾向が政治家にあると言いたくなるが。私達、消費者こそが金の流通を掴んでいるということを時々思い出して買物をしたい。
「買ってはいけない」というより、できるだけ要らないものは買わないことである。そして、物が潤うのではなく、人間が潤う社会、人間にお金を払う社会が求められているのではないだろうか。
何でも決まっていく国会でいいのでしょうか 00.3
どうも今の国会は何でも決めそう。そんなふうに僕には思えます。怖いという印象です。そして決めてきたことを見るとどうも政治がしやすいようにだけしてきている。つまり、戦争しやすいように、管理しやすいように、国民をまとめやすいように、そして憲法も書き換えやすいようにでしょうか。
今のところ、直接国民が弊害を被ったことは少ない?しかし、国民の多数と関係の無いところで重要な法律が次々と決まっていることには違いありません。こんなことでいいのでしょうか。国民主権ではないのでしょうかと思ってしまいます。特に、先日まで「世界平和」を唱え、反戦を口にしていたかの党が、このように体制翼賛的な法律をどんどん通すのはまるで、何かに騙されているようで恐ろしくてなりません。
厚生省 煙草屋に負けて 目標なし
世の中も変わったものである。厚生省の役人が公然と「煙草業界に屈して減煙の目標値を省きました」というのだから。金儲けに屈して国民の健康を棚上げしたというのだから何とも嘆かわしい。任務放棄も甚だしいではないか。方や煙草屋といっても実態はJT元国営である。だったら誰も困る人々となどいないはず。しかし、高級官僚が伯仲堂々と「屈して」などと言うところにこの国の陳腐さがある。また、業界代表の反対理由が「国民の嗜好品を国が制限するというのは・・・」というのが笑わせるではないか。屁理屈を言えば言うほど金目当ての腹黒さが見えるというもの。何で皆、大笑いしないのか。ここで世論が騒がんから問題が解決しない。喫煙は健康に悪い。それより火事の多くは煙草の火が原因なのを知っていようか。
現代は金儲けと共生の相剋=戦いといえよう。周知のことかも知れないが、遺伝子組み替えの作物が猛威を振るっている。猛威というのは欧米の数社とくに米国の一社がこの世界を牛耳って、作物の種の独占をしようとしているというのだ。マイクロソフト社なども私にいわせれば独占の害を世界にまいている。その便利さよりは、世界の混乱、特に貧富の差を拡大させている。その独占が食物の世界で起こったらどうなるのだろう。実に日本の食料自給率は半分を割っている。その上、食物の種子を独占企業に握られたらどうなるのか。
しかし、日本の消費者は健康には敏感だという。外国の肉は買わないというのがあった。そして遺伝子組み替え食物にはノーといっている。つまり、それらを「買わない」消費者がこの国には多いという。生協が流行るのもその流れであろう。ところが企業の戦略は、それにたいして「表示しない」という作戦に出ている。どういう作物か表示しないのである。こうなると私達、消費者は結局買うしかない。そして「表示しない」の手助けをしているのがWTOという「自由貿易」を推進する組織であり、追認する厚生省なのである。これを見ていると、企業対消費者の戦いと見える。企業は金儲けのためには何でもするというか、金と権力に歩み寄って非表示にしたり、基準を甘くさせるのである。政治家が丸め込まれているといえよう。それにたいして私達がどう対処できるのか。
「買わない」という方法。自分の政治家を選ぶという方法。
私達の健康は金儲け企業との綱引きにかかっている。
南米のある国ではリンチが公然であるという。というのは、犯罪を受けて被害者となった時、警察が頼りにならず、自分で復習するしかないということを皆が思っているからだそうだ。警察が頼りにならないとは、日本のことではないか。
先日の五千五百万円を少年たちが恐喝したという事件でも、またその前の女性殺害の事件でも、被害者は警察に相談あるいは被害届けをしていたという。その時直ぐに警察が動いていれば殺人も少年の骨折や火傷の跡も起こらなかったのではないかと皆が思っている。
恐らく今の警察は忙しすぎるのではないか。
それとも、本当に庶民を助けようという気がないのではないか。
自分の経験から言うと、やはり人手不足と、窓口の無さを感じる。私も被害者となったことがあるが、「何か事件が起こっているのか」と問われる。「お堂に上がり込んで無理な要求をしている」と言うと「何か取られたのか、傷つけられたのか」と問われる。つまり、実際の被害を証明しなければ、相談にはのってもらえない。犯人を挙げるための警察ならそれも分かるが、防止という意味も有るだろうし、何より前述の例では、警察も手落ちを認めている。
