不 殺 生 03.3.11宣言

平和の灯へ

臨済宗宣言

真宗大谷派イラクへの武力行使に反対する声明

アメリカ合衆国等のイラクに対する軍事行動に断固反対する決議文

真言宗愛媛豊山派私たちの意見表明戦争反対

武器を取ってはいけない報復の戦争へとすすむとき

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仏教各宗派の声明文(全文より抜粋)

宣言
 私どもは、今なお世界の各地で起きている局部的な紛争、内乱、テロ、加えてそれらに対する報復、戦争等によっていつも犠牲になるのは無辜の民であることに思いを馳せ、過ぐる大戦の悲惨な教訓を忘れることなく、戦争がいかに人間の尊厳を傷つけ、人々の生命を無慈悲に奪っていくかということを想起し、人間に不条理な死を強いる戦争こそ人権侵害の最たるものであることを銘記しなければならない。
 私どもはここに宗門内外の世論を喚起するべく不殺生戒を説く佛陀の教えに照らし武力によらず平和的手段による紛争解決を強く望むものである。
 平成十五年二月二十二日
臨済宗妙心寺派第一〇三次定期宗議会


イラクへの武力行使に反対する声明
 時あたかも、イラクの戦争危機を目前にして、世界中で戦争に反対する人々の運動のうねりが起こっています。国際社会は、この平和を希求する人類の願いに耳を傾け、戦争の回避に向けて叡智を結集すべきであります。私たちは、今こそ、一人ひとりのいのちの尊重を求める非戦の願いを共有しながら、決してイラクに対する武力行使がなされることのないよう、米国や日本政府をはじめとする国際社会に、強く訴えるものであります。
真宗大谷派宗務総長 三浦 崇


アメリカ合衆国等のイラクに対する軍事行動に断固反対する決議文
 戦争でいつも犠牲となるのは、世界の将来を担う子供たちです。何故、アメリカ政府は、過去の歴史に学ぶ事無く同じ過ちを繰り返そうとするのか。世界の国々を敵に回してまでイラク攻撃を行わなければならないのか。アメリカ政府は、自国はもとより世界中に満ちあふれる反戦の声に耳を傾け、速やかに武装を解除し、イラク問題の平和的解決に向けて方向の転換をはかるべきです。
平成十五年三月一日 天台寺門宗宗議会


真言宗愛媛豊山派私たちの意見表明戦争反対
 戦争という誰もが知り尽くしているような愚かな行為に、私たちの国が関わりを持つことにならないように、そんな誤った方向に進んでいかないように、戦争によって苦しむ人がいない世の中をつくるために、私たちのこの美しい国を守るために、そして何よりも自分自身を守るために、今、今こそ私たちの「戦争反対」という、かぼそいつぶやきを少しでも聞こえる大きい声にするよう、皆で声を揃えようではありませんか。
「如何なる理由があろうとも戦争だけは絶対にしてはならない」
 戦争絶対反対!
平成十五年三月十一日
真言宗豊山派 集議 宗議会議員 愛媛県宗務支所長
愛媛豊山会長 愛媛県教区長 石手寺 他有志寺院

武器を取ってはいけない報復の戦争へとすすむとき

 

 仏教には第一の戒律に「不殺生」の戒があります。それは、

 「人を害してはならない、人をして殺さしめてはならない」というものです。

 一見平和な日本という国に居るとき、「人を殺す」ということは、自分には縁のないことのように思われます。しかし、二十世紀を見るとき、私たちは「戦争の世紀」あるいはホロコースト(皆殺し)と原爆(無差別殺人)そして横取り(植民地主義)という人間の世の現実を見つめないでは居られません。この歴史の事実の中で、「不殺生」は機能していたのでしょうか。残念ながら事実は逆だったと言うしかありません。

 「不殺生」とは、人々によって守られてきたことというよりは、理想の叫びと言った方が良いのかもしれません。人類が希望として無殺人の理想を持っているのに、現実には殺し合いが続いた。

 そして、二十一世紀に入った現在、戦争や闘争はなくなったかというと、貧富の差は拡大し、餓死にさえ至る貧困が地球の多くの地域に広がっています。一部の人々は車を乗り回し、美食にまだ飽きないというのに、多くの人々はその日の食事、家に困り、財をもたないが故に、労働を売り渡し過酷な条件の下で暮らしています。人が人としての生き方を認められ、実現するということが出来ないのです。この富める者と飢渇する者の間に横たわるものは、富む者にとっての「無関心」であり、貧する者にとっての「嫉妬・羨望」であり「恨み」ではないでしょうか。

