目次へ

 平和の灯四国巡礼

痛み・癒し・祈り

このページ目次

今年の祈り

経過
高橋昭博さんの
ヒロシマ証言

2002平和祭

一九九九年、六月二十日に広島平和公園にて採火、

しまなみ海道を渡り、五四番延命寺より四国遍路巡礼し、

八月四日石手寺にて巡礼結願・六日広島へ返火、尚、結願の灯は今石手寺の境内中央にて平和の祈りを燃やし続けている。二〇〇〇年一月一七日阪神震災被災者県内在住の「希望の灯り」と合灯

七月二十四日長崎平和公園にて「長崎を最後の被爆地とする誓いの火」を採火

七月二十五日水俣湾に慰霊供養し、「もやい直しの火」を持ち帰る。

 

目次へ

今年の祈り

長崎供養水俣湾にて供養

12月31日ヒロシマの残り火 忘れないために心に刻むメモリアル行脚

 

7月24日長崎平和の灯採火25日水俣のもやい直しの火採火

8月5日午後4時より平和の灯巡礼行 松山市駅(地下街噴水前集合)〜石手寺まで平和の灯を持ち巡礼

午後7時〜江戸家猫八さん講演

午後8時 20世紀の慰霊と平和祈願万灯会

2000年平和の灯巡礼行

 今年の巡礼行は長崎平和公園から始まった。前日までは快晴が続き、この日もおてんとうさま(太陽)に干上がらせられるのかと思っていたところ、大雨、突風という荒れ模様になった。

 長崎の原爆被害を記念しての灯火は「長崎を最後の被爆地とする誓いの火」がある。昨年は四国霊場会の行事として広島より平和の灯を頂いて帰り、五十四番延命寺を出発、四国八十八ヶ所を巡礼、各地で供養祭、平和祈願祭、被爆者の証言会を行い、一月半をかけて八月四日に当寺にて結願した。その灯は今も石手寺境内の常灯明に灯っている。その灯に加えて、今年は長崎の誓いの灯を頂きに行くことになった。

 以前に、京都でアジアの僧侶らとともに世界平和祈願があるというので、清水寺に赴いたことがあった。余談だがアジアの仏教徒からみると日本の仏教徒は仏教徒でない。理由は肉食・妻帯である。その時、何十名かで祈願を行った中に長崎の圓成寺さんが居られて、その事を思い出した私は早速に連絡をしたところ、長崎誓いの灯維持会に手配して戴いたというのが成り行きである。誠に縁は大事にすべきというか、成り行きは良い方へ良い方へと行うべきか。

 長崎に近づくまでは、それ程でもなかった風雨は激しくなった。本当に私達は死者、被害者への思いがあるのだろうか、本当に平和を願っているのがろうか。その事を問われているような、不安になる天候である。早朝に出発し二時ごろ私達は長崎平和公園に到着した。

 長々と待って戴いた圓成寺さんには今も頭が上がらないが、護持会の宮本さんらが到着した。皆さん供養と祈願のために馳せ参じるボランティアの方々である。早速、祈願の為に採火するのだが巧くいかない。関さんが何度も火を採るが、強風のためコップ蝋燭が消えてしまう。幸い雨は小降りで私達を祝福しているが、風は私達を試しつづけている。

 やっと採火できた火を十数個の蝋燭に灯して私達は読経を行った。十万人の死者は今も増えつづけている。十人に満たない面々での祈りだったが、思いは深かった。

 お礼を申し上げて私達は、長崎を後にする。天を指す平和像は、原爆の熱線と爆風と放射能の痛みを忘れるなと言いつづけている。地平を伏せる掌は、何処までも平和が広がれと願いを込めている。

 私達は長崎を後にした。私の独りよがりであろうか。車は水俣へと走る。諫早湾の何処までも広がる田園はどしゃ降りの雨に緑が灰色の水滴となった。前が見えないほどの雨は、私達の行程を隔離するかのようである。水俣、それは何十年か前に見た忘れられない映像であった。公害と被害者と責任回避する企業と国。根底を走り人と人を切り離す差別、そして金儲け。被害者の無限に訴える姿の回りに幾つもの醜い人間の姿があった。

 私は戦後五十年の時、ここの国、ここの人々の侵略戦争の無責任さ無反省さに突き当たり塞ぎ込んだことがあったが、その時同時に思い当たったのが「水俣」であった。その原点は私が小学生か中学生の時に見た写真や映像なのである。その最初の驚きと痛さを忘れた人のほうが少ないだろう。私にとってその人々の痛みは、政府や私達によって放置されたままなのである。

 水俣に着いたのは翌日の朝九時。モーニングのコーヒーの味がしなかった。私達は水俣に二つの記念館があるのを知っていた。一つは反政府のでありもう一つは皇室が関係しているという記念館である。チッソの工場は今も幾つかが動いていた。通り越して行くと、一面は埋め立てられた水俣湾。この土に閉じ込められたのか、それとも墓場となったのか、その地中に怨念が沈んでいる。しかし、あの映像を知らない人々にとってはいずれこの埋め尽くされた人口の更地は、何事も伝承しなくなるのだろう。

 記念資料館に先ず入った。衝撃がまた繰り返された。自分の身体に刻まれた痛みの同じ回路がまた痛んだ。逃れたくても逃れられない写真があった。その娘のお父さんは娘の成人式を迎えたのだろう。父は顔に笑みを浮かべていた。娘も笑みを浮かべていた。本当に嬉しかったのだろう。その娘は私と同じ頃の生まれか。「胎児性水俣病」。その顔からその娘は私が何十年の昔、映像を通して出会ったその娘に違いなかった。時は刻まれていたのだ。そしてこれからも刻まれていく。

 私達は湾の崎の地蔵の傍らに蝋燭を並べて火を点けた。もやい直しの火である。汚染と病気と差別と金によってずたずたになった人間関係を協力関係へと直す努力の火である。 「行ってよかった」同行の一人がぽつんといった。「やっぱり行ってよかった」私達は言い合った。

 長崎の平和公園と水俣湾を訪れただけの何もない、何の光景もない旅であった。しかし充実していた。それは実は、私達自身の心の旅だったのだ。私達は自分の心へと出掛けた。なおざりにしていた苦痛への問い直しだった。

 やはり痛みはなくならないどころか、今も時々刻々と今の命を訴えているのだった。

来月号に続く 

 

「誓いの火」と「もやい直し」の火。二つの火は、八月五日、松山市駅まえを出発した。愛媛県歩け歩け会の俊成会長さんから、今年も平和巡礼行をしようと声をかけられ、お願いした次第である。「継続は力なりと」さらに「保つべきものは縁と」。この日も暑い日であったが、炎天下二百名の人々が歩いた。文字通り巡礼行である。灯火を持っての行となった。足の痛み、酷暑の難は想像するばかりである。参加したい気持ちを抑えて私は境内の準備、お接待の用意に奔走していた。六時到着、御詠歌が迎える。昨年の延命寺での感激が再現される。