警察の職務は内乱の防止と犯罪の防止に別れるという。そして今日、上席にあるのは内乱の防止なのだという。内乱の防止とはテロとか革命とか暴動なのだそうだが、そんなのは起こりそうもない。実は、市民活動の監視がその職務というのだから、無いほうがよい仕事である。その官僚が雪見酒をしていて帰らなかったのが、少女監禁の事件である。被害者の心情を共感出来ない人が、上に立っているから事件が事件にならないのではないか。
実際警察の監督として公安委員がいるがこれは公選にすべきだと言う声もある。自分たちで自分の町を守る組織としての警察を考えるならば、自分たちで監督し、その中で、もっと被害者に耳を傾ける組織にすべきであろう。単なる出世のための警察組織は要らない。そうでなければ、別の庶民を守る組織を作るべきである。そこがはっきりしない。
やはり、今の警察を刷新して、被害者=困った人を助けようとする組織にすべきである。そうでないと、いじめの底を流れる恐喝はなくならないし、ストーカーもなくならないし、暴力団にリンチを頼まなければならないようなことになる。
何よりも、被害者の痛みを知る人が指揮をとる警察に変革しなければならない。
境内で掃除をしていると、年配の観光客が挨拶もなく「便所はどこぞー」と言ってくる。若者が節分の夜やって来て「これって何時もやってんのー」といきなり聞いてくる。
やはり挨拶は大事である。従業員がぺこぺこしてお客さまを神様にした。そして、何処でもお客さんと従業員の世界が出来上がった。「せんこーの為に学校ー来てやってんだよー」とか「親父ー、てめーの為に生きてやってんだよー」というのが当たり前になってきた。大人よしっかりせよと言いたいが、その前に、人を人として接する心構えが無いのではないかと、自問したい。自分に、相手への当たり前の配慮があるだろうか。
先生が先生をする。警察が警察をする。銀行員が銀行員をする。政治家が政治家をする。人間が人間をする。当たり前のことを当たり前にする事が、いまどき大事だ。
この世はやさしい世界でありつづけるのかが問われているように思う。心が優しくあるには社会が優しくなければならない。経済問題がうるさいが、教育や警察やもっと身近な問題が見過ごされていくように思う。
先ずは自分の社会は自分の責任でつくっていくという思いが必要だろう。国民主権とはそういう意味だ。やさしい社会をつくり、保っていくことにもっと責任を負う必要がある。政治家の悪口を言う前に、自分に出来ることを行うことが必要だ。その時、私達の社会参加が閉ざされている今の政治制度が変だと思うだろう。今のままでは、私達も無責任だし政治も無責任だ。そして、私達に関係のないところでいろんなことが次々と決まる変な社会へと転がり落ちていくように思う。それはきっと窮屈な社会だ。窮屈な社会では、私達の優しさはひねくれるだろう。
おばあさん、おじんさんの小遣いをけちって、自分は高級車を乗り回すような国家。この国への精一杯の皮肉である。何十兆円という大金を大企業へとつぎ込み、それらの責任者はそのまま居すわりつづけ、弱者は自己責任の掛け声のもと切り捨てられる。多少の誇張はあれ、例えば介護保健によって年金生活者は一割の負担金が払えずに利用を諦めている。どこかおかしいのではないか。小銭をけちって大損をしている様は愚かとしか言いようがない。しかし、特定の人が守られているとするならば、それは愚かではなくて貪欲な犯罪と言うべきであろう。
「苦難をともにしてきた人々と分かちたい」ノーベル平和賞をもらった韓国の金大統領の言葉である。私どもの言える事ではないが、というのは金さんの(どうしてさんづけか)経歴を想像するとき、その死線を超えた生きざまに、平凡に生きる私が何を言えようかと思うからであるが、大変嬉しく思う。私が学生のころ彼は拉致されて、捏造された罪で長期投獄され、そのために今足を引きずる姿は痛ましい。そしてその姿のなかに、燃えつづける民主主義と人権と平和への祈りが籠もっている。
各紙を見たらどの新聞も「嬉しい」と書いてある。そうすると文句なしのノーベル平和賞なのだろう。かつていかがわしい平和賞もあったではないかと愚問してしまう。それは、ある意味で皆が金さんを尊敬しているからではなかろうか。それは金さんがライフワークを持っているからだろうか。一人の人が成すことが大きいこともあれば、なさないどころか無いほうがよいこともあると思ってしまう。
やはり、人は人たるべし。
あたりまえのことだが、「空」や「無」の勉強もして欲しい。人けっの眼も長年使うと、見えないものまで見え始める人と、曇ったガラス越しにした見えなくなる人がいる。自分もご多分に漏れずなのではあるが、気をつけたい。理由は、仏教は人間のあらゆる可能性にかける教えだからである。「何々に所属しているからこういう人だろうとか」「一度犯罪を犯したからこういう人だ」という見方、また、その人を知らずに噂でその人を判断するやり方である。格言。「どの集団にも十%はいい人がいる」。では残りは?