 富む者は、自分や自分たちの「努力と優秀」を信じ奢って、欲望の肥大に気づかず、衣服は発展途上国の貧困者の労働の産物であることや、御馳走が世界の資源の途轍もない浪費であることに気づかず、無関心の溝の上にあぐらをかいています。

 一方で、貧困の中にいる人々は、何故か働けども働けども、発展国に追いつけない「仕組み」のなかで、発展国や富む人々への恐怖と羨望と憎悪を膨らませても不思議はないでしょう。

 人と人が路上で出会って、互いに手を取り合い、心を交流させることは困難になりました。どうみても、富裕な衣装と破れたままの衣服の者が、財を分け合うことなしに交流することは不可能です。それは、他の国を歩いてみれば歴然とする恐怖でもあります。

 そして、米国の「同時多発テロ」と言われる事件が起こりました。殺されたのは米国だけでなく多くの国籍の数千人という人々一般の人々です。亡くなったのは普通の人々と言っていいでしょう。全く無辜の一般市民が殺されたのです。

 その時、砕けたビルは、ある意味では現代の富む文明の象徴のような立派で綺麗で観光の名所である建造物でした。世界の各地に佇む貧しい人々にとっては、高い高いビルは集金マシーンの様であったかもしれません。ビルが倒れたとき、パレスチナの人々は喜びました。ビルのなかで苦しみ死んでいく人々の痛みを見ずに、繁栄の象牙の塔の崩落を見たでしょうか。それとも憎悪の対象であるアメリカの権威の剥落を見たでしょうか。

 人々は、最初亡くなった人々を痛み手向けました。そして、「無辜の人々の命を奪う、テロリスト=ならず者の仕業だ」と思う一方で、「なぜ、自分の命を棄てて突撃したのか」という疑問、そして、米国政府の報復宣言を聞いて、アフガニスタンという昔聞いた国へと視線を向けます。

 アフガニスタン。戦争によって破壊された国。人口の七十%が栄養失調で、平均寿命が男性が四十才未満、女性が四十四才。人口の十二%の人々しか安全な水を飲むことができない。子供の四分の一は五才までに死んでいく。干ばつや武力紛争、飢饉によって百万人以上が国内避難民となっている。旧ソ連に蹂躪された国と聞いていた国。そしてソ連に対抗するために米国が大量の兵器を送った国。古くは英国とソ連の戦いを強いられ、先日、米ソの代理戦争を強いられた可哀相な国。その国を超軍事大国が攻撃するというのです。武器を持たない一般の人々は「もう戦争はこりごりだ」と言っていました。その人々はどうなるのでしょう。誰と誰の戦争なのでしょう。

 緒方貞子さんは、アフガニスタンのことを「世界から見捨てられた国」と語っていました。彼女にとっては、見捨てられて苦しんでいる国はたくさんあるのだろうと想像します。私たちには想像するしかありません。しかし、確実に多くの国が貧困や圧政の下にあり、地球の半数ともいえる人々が飢餓線上に喘いでいるのです。その国に無法地帯が広がったのかもしれない。ここには、一見、空爆や攻撃の目標としての正当性があるやにも感じられます。しかし、爆撃下に暮らしているのは、広島や長崎や大空襲下の、無辜の人々であるのです。その人々は、一時の戦争のない状態を過ごしているだけかもしれませんが、今は死なないでいます。そして必要なのは、その人たちが、自分の主権の国をつくる事であることは言うまでもありません。

 緒方さんの指摘から言うと、私たちはやっと、見捨てられていた国=アフガニスタンへと視線を向けました。一つは、攻撃目標として。もう一つは、難民の国、貧困の人々、死を迎えようとする人々に対してです。