 夜になると境内には六百人が集まった。

 この日、私達は江戸家猫八さんの講演を頂いた。猫八さんは、軍隊にいて広島原爆投下後の救援を行った。「原爆が投下されて、線路の両側は死体の山だった。云々」そこから猫八さんの話が進まない。原爆の事は、思い出すと胸が張り裂けて絶句するというのである。その絶句の後、祈りが始まる。

 ゆっくりと平和観音広島曲の御詠歌が流れ始める。先頭を石手幼稚園の稚児行列が進みそのあとを人々が続く。境内の六百人ひとりひとりがコップに平和の願いを書き込み、火をつけて灯した。日は暮れて、灯は明からむ。私達は二千個弱の灯明を囲んで祈りを捧げた。弘法大師から受け継いだ万灯会である。

 翌日、二十名程の私達は、広島の灯籠流しへと灯を持ち出した。この時の灯は、広島平和の灯、阪神震災希望の灯り、誓いの火、もやい直しの火そして8・5二十世紀の供養が折り重なった灯である。

 お寺参りを済ませて私達は昨年と同じ広島平和公園に着いた。同様に早坂暁さんが来てくださった。早坂さんは毎年灯籠流しに参加されている。原爆の絵を持って街角に立ち、巡礼したらいいと言ったのは早坂さんである。また白装束のお遍路さんに来てもらうのが有り難いと仰っていた。

 事実、私達が休憩をしていると、通りかかった老人が尋ねてきた。

「今日はどこからお祈りに来て下さったんですか。私も昔、お四国に行ったことがあります」と。

「道後温泉の近くからです」と答えながら、すぐに親しくなった気がする。

 この日は、この痛みを通して心が通い合いやすい日なのである。

 昨年と同じ場所で持ってきた灯籠を流す。

 白装束の読経はなぜか痛みを和らげてくれた。

 長崎、水俣と巡礼して絡まっていた痛さが軽くなったような気がしたのは気のせいだけなのだろうか。

経過

採火の日、平和の灯は今治の延命寺に夜到着した。一行二百数十名は提灯に灯を分け合い、一人一人が平和の願いを胸に境内へと入場した。その時である。「お帰りなさい」「ご苦労さまでした」の声に私達は包まれた。本堂への通路の両脇には沢山の人が私達を迎えていた。その手は合掌して私達に手向けられていた。 「ああ有り難い」「お大師さまになったようだ」という声が一行から漏れた。私も感無量であった。こんなに感動した日はない。何故か身震いのする思いがこみ上げた。他人に手を合わされるという体験は無いではないが、こんな形で感謝されるということはない。子供さんや皆さんから素直なねぎらいを頂いた。 それは、この灯がそれだけの尊さを持っていたからだと思う。この巡礼に参加した皆が心の清らかさを持っていたと思う。亡くなった人々の為に何か出来ないか。「安らかに眠って下さい、過ちは繰り返しませんから」という気持ちである。二度と繰り返さない、平和の祈りが人々を純粋にしていた。

 この感動から先立つこと四時間前。 私達は採火後、慰霊法要をしていた。その私達の頭上には弘法大師のお姿が掲げられていた。「そうだ、このお大師さんの前で原爆は炸裂したのだ。その地獄の光景をお大師さんは見ていた。一体、どんなお気持ちで見ていたの・・・・・」と思いかけて私は涙を流してしまった。

 お大師さんの一生こそ、この世を楽土にしようという一念の一生ではなかったか。この世から苦しみが無くなりますようにと祈りつづけたのがお大師さんであり、お大師さんの万灯会であった。そのお大師さんの眼の前で原爆は落とされ、人々は阿鼻叫喚の中で死んでいった。八千人の学徒動員の内六千人が死んだという。総数で十数万人。市の中央部に生き残った人は希有であった。こうして私達の「平和の灯」四国巡礼は始まった。

 以下被爆者で元資料館館長の高橋昭博さんの善通寺での証言会の模様を連載したい。

目次へ

高橋昭博さんのヒロシマの話

 戦争を恐らく体験なさって或いは空襲なども体験なさった方があるやもしれませんけれども日本の空襲というものはは中心は焼夷弾、焼夷弾等の爆弾によって空襲を受けました。東京とか大阪とか名古屋とか資料によると二百箇所、二百箇所以上のの都市がアメリカの焼夷弾などによって空襲を受けました。そういえば通常の普通の焼夷弾と比べてどんな破壊力があるのかということをかい摘んでおはなしをしたいとおもいます。そういう基本的なことを先ずお話をして、そしてスライドをみていただければ原爆の被害というものが体験をなさっていない方々にも少しでも分かって頂けると思います。

 広島に原爆が投下されたのは今も司会者のお話に有りましたように、昭和二十年、西暦一九四五年の八月六日午前八時十五分です。世界最初の原子爆弾。広島の空中で、上空で炸裂しました。普通爆弾というのは飛行機から投下されましたら、地上に落ちて爆発したり建物の中に落ちて爆発したりしますけれど、アメリカの広島長崎への原子爆弾投下は、空中爆発の方法を取った訳です。

 原爆の特色が三つ有ります。熱線と爆風と放射能。この三つの要素が複雑に絡み合って原爆の被害とは大きく広がっていった。広島に投下された原子爆弾はリトルボーイ、ちびっこという名前が付けられまして、使われた材料ですね、核物質といいますけれど、核爆弾を爆発させる材料ですけれども、ウラニウム、ウラニウム型原子爆弾ですけれども、ウラニウム1キログラムが核爆発を起こしたといわれています。1キログラムといいますと、卵にすれば十三個から十五個分の僅かな量なんです。しかし、その破壊力は非常に強かった訳です。先程申しました焼夷弾のような普通の爆弾に計算しますと当時のアメリカのB29三千機がいるということです。三千機のB29で運んでこれる爆弾が造れる訳ですから、それが一発の原子爆弾の破壊力です。たった1キログラムのウラニウムの核爆発のそういう破壊力が原爆にはあったと。で、空中爆発の方法を取ることによって先程言いました熱線と爆風と放射能が大変効果良く四方に広範囲に広がっていくわけです。特に広島の市街は平坦地ですから、平坦地の上に建物が建っていますから、遮るものは建物しかない。その建物が全部爆風で壊されていますから、全く遮るものが無かったと。それで大変な効果が有ったわけです。空中爆発の方法を取ることによって熱線と爆風と放射能が大変効果良く四方に広がっていって大変な被害が起こった訳です。その特色は先程言いました熱線と爆風と放射能です。