世界の子供の五人に一人が飢えている。飢えのために六時間で二千五百人が死んでいく。いやもっと大勢かもしれない。この苦しみをなくそう。
飢餓をなくすキャンペーンは新聞やテレビで真摯になされている。しかし、私達はいつのまにかそのことに無関心になってしまったようだ。地球の飢餓は運命だ。飢餓は人口問題だと思ってしまっている。私も、昔懐いていた情熱を忘れていたような気がする。仕方ないという気分である。
しかし、ここに「なぜ世界の半分が飢えるのか」という本がある。(スーザン・ジョージ著、朝日選書)
この本を読むと世界の飢餓は天災や運命ではなく人為であるということが分かる。食料は十分にあるのだ。なのにその分配の偏りによって、富めるものはもっと富み、貧しいものはもっと貧しくなるように仕組まれている。そういうシステムが出来上がっているのである。
そんなことはない。作らないから飢えるのだと人々はいうだろう。そういう人には過去の日本を思い出してほしい。日本も戦前は小作農の国だった。小作農やもっと零細な農家は、低報酬で雇われて飢えすれすれで暮らしていた。特に東北では娘の身売りが後を断たなかったということは有名である。野麦峠なども有名だ。日本はたまたま敗戦することによって農地解放され小作者は自分の土地を持つことが出来た。このことが飢餓からの自由に大きく働いている。
飢餓の国々はそれとは正反対に、ますます富農が土地を増やしている。そしてその大土地所有者は、商品作物を作る。つまり金になる作物を作るのである。だからその作物は飢えた人々の所へはいかない。なぜなら飢えた人々は高額の金を出せないからである。作物は十分有るにも係わらず、高付加価値商品へと加工されたまげた価格で先進国へと売られる。作物価格の何十倍もの価格で売られる。あるいは飼料作物となり効率の悪い牛や豚やの肉類となって先進国に供給されるのである。
この自由経済が発展途上国の立場をますます悪いものにしている。その悪循環を断ち切ろうとしたインドネシアは米国の陰謀によって自滅していったというのは本当だろうか。少なくとも言えることは、インドネシアもフィリピンも農地解放・富農から小作農への分配をしようとして流血事件でつぶされたという歴史である。そして米国は既に、各農家が作る時代ではなく、大企業が農業でボロ儲けする時代になっている。
作物を平等に分配して世界の飢餓をなくそう。というのではなく、農業を利用して儲けようという風潮が世界を席巻しているのである。それは植民地時代のプランテーションを思わせる。土地の人々から土地を取り上げ、その土地を食料供給のためではなく金儲けのために使うのである。
ところが、この愚行をどうしてアフリカやアジアの政治家・支配階級が行うのかの問題がある。それは彼らも、追いつけ追い越せのアメリカ型の自由競争にのめり込んでいるからだという。世界の競争に勝つしかこの飢餓をなくせないと思い込んでいるのである。そして、手かせ足かせをはめられて、自由貿易へと誘導される。その結果ますます自国の自給自足は出来なくなる。
日本もそうだったように、食料などは制限貿易、関税貿易すべきなのだ。今、人々が人間として考えるべきことは、「地上に飢える人がないようにする」ことである。そのためには、今の世界のからくりを知らねばならない。是非この本を読んでほしい。今の暗い時代に宇宙海の地球号に明るい未来が開けてくる。
早く、戦争の反省をして地上から暴力をなくすこと
そして、経済のからくりを解いて地上から飢餓をなくすこと
これは人間の使命だと思う。
マスコミが人を動かすことがある。マスコミが事実を隠蔽する事がある。
マスコミ(報道)の原点とは何か。
私は震災の日、妙な揺れに目を覚ましたが、そのまま事件の重大さは知らなかった。やはり大衆の如くテレビをつけ、地震があったことを知ったがそれがあんな大被害を起こしているとは昼のニュースまで知らずにいたのである。昼のニュースで私が見たのは、倒れた巨大なコンクリートの固まりである高速道路、そして発生した火災群であった。「これは大変なことだ」そう思った。しかし今から考えると、その映像の中に「人々」はいなかった。
