四国遍路88カ所逆打ち遍路の意味
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解題
皆一緒



 重い知的障害者のホームの草分けに止揚学園がある。その園の一こまを聞いた。
太郎君がカエルの合唱を聞いていてこうつぶやいた。
「カエルさんは良いなあ。みんなみんないっしょや」
それを聞いていた創始者は思った。
「太郎君はいつも元気そうにしているが、心の中では阻害されているんや。ひとりぼっちや。みんなといっしょでいたいんや」と。


 悩み相談を始めて35年以上になった。受話器を取るときは一瞬息が止まる。何も言わない電話。苦しい電話。泣く電話。時にははしゃぐ電話。
 一瞬にして、電話の世界に引き込まれる。体が硬直していく病気や、精神の障害や、知的障害や、意見の対立や、被害妄想や、幻聴や、人の抱える悩みは十人十色、いろいろである。その一つ一つを解釈しても始まらないから、その人の世界にどっぷり入っていく。みんなそれぞれ自分自分の世界に住んでいるのだろうとつくづく思う。そしてみんな、自分以外の人と手をつなぎたいと思っているのだなあと思う。
 でも、世間はどうだろう。
 格差社会にブラック企業。人は人を押し退け、下働きさせ、ピンはねし、独り占めして我利我利亡者然である。ならば、人は「みんないっしょ」を求めてなんかいない。
うまくいっている人は、独善的で独りよがりで、うまくいっていない人は人なつこくて、さびしがりやなのか
そうかしれない。人は自分にないものを求めるのだから、阻害された人間は皆一緒を求める。勝ち上がった人間は、他人を阻害しても気付かず、皆一緒なんか要らない。中間の人はその両方を行ったり来たりしている。
 釈尊は仏教入門2に書いたように、戦士の身分で殺すか殺されるかという苦境にいて、その人殺しの苦を背負い、戦う全ての人々の苦を背負って、その弱肉強食の苦の彼方に、涅槃を見た。その涅槃とは敵と味方の区別のない皆一緒である。
 空海大師は仏教入門4に見たように、身分差別の苦境に居て、一人勝ちを邁進することができず、辺境の虐げられつつも優しい人々に出会って、その底辺の人々の苦境を背負って、自他兼利済・上下差別無用の新境地を開拓しつつ、それを国家にぶつけた。自他兼利済とは皆一緒である。
 ここにおいて私たちは妄想世界を立案する。つまり、
自分だけの世界に沈殿するのではなく、他人の心の門戸を叩くのである。
「人の痛みを知る」とか「喜ばれる喜び」の世界である。
 悩み相談電話で、彼方の世界に吸い込まれるように、他人の門戸を叩くのである。
 自分の世界に閉じこもるのと、他人の世界に入り込むのと、どちらが妄想であろうか。どちらも妄想とするなら、自分を中心に妄想を展開するのか、他者を中心に妄想を展開するのかの違いである。般若心経に、「転倒夢想」と言う。
転倒とは上下逆のことである。好悪の逆転・清濁の逆転・善悪の逆転・優劣の逆転・自分と他人の逆転である。
 欲望を停止すれば無になる。静寂の世界である。
 視点を上下逆転すれば、すべてはひっくり返る。
 立場を変えれば、慈悲となる。
 凡夫はくるくる回るから空である。

 菩薩は、慈悲勇猛だから、疾駆する限り大欲である。
 仏は、泰然自若として、無も空も越えるから実相智を生む。
 言葉で書けば数行で覚ることができる。しかし、旧態依然である。悩み相談電話が鳴らなければ、相手の世界に入り込むことはできない。逆転しようがないのである。相手の立場に立つというのは、言葉上のことであり、亀毛兎角・虚亡隠士である。他人の立場に耳を傾けている間は、自他転倒しているが、受話器を置いたとたんに我が世界に落っこちる。それとても虚妄の世界で相手の立場に立つだけであり、本当に相手が分かるものではない。

 さて、初心に戻ってみたい。止揚学園の太郎君は、なぜカエルさんは良いなあと言ったのだろう。そうだ。カエルさんはみんなで仲良くゲコゲコと合唱しているように見えたのだ。仲間はずれなく、ともに歌っていたのがうらやましかったのだ。
 とすれば、
 上下の関係がないこと
 仲間に居ること
 参加できること
 この三つが大切なのだろう。
いっしょに参加して居て楽しいこと

 これである。
 そう言えば仏教教団のことを和合僧という。僧とは同行のこと。いっしょに行くことである。和合は仲むつまじいということ。喧嘩僧ではなく和合僧である。
 仏教というと、おすまし顔で、たいそう偉い悟りを得ている雰囲気があるが、あれはひょっとすると地位を得るためのポーズかもしれない。インドの仏像はにこにこしている。中国は笑っている。日本はおすましである。いやいや温顔である。我欲を捨てて覚る仏教というと難しそうで面倒そうである。だから、仏教教団も争いが絶えなかったという。何か間違っていたのである。自他平等や敵味方の境をなくする修行に必死になると争いが起こっていた。そこで長老は釈尊の初心に戻れと号令した。それが和合である。いっしょに居てむつまじいのである。
 先の仏教青年会の沖縄大会では「一味和合」が合い言葉だったと聞く。やはり達観者はどの時代にも居るものだ。私なら
十人十色一味和合と名付けよう。
一味とはみんな釈尊の弟子という意味である。
十人十色とは、それぞれの涅槃が有って良いということである。
和合とは、いっしょに居るぞ。求道しているぞ。楽しいぞということである。

 さて、仏教にはビナヤがある。それを逸脱すると駄目だという戒律である。ビナヤはしっかり導くという意味だと思っていたが、どうも違う。ビナヤは導きを脱線するという意味に違いない。つまり和合僧からの脱線をビナヤという。和合僧場外である。 場外とは埒外・無間地獄・永遠に覚らないの意味である。
和合僧場外とは、
人を故意に殺すこと、酷く痛めること。
奪うこと、ピンはねしたり悪い労働条件で労働させること。
悪口で仲違いさせることなどである。
上下を言う者も上下差別の者も
無間地獄に堕ちると経に書かれる。

なぜなら、慢心は永久に他人の門を叩かないからだろう。
扉は電話機以外にもあちらこちらに有るだろうに。場外に居たのでは始まらぬ。本来無東西それはさておき・・・いやいや・・・

本来無上下