 で、先ず熱線は爆発した瞬間に数百度という熱を持った火の玉が天に向かって舞い上がって行きます。直径二百メートル以上でしょうか。そういう大きな火の玉が天に向かって舞い上がっていく。そして、爆心地というのは原爆ドームなんですね、御存知、原爆ドーム平和公園に原爆ドームが有りますが、原爆ドームの上空約五八〇メートルの所で実際に原爆が爆発した訳です。その爆心地一体には三千度から四千度の大変強い熱が有りました。例えば鉄が溶ける温度が一五三〇度、ガラスや瓶が七〇〇度から八〇〇度で溶けますから、溶鉱炉で鉄が溶ける温度よりは原爆の熱は遙かに高かったと言うわけですね。三千度から四千度もの大変強い熱があって、そういう強い熱によって人の衣服が焼かれ体が焼かれ、或いは家が焼かれ町が焼かれていった訳ですね、一瞬のうちに焼かれて来ました。そして爆風が爆心地から半径16キロ、かなり遠い所まで爆風の被害が及んでいる。

爆発した瞬間に数十万気圧という圧力を持った衝撃波がゴオーッと音を発てて四方に広がっていった訳です。その後を追っ掛けて強い風が出てきました。これを爆風と言います。その強い風の最大瞬間風速、秒速四四〇メートルに達したと言われています。皆さんが台風情報をお聞きになります。この四国には台風よくやって来ますから、その台風情報をお聞きになる場合に、最大瞬間風速30メートルとか40メートルとか或いは50メートルとかいいますね、テレビとかラジオで。その最大瞬間風速が原爆の爆風が440メートルあったわけですから、猛烈な風です。台風の最大級が昭和四一年九月沖縄宮古島台風と呼ばれる台風だそうですが、それでも85・3メートルですから原爆の爆風には遠く及びません。そういうもう人間の想像を遙かに越えた猛烈な風が原爆にはあったわけですね。その風によって人が瞬間の内に吹き飛ばされたわけです。人の体の皮がめくれていきます。目の玉が飛び出す。内臓が破裂する。電車やバスが吹き飛ばされていく。木造家屋はなぎ倒されるしビルまでも破壊されていった。そういう凄まじい被害が原爆の風によって起こっていったわけですね。信じられない位の猛烈な風によってそういう大変な被害が起こったわけです。私達は原子爆弾を通称ピカドンと呼びます。それは上空で爆発した瞬間にピカッと光った。これが熱線な訳ですけど。ドンというのが爆風です。上空でピカッと光った瞬間に屋外にいた人間ですね、私も中学校の校庭におりましたからそうですが、外にいた人間は自然に火が付いています。ピカッと光った瞬間に自然に火がついています。体は爆風で皮が捲れていますね。捲れた後の人間の体の肉は熱線で自然に焼けただれている。いつの間にか知らないあいだに焼けただれていた。これが外に居た人間の火傷ですね。屋内は違います。屋内はドンと爆風が襲ってきて家屋が壊されます。同時にピカッと光っていますから、家屋の残骸に自然に火が付く。で、朝ですから朝支度の何らかの火があったんで、その火と熱線の火と一緒になってこう燃え上がる。高熱火災と言いますけども、後でこれはスライドによってお話をしますけが、その火災によって火傷した訳ですね。焼け死んだ人もいるでしょう。ですから屋内の人は火災です。屋外は自然に火が付いた。上空でピカッと光った瞬間の熱線でも自然にいつの間にか、体に、衣服に一瞬に火が付いて大きな火傷を負ったと、そういう状況になったということですから、その辺の所を理解をして頂けると思うわけです。

 それでもう一つの特色が放射能です。爆心地から1キロ以内、400ラドという放射能があった。人間が一年間平均して体に浴びてもいい量があります。これが、0・1から0・2ラドです。これが空気中にあります。自然の天然の放射能ですから、皆さん毎日体に浴びて居られます。これは人体に全く影響ない。それが広島原爆は400ラドあったという訳ですから、これはもう大変ですね。非常に沢山の放射能が巻き散らされていったということです。ただ、450ラド有りましたらね、そこに100人居れば100人が半分は死んでいく訳です。700ラド有りましたら全致死量と言いまして全部死んでいきます。100人が100人全部死んで行きます。ですから広島の場合は1キロ以内に400ラドですから、まあ、450でもない700でもない、かなりの被害があったと思われます。で、その放射能によって急性放射能症状というのが出てきた訳ですね。え、レントゲンにも放射能が有りますから、年に一回レントゲンを浴びますと1ラド放射能を浴びます。一回につき6枚から9枚位のフィルムを撮るそうですが、この間に1ラドの放射能を浴びますから、放射能は人体に良くないということですから、慎重にしなきゃならんということでしょう。

 急性放射能症状というのが出てきて、頭の髪が抜けたり、或いは鼻から口から耳から血の膿が流れ出る。紫色の斑点、つぶつぶがこう体に出てきます。お腹の血と膿が溜まって紫色に大きく腫れ上がる。血便や血尿がでる。これを急性放射能症状と呼ぶわけです。沢山の人が死んで行きました。そして、放射能は浴びたら消える訳ではありません。残っていきます。これを残留放射能といいます。救援隊が10日後、しばらくして広島市内に入って来まして、殆どの救援作業に携わった人達は広島市以外、他の市町村ですね、そういう人達が、市内の焼け野原を整備したり或いは死体を処理したりします。全面焼け野原であり沢山の死体が転がっているわけですから、沢山のもう救援隊の人達が市内に入ってきてそういう作業をした。地面の中にも死体の中にも残留放射能が有ります。そんなこと分かりません当時は。原爆ということも分からなかった。原爆に放射能が有るということも分かりません。匂いもない、色もないですから。作業している内に救援隊の人達は知らず知らずの内に沢山の放射能を体に浴びていく。そして、作業を終えて自分の家に帰る。ある日突然急性放射能症状が出てきて、突然死んで行く。そういう人達が沢山居た訳ですね。これが残留放射能の仕業であります。残留放射能によって、救援隊の人達が原爆をうけていない人達が市内で作業をしたために多くの命を奪われた。これが原爆の放射能の怖さです。

 私達のように直接に被爆したものを直接被爆者といいます。後から市内に入って来た救援隊の人達の様な人達を入市被爆者、そしてもう一つ8月6日お母さんのお腹の中にいた赤ちゃんを胎内被爆者と言います。胎内被爆者の中には小頭症といって頭が小さくて智慧遅れの人達もいます。数は少なくて20名前後でしょうか。自力では生活していけない。そういう被爆者の中でも最も不幸な被爆者も居るということも知っておいて下さい。