建物が壊れ、火災が起こり、物がどんどん壊れているのは分かった。しかし、・・・
「火災のなか、まだ家のなかに閉じ込められた人々が居る模様です」。テレビのコメントはこのようなものだったろうか。「そうだ、倒壊した高架道路の下敷きになった人はどうしているか。家が倒壊し炎上するなか誰が逃げだし誰が押しつぶされ、誰が焼け死んでいるのか、どのように・・・」ということは想像するしかない。
テレビは圧倒的な物の壊れを映しながら「大変だ」と呼びかけたのだろう。しかし、今考えると、湾岸戦争で死体のない綺麗な戦争が演出されたように、怪獣映画の物の破壊と同じような映像に止まり、被災者の現実を他者の物として封じ込めたきらいがある。
というのは、そのころラジオ関西で被災した生の人が捉えられていた。
火災する現場で「家は大丈夫ですか」「たぶん、父は助からないだろう」「まだ家にいるのですか」「燃えてきましたから」(事実とは多少違う)今、まさに逃げだした人、そして肉親を火災のなかに失いつつある人。「被災の人」が報道されている。
このラジオを聞いていた人は、聞き手の視点へと引き込まれていく。そして聞かれている被災のその人の視点へと移り、その人の視点からそのお父さんへと視点を変えていく。そこで視聴者が見るものは、インタビュアーであり、一人の避難者その人であり、その肉親である。人が伝えられ、その人の状況、心というものへと見えるものが深化していく。事柄ではなく内にある事実、特に内面の事実=その人の出来事が分からされるのである。
それは、放っておけば知らずに過ごす「他人事」=「他者の事実」である。
極論すれば、テレビ見たのは「震災の大きさ」「建築の倒壊」「火災」である。私たちがそこに感じる「痛み」は少ない。「大変だ」「凄いことだ」「被災者は大変だろう」「あれを見たか、凄い映像だ」・・・。
それは「他人事」である。
それに比べ、ラジオで流されたことはショックである。私たちは被災者と出会うのである。「ああ、そうですかお父さんはたぶん火のなかで亡くなっているのですね」と答えられるだろうか。「一緒に助けに行きましょう」「いや、手遅れですよ」そして両者の痛み・・・。
他人事が他人事でなくなり、他人の事実が見せられそれにどう応えるのか自分の良心が問われる。そんな瞬間を作りだしたといえる。
それを一枚の写真、数秒の音声、映像が伝えることもある。ただ問われるのは、何に向かうか、そして、視点である。
この時、ラジオの報道者は「助けを呼んだ」という。被災直後の長田一帯を静寂が支配していたという。シーンと静まり返って不気味だったという。倒壊と火災のなか、脱出し、とり残され、圧死し・・・、「早く、柱を除けて救出を・・・、消火を・・・、鋸がない、水がない、消防車一台ない、この状態を知ってほしい、誰か駆けつけてきてほしい」その一心で報道したという。
被災者は寡黙である。自分の苦しみを簡単に吐露はしない。助けてという表現はしない。しかし、そこにはその人の事実があり、それを知るとき人と人とのつながりが起こりはじめる。
苦難のなかに生き、心に痛みを持つ人は世界に大勢いる。しかし、その多くは他人事の中に封じ込められている。誰かが真実を見破り、他人という人と人の壁を突破しなければ人間関係は始まらない。
人間関係。実は被災しない人々も心が孤独ではないか。他者の痛みを知らないものは、自分の痛みも知ってもらえない。つまり孤独である。
鳥瞰図的な映像は痛みを伴わない。痛くないから楽である。被災者も周りの他者も楽である。しかし、その楽は私たちをみんな孤独のまま放置するのである。痛い報道、痛い映像、痛い音声、痛い会話がいるということなのだ。そこには相手を傷つけてはいけないというルールがある以上、並の努力でできるものではない。しかし、それを越えなければ人として生きたとは言えない。
(これは、ラジオ関西(神戸)の人と話して思った事です。その人の言がなければ、分からなかった事です)
広島の高校の校長さんが自殺した。教育委員会と学校との板挟みだという。君が代がどうかという問題も問題ではあるが、その是非とは別に、人がよいという校長さんが自殺をしなければならない構造が奇怪しい。