 テロという、ひょっとしたら自分が標的となるかもしれないという恐怖心、つまり、無理やり当事者とされることで、私たちは漸く、突然に、当事者となったのです。そして、タリバンという昨日知った「輩」を攻撃したほうが得策か、それとも、例えば国際刑事裁判所という方法で武力なしに裁く方法が得策か、人道的援助や難民救済という今まで放置してきた貧困への身銭を切るという方法が得策なのかを考えているのです。緒方さんの言葉では「私たちは(自分たちの)安全のためにカネも技術も出して、地域(アフガニスタンと周辺)の安定策をしていく意識が必要」だと語っています。そんな中で、ある人は、泥水を吸って生きのびていると言われる人々への、心からの同情で物事の是非と、自分に出来ることを考えています。また、今までの食っても食っても飽き足らず、自分の事だけ考えてきた事への痛烈な反省でもって、この一大事に対処しようとしている人もいます。

 少なくとも、少なからぬ人が、貧困の下層の人々を知り、一部の富裕階層と、大勢の貧困階層からなる社会に目を向け、自分の裕福さがどの程度であり、その事がひょっとして他者を傷つけてきたのではないかということに思い当たったのではないでしょうか。

 しかしながら、自分というものの寄って立つ基盤を反省できない者たちは、再発テロの恐怖に怯えて、早々と、報復戦争という反撃に勇んでいます。人間には自分が標的になりかけたときの恐怖心を簡単には緩められないのでしょう。

 ふと、経典の言葉を思いだします。

 「武器を手にしたことによって、恐怖が生まれた。人々は反目し始めたのだ」(スッタニパータ経集935 )。武器を手にしていることが既に、恐怖を起こし、恐怖は和解ではなく、敵対と不信感を増幅するというのです。その例えは、「水の少ない水たまりに泳ぐ魚たちが、己が気持ちに精一杯で、跳ね回り、他者とせめぎあう」様に譬えられています。

 お釈迦さんがコーサラ族の攻撃に対して、二度止めたにもかかわらず、お釈迦さんの一族が皆殺しにされたということと重ねて考えると、先のお経の言葉は、意味深く聞こえます。ひょっとすると、戦争を逃れた人々が、お釈迦さんの許へと出家したということも考えられます。何より、今、問題となるのは、お釈迦さんの出家自体が人対人の争い、取り合い、殺し合いという「反目」からの反省と解決方法だったのかも知れないということです。

 お釈迦さんの結論は、私たちの心身の奥深くにある「飽くなき欲望」「己の無反省な肥大化」こそが、不幸を招く根源であり、その克服と、慈悲の習練と実戦が、自己を変えていくということになります。

 しかし、その出発点において、「武力」、即ち他者を上回り、他者を支配しようとし、他者に打ち勝とうとし、結果として他者を脅かすものが、恐怖を起こし、必要のない闘争へと私たちを引きずっていくのだという洞察があったのではないでしょうか。その武器とは、今日で言えば、軍隊であり、武力であり、権力であり、様々な暴力を可能とするものであり、特定の人を肥やす利益誘導やピンはねの装置や政治形態や仕組みなのです。

 そのお釈迦さんの見た世界が、二十一世紀が始まったばかりの、今広がり、その「武器を手にすることによる恐怖」の真っ只中に私たちは居るのではないでしょうか。お釈迦さんの、恐れた事態と同じ事態が、今の私たちの目の前に起こっているのではないでしょうか。歴史は繰り返します。だから、いまこそ「不殺生」の不断の努力を必要としているのです。

 「武力ではだめだ。殺してはならない。決して殺してはならない。痛めつけてはならない」という叫びが、二千数百年の時を越えて、お釈迦さんから聞こえて来そうです。そのお釈迦さんのつかんだ真理を私たちのものとするのかどうなのかが、問われるのでしょう。そして、仏教の教えと戒律の深意を冷静に考えねばなりません。

 

殺してはならない

そして、

反目ではなく信頼を取り戻そう

武器ではなく助け合いによって

つづく

1)人と人の信頼感の喪失

 今回の報復戦争を考えるとき、では先に武器を手にしたのは誰かと問うことができるでしょうか。テロ行為が先にあった。いや、米軍の圧倒的な力は、以前から行使されてきた。云々。それにしても、米軍が落としている爆弾の先に、テロリストが居て、一般住民が居ないということにはならないのだから、そもそも今回の報復行動には納得出来ないわけだと断った上で続けます。

 一方が武器を手にし、もう一方も武器を手にする。そしてそれを見ている第三者は、武器を恐れる。この時、私たちは恐れの増幅を行います。それと同時に私たちは、相手を疑い始めます。