 で、約35万人が被爆したわけです。その中には日本人だけではありません。朝鮮半島から強制的に連れて来られた朝鮮民族の人達、当時広島市内に居たアメリカ軍の捕虜ですね、そして中国や東南アジアの留学生の人達、そういう外国人も被爆しています。そして死んだ人が昭和20年1945年8月から4か月間に大体14万人前後が死亡しました。5年後の昭和25年(1950年)までに約20万の人達が死んでいきました。そして生き残った人達が昨年の3月末現在で全国に31万1千人おります。香川県全体にも被爆者が生き残っておりますが772人ですね。広島市内が約9万3千人長崎市内が5万7千人の被爆者が住んでおります。これだけの被爆者が今生き残っている。その中の一人が私です。中学2年生14歳爆心地から1.4kmの広島市立中学校校庭で被爆しました。それではスライドを上映しますから電気の方宜しくお願いします。それではスライドを説明させて頂きます。日本は長い間戦争してきました。昭和6年(1931年)満州事変が始まりましてそれから日中戦争、中国との戦い、続いてハワイの真珠湾奇襲攻撃で始まったアメリカ・イギリスなど連合国との戦いですね。15年間に渡って日本は戦争をしてきた。これをアジア太平洋戦争と呼びます。中でも中国をはじめとするアジア諸国に対しては日本は侵略戦争をおこしていきました。朝鮮半島に対しては36年間という長い間植民地として支配をしてきた。日本は大きな過ちを犯しました。その戦争中私は小学生であり中学生でありました。このスライドの「進め、進め、兵隊進め」というのは私が小学校の時習った一節です。こういう教科書で戦争中、軍国主義の教育を受けていました。私は小学生から中学生になりました。当時の中学生の男の子はほとんどが軍人になろうと思っていました。茨城県に霞ヶ浦という所があってそこに海軍少年航空隊がありました。その海軍少年航空兵にわたしは是非なりたいと強く願ってました。このスライドの真ん中が海軍少年航空兵の夏服の制服なんですね。白い制帽、白い上着、白いズボン、上着のボタンは7つボタン。向かって左側が飛行機に乗っている時の制服です。大変かっこいい。そういう海軍少年航空兵になって適地に乗り込んで行って敵兵を一人でも多く殺してやろう、それが日本が戦争に勝つには必要な事なんだ、正しい事なんだと当時私達は学校の先生にそう教えられてそれを信じて生きてきました。しかし、日本は戦争に負けた。軍国主義の誤りもわかった。さらにはアジア諸国の国民の皆様には多くの苦しみと悲しみを与えたという事もわかりました。ですから、基本的には日本の戦争責任というものは日本政府にあります。しかし、たとえ、私が戦争中少年であったとはいえ戦争中を生きてきた日本人の一人として私自身も日本の戦争に対しては深く反省をしなければならない、人を殺す事が正しい事だとそういう教育を受けたとはいえそんな考え方を持った自体、やはり間違いであったと今では深く反省をしております。

 戦争中当時の小学生、中学生は学校で勉強する事よりも町の中にある民家ですね、一般市民の家を取り壊す、建物取り壊し作業を日本政府の命令によってやってました。何故こんなことをするかというとご承知の方も多いと思いますがアメリカの空襲に備えた、家を取り壊して空き地を造って火災を防ぐ、万一の場合には避難場所にする、そういう政策が全国でとられておった、その建物取り壊し作業に中学生、小学生が動員された、あるいは軍事工場にも行った、農村の手伝いにも行っておりました。その家に住んでいる人達も自分の家です。自分の家でありながら強制的に立ち退かされたんですね。当時は政府の命令には絶対に従わなければならないですからノーということは言えない。しかたなく家を捨てて田舎の親戚や知人を頼って疎開をしていかなければならなかったと戦争中はそういう時代であったわけです。

 8月6日、原爆が投下される前、既に警戒警報、空襲警報は解かれておりました。ですから私達は安心して朝礼が始まるのを校庭に出て待っていた。校庭には私のクラス60名を含めて約150名位の生徒が校庭にいた。警報が解除されていたにもかかわらず何故か一機、アメリカのB29が上空にいた。これが原爆を積んでいた。そんな事は夢にも思いませんでした。広島の朝の空は快晴です。美しい空でした。きれいな飛行機雲を噴きながらB29が私達の上空にさしかかってきた。私達は安心してますから空を仰いで指さしながらその飛行機を眺めていた。職員室から先生が出てこられた。クラスの級長が「集まれ、整列」号令をかけたその時でした。大音響と共に一瞬辺りが真っ暗闇に、目の前すら見えない、何が起こったのかと思いました。この時私は先ほどお話したピカー、熱線は何故か記憶にございません。いきなりドオッーと爆風が襲ってきた。記憶している人の話によりますと青光が四方に走って行ったそうです。その時私達はひとたまりもなく吹き飛ばされた。先ほどの爆風の説明を思い出してもらえればと思います。しばらく経って校庭へ行って煙が消えて明るくなって気が付いた。私はいつのまにか知らない間に10m位後側に吹き飛んでいました。爆風によるものですね。150名位の生徒も前後左右に吹き飛ばされて校庭のあちこちに倒れていた。学校の校舎は当時木造ですからぺっしゃんこです。学校の周りにあった民家は全部潰されておりました。爆風で。遠くを眺めても家がない、僅かな建物を残して一切なくなっていた。広島がなくなってしまった。一瞬私はそう思いました。気が付いて自分の体を見た。着ていた中学生の制服は熱線でどろどろに焼きちぎられていた。先ほどの熱線の説明を思い出して下さい。上空でピカッと光った瞬間に私の衣服に自然と火がつきぼろぼろに焼きちぎられていた。そして私の体は頭の後ろから背中、両手、両足、体の皮が爆風でめくれています。ぼろぎれのように指先からぶら下がっている。中身がでとる。150名の生徒は大なり小なり私と同じ様な被害を受けていた。