中間管理職は大変だといわれる。上の命令と下の実情の板挟みになって精神が保てないというのである。上が優先するか下が優先するか、このジレンマに入ってしまえば逃げ道は乏しい。自殺ということはこの世に居場所を失ったことである。この世に安穏な場所がなくなったから自殺するしかなかったと考える。子供たちもそうである。学校に行かない。学校に茶髪で来る。子供たちに安穏な移行場所がないのである。家では親から叱られ、学校では先生に殴られる。どこへ行っても小言をいわれるばかりである。これでは誰でも自閉症になるか開き直って反抗するかしかないであろう。
子供たちは遊び場を取られ、憩う場所を無くし、そして逃亡したり反抗したりしている。遂に校長という学校の責任者でさえも学校という教育の場に居場所を失いかけた。それは学び合い成長し合う場所を誰かが犯しているからではないか。出発点は生徒にあるべきである。そしてそれを先生が汲み上げるべきである。それが民主主義というものである。民主主義がどうこうではなくて「困っている人をなんとかする」というのが教育の原点ではないか。今回、校長さんを死に追いやったのは、強者の論理ではないか。出来ないのが分かっていて君が代を強行する。切腹を命じたようなものではないか。
校長さんは君が代には待ったをかけていたという。それは現場の状況を汲んだものだってようである。それを上から強行する。それも学問という探究の場、成長の場で押し通す。こんな非情があっていいものか。子供を見殺し、次には先生を見殺しにする。お上の論理と暴力が見え隠れするのは私にとっての今回の事件だけか?
20世紀が終わろうとしている。今世紀は戦争の世紀だった。1945年8月6日8時15分、広島に原爆投下。肉が砕け、魂が叫び十数万の人が亡くなった。そしてその疼きは今に続いている。お四国は、苦しいときに身を寄せる癒しと再生の場所である。お四国の巡礼で広島原爆の痛みが癒せないものだろうか。
原点は、人の痛みである。痛みに寄り添う心である。そして痛みを共有し合うとき、二度と殺戮のないように、この痛みの起こらぬようにと、平和の祈りが人々の心に生まれるものと思う。
人類の痛みである広島の痛みを四国遍路で癒し、そして平和の祈りへ。皆さんのご協力とご参加を呼びかけます。
6月13日(予定)に広島平和の灯を採火し、しまなみ街道を渡り四国遍路に向かいます。一緒に巡礼される方を募ります。また、各地で原爆被害を知る会を行いたくご協力をお願いいたします。
文部省が「学習塾との共存」を歌いはじめた。学習塾と学校は保管し合うものだという。そして学習塾は7時までに止めろという。土日はするなという。
何のことはない。文部省の失敗を棚に上げているだけである。普通なら総辞職である。お役人はいい身分だ。失敗しても止めなくいい。
何が失敗か。
教えるべきことを教えてこなかったことである。
技術ばかりを教えて、精神を教えてこなかった。精神というより「人類のやったこと」を教えて来なかったのである。私は自分の経験からそう確信し断言する。
人間に教える精神など無い。大和魂とか武士道とかはくそくらえである。それらは人類の歴史から滲み出たものである。歴史という鏡に自分を当てるとき、自分の素直な心が反応するのが精神である。もともとこうすべきだという当為はない。
文部省が率先して戦前戦後の痛ましい記録を隠してきた。政治腐敗を隠蔽してきた。だから明治以降二・二六あたりから突然授業を止める。栄光の大日本帝国は挫折を知らずして急に焼け野原となりアメリカナイズされていくところに、脈絡も何もない。
どのような精神がどのように苦悩し呻吟し、努力してこうなったのか。あるいは他国の人々や底辺の人々を踏みにじってきたのかは問われない。ただ技術と発展を教えるという教育の空洞化である。
文部省は何を教えるべきかを国民に問うべきである。国民が民主主義、国民主権の上で自己決定すべき問題である。
人間が何をしてきたのか。
日本人が何をしてきたのか。
世界人が何をしてきたのか。