 人間には善意と悪意があるのでしょうか。それとも、人間には相手と手を繋ごうという気持ちと、相手にやられはしないかと心配する気持ちがあるというべきなのでしょうか。愛し愛されたいと思う慈悲の気持ちと、ひょっとすると騙されたり捕らわれたりするのではないかという疑心暗鬼の気持ちがあるのでしょうか。

 恐らくその両方の心が同居しているのが普通でしょう。人を信頼しているし信用していないというところでしょうか。そこへ、武器が登場する。その事によって、私たちは信頼の気持ちを失い、疑い心を増幅させるのでしょう。それが、先のお経の意味でもあるでしょう。

 テロが起こり、報復の戦争へと武器を手にすることが広がっていく。私たちは知らず知らずのうちに、他人への警戒心を懐き、他人への信頼感を失っていくのです。やさしい心は後退し、敵対する猜疑心が前面に顔を出します。国境を溝として、国外には対立し、国内は一見、排外的に心が纏まったかに見えますが、かの大統領が「我々の側につくのかテロリストの側につくのか」と間髪をいれず一種恫喝したように、私たちの柔軟な心は、硬直し柔軟な自由な思考回路を閉ざしていきます。

 思わしくない外国人が攻撃されたり、「非国民」という名を付けられて差別を受けるという事態は既に起こっています。それは、戦争への不安のなかで、心に恐怖が生まれた上に、「我々の側につくのか、敵につくのか」という支配力の圧倒的な圧力の前に、更なる恐怖が生まれるためでしょう。

 先の戦争時のように、最初纏まっていた「国民」は、異論を唱えるものから順番に、非国民として削がれ、排除されていくのです。気がついたときには、味方か敵かの猜疑心によって、人々は分断され、バラバラになって、恐怖政治がやって来るのです。その足音は既に聞こえるようです。

 してみれば、「私の隣人を愛せよ」という一大事は、柔軟な信頼の心が、自由に動けるときに可能な希有なことだと言えるでしょう。

2)戒律の不安定化・法律の新解釈と逸脱行為

 こんな時を、有事というのでしょうか。まるでこの国の政治を見ているとそんな気になります。今まで言ってきた「政府見解」が悉く解釈しなおされ、無意味となっていく。「武力行使はしない範囲で、後方支援する」とは、意味不明な新解釈でしょう。あらゆる言葉があらゆる解釈を可能にするならば、法律や戒律は要りません。

 憲法があり、それに則った法律が順次有る。戒律があり、それを守ることによって仏教徒としてある。それが戒律の意味であり、法律の存在理由でしょう。しかし、事件が大きく、その事にみんな驚いている間に、慌てている人々、特に権力を握った政治家が居る。こんな時、冷静な取決めが反故にされる可能性があります。不殺生という戒律はどうでしょうか。

 有事に守らなくていい戒律ならば、無いも同然です。理由は、「人殺し」という事自体が有事だからです。言葉を遊んでいるように聞こえるかもしれませんが、戒律には事態を越え、時を越えてありつづける理由があるはずです。もしもの時こそ、越えてはならないから、憲法や戒律は前もって規定されているのでしょう。

 今、戒律は揺らいでいます。私たちが後方支援に賛成であるならば、それは不殺生戒律を持たぬ人となるのではないでしょうか。少なくとも私たちは、証拠が確定していない人々、そしてかなりの多数の無実の人々に対して「殺人」を犯すことを、覚悟して決定しなければなりません。やはり、私たちもどこかに居るテロ共犯者と、行為を同列にするのです。私たちもテロを行ったことになります。あるいは、無辜の人々に戦争を仕掛けたことになります。もっと質の悪いことには、私たちは自分が傷つくこと無く殺人を犯そうとしていることです。

 それは、無意識に戒律を破ったか、それとも、もともと戒律を戒律として確定できていなかったかのどちらかになります。

3)国家の暴力化

 国家は有事の時に権力を増します。それは先の戦争中の国家総動員法等を見れば明らかでしょう。大きなことをなし遂げるわけですから、強権の発動が必要です。しかし、一度強大化した権力は、元に戻すのは至難の業です。権力や軍隊が一人歩きしないことを祈るばかりです。私たちはどこでどの様に、権力の暴走をくい止めるのでしょう。

4)歴史の繰り返し

 一つの国、一人の個人から見れば、自国が危険であること、自分が滅びるかもしれないことは、地球の重さと同じほど重大なことです。だから、滅ばないようにと力を増強し、和解と軍縮よりは、自己の力をたのむという軍拡の方向へ進むのでしょう。