 一瞬恐怖が襲ってきました。もし空襲を受けたら川に逃げなさい、いつもの非難訓練を思いだしいち早く校庭から出て川に向かいました。逃げる途中で後ろの方から私の名前を呼ぶ声がする。「おーい、高橋、待ってくれ、待ってくれ」後ろを振り向きますと同じ町から毎日一緒に学校に通っていた同じクラスの山本くんという友達が私を呼んでいました。彼は泣いてばかり「お母さん、お母さん、助けて、助けて」私はそういう彼を「もう泣くな、泣いても始まらない、泣くよりは早くここを立ち退かないと大変な事が起こるかもわからんぞ、早く逃げるんだ」と言って時には叱り時には励まして彼を引っ張って逃げて行きました。沢山の被爆者が行列をなして逃げる、めくれた皮がぼろぎれのようにぶら下がっている、指先からブラーンとぶら下がっている。衣服はぼろぼろ、裸同然の人もおります。皮がめくれて赤身がむき出しになって焼きただれる。みんなはだし。足を引きずりながらふらつきながら逃げる。まるで幽霊の行列でした。その行列の中に大変ひどい被害を受けた人がおりました。この人の上半身ガラスだらけ、これは例えば窓ガラスがですね、爆風によってこなごなに壊されます。そして粉々になったガラスの破片が爆風によって飛び散ってきてこういう風に人間の体に食い込むといった被害なんですね。私の体にも数カ所腰や両手にガラスの破片がささっています。片方の目の玉が飛び出し全身血だらけの女性がおりました。これ爆風による被害です。さらには向かって左側の男性の上半身は赤身、上半身の皮がくるっと剥けて赤身がむき出しになって焼きただれておりました。死体がいくつか転がっておりました。その辺り内臓が破裂して地面にでているという大変悲惨な女性の死体もありました。これも爆風による被害です。お母さんと思われる女の人のそばに赤ん坊が転がっていた。二人とも全身ずるむけ。全身の体の皮がめくれて赤身がむき出しになって焼きただれていた。赤ん坊はギャアーギャアーと泣きわめいていました。こんなひどい状態でありながら泣きわめく、まだ命があるという事です。しかし子供の私達にはどうする事もできませんでした。馬が全身の体が焼きただれて赤身をむき出しにして首を水槽の中に突っ込んで死んでいた。本当に生き地獄というんでしょうか、言葉だけではとても言い表せない惨さんたる光景でした。本当にむごたらしい光景でした。

 しかしこれも校庭で被爆して逃げる途中で見たほんの一こまです。市内全体としてはもっともっと悲惨なものがあった、悲惨な状況があったと思います。そういうむごたらしい状況を目のあたりにしながら私は一生懸命、川に向かって逃げて行った。しかし、大きな道路から川岸に通じる小路という小路が全部ふさがれてしまっている。近い路がですね。それは爆風で壊された家屋の残骸が小路の上におおいかぶささっているわけですから小路を歩いて川岸に出る事はとてもできなかった。だから私たち二人は一生懸命、家屋の残骸の上を4つんばいになってやっとの思いで川岸に出ました。出た途端、家屋の残骸から一斉に火の手があがった。どんどん、どんどん燃え広がる、長い火柱が大きな音を立てて丁度火山が噴火するような勢いで天に向かって噴きあげていく。大変怖かった事は今でもよく憶えています。しかし、その時は火災の外側に一歩早く逃げる事ができておりました。大変運が良かったと思っております。入れた川岸に何故か不思議と小さな木の橋が爆風で壊されないで残っておりました。その橋が私達の命を救ってくれました。その橋を渡って向こう岸に行った。その時友達の山本君は何故かはぐれていなくなっておりました。後で私が元気になって彼のお母さんから聞きました。彼は一旦、見知らぬ人に家まで連れて帰ってもらったそうですが、1カ月半後、先ほど説明した急性放射能症状にかかって死んでいったそうです。ですからこの時は私は一人でこの橋を渡って向こう岸に行きました。向こう岸は3km以上離れておりましたから幸い火災はおきてなかった。火災は2km以内ですね。爆心地から2km以内が全壊全焼になっておりましたから3km以上離れておった向こう岸は火災がおこってなかった。何とか助かった。ああ、自分は助かったなあと思いました。で、気がゆるみまして初めて涙が出てとまりませんでした。道中、猛烈に強い暑さを感じた。大火傷を負っているわけですから暑くて暑くてたまらない。たまりかねて川の水の中に3回位、つかりました。水につかり砂地にあがりまた水につかりといったです。川の冷たい水は燃えるように熱い私の体にとっては本当に宝のようでした。本当に気持ちが良かったです。

 川から上がって山の竹薮に造られた仮の救護所二行って簡単な治療を受けて休んでましたら真っ黒い大粒の雨が降ってきた。これがいわゆる黒い雨です。黒い雨というのは砂ぼこりが爆風で天に舞い上がってその砂ぼこりが雨の中に含まれて黒くなるわけですね。当時放射能を含んでますからこの雨は、この雨を直接浴びると放射能の影響が出てきた人もおります。私はテントの中におりましたからこの雨を浴びずにすんだ。さいわいでした。しかし初めて見る黒い雨です。この世に果たして黒い雨なんてあるのだろうか。不思議な気持ちでしばらく雨を眺めておりました。雨が止むのを待って一人で自宅に向かって歩き始めました。

 しばらく行くとまた私の名を呼ぶ声がする。「おーい高橋、高橋、助けてくれ、一緒に家まで連れて帰ってくれ。」うめき声がして私に助けを求める声がした。道ばたの方を見ますとこれも毎日一緒に学校に通っていた同じクラス八田君という友達がうずくまっていた。彼の体をようくみました。何故か両足の足の裏側がめくれて赤身がむきだしになって焼きただれていた。歩ける筈がありません。どのようにしてここまで来たのかと聞きましたら見知らぬ人の自転車に乗せてもらってそしてこの場所においていかれた。しばらく経って私が通りかかった。同じ町から通う同じクラスの友達ですから当然呼び止めて助けを求める。しかし、歩けない、どのように彼を助けようかと思い悩みました。私は彼を見捨てて一人だけが家に帰る気にはとてもならなかった。何とか助けてやろうと思った。しかし、助ける方法がどうしても見あたらない。さいわい彼の体は足の裏側以外はあまり切り傷も火傷もひどくなかったのです。考えに考えて彼を助ける方法をやっと二つ思いつきました。その一つは彼の両手と両足の膝を使って犬や猫のように4つんばいに這わせました。これが一つですね。もう一つは彼の両足の踵で立たしてそして私が彼の体を支えて前に進んで行く。この二つの方法を繰り返しながらゆっくり、ゆっくり、牛の歩みよりもっと遅く私達は助け合って自宅に向かいました。普通の歩き方でございませんからすぐに疲れる。疲れ果てて道ばたでやすんでました。何気なく後ろの方を見ました。そうすると後ろの方から私にとっては大叔父にあたるつまり私のおじいさんの弟、その大叔父夫婦がこちらに向かって来るではありませんか。大変嬉しかった。声を振り絞って大叔父夫婦を呼び止めた。大叔父夫婦もびっくりしていました。まさかこんな所で私に遭うとは思わなかったのでしょう。田舎の親戚の法事から自宅に帰る途中の大叔父夫婦に偶然ばったりと出会ったのでした。本当に運が良かったと思っています。          

