四国遍路88カ所逆打ち遍路の意味
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四国遍路開創 衛門三郎伝説
 衛門三郎こそは遍路の創始者といわれる。子どもが相次いで死んでいくことや生まれ変わりの話は不思議としか言いようがないが、この伝説には遍路の謎を解く重要な手がかりが隠されている。遍路開創千二百年の記念には、忘れてはならない若き弘法大師と三郎の苦難があったことを改めて我が心に問いなおしたい。

 石手寺に伝わる巻物に衛門三郎伝説はこう書かれている。

─昔、当国浮穴郡荏原の郷に人あり。名を衛門三郎と云いけり。其家代々富さかう。然に、此人の性たらく、慳貪邪見にして、財寶を貪り悪逆無道、神を蔑し仏を嫌う大悪人なり。然るに自らなす孽は逃るべきに他なし、思わざりき八人の男子俄かに皆悉く死に失せたり。夫れ子を思うは人の情なれば、これ程強剛の衛門三郎も頓て地に入る思いに堪ず、即時に邪見を翻し家を捨て身を忘れ、四国巡禮幾度いう数を知らず、時に天長八辛亥年阿州焼山寺の麓に病んでその身まさに終わらんとするにおよんで、不思議なる哉、弘法大師一寸五分の石に衛門三郎と名を刻みつけ両手に授け給う。それより幾許の年月を経てか、河野息利の男子に生まれ来たり遂に家を継ぐ。息方と名乗り、この国を領せり。この人誕生のときに日数を経るに左の手を開くことなし。玆によって当山において祈願ありければ、頓に手を開かれしに件の石掌の中にありけり。
則ちその石を当山に納む。寺号を安養寺と申しけるを改めて石手寺とぞ伝え侍りき。─
 古来、石手寺のお弟子さんはお遍路さんが来られると右の巻物を開いて衛門三郎の顛末を読み上げておったそうな。
 この巻物には、衛門三郎の家を見すぼらしい旅の僧侶が訪ねて一夜の宿を乞うたが、それを突きとばして僧の持つ鉄鉢が八つに割れたくだりが割愛されている。その他の衛門三郎伝説では必ず「見すぼらしい僧が宿を乞うて、それを嫌った三郎は彼に辛く当たる」のである。その僧は実は弘法大師であり、そのことが大罪とされるのである。
 私は以前には、この伝説の重要性には気づいていなかったが、昨今ではこの中に現実の遍路の重要なポイントが三点あると指摘しているのは、仏教入門2に示した通りである。簡単に復習すると、
①遍路する人々は衛門三郎のように子を亡くした悲しみに悲嘆する人々。あるいはそれと同様に、肉親を亡くして悲嘆して行き場のない苦しみを癒したり、弔いのために骨を折ったり修行しようとする人。またその他、自分の罪を贖おうとしたり、過去を悔やんで自分を苛んだりする人々。またリストラや何かの理由で働けなくなったり、病気などで故郷を追われたり、世間からはみ出したり、追い出されたりした人々。総じて精神的に、肉体的に、世間的に、生活的に、苦難や困難にある人々である。
②遍路は修行であり、それによって果報があるということ。衛門三郎伝説では、再生して人助けをする能力を得ているが、これは比喩的表現であり、実際に遍路を修行した人々は有形無形の利益を得る。
③衛門三郎伝説の冒頭、世間に疎まれる象徴としての見すぼらしい僧侶は現実的には乞食であるが、生活困窮者が門口に立ったのに三郎は冷たくあしらう。つまり接待をしない人間は罰が当たるということ。現実には接待しないことによって傷つくのは遍路人であるが、やがて遍路に出る三郎はかつての自分がしたように今度は迫害されるのである。何より、接待できないということがその人間の狭量や幸福を受け取る感受の無能さつまり幸福から遠くに居ることを示している。
 これらは仏教入門2に示した通りであるが、再度衛門三郎伝説を再説して、先に意訳した弘法大師の三教指帰と共に見ることによって、弘法大師と衛門三郎によって創始され、時代を越えて代々受け継がれて今日に綿々と営まれる、現実の辺土行を明らかにしたい。明らかにするとは現実をより現実的に生きるという意味である。
 さて、この伝説の真偽はさておき、というのは昨今輪廻転生を信じている人は少ないし、そもそもお釈迦さまが輪廻を説いた形跡はないからである。それについては拙著「仏教入門2&3」を見てほしい。毒矢の譬えのようにお釈迦様は、あの世がいかようであろうとも解脱できる方法を説いておられる。
 この衛門三郎こそ代々遍路の最初の人とされている。つまり遍路とは何かを問うとき、この伝説の中にその答えがあるというのである。まずは、現代訳「衛門三郎伝説」を見てほしい。




新訳、衛門三郎遍路事始め



 今から千二百年も前のことである。石手寺より南へ十数キロ行ったところに荏原という村があった。そこに衛門三郎という長者が住んでいた。長者というからには屋敷があり広い田畑を持っていた。少し日本史を勉強した方なら「三世一身法」とか「墾田永年私財法」を覚えているだろう。豪奢な生活を覚えたために税金では賄えなくなった奈良の政権は開墾した土地を自分のものにして良いという法律をつくってしまう。そんな時代である。税金が上がり、食っていけない人々や、移住の自由を奪われ防人などの兵役や強制労働を嫌った人々は、無理やり割り当てられた口分田を耕作放棄して、あるいは借金から逃げて、逃亡者となっていた。逃亡と書いてチョウボウと読む。それが逃亡者や自由放浪人の名前である。空海大師の「三教指帰」に真魚(空海の青年期の名)の親友として登場する「私度僧」も逃亡した自称僧侶であって、政府の許可なしに勝手に僧侶を名乗る語りのような抜け人のような存在である。当時、各地に国府が置かれ、国司が派遣されて彼らが税金の取り立て人や強制労働の執行人として武力を背景に君臨しつつあった。もともとは地方の豪族は独立していたし、それ以前には人々は自給自足の狩猟生活をしていたのだから、豪族や朝廷に支配されるのは大きなお世話である。以前同様に自由な狩猟生活を望む人々は、山間部や半島の先端に逃げて貧しいながらも呑気な生活を堂々としていたと想像できる。その山間部や半島先端が辺土または辺地と呼ばれる土地である。その僻地であり権力やその軍隊の力の及ばない辺土に住む人々がいた。このような状況を想像しつつ、衛門三郎の話を進めてみたい。