私の祖父が、祖母が、母が、父が、私が何をしてきたのか。
この事を問うべきである。行ってきたことのなかに魂はあるはずである。
嘘と隠蔽で塗り固められた教科書はいらない。
文部省は私の青春を返すべきだ。
追加
もしも学習塾との連携を叫ぶのであれば、学校は昼までにすればいい。そして学習塾へ行く費用を国家が負担すべきである。(学校が昼までなら税金は半分でいい。それより学習熟も低所得者には無料化すべきだ。そのように教育基本法にも書かれている。教育基本法は学校では教えない。戦後、教育は所得・能力に係わらず全員に保証しようという精神ができた。みんな教育を受けて、自分で生きていく力をつけようというのである。基礎知識をつけて幸福な人生を歩もうというのである。そのことをハンディのある子供たちには国家が補助してやろうというのがその「精神」である。蛇足ながらその精神は弘法大師が千二百年前に提言している。寝るところも食べ物も教科書も支給して体一つで学校に来なさいという綜芸種智院の文である。その大きな精神を今文部省は捨てようとしている。自分に出来ないことは国民に問うべきである。各地区の教育委員会を活性化するべきである。教育は能力を教えるところではない。子供を大事にするところである)
マスコミは世論のリーダーであることを止めたばかりか、世論を反映することさえ止めたようだ。無理もない、平和ボケの時代を自ら演出し、CM料ばかりを当てにして尻尾を振っているからだ。既に、それっぽく映像や記事を垂れ流すのは止めるがいい。
これは今回自分がある企画に携わっての感想である。それも一つや二つではない。金持ちだけがスポンサーのマスコミ企業はもとより、市民から金を集める者まで全てくだらない。はじめに台本がある、つまりやらせである。そして裏を取らないというより裏を取る努力をしない権威主義的労作である。
報道は一つの素材として観るべきである。少ない情報から自分でどう考えるか。それとも一切考えないかという選択肢しか残っていない。
例えばインドネシアの東チモールの独立を問う投票に関する報道も怪しい。NHK等では独立派と反独立派の武力衝突として報道される。つまり両方悪いのだという報道である。しかし、私なりに良く調べると(これも当てにならないが)殆どが反独立派の一方的な攻撃(殺害・破壊)であり、その武器はインドネシア軍の供与であったり時にはインドネシア軍の指揮であったりする。それは今までの東チモールの歴史そのものでもあるのだが。この事を知っているならば、正確には「インドネシア軍に支援された反独立派の一方的な殺害や破壊による独立阻止の行動が目に余る」と報道すべきだろう。それが言えないのは、恐らくインドネシア政府への気兼ね(損得勘定)であろう。もう一つ加えると、東チモールは西欧の侵略から独立する途上でインドネシアに侵略されている状態であり、インドネシアの領土でも何でもないことは言うまでもない。しかし領土とは概してそういうものである。
こんな言葉が流行っている。この国?とは何処か。日本である。日本が出来たのは何時か。本当は日本という国が在ったわけではない。村があって、人々は協同して暮らしていた。村と村をくっつけて国が広がっていく。ある時、その国に名前を付ける。そして又広がる。国は邦、邑とも書く。もともと村の広がりである。協同体が村であって、何か尊い国が有るわけではない。人々が尊くて、一人ではやれないことを協同してやる時、国の広がりが必要となる。
「くに」の成り立ちには色々な考え方がある。
社会契約説とか貴族政治とか代理政治とかである。その中で基本は、国民主権である。そして方法は権力の分権である。
つまり、国民より偉い人は一人もいないということであり、調子が悪ければ直ぐに違う人が代わって行うべきなのである。そして、分権ということは、一人が地位を独り占めしてはならない、また自分で法律をつくり、自分で管理し、自分で裁いてはいけないのである。皆で監督しあうというのである。
歴史の教訓にこんな事があるそうだ。「どんなに立派な人でも、長く高い地位にいると自分のために地位や権力を使うようになる」と。人間は補いあって巧く活動できるといえる。