 大叔父夫婦に助けられ背中におんぶされて二人は自宅に帰ることができた。大叔父夫婦に助けられなかったらおそらく二人とも倒れて死んでいたに違いない。この世で皆様にお話しする私はなかったかも知れません。本当に不幸中の幸いであったと思います。途中で祖父が家から担架というものを運んできてくれました。当時はこういうものしかありません。多くの死傷者をこの担架で運んで行った。私達もこの担架に乗せられて自宅に帰ることができた。家に帰って友達の八田君は二日後、六日の二日後ですね、つまり八月八日に彼も急性放射能症状に罹って死んでいったそうです。私が家に帰って母親がぼろになった衣服をはさみで切り取りそして処理してくれた。といいますのは赤みがでている両手両足を通して服を脱がせば赤みに服が擦れて痛いですからそれで衣服をはさみで切り取り、引き裂いて真新しい浴衣に着替えさせてくれました。それから一年半、私は火傷の治療を受けました。幸い、知り合いのお医者さんが朝晩二回、自宅まで往診に来てくれて火傷の治療に当たってくれた。しかし、その医師は耳鼻科でした。普通は耳鼻科のお医者さん火傷の治療はいたしません。皮膚科ないしは外科でしょう。しかし、当時そんな贅沢は言っておられない。医者がいない、看護婦さんがいない、薬品がない、食糧がない、広島の市街地はほとんど全滅に近い状態です。原爆が投下される前、広島市内に約300人位のお医者さんと1800人位の看護婦さんがいたと推定されております。しかし、その内80%近くが死んだというのですからほとんど全滅に近い状態の中でたとえ専門は耳鼻科であっても相手は医者です。その医者と名の付く人に私は治療を受ける事ができた。他の人よりは私はもっともっと幸せであったと思っています。だから何とか生き残りました。生き残ったとはいえ原爆の影響と思われる慢性肝臓炎に罹りました。昭和46年に発病してすでに12回、入退院を繰り返しながら現在でも1週間に3、4回注射をして生活をしております。その他の病気もたくさんあります。私に全く縁のないお医者さんは産婦人科と小児科と精神科くらいでしょう。あとの病院は全部通院しているという有り様ですから日々、日々不安でなりません。私は今生きる事の厳しさ、生きる事の苦しさを痛感しています。時としてこんなに苦しみながら尚、生き続けなければならないのかと絶望的になることも度々ありました。しかし、その都度せっかく生き残ったのだ、せっかく生き残ったのだからと思い直しては今日まで生きながらえてきました。私の体にはいたる所、火傷のあとが残っています。中でも右手が一番ひどいんです。右の肘から指先まで赤みがむき出しになって焼きただれていました。その火傷のために右肘が120度に固まったままで動きませんし親指を除く4本の指が曲がったまま動かない。大変不自由です。このスライドのように4本の指が曲がったまま動きません。手首の所にはケロイドというものがありましてこのケロイドというのはですね、早い人であれば1カ月位で火傷が治ります。私は1年半位かかりましたけれども。その治ったあとにですね、肉のレバー、肝ですね、肝のようなものが大きく盛り上がってくるんですよ。これをケロイドといいますけど、私の場合は手術によってそのケロイドを切り取ってもらって多少の手首が動くようになりました。私の右手の人差し指には今、黒いような茶色のような異様な爪が生えています。皆さんと同じような白い爪が生えていません。何故か。爆風で飛んできた小さなガラスの破片が爪の根っこに刺さって爪を生やしていく細胞を壊してしまった。これ皮膚科の先生の診断ですけどこの爪だけはもう普通の爪には戻らないそうです。ずうっと生え続けていきます。この爪が太くて堅いもんですから普通の爪切りでは切れない。しかたなく2、3年ほっときます。そのうち爪の根っこにですね線が入ってきて自然にころっと落ちるわけです。わたしは落ちたものを落ちる度に原爆資料館に寄贈してきました。ですから資料館には爆風の展示の所に私のぬけた爪が二つケースの中に入って展示してあるわけです。私の両耳も潰されました。スライドでは片一方の耳しか写っていませんけれども両方の耳が潰されてる。それは被爆して両方の耳に血と膿が溜まって紫色に大きく腫れ上がっていた。急性放射能症状の一種なんですね、先ほど説明した熱線と放射能の影響ですね。その血膿を医者が治療のため絞り出した。耳は軟骨という柔らかい骨で形づけられておりますからその軟骨が血と膿で腐ってしまった。医者がその血膿を絞り出したと同時に軟骨は腐って潰されてしまった。そういう被害を受けたわけです。以上で私の体験をひとまず、終わります。