 口分田から逃げた逃亡生活は自由ではあるが、海賊に仕立て上げられた藤原の純友や、五家荘や平家谷に逃げた平家の落人などのように、逃亡者はいつ追手につかまって殺されるかも知れないし、住みよい地域を朝廷や地方豪族に占拠された上に、耕せば自分のものになるという永年私財法を施行されては、耕作できる土地などさらさらなく、僻地の不毛の山間や人の来ない入り江に住むほかなかった人々にとって、口分田を捨てることは安定した生活を捨てて、いつ飢餓に襲われるか分からない生活を選ぶことでもあった。
 そんな中で、衛門三郎は道後平野を流れる重信川から山間部へ向う荏原という里に開墾していたと思われる。その地域には「網かけ石の話」が伝わり、三郎の八人の子息の墓といわれる「八つ塚」が小高く積まれて、それが八つ今も残っている。今でこそ重信川は伏流水の川で洪水となることは想像できないのだが、大きな石を網を懸けて引いていき、川の氾濫止めにした話が伝わり、八つの塚は川の防波堤のように見える。
 そうすると衛門三郎こそも永年私財法よろしく自分で新田を開墾していたのである。渡来人のもたらした水田耕作は稲穂の実りを確実なものにして人々の生活を安定させたが、その結果としてその果実の奪い合いが激化して、豪族は闘争を繰り返し、その中で勝ち残ったものは国家を名乗り盗賊と化した。また生活が安定すると人口が増えて、食糧危機が起こり、松本清張が「砂の器」に明らかにしたように、田畑を持たない次男三男はもとより長男以外の女子は、口分田の配給を得ることなく、路頭にさまようこととなるのは必定であったろう。だから三世一身法や永年私財法が施行された。
 開墾の場所からして、三郎は字のごとく三男であったろうか。自分で手つかずの大地を探して、蔦を払い木を切り倒し、根を切り石を堀り除いて、溝を切り水を引き、堤を叩いて漏水を止め、枯れても枯れても苗を植え続けねばならない。長者のようであり庄屋のようであったというのだから、開墾には成功していて、一方では安定し豪奢な宴会も時には催しただろうが、だからこそ少なくない郎党を抱えて彼らの口数も養わなければならない重圧があったろう。
 その日、見すぼらしい僧侶は荏原の里を歩いていた。見すぼらしいというのだから「養老律令七五七年」の第三の僧尼令には、私度僧の禁止が書かれていることからも、かの僧は私度僧であっただろう。その人は実は弘法大師であると伝えられるから、
「進退ここに窮まる」と嘆く人でもあった。
 今日の歩きの遍路さんがそうであるように、寝袋を持ち歩き、はや何日も屋根の下で寝たことはなく、風体も既に破れた袈裟と裾のすり減った衣が汗臭い臭いをさせていただろうから、怪しく思う村人に寝入りばなを追われたり、また蚊や毒虫に安眠を妨げられたりしながら体をやつれさせていた。そんなふうに姿形も汚くなっていたから、村人も嫌って食事も何日も取っていなかった。今日も何軒かの玄関に立って、少しばかりの食事を請い、また納屋か軒先で一晩寝ることを頼んでみたがなかなか良い返事を貰えない。今晩もひもじい思いをしながら河原で一夜を過ごそうかと諦めかけていたところ、川の向こうに明かりが見える。少しばかり大きな屋敷だろうか。見すぼらしい僧はもう一軒声を掛けてみることにする。
 そのころ太陽が照りつけ今年も不作だろうかと心配しつつ、ついつい一族郎党と共に早朝より夕方まで働きづめで、鍬を握る手も痛み、熱中症なのかふらふらと屋敷に戻ってきた衛門三郎は、疲れのためか多少いらいらして「お前たちはまだまだ若いのだからもっと真剣に働かないかん」と息子たちに愚痴っていた。というのも昨年は日照りで水が切れてせっかくの稲穂は枯れて、大勢が死んでいったことを、三郎は自分の治水努力が足りなかったと悔やんでいたのである。堤を築いて多くの水を取り込みたいと来る日も来る日も汗を流し続けていた。息子の何人かは働きすぎて寝込んでいるものもあった。そんなだから三郎は憔悴しているのである。
 そこへかの見すぼらしい僧が到着する。
 「怪しいものではございません。旅に困窮しております。なにとぞ一夜の宿をおめぐみくだされませんか」と、僧は勇気を出して言ってみた。
 三郎は板戸ごしにその声を聞いていた。声は四十代半ばかと思う。五十歳も後半になれば体も衰えてきて使用人として置いてもらえることも少ないと聞いていたから、なんとかしてやらねばという気も起こった。しかし一日の労働がきつかったから朦朧と考えている。そして最近の噂話が映像となってよぎっていく。不作のために借りた借金が返せなくて娘を捕られ自暴自棄になって、田畑を捨てて妻も捨てて家を捨てて逃亡者となった男の話である。立派な男だったらしいが、野宿を重ねるうちに一月もするとみるみる落ちぶれて面影もなくなり、三カ月もするとどこの誰やら分からない、髪はぼうぼうで獣のような悪臭を放ち、衣服も体を覆うほど布が残ってなく、あちこちの肌が露出して見られた様相ではないので、村人は遇っても遇わないふりをするから、本人は恥ずかしくて村へは下りてこれないはずなのに、あたかも誰も居ないかのように、そのような無様な格好をさらし者のようにして歩いているというのである。結局、彼は誰にも相手にされなくなり、どこかの山奥で獣と一緒になって暮らしているというのである。三郎は、その男が獣と一緒に洞穴で寝ている姿を思い浮かべてしまうのである。