 しかし、当事者を離れて傍から見れば、一方が武器を増やせば、もう一方は恐怖によってまた武器を増やす、そしてその事が悪循環となって延々と続いていく。このことは歴史が示すとおりです。だから、敵を攻撃するときは、恨みを根絶やしにする。つまり皆殺しにするというのが残酷でありながら常套手段だったのでしょう。

 戦争が終わり、穏やかな時代が到来すれば、「不殺生」というお題目が、時の権力の思想的維持機能として働き、敵が現れると「不殺生」は棄てられ、「国のために死んで神になる」あるいは「神の為に死んで神の許へ行く」という宗教が、それに取って代わるのです。同一国においても、政府や権力者が特別な利益、利権を貪り、その改革のための民主的な手続きがないとき、つまり、真に民主主義、国民主権が成されていないときには、不満が敵対を生むことは当然でしょう。

 石油産出国の中には、石油の利権を一部の権力者(その国は政教一致だから司祭を兼ねる)が握り、一部の富裕層に対して多くの人々が貧困に喘いでいると言われます。そのことも、テロの温床になっているのは事実でしょう。パレスチナで起こっている自爆テロも、強力なイスラエルの兵器の前に投石で立ち向かいながら死んでいく隣人の恨みから起こっている面は否定できません。

 このような国家では、利権による貧富の拡大が明白なところに、革命が起ころうとし、それを押さえつけようとする軍隊との衝突が起こります。

 ならば、国民主権が確立し、政治を行う民主主義の仕組みが確立されないかぎり、圧政や暴力の連鎖は繰り返すのです。それは、一見、民主主義と思われるどの国も例外ではありません。どの国にも、常に、利権争いが生じ、民主主義の手続きを含めての、優位の取り合いがあります。話し合いで解決する道筋を作ることが大事なのです。そして少数の意見を取り上げる機能が働かなければ、テロのような解決方法に頼る者が出ることは否定できません。テロへの対抗手段は、自分たちが真に民主主義の国をつくっているのかどうなのかにかかってきます。要は共生の大地に、見捨てられ、飢餓と暴力の下で困っている人々が居るかぎり、テロは起こるし、起こる理由を持っているのです。

5)原因解明への力の弱体化

 「恨みに報いるに、恨みでもってすれば、ついに恨みの止むことはない」と経典に書かれます。

 テロに対して暴力で解決ができるのでしょうか。

 私たちの真の敵は何かということです。真の原因解明は大丈夫かということです。攻撃に走るとき、多くのものが見落とされていきます。悪い奴が発生したら、取り締まればいいという罰則主義には大きな落とし穴があります。

 なぜ、テロという行為に走ったものがいるのか。仏教には縁起という基本的な考え方がありますが、それは、物事は様々な事柄が起因となり、また重なり合って起こっていくということでしょう。突然、テロリストという悪人が発生して、他者を傷つけたという考え方はしません。どういう経過で、どういう理由で、殺人が起こったのか。

 攻撃に走る前に、また、難民救済の行動に動きつつも、なぜこうなったのか。だれもが人殺しなどしたくないはずなのに、仏の子である筈なのに、なぜ何人もがそう思い暴挙に走ったのかを真剣に考えなければなりません。真の解決をしなければ、恨みは恨みを増幅して、世界に憎悪を広げるでしょう。

 息子さんをテロで失った方が、こう語ります。「私の息子は亡くなりました。そして今、戦争が拡大しようとしています。しかし息子は天国でこれ以上、人が死なないことを望んでいるでしょう」。また、ある女性はこう語っていました。「私はテロで夫を失いました。そして報復戦争に二人の息子が連れていかれます」。

 憎悪の連鎖を何処かで切らねばなりません。私たちは「国際刑事裁判所」を固めつつあります。裁判という手続きによって、法の下に裁かれることを期待したいと思います。

7)難民への共感と共生は成しうるか

                                                                                 ○富裕と貧困のグローバル化

    軍事国家と民主国家(国民主権)

                                                                                                                                                                問題点

1)人間の信頼感の喪失

2)戒律の不安定化

3)国家の暴力化

4)法律の無力化

5)歴史の繰り返し

6)原因解明への力の弱体化