 はい、今スライドを見て頂きましたようにどうぞ楽にして聞いてください。私は沢山の病気をかかえながらあるいは火傷の痕を体に残しながらも何とかこの54年間生きながらえてきました。私のクラスはスライドで説明しましたように約60名当時おりましたが現在私を含めて14名しか生き残っておりません。もう少し生き残っていると思いますが行方のわからない友達もおりますから。確認できたのが14名です。わずかな生き残りの一人です。50名近くはあの原爆によって無惨にも殺されていった。普通の死に方をしたのではありません。あえてアメリカが殺したとは言いませんけど私の友達は無惨にも原爆によって殺されていった。そういう死に方をした友達の死を私は決して無駄にしてはならないと友達を始めとするたくさんの死んでいった人達の声なき声を後の世に特にこれから21世紀に生きる若い人達に伝えて行くのは私達生き残ったもののつとめなんだとそういう責任を生き残ったものとしてはたしていかなければいけない。私は自分に言い聞かせてこの54年間生きながらえてきました。私達は戦争中軍国主義の教育を受けました。先ほどスライドで説明しました。学校の先生からひたすらお国のために尽くせとそう教わりました。しかし、原爆によって殺された人達はお国のために尽くす事はできなかった。家族のためにも友達のためにも何ら尽くす事なく子供の時に何にもできないで死んでいったわけです。殺されて行ったわけです。さぞ無念だったと思います。その事を考えますと私達に与えられた命がいかに大切かという事を考えないではいられません。私はよく若い人達にいいます。せっかく広島に来たんだから原爆や戦争の恐ろしさを学ぶだけではなくて皆さんと同じ年頃の多くの小学生、中学生、女学生がどんな思いで死んで行ったのかと普通の死に方をしたんでない、どんな思いで死んでいったのかその事を通して命の大切さを学んで帰っていって欲しい。そして生きるということはどういう意味があるのかとその事も広島で考えて見てください。生きることの意味をもう一度再確認して欲しいということをよくお話をするわけです。この生きることを命を奪うのが戦争であり核兵器、他にも平和を脅かす原因がありますけどとりわけやはり平和を脅かす最大の原因は戦争であり核兵器である。それが今世界にはあります。日本は確かに戦争をおこしてない。核兵器も自らはもっておりません。しかし、私は沖縄の基地にはアメリカの核兵器があると思います。これは紛れもなくあると思いますが分かりませんよそれは、私はあると思いますが日本自らは核兵器をもっていない。戦争はおこしていない。しかし、残念ながら世界には戦争があります。最近ではユーゴスラビア・コソボ問題というのがありましたね。ユーゴの大統領が民族が違うからその民族は出て行けといった。しかも武力を使って出ていかしましたね。私はそんなことはやはり間違いだと思います。もちろんNATO軍の空爆もいけませんよ。武力を使って平和を取り戻そうとする平和と平和の対決はやるべきではないと私は思いますがやじゃり話し合いで平和は解決していかなければいけないと思いますが空爆には空爆の理由がある。民族が違うから出て行けといった。その人達が100万人近い難民となって行く所がない、私はやはりユーゴの大統領間違っていると思います。やはり、国が違っても民族が違っても言葉が違っても肌の色が違っても皆人間は同じなんですからね、それが基本なんですよ。そして皆が手を取り合って共に生きるというのが世界平和なんです。それをただ単に民族が違うから出て行けといったんではそれは多分、平和の考え方には合致しないと。やはり共に生きていくと一緒に生きていくという事が世界平和のもとになると思います。そういう戦争が世界にはあります。核兵器もあります。約25000発あります。これ数は秘密ですけどそれをアメリカとロシアとイギリスとフランスと中国の5つの国がもっていまして95%をアメリカとロシアがもっています。広島型に計算すると50万発から100万発です。その中で海の核兵器が一番威力があるといわれていますね。海の核兵器つまり潜水艦に核弾頭が積まれますから。例えばアメリカやイギリスがもっているトライネット型という最新鋭には24機のミサイルが積み込まれる1機のミサイルに核弾頭8つ付けられるそうです。1発が広島型の約20倍の破壊力をもっている。それが24機のミサイルに192の核弾頭がつけられる。そしてボタン一つで海の中から一斉に192の都市をいつでも攻撃できるわけですから、そういう状況にあるわけですから。広島は8月6日の朝早くケリアン島というアメリカの基地から約6時間もかかって爆撃機で運んできました。もちろん爆撃機で運ぶ核兵器もありますがもうそうしなくてもボタン一つで海の中から一斉に192の都市がいつでも攻撃できると、それが世界の現状なんですね。広島長崎以降核兵器は幸いに使われておりません。使われてはいないけれどもこれから果たして使われないということは保証はどこにもないわけですね。指導者がボタンを押すだけではありません。テロリズムが核兵器を使う場合だってありますでしょう。例えばオウム真理教のようなテロ集団が核兵器もってましたけどね。ソ連から輸入して核兵器造る材料もってたんです彼らは。アメリカの国民71%位ですかね。テロリストがアメリカに核爆弾をしかけるというアンケート調査に71%もの人が答えているわけですよ。テロ集団というのは世界にいっぱいおるわけですから。そういう者たちがまかり間違って核兵器のボタンを押すことだってあるわけですから。彼ら何をしでかすかわからんわけですから。そういう人達がいるわけですから。指導者が押さなくてもそういう人間が核兵器を使う場合があると。だからとにかく恐い核兵器は一切なくしてもらわんといけない。0にしてもらう。0であれば私達も安心して生活できますからね。今25000発もあるわけですから。10回位殺せそうですよ、世界の全人類が。65億くらいが。1回あれが絶滅なんだけれども10回位殺せるだけの破壊力を今の核兵器は持っているわけですから。そういう地球上に私達は紛れもなく生きている。とりわけ21世紀を生きる若い人たちが生きている。21世紀残っていきますね。紛れもなく21世紀核兵器は残っていきます。それをこれから若い人達が大人になって核兵器廃絶をしてもらわなければならん。私達は先に死んでいきますから。若い人達によく申します。あなた方が私達の後を受け継いで下さるんだと。私達はどうしてもあなたがたより先に死んでいく。あなた方が私達の体験を受け継いで下さって残念ながら21世紀の残る核兵器や戦争を初めとする沢山の平和を脅かす原因を取り除いていって21世紀が本当に幸せで平和になるようにしてもらわばければならない。そのためには出会いを大切に生きて欲しいと思うわけです。みんなが出会いを大切に生きる。一会一生と云います。一期一会ではないんです、私は。一期一会というのは一つの出会いは一回限りだから、だからその縁を大事にしょうという事ですね。私はそうではない、一会一生です。一つの出会いは一生涯続いて行くんだと。だからその縁を大事にして出会った人とできるだけ長く交流していこうと。そこから対話が生まれ話し合いが生まれてきます。一期一会で出会った人と「はい、さようなら。」一回限りの縁だから「はい、さようなら。」と縁を切るんではなくて一会一生、一生涯、縁を続いていってそういう人達と一生懸命交流をして対話をして平和のもとを創っていこうじゃないかということなんですね。出会いが人生を決めますから。出会いで人生は決まるんですから。出会いを大切に生きていきたい。そして人の痛みを共に分かち合う心を持ちたいと思います。沢山の痛みを背負った人達がこの世の中に沢山おりますね。日本にも重度心身障害者や障害児あるいは身寄りのないお年寄りや海外に目を転ずればあのコソボ問題でも難民と呼ばれる人達がいる。人権抑圧また飢えに苦しむ人達がいる。マザーテレサが言いました。一杯のコーヒー代で飢えに苦しむ子供たちの十日の命が保証されるそうです。たった一杯のコーヒー代でね。十日の命が保証される。日本人には考えられない。400円ですよ。それで十日の命が救えるんですから。私はよく若い人達に募金に協力して下さい。君たちのこずかいを割いて飢えに苦しむ子供のために300円、400円それはできるだろうと。それも一つの平和に尽くすことなんじゃないか。事故とよく云いますけどそういう痛みを背負った人達をその痛みをですね、自分のものとして置き換えてみてそして痛みを共にわかちあって一緒に手を取り合って共に生きるという事ですね。そこには思いやりと優しさがいります。人に対する思いやり或いは相手の国に対する思いやりユーゴの大統領のように出て行けというじゃなくてやっぱり優しさと思いやりを持って共に生きようとそこが平和の原点なんですね。だから平和の原点というのは人の痛みを共に分かち合う心を持つことなんです。だと思います。そして憎しみで憎しみを消しさる事は決してできない。憎しみがある所に平和を幸せもないと思います。私は原爆を投下したエノラゲイ号の機長に会ったことがあります。1980年昭和55年アメリカで。原爆展がありましてね。アメリカのワシントンで。そのワシントンに広島の中国放送というテレビ会社の記者がワシントンにチベッツさんを招いておったんですね。それで私に会おうとさせた。高橋さんあなたはチベッツさんに会いますか、ポール・W・チベッツというんです、原爆投下をしたエノラゲイ号の機長ですね。私は是非会わせて欲しいと言ったんです。しかしチベッツさんはあなたに会うことをためらっていると。いや私は会わせて欲しいと、何とか説得して欲しいと言いました。説得してくれたのでしょう。アメリカの上院会館の裏手に公園があってそこに彼は待ってました。会うことをためらっているということを私はあらかじめ知っておりましたから火傷が残るこの右手をまず出しましてね、あなたに今更恨み辛みを言うつもりは決してありませんからどうぞご安心下さい、ということを言いまして握手をしてくれたんです。そしたら彼はこの右手を見逃すはずがない。「これは、原爆で火傷したんですか。」「そうです。広島の朝の空は快晴でした。美しい空でした。私は中学校の校庭におりましたから空襲警報、警戒警報も解除されておったからあなたの飛行機がよく見えた。校庭から。」そう言いましたらチベッツさんは「そうですね。機内からも広島の地上がよく見えました。広島は確かに青い空でした」ということを言いました。そしてこの後の話をして最後に私は「核兵器の過ちが繰り返されてはならない。どんな国の上にもどんな立場の人の上にも核兵器の過ちが決して繰り返されてはならない。今度繰り返されたら世界は破滅ですよ、あなたが一番よく知ってるでしょう。だからあなたもあなたなりに核兵器をなくす努力をして頂きたい。」と申しましたらチベッツさんは「高橋さん、あなたの気持ちはよくわかる、だがしかし、もし戦争が起こって私に同じ命令が下ったら私は同じ事をやるでしょう。それが戦争なんです。それが軍人なんですよ」ということを言いました。それだけで終わったんでは私は悲しい思いがしましたし憤りもありました。しかしチベッツ氏はだから戦争は絶対におこしてはいけないんだと戦争が起きたら軍人は命令のままに動かざるえないんだということを言いました。全くその通りでしょう。私はその後交流を続けて来ましたけど最近はもう手紙がきません。かなり高齢ですから。80いくつだと思います。しかし会って良かったと思います。その原爆投下の機長に会って良かったと。憎しみで憎しみを消し去ることは決してできないんですから。憎しみを越えていかなければならない。過去の一切の憎しみや悲しみや苦しみを私達は越えていかなければならない。そして、核兵器廃絶、戦争廃絶をそして平和を訴えていかなければ私達の訴えは輝きを増さない、憎しみをもっていたんではやはり輝きを増さないという風に思います。そして一人の力は決して無力ではありません。平和のために何かまず一人からやり始めて欲しいと思います。一人の力は小さいけれどもしかしまず一人から何かをやり始めなければなりません。一人でやり始めてこそ何かが動いてくる、一人がやらなければ0なんですから。無なんですから。なしなんですから。一人で何かをやり始めてこそなにかが動いてくる。そこから平和の輪が広がっていく。最初は誰だって一人であります。一人から二人、三人、四人、五人、六人へと仲間を作って平和の輪を広げていきたいと思います。そして勇気と努力と挑戦を忘れないで欲しい。平和のために勇気を持つ。正しいことを言い続けることが勇気です。そして努力は自分でもっている力をそのままにしないで積み重ねて行くことです。そして挑戦、苦しいことであっても厳しい事であっても悲しい事であってもそれに立ち向かう、チャレンジです。そこから必ず道が開けるという事です。世界平和は一気にやってはきません。世界平和は身近な所から一歩一歩足下から辛抱強く築き上げていかなければなりません。足下といえばまず私達の家庭です。家庭がやっぱり平和でなければなりません。家庭が平和でなければその人は平和を口にする資格はないと思います。まず家庭が平和でなければならない。お父さん、お母さん、兄弟と一生懸命話し合いをして連帯感の強い家庭を築かなければなりません。そして学校の平和でしょう。いじめのある学校は平和であるとはいえません。一種の戦争状態が学校にある。いじめのある学校は一種の戦争状態があることにつながりますからやはりいじめをなくすことが学校の平和です。そういう学校の平和、そして地域の平和、私達が住んでいる地域の平和があるんですから。その上に立って世界の平和があり日本の平和がある。決して一気に世界平和はやってこないんだと。身近なところから足下から辛抱強く一つ一つ作り上げて築きあげて行くことが世界平和につながるわけです。そのためにはどうか人としてやっぱり勇気を持って努力をして挑戦の気持ちを忘れない、しかも思いやりと優しさを持つ。そのことを私達は常々心に刻んでこれからも生きていきたいと思います。大変つたないお話になりましたが以上で終わります。大変有り難うございました。