 また、こんな話も思い出した。佐伯今毛人の話である。とはいえ今毛人のことではなく、彼が陸奥の征服地から連れ帰ったという野蛮人の話であった。陸奥で金が掘り出されるというので、天皇政権は兵役を強いて、軍隊をかき集めて金泥棒に行ったという。川で取れる砂金を奪い、その金は貴族階級が独り占めしたという。汚い話だが、もっと恐ろしいのはその侵略戦争で多くの男女が捕虜として連れてこられたということである。赤ら顔の野蛮人は何をするか分からないという噂が立ち、その辺りに居るのではないかと恐れられていた。彼らは生口と呼ばれほど遠くない生口島に集められ、その内の何人かは過酷な奴隷身分に抵抗して島を抜け出したと聞いていからだ。三郎は背筋が凍るような感覚を覚えたが、「蝦夷の人なら一見して異民族と分かるから」と思って門扉の隙間から覗いてみた。
 日も暮れかけて、見ず知らずの男の夕日に照らされた顔は赤いようにも見えるが、見るからに華奢でどうみても逃亡者とは見えない。ずっと野宿生活をしていると見えて、肌の露出部分は真っ黒で土塊と見分けがつかない。それでも歳は四十ではない。まだまだ二十歳ごろであろう。そう直感した三郎は戸を開けていた。
 「おいおい、まだ若いのにどうしてこの辺りをふらついている。おかしいではないか。逃げてきたのでもあるまいし、早く家に帰って耕せ耕せ。今の世は口分田も底を尽き、政府は豪華な自分の生活を保身するのが関の山で、盗賊にでもなるか、自分で耕した土地を自分のものにするかしない。とっとと帰って、耕してその土地を自分のものにしろ。我しもそうしている」と。
 見すぼらしい若僧が答えた。
 「ありがとうございます。わざわざ私のために出てきてくださったのですね。今日も十軒ばかりお願いして回りましたが、塀の向うから怒鳴られたり、しつこいぞと罵られ泥水をかけられた家もありました。働かない私が悪いのですが・・・・」と。
 若僧が丁寧な口調でいうので三郎は訝しがる。
 「こやつはどこぞの若さんかもしれん。先頃讃岐の佐伯の若いのが家出してゆくえ知れずで、見つけたら密告しろとお触れが回っていると聞いた。こりゃえらいことだ」。
 そう思い始めると、少々近しく思い始めていた三郎の気持は急に冷え始める。むかし逃亡者を泊めたら「おまえは脱税する抜け人の味方か」と役人にひどい目に叱られ年貢をつり上げられたことを身に刻んでいるからだろうか。三郎は恐怖が起こるのを感じながら、その一方ではますます若僧に同情していくもうひとりの自分を煙たがっていた。
 「ええい、うるさいわい、この我しにどうせいというのじゃ。この疫病神め」。他の村人のように追っ払えばすむことだが、なんとかしてやりたいと思うからよけいにいらいらする。三郎は昔からめんどうな性格である。恐怖で保身したい気持は家族に危害を加えられないかと思うからいよいよ心配を肥らせ、ここで若僧を追い払ったらどこかでのたれ死ぬのではないかと、実際に朝行ってみると凍え死んだ硬直した死体を埋めた事件を思い出して何でもいいから泊めて食わしてこっそり追い出そうと考えたりする。恐怖と哀れみの二つの心が、どちらが自分だか分からなくなってせめぎ合うから、昼間の疲労も相まってもはやどうでもよくなっていく。ああだこうだといらだちが煮詰まっていくころ、見すぼらしい僧が立ち去ろうとした。
 「ご迷惑をかけたようで、済みませんでした」。
 すると三郎の小さくなりかけていた方の心が反発した。
 「そのとおり。お前なんかが来るから我しら良民は働いても働いても天罰が下って不作になり、その上、ない米をお上とかいう人々の高級馬を養うためとか、御殿の瓦代とかで、米びつから根こそぎ盗っていきやがる。朝廷なんていうのは純友の反乱よろしく、どっちが泥棒なのかはっきりしてる。そんなことはどうでもいいが、とっととうせてくれ。おい、だれか、にぎり飯でも渡して早く帰ってもらえ」と。
 ぶちきれてしまった三郎は、そう言い放つと居間へ転がり込むようにしてそのまま眠った。その後、三郎の息子が飯を僧侶に恵んだところ、見すぼらしい僧は丁寧に何度もお辞儀をして立ち去ったことを三郎は知らない。息子は「飯をやったらとっとと帰っていた」とだけ報告したのだから。
 翌日、衛門三郎は目覚めたが、どうも昨日よりいらいらする。居ても立ってもむずむずして仕方がない。もう一つの勝ちつつあった心が疼くのである。世間では思いやりの心とか慈悲の心とかいうが、要はのたれ死ぬのではないかとこの先を見てしまうのである。どうしてだろうか。飢饉のときに、生き残った者たちはこっそりと米を隠して食べたから生き残ったことをうすうす知っていて、後ろめたさから大きなお地蔵さんを建てたことを神様が知っていると恥じているからだろうか。
 今日は農作業はお前たちでしておけと息子たちに言うと、三郎はあの僧侶を追いかけていた。しかしもう既に何処へ行ったものやら見当たらない。ひょっとすると家出してきたことを勘づかれたと思って先を急いだか。などとまたまた詮索している。抜け人とはたいへんな生き方だ、世間に追われて生きるとは辛いことだと思いながら、三郎は家路につく。「まあ、にぎり飯をやったから、そこらの思いやりのないやつらとは違う」というように弁解してみるが、ますます五十歩百歩の自分に気がついて過去を消したい自分になっていた。
 それから何日かはゆううつな日が続く。あのことは忘れようと一生懸命働いたから、一族郎党は疲れ果てていく。今で言う過労鬱を自分が罹患し、家族にやつあたりしていくから家族や息子たちも過労鬱を病んでいった。
 伝説のお話では・・・一夜の宿を乞うた見すぼらしい僧は実は弘法大師なのだが、その僧は七回断られ、八度目にとうとう三郎は僧を突きとばす。箒で叩いたとも伝わる。すると僧の持っていた托鉢の鉢が八つに割れた。翌日から三郎の男子八人が次々と亡くなり、強欲非道の彼も打ちひしがれてその僧を追って行くのである。この出奔が遍路の創始ということになっている。
 実際に荏原の郷に行ってみると八つ塚が残っている。高さ数メートル、幅四、五メートルの円墳で、頂上には墓石やお地蔵さんが建てられている。「これは墓ではなく川の堤の跡だ」と先代俊行師匠は言われていた。史実というのは伝えられる物語の向うがわの実生活にあったというべきであるが、物語が荒唐無稽であっても誰かが生きたことを示している。逆にもっともらしい伝説でも、人の血が通わないものは荒唐無稽のでっち上げなのである。八つ塚は何を意味しているのか。