こんな事を考えるとき、今のこの国は大変危ない。
皆の話題にのぼるのが、税金で銀行と土建屋を助けた話と、神奈川県警の不祥事である。税金は皆で集め、一人では出来ないことをするためのお金である。それを特定の人を助けるために使った。それも震災では困窮者を助けず、金持ちを助けたのである。
神奈川警察はもっとひどい、暴力を取り締まるはずの立場の人が、銃で脅すなどの極度な暴行を行い、その監督上司がもみ消したというのである。
「自分で捕まえ、自分で釈放する」昔の暴君となんら変わらない。こんな事で誰が法律を守ろうか。
法律をつくるひとと、捕らえる?ひとと、裁くひとは別でなければこんな無法な事になる。
「なんだ、取り締まられているのは弱い市民だけなのだ」
このあり方を早く変えよう。危機ですよ。
子孫にこんな国を伝えたくはない。
言葉がむなしい時代である。きれいごとを言うのが虚しい。きれいごとを言うたびに自分が腐っていくような気がする。いいことを言うたびに自分が嘘つきのような気がする。今日、ふざけきった時代に孤高を保つことは至難である。
何故こうなったか。励ます者がいない。同伴者がいない。気張ること自体、ひとりぼっちである。他者を認めるもの、温かい支援、他者への思いやり、そんな当たり前の人間づきあいが薄れている。あるのは駄洒落とこき下ろしである。そして下品な笑い。嘲りとけなし。決まってけなす側と、常にけなされる側。その加害と被害。加虐と被虐。SMの世界である。物に魂を吸い取られ末期的症状なのか。
一見きれいな物に取り囲まれながら、魂が腐っていく中で、孤高を保つのは虚しく苦しい。何の支援もない孤軍奮闘の人々の時代が来ている。連帯だ。必要なのは連帯だ。孤高と孤高が連帯することだ。皆で連帯することだ。
神戸からあなたへ、絆をつくる町という演劇があった。三年前に訪れた震災の町が蘇ってきた。神戸に係わったもの達は身を切られる思いで見たであろう。
ストーリーは多分に誇張されていたが、私はこの話と同じような体験を三度目にボランティアとして神戸入りしたときに、集合住宅でしている。集合住宅とは、一人では暮らしが不自由な人々が何人か集まって助け合って暮らす仮設住宅であった。それは介護者を得て、暮らしの便宜を図るというだけでなく、心の触れ合いを持つために集合して暮らしている住居であった。
みんなお年寄りばかりで、介護者だけが若かった。その中に、八十才のお年寄りがいた。彼は突然話しだした。
「私は震災にあってやっと建てた家を失いました。そして、皆さんの援助で避難所で暮らしましたが、家内は去年亡くなりました。私は、戦争に行って一生懸命国のために働かせて貰いました。戦争が終わって、家に帰ると家は空襲で焼けていました。何もないところから、廃墟のなかで家族のために、国のためにまた働きました。そしたら、震災に遇ってまた全てを無くしました。私は国のために頑張ってきた積もりです。私の人生はみんな国に捧げた積もりです。今は、こうして皆さんのお陰で此処に住んでいられます。有り難うございます。でもなんで何もなくなったんでしょうなあ」と。
そのおじいさんの肩ごしに、部屋の中が覗かれた。簡易な飯台の上に位牌が置かれていた。狭い寝るだけの部屋で、そのお位牌はしっかりと陣取って祭られていた。おじんさんは今もおばあさんと一緒に生きている。私は、お経をあげてあげましょうと言いかけたが、できなかった。その事を悔いている。
一生を頑張って国や家庭の為に働いた人々。その人々が震災にあった。五十年前には戦争に遇った。そして手にした全てを失っている。なのに国は助けない。突然他人である。人間とはなんと情けない生き物ではないか。道を左右に片方は全焼し片方は無傷で残っている。その無傷の側の延長上に私達がいる。そのまとめ役として国があり、国は放漫経営の大会社に何兆円という金を渡しても被災者には数万円しか出さない。こんな理不尽な話はない。こんな無慈悲な話はない。
演劇の結末はこうである。区画整理され広さも確保できない敷地に、皆で集合住宅を建てようとい