ページ頭へ

平和へのメモリーウォーク
       岩屋寺さん御山主さんに激励され出発

 朝八時に私達は岩屋寺を目指した。車内に五つの種火が臭う中、緑の山並みを越えて、そして、計算外の急斜面を徒歩で歩いて、私は十時にお大師さんの修行場として確かなお不動さんの懐に入った。

 私は心密かに岩屋寺の御山主さんの同席を願っていたが、何と、御山主さんは丁寧な表白・読み上げ文を用意して、八カ寺参りの出発にとって嬉しく心の引き締まる読経をしていただいたのである。その前に私達は香川から来られたという家族連れのお遍路さん一行に親しくされ、行脚を愛でられ、共に本堂に入った。

 飛び入りで本堂に入れるなど、なかなか出来ないことであることは、周知である。

 出だしが、お不動さんであることは身を糺すこととなった。今日も何のためにどのような心構えで行うのか。今日は多くの同僚や人々を巻き込んでの行脚である。行程はほんの十数キロ、と言っても迷ったり寄り道したりで二十キロは歩いたろうと思うが、ほんの一瞬のようにお思える多くの人々との出会いが始まった。但し、ヒロシマの人々、、ナガサキの、ミナマタの、そしてハンシンの被災者の方々と出会えたのかどうなのか、それはもう一度問い直さねばならない。

 しかし、道中の風景が、足の痛みが、人との出会いが将来去来する度に、私はこの歩きの意味を問い直し、自分と世界と人々との営みについていかばかりか真摯な態度を喚起すると確信する。

 五つの火種は、この行脚によって「慈愛の灯」となった。そして名実共に希望の灯となるには、数度の回顧と、精神の傾注を必用とすることは肝に銘じねばならない。

 

目次

生きる歌
金子みすず
悩み相談
リンク
四国遍路
平和祭
沖縄戦回想

仏教百科
観光
節分厄除家内安全
毎週祈願先祖水子供養

七五三参り結婚式
新聞当月号
今月の主張

俳句本紹介
憲法グッズ
グッズ

行事

人権

障害者の部屋へ

ふくろう会