 はてさて、過労鬱などを持ち出したが、天災への恐怖心と課税への恐怖心と逃亡者を匿うことへの恐怖心は嘘ではなかろう。逃亡者を助け得なかったり、自分のことに汲々として他人を顧慮できなかったりした心の傷はけっこう人を疲弊させる。他人のことなどどうでも良いようなものだが、根が優しい三郎だったのか、見かけには強欲非道であり自分の屋敷だけ建て広げ、口にすることは働きが良いとか悪いとかという是非だけであり、良く働く子どもたちにも「もっと頑張れ」とは言っても、「体を大事にしろ」とか「お前のことを思って厳しくしている」とかというねぎらいの言葉をかけることがない三郎だったが、あの僧侶のことは気になってしかたがない。心がそこへ行ってしまうと他のことがおろそかになるのが病気の始まりである。
 秋口には過労はピークを迎えたのだろうか。息子がひとりまたひとり亡くなっていった。昔のことだから病気になればひとたまりもない。何人かの子どもが亡くなり、三郎は急にやる気をなくしていく。
 なんのことはない。三郎が農作業に頑張ってこれたのは家族を楽にさせたいと思っていたからである。子に先立たれた彼は、生きがいを喪失する。何のために田畑を広げ、屋敷を大きくしてきたのか。何も自分ひとり暮らすのなら質素でも貧乏でも良い。妻や子どもがかわいいから一生懸命、疲れも感じずにやってきたのだ。子どもの顔を見るたびに前へ前へと押し出していたやる気が、今は消え失せた。何も衝動が起こらない。生きた屍とはこのことか。鍬や鋤が手につかなくなった三郎は来る日も来る日も朝な夕な、今は顔も見れなくなった息子たちを思い浮かべては、居ないことを何度も何度も悔いて悲しんだ。働き者で有名だった三郎も、このごろは「なまけ三昧郎えもん」などと噂の標的となっている。だから家族も彼を見下すようになった。「そんなところにまだすわってたのかえ」と叱責されても三郎の心はここにはない。そんな噂の種も三郎の名前を忘れ始めたころ、周りの人々の冷たい仕打ちが背中を押したのか、ついに三郎は家を出る。居場所もなく踏ん張る力もなく悲しみだけが彼の存在であったのだから。
 三郎の出奔である。これが遍路の第一歩とされる事件である。さりとて何の当てもない。思い浮かぶのはあの若僧ぐらいである。
 幾ばくかの金子を持ち出した三郎であったが、無一文になることは恐ろしく、小出しに小出しに金を使った。ときどきは乞食をまねて食事を乞うてもみたがうまくいかない。そうするとあっという間に金は底をついた。服も買えない。食事もままならない。野宿も何日も続くと体をむしばんでいく。他人が見ればその姿はいつかの見すぼらしい僧と見間違えるほどである。
 伝説では二十回四国を回って会えないので、逆打ちして反時計回りに回ったら焼山寺のふもとで息も絶え絶えになっているところにあの見すぼらしい僧が現れたということになっている。その僧は実は弘法大師であって、「良く改心して遍路された。望みがあれば叶えてあげよう」と言うのである。そこで、三郎は「できるならば、伊予の領主に生まれて、人々を救いたい」と願う。弘法大師は三郎の手に「衛門三郎再来」と刻みつけた石を握らせる。それから幾ばくかの月日が経ち、伊予の領主河野家に男子が生誕するが、左の手を開かないので安養寺に詣でて祈願したところ手を開き、衛門三郎と刻まれたその石が出てきた。そこで安養寺の名を改めて石手寺とし、その石を寺宝として安置したというのである。
 さて、金子も底をついた衛門三郎はどうしたか。いやどうもなるまい。服は破れ、裾を引きずり、体のあちこちが露出して、露出した部分は太陽の光で墨を塗ったように黒くなり、薄汚れた衣服や持ち物は悪臭を放ち、この世のものとは思えない獣のようないでたちで町から町へと移動していく。三教指帰の表現を借りるならば、「町を過ぎるときは瓦礫が雨のように降り注ぎ、港の市場を横切れば馬や魚の糞尿や腐肉をぶつけられ」ても文句を言えないように人間離れした風体をしていた。
 最近では人目をはばからず、野草を食べたり木の実を採ったりしている。三教指帰よろしく「食糧も底をつくと、体内の八万の虫が空腹を訴えるようになると居ても立ってもいられない」から出会う人には物乞いもする。
 とはいえ気の弱い三郎はこの何日かは物乞いも出来ず、飲まず食わずの日をつづけていた。今日は思い切って何軒か訪ねてみようとするのであった。
 「お忙しいと思いますが、なんとか食べ物を恵んでくれまいか。できれば何処でも良いから寝るところをあてがってくれまいか」。こんな具合で七軒ほどお願いしたが、「忙しいから出直してくれ」とか、「薄汚いのは困る。川で体を洗って来てくれ」と言われて洗って戻ると閂が懸かっていたりとか、「お前のような働かない者にやるものはない」などとどこの家も冷たかったのである。
 なんという巡り合わせであろう。昔、自分が追い返した見すぼらしい僧の姿と寸分違わない姿で、今は自分が乞食をしているのだ。
 「ああ、このような気持で、あの若僧は門を叩き、物乞いするなどという口にできない言葉を勇気を出して語っていたのだ」。そう思うとなぜか涙が出てくる。半分は悔し涙だったが、半分はやっと気持が通じたという妙に安心した気持だった。日も暮れかけたが、彼はあの見すぼらしい若僧と一緒に歩いている気持になって、もう一軒尋ねてみる気になった。それは不思議な感覚であった。何かが背中を押し始めたのである。それは久しぶりの感覚であった。
 次の家を訪ね三郎は声を出した。
 「たのもう。たのみたいのです。どうか今夜一晩泊めていただけませんでしょうか」。すると声がした。
 「ちょうど、久しぶりに風呂を入れたところじゃわい。入っていくかな」。
 これまた不思議なことはある。夕飯をいただき、風呂に入って、今、三郎は布団の上で寝ている。布団で寝るのは何ヶ月ぶりだろうか。なぜか三郎はあの見すぼらしい僧に泊めてもらった気がして涙を流した。嬉しかったのである。
 翌日、彼は早々にその家を後にした。
 あの時、このお家のようにあの僧侶を泊めてあげれば良かったのだ。ますます悔やまれたが、今度こそはという気持が過去を明るくした。さて、それからというもの、訪ねては断られ、尋ねてはまた断られ、十回ほど断られて次の家へ行くとたいてい受け入れてもらえる。
 「なるほど、人間とはこういうものか。十人にひとりは良い人がいる。というより心の十分の一は優しくて、十分の一は自分本位で、その他に不安とか、世間体とか、お上への恐れとか、さまざまな心がうごめいていて、人間なんて分からないが、要するに良い心が表に出てくるようにするにはどうしたら良いのかだろう」。こんなことを思うのである。
 そうしているうちに、三郎は旅をする人とも出会う。たいていはそのような旅人は海浜や山間という人里はなれた場所を好んで寝床にしていた。中には魚とりや狩猟が上手なのがいて、いとも簡単に食事を用意するのにはびっくりした。洞穴に住んで、野草を集め、魚を釣って悠々自適に生きる。その人の素性を聞いてみればなんと「私こそが本物の釈迦の弟子だ。真の僧侶だ」と豪語する。私度僧といういかがわしい人だろうと否定すると、「何を言うか。あの有名な行基菩薩を知っているだろう。彼こそ僧侶の中の僧侶だ。彼は私度僧だが、各地に散らばる私度僧こそが下層の人々を救う真の仏陀だ」と断定した。つづけて「朝廷が雇っている僧侶どもは災い除けのために呪術ばかりやっている。何やら中国ではもっぱら道教とやらの仙術とかと仏教の呪法を競わせて、雨乞いだの、悪霊の封じ込めなどをやらせているらしい。それをまねて中央のやつらは法外な税金をつぎこんで留学生を送り込み、長安や天竺の最新科学とか称するまじないを盗んでいるのだ。その担い手が公務員の僧侶というわけだ。そもそも、老荘思想も仏教も人々を苦しみから救い出し、幸福にするためのやり方なのに、ご自分の都合で荘園や領地を横取りして、相手を殺したり、戦争に持ち込んだりして、人殺しをやってのける。ところがだまし討ちをするわけだから、殺したはずの敵の怨霊が夜な夜なやって来て罪を暴くわけだ。それで眠れなくなって、仏教に怨霊退治をさせるというわけだ。そもそも騙したり横取りしたり殺したりすることが罪なわけで、その罪を犯しさえしなければいいのに、悪事はやめられない。してしまった悪事を消すために仏教を悪用している。とんでもないはなしだ。というわけで、本来の仏教は、殺さない、奪い合わない。知ってるだろう。不殺生、不偸盗というやつだ。これが基本だ。自分で稼ぐ。他人を傷つけない。当たり前のことができない世の中になったから、わざわざ大事そうに仏教だの何とか教だのとお大事な名前をつけて奉っている。国を挙げて、みんなで騙し合ってこっけいなことだ」。
 三郎はくどくどしい演説を聞いていたが、仏教だの老荘だのというなんやらまあたらしいものに触れて、わくわくもしてきた。そして、「しばらくこの男についていろいろ教えてもらうのも良いかもしない。しかし毎日の飯に事欠く我しではどうしようもない」と思ってこう頼んだ。
 「しばらくあなたの弟子にはなれまいか」。
 「じゃあ、ついてくるか」。
 「師匠とお呼びして良いでしょうか」。
 「いや、あびしど、いやあび法師と呼んでくれ」。
 というわけで、二人の行脚は始まった。
 彼らが向かったのは、おそらく四国西端の佐田の岬とか、南端の足摺岬とか、室戸岬とかである。あるいは人里はなれた山奥である。石槌山や金山や人の住めない辺地である。
 彼らは狩猟したり草木や木の実を集めて生きていた。三郎が驚いたことには、辺土には少なくない人々が暮らしているということだった。海浜や山間部には一見して人影がないように見えたのだが、あびさんが「おーい」と叫ぶと、いったいどこに隠れていたのだろうか、雲が湧くようにあちらこちらから人が出てくる。洞穴や木の蔭から出てくるのである。
 以前なら「なんという薄汚いやつらだ」と見下しただろうが、今では三郎の方がみっともない格好をしている。みっともないという見方は今ではやつらの見方であって、やつらというのは過去の自分をさしている。三郎はそういう見方を今では見下していて、ここの住人たちは新しい見方こそ、人間らしいおもむきだとみんな言うだろう。都会のやつらの方が妙にめかしこんだり着込んだりして奇怪なのである。夏の衣、冬の衣、慶賀の衣、喪中の衣というように奇妙な取り決めを律儀に守って、まるで裸の王様か狐の嫁入りのようなありさまだと此処の人間は思っている。人間は、住めば都というけれど、世間に順応して生きている。郷に入れは郷に従えである。順応するのは良いことだが、順応していない他人様を悪しざまに言うと、世間は互いが互いの首を締め合うこととなる。常識というやつが互いに相手の首を締め合って、世間から追い出すのである。村八分とかスケープゴートという。要は、当たり前とか常識というのは危険な思想で、野蛮で粗野で質素で何もないけど自由な今の生活が染み込んだ三郎には、今の生活が当たり前であって、過去は狂人なのである。
 洞穴に住んで、家もなく布団もないが何も困ることはない。どんぐりのあく抜きを教えてもらったから、木の実を蓄えておいて調理すれば何とかなる。海女さんには海にもぐって海の幸を採る方法も教わった。贅沢を言わなければその時その時に海や山に少ないご馳走を馳せ走って用意すれば日に一食は固い。それよりも、今日は我しが行ってくる。今日はお前が行くか。という具合で、かわりばんこに狩猟に出かけ、採ってきたものは保存できるわけでもなく、みんなで分け合うから、なんとなく暢気である。親密さも湧いてきて生活も楽しい。家の塀もないし、我しの米びつお前の米びつということがない。
 こんなふうな生活は、辺土に居ればなんとかなるわけだが、町中ではこうはいかない。狩猟漁労の悠々自適な生活といえは格好良いが、やはりときどきに町の生活が恋しくなって出かけていくと、町のやつらは世間のものさしを振りかざして「どこの馬の骨だ」と罵る。先頃までは「我しは荏原の名門、衛門三郎と申す」と気張ってもみたが、「ああ、あの負け犬か。かつての風貌はどこへ行った。この阿呆め」と言われて、草木と貝獲りの暢気な生活を啓蒙してみたが、かつての自分がそういう野宿の者を見下した姿勢を思い出して、住む世界が違うから到底理解されないだろうと相手に落胆するというより、人間というものに落胆するのであった。
 そんなわけで、辺土の生活に味をしめながらも、都会との落差と軋轢に齟齬を感じながら生きていた。こんな落差を感じて不安になるときは、阿卑さんに仏法を求めるのであった。心の空白というものはなかなかなくならないどころか、子を亡くし、家を失い、世間を出奔し、身一つになって、食っていけないときは乞食を真似たし、生きるのに必死で無我夢中であったが、仲間も出来て、死なずに生きて行けると安心してから、人生への渇望は前よりも増したようであり、このまま死んでなるものかと思うと、阿卑さんが秘匿している秘法を強請るのである。
 「阿卑さん。あなたの弟子になってから随分一緒に過ごした。そろそろ仏法を教えてくだされ」と何度か頼んだがなしのつぶてである。それどころか、一度はこう言われた。
 「お前は、何か金科玉条なる法があって、それで心の空白を埋めようとしているのではないか」と。そしてこうも言われた。
 「道にできた穴凹は岩を持って来てそれを埋めることが出来る。また川を渡ろうとすれば、木を倒して橋にすればそれで渡ることが出来る。しかし、心の空隙を穴埋めするものはあるか。満たされぬ心を満たすものは何か。遂げられぬ思いを遂げるものは何か。そんな巨石や巨木がどこかに転がっていようか」と。
 三郎はこう言われて、「なんだ、阿卑法師は、勇猛な度を越す優れた坊主かと思っていたが、本当は阿呆法師か。天竺とかの国で古代に退治された敵蛇のアヒか。それとも秘法を盗まれたくないのか。けちな奴め」と思うのであった。そして、ある日、三郎はとうとうこう言い放ってしまった。
 「あなたのお蔭で質素な生活の意味深さはよくよく分かった。また一見貧相な人々の絆が深く、友情のありがたさや共に住むことが意義深いことも分かった。しかしこれが全てなら、我しが求めていたものではない。また会う日を楽しみにしたい」と。こう言って三郎は単身旅をつづけることとした。別れ際、阿卑私度は言った。
 「仏法は、遠くにあるのではない、自身の中にある。自分の心の中にある。しかしながら、自分を探してもそこにはない。なぜなら未だ悟っていないからである。ではどこにあるか、却って他を訪ねることかもしれない。自分以外のところにある。他人の中にある。他人に関わるその中にある」と。
 また三郎はとぼとぼと歩き始めた。今度は足摺岬へと。その途中、今の金山出石寺辺りで、しばらく洞窟に住んだ。すると先客がいて、何やら呪文を何べんも唱えている。声をかけると、その私度僧らしい修行僧はこう言う。
 「あなた、阿卑法師のところで修行している荏原の三郎だろう。噂は聞いている。たいそうな長者屋敷を放り捨てて修行僧の仲間に入ったらしいな。ところで、阿卑法師には何か教えてもらったか。我しなんかあいつと半年過ごしたが、何も教えてくれん。けちなやつだ。何分、言い分としては修行が一定の域に到達しなければ、猫に小判どころか、泣き面に蜂らしい。傷口に毒を塗るが如しということだ」という。
 「あなたも、教えを貰わなかったのか」と、三郎は答えた。「だが我しは拝むやり方だけ教えてもらったぞ。お前にも教えてやってもいいぞ」と言うなり「ナモー アーカーシャ ガルバーヤ オーン アーロークヤ マーリブハーリ スバーハー ナモー アーカーシャ ガルバーヤ オーン アーロークヤ マーリブハーリ スバーハー ナモー アーカーシャ ガルバーヤ オーン アーロークヤ マーリブハーリ スバーハー 云々」と同じことを何べんも言う。ああ、こいつが呪文というやつだなと勝手に合点する。
 「あなたの名前はなんというのか」と、三郎が聞くと彼は「我しは沙門だ。シュラマナだ。家なしの放浪修行者だ」と言う。
 「さっき唸っていた、聞き慣れない言葉は呪文か」と、聞くと、沙門は堰を切ったように話し始めた。
 「こいつは梵天の言葉でマントラという。気持を込めて何度も何度も専念して唱えれば、心の中に仏が現れる。さっきのは虚空蔵菩薩のマントラだ。本当のことを知らないやつらは、のうぼうあかしゃきゃらばや、おんありきゃまりぼりそわかと、大和言葉で言うがそれは効き目がないぞ。ナモーは心から帰依しますだ。アーカーシャは虚空だ。この空っぽの宇宙だ。星や月や太陽や、この大地や風や命や我しらを容れている大きな大きな容器だ。この容器の中で我しもお前も食べ物も山も川も現れては消えていく。その産み出す働きが、ガルバだ。ガルバーヤはガルバさんよというのだ。オーンは必死で拝むぞといこと。アーロークヤは眼を開け、良く見よだ。マーリブハーリは、産み出しておくれよというわけだ。スバーハーはみんなで幸福になるようにというわけだ」と、べらべら話し続けるので、「どうしてそんな異国の言葉や意味を知っているのだ」と、聞くと、「まあ聞け、先ずは、謙虚にならないかん。奢りの心を捨てろ。我しが生きている。我しの力で生きている。我しだけが居るとか尊いとかいつまでも居るという気持を捨てろ。なんせ、我しらはみんなこの虚空の中の一員で、互いに影響し合って生まれたり死んだりしている。自分で生まれるわけでもない。かといって勝手に生まれるわけでもない。誰かのお蔭や何かのきっかけで生まれたり死んだりしている。これが謙虚とういものだ。そうすると虚空が蔵になって、良いものを産み出してくれるというわけだ。我しは虚空のことを打ち出の小槌さまと呼んでいる。虚心に念ずれば、そのものが産み出されるから、打ち出の小槌だ。宝物の出生だ。宝を生むから、宝生如来ともいう。如来ぐらいは教えてもらったろう。仏様のことだ」。
 ひたすら聞いていた三郎は問うた。「そのことを沙門さんはどこで習ったのですか」と。
 「我しは行基菩薩の生まれ変わりで、弓削道鏡の弟子だというわけではないが、これでも昔、奈良の某寺で経典を読み込んだことがある」と、沙門は答えた。
 さて、求聞持法とやらを教わった三郎は、足摺へ向かう途中、どこかであったような気がする男と一夜を半島で過ごした。なぜか、三郎は自分の身の上を話したくなった。
 「あなたは、どこから来られたのでしょう。我しは実は瀬戸内の道後の近くの荏原という里から抜け出してきてしもうた。我しは自分の息子を殺してしもうた。それというのも食うのに困ってやっと我が家に辿り着いた坊さんを追い返してしもうたからじゃ。あの日は疲れておって二つの心が行ったり来たりしてたのじゃが、面倒くさい気持が勝ってしもうた。本心は助けたかったのじゃが、ひょっと国司に睨まれせんかと恐怖心が保身に走ってしもうた。我しだけなら何ともなかったが、息子や連れ合いのことを考えると急に心細うなって、怒鳴りつけたんじゃ。その後は、転がり落ちるように、自分のことしか考えんようになった。気がついたら我利我利亡者で、息子にも八つ当たりしたり、働け働けで何も見えんかった。子どもたちが死んで、我しは自分が殺したことに気がついた。しかし家族を守るという目標がなくなって、悲しゅうて悲しゅうてどうにもならん。家にも居られんなって、このありさまじゃ。我しは冷血漢の人殺しじゃ」と、三郎は一気に過去の針の山を駆け抜けた。するとである、聞いていた男が口を切った。
 「我しは、娘を殺しました。好きな男が出来ましたが、許さんかった。うちの田んぼは山の上の方で、水汲みを日に何時間もしても田はすぐ干上がる。粟や稗でも生きてはいける。けど年貢は米で盗りに来る。目茶苦茶じゃ。自分らは働かずに取り分は減らさん。まあそんなことはどうでもええ。娘には苦労させまいとええ家に嫁に行けと言うてやったら駆け落ちした。それっきりじゃ」と。
 それを聞いて三郎は唸った。
 「我しだけじゃないのう。我しだけじゃないのう。我しだけじゃないのう」と。三郎は重たいものが削げ落ちるような気がした。「これがアーカーシャ ガルバーヤかのう。なんとつらいこと、なんとむごいことよ」。
 その晩、三郎は泥海を泳ぐ夢を見た。息子をおんぶして泥の海を泳ぐのだが、進みもしない、ただただ沈んでいく。死にもしないし浮かびもしない。息が出来ず苦しみだけがつづく。
 翌日起きると、連れはとっくに出発していた。みんな苦しみを背負いながら歩んでいくのだ。止まるわけにはいかない。ぬかるみも歩んでいける。泥沼だから力強く歩を進めるのだ。そんな高揚感がなぜかあった。
 足摺の彼方は普陀落の都。死者の逝く観音様の世界である。その海岸線は何百里を経て室戸につながっている。歩むには十分長い、考えるにも十分な距離である。
 室戸には有名な洞窟があった。いろいろな高名な私度僧が修行したという洞穴である。三郎も先人を見習ってそこでしばらく居ることにした。いつかの沙門に教わった求聞持法とやらをやってみることにした。
ナモー アーカーシャガルバーヤ オーン アーロークヤ マーリブハーリ スバーハ ナモー アーカーシャガルバーヤ オーン アーロークヤ マーリブハーリ スバーハ ナモー アーカーシャガルバーヤ オーン アーロークヤ マーリブハーリ スバーハ
 誰も居ない夜空に、マントラが言霊する。
 三郎は沙門の言葉を思い出して、虚空よ宇宙よ、我しらが容れものよ、我たしの宝物を示したまえと宇宙に心を放じた。
 「この果てしない容れものよ、宝を示したまえ。この果てしない容れものよ、宝を示したまえ。この果てしない容れものよ、宝を示したまえ。・・・」。
 そうすると、息子が見える。連れ合いが見える。一族の仲間がみえる。共に働いた下僕と思っていた人々が友達として登場する。・・・阿卑法師が見える。沙門がいる。一夜を泊めてもらった男がいる。身の上を打ち明けあった男がいる。
息子を失い家を失ってから空隙となっていた三郎の心は、温かいもので満たされていく高揚感にあった。彼の空白の住居に、仲間たちが集まる。
我しは空虚ではない。一人ではない。人々とともにある。三郎は思い出した。
 「阿卑法師が言ったのはこのことか。仏法は手元にあるが、自分の中を探しても見つからない。他を探せと。他とは他人であり、他人のことが見えるということ。他人といっしょに住んでいるということ」。
 そして居ても立っても居られない気持になった。「あの時に帰りたい。あの見すぼらしい僧がやって来たあの時点に帰りたい。そして、あの時のもう一つの言葉を言いたい。どうぞ泊まっていってください」と、そしてこう付け加えたい。「我しも以前に途方に暮れて放浪したことがあってのう、泊めてくれたり断られたりじゃった。石つぶてをぶつけられたり、馬糞を投げられたり、やっかい者扱いされたが、何軒かに一軒、必ず心優しい御仁が居られて助けられたもんじゃ。あの体験がなければのう。しばらく家に泊まって休んでいかれよ」と。
 それからというもの三郎は、とりつかれたように自分のことや阿卑法師のことや辺土の自由生活者や見すぼらしい僧の話しをしては、虚空の宝物の話をして回った。いつしか乞食語り部三郎というあだ名になっていた。今までどおり、町中では追っ払われることもあり、疲れると山間や海浜や辺土に身を寄せて旧友と質素な生活をして時を忘れた。また元気になると、どうしても話したい欲求が彼を都会へと走らせた。
 伝説では二十回遍路したというが、こんなことを百回は繰り返しただろうか。
 石手寺に供養塔がある。幕末期、九州か中部の嫡男が訳あって深夜人知れず出奔したといえば、察しのよい人には何が起こったか分かるだろう。事由があって若さんは家に居られなくなり、四国へ行けば生き延びられると聞いたか、あるいは四国に行けば余生を修行に費やして来世は幸福になると聞いたか、それとも重病が治ると聞いたか、彼は道後の篤志家の接待を受けつつ、四国行脚をすること約百回、期間にして二十年弱、ついに倒れてその身を四国のこの石手寺の東山の麓に埋めた。その三代後の末裔はその骸を墓所に求めて帰省することとなった。その墓所は室町時代に開創というお山四国霊場の石手寺東山の麓にあり、私は住職として読経に立ち会った。どうして立派な供養塔が出来たかは定かでない。他の遍路人の行き倒れの墓は小さな砂岩で造られる。それでも名を刻み高さが一尺はあるだろうか。このような立派な墓石を見ず知らずの他国の遍路人に施した四国の心ある人々の誠意には頭が下がる。遍路人も歩きに歩いたりであるが、それを迎え自分の屋敷にお泊めし深々と敬礼して弘法大師の身代わりとして送り出しつづけた四国の民はもてなしにもてなしたりなのだ。
 そのもてなされた者ももてなした者もそのルーツが、根の良い聖人ではなく、強欲非道の三郎の輩であったらばこそ、この営みは今に続いているのであろう。
 さて、衛門三郎。二十回ではなく彼もまた百回を越して歩いただろうか。供養塔の主は二十歳ぐらいでの出奔だと聞くから、三郎が八人の子を持っていたとすると歳は三十五であるから、やはり二十回か三十回すれば体も弱ってくる。畳みの上で死ねる身分では既になかったのだから。
 伝説では、三郎は今の霊場第十二番焼山寺の麓で息も絶え絶えになったという。昔は人間の寿命が短かったのか、それとも野宿生活は人間の寿命を蝕むのか。早世であろう。三郎が息も絶え絶えになったとき、夢枕かそれとも実際にか、弘法大師が目の前に現れる。あの見すぼらしい僧のことである。
 認識とは、その人が何であるのかを直感的に知ることである。息も絶え絶えの三郎だったから、熱にうなされていたか意識は朦朧としてぼんやりと僧侶の姿を見ただろう。追い返して以来、何年も経っているわけだから、一目見てあの人だと分かるはずもない。なのにそれどころかこれは弘法大師だと分かるのである。弘法大師の自筆が残る三教指帰の話は他所に意訳したが、このとき既に空海大師のことは四国にこのひとありと知られていたかもしれない。
 「立身出世に頼る親孝行の失敗と帰郷安住の二つの間に進退窮まって、石槌に糧を絶って大地を家とし青空を幕張とし、都会では瓦礫糞尿の雨を浴びせられたが、阿卑私度を無二の親友として光明優婆塞に衣食の糧を接待され、室戸に起死回生して、谷響きを惜しまず明星来影して、自他兼利済の道を得た遍路人、それ空海」。
このように知る人ぞ知る、遍路再生の人として、あの見すぼらしい僧は既に四国の救済者として名を挙げつつあったかもしれない。しかしそれは仏教の大師というものではなく、逃亡者や抜け人や困窮者や病人が落ち延びて憩う場所としての辺土が認知されたという意味である。
 落人や乞食やはぐれものは、口分田からの上納米で生き延びる権力主体からすれば秩序を乱すやっかい者であるから、「逃亡者は悪者」「はぐれ者は賤人非人」として世間外へと棄てられていた。しかしそれは都の論理であり、抜け人を友人とし、処罰の恐怖心を克服した者にとっては脅し以外の何物でもない。
 抜け人を助けたら家族もろとも同罪として奴隷にするとか、身分を剥奪するとか、村を追放するなどとあの手この手で脅かしてくるから、その恐怖を感じる限り、都の秩序が秩序として見える。しかし、一旦、世間を外れ大地に雲を友達として生きる時、そんな泥棒の論理がなんになろう。弱いもの同志助け合って生きることこそ秩序なのである。弘法大師の三教指帰はそのことを如実に力説して表している。行基や弘法大師の生きざまが庶民救済として流行してくるということは、将門や純友の乱が鎮圧され、その首謀者が斬首されるなかで、口分田制度という一種収奪泥棒の論理が確立されたかのようになっていた時代に、本来の自由人の助け合いである自他兼利済の生き方が息吹を吹き返す表現形態であった。
 その英雄としての真魚青年は弘法大師の基礎的な心象を四国の民のみならず、貴族の豪奢な生活を横目に困窮する庶民に回復させ、このように生きていいのだ、このように生きることこそ人間らしい生き方であると宣揚し、かつその生き方を表舞台へと引き戻したのである。
 四国、否、辺土に流浪するということは、困窮したとき、人と人とが出会い、互いに痛みを知り合って助け合い、困窮から立ち上がっていくのだ、ということがひとつの言辞となって確立しつつあったのである。
 その最中に衛門三郎は死の床にあった。
 だから彼も既に辺土に身を置いていて、辺土に再生を待つ人であった。ならば臨終の夢枕に現れるのはそれを約束する人物であり、それは後に弘法大師といわれる人であり、この時点では真魚青年というべき室戸で谷響きを惜しまず明星来影すと豪語したその人である。
 三郎はだから、このとき既に出来つつあった辺土伝説と対話していた。
 弘法大師は言う。
 「三郎よ、良くぞ改心して辺土を行脚した。あなたの欲しい褒美はなんであろう。田畑か、豪奢な暮らしか、家族か、地位か、権力か」。
 三郎は答える。
 「もしも生まれ変われるものであれば、伊予の領主の家に生まれ、人々を救済したい。あなたをお泊めしたい」と。
 この言葉の意味がどういう意味なのかは、私には分からない。弘法大師の言葉を借りるなら「自他兼利済」である。自分も他人も共に救う。もう少し言うならば贅沢な生活ではない、他人の財で生きる生活でもない、他人を苦しめる生活でもない。そのことは三教指帰に書かれている。

 この言葉の意味を知りたいなら、もう一度、衛門三郎の生涯、特に辺土行脚を辿るしかない。三郎が、辺土の大地や辺境に生きたその生活、出会った人々、行った事々を辿ることによってのみ、三郎の果実を見ることができる。