

沖縄戦
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「兄弟三人を失った憎い戦争」大城繁春 |
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開戦当初の戦勝ムードも、ミッドウエイ海戦での日本艦隊の大敗で戦況は悪化に傾き始めた。米軍がガダルカナル島に上陸し、日本軍は死闘を繰り広げたそうだが、物量の差で初めての撤退となったことを知った。その後の日本軍は、アッツ島の玉砕に続き、次々と撤退や玉砕を繰り返し、徐々に暗いニュースが多くなり、世の中が騒然となってきた。このような戦況の悪化で沖縄県と南西諸島の防衛強化に多数の友軍が配置された。私達の学校にも竹槍部隊が配備され、授業も学級別に大きな民家や、村の事務所を借りての実施となった。さらに三年生以上の全生徒は、午後から陣地作業に駆り出された。また、月一回の日曜日は、朝から出兵家族の慰問奉仕作業も慣例となった。戦況はますます悪化に向かい、老幼、婦女子、学童の集団疎開がはじまった。日本は南洋諸島の玉砕が日増しに増えた。その数々の玉砕の中でも、昭和十九年七月のサイパン島玉砕の報道は、私達家族に大きな衝撃を与えた。その後の母は、長男繁輝の安危を想い、食欲も無くなっていった。母に寄り添って寝ている私は、毎夜むせび泣きしていた様子を今もはっきり覚えている。ただ、玉砕でも全員死亡することは無いという周囲の励ましで少しずつ元気を取り戻していってくれた。その後の母は、毎日仏壇に長男の無事を祈願し続けたが、その願いも空しく、とうとう長男は帰らぬ人となった。
日本近海には敵国の潜水艦が出没し食料や生活品が日増しに苦しくなり、非常時の到来となった。各村の青少年は自主的に勤労青少年団を結成して生産活動に励んだ。昭和十九年十月十日、午前七時過ぎ、私達は共同農園で農耕中であった。ある者が那覇上空に無数の飛行機を発見して、皆に知らせた。農耕の手をゆるめて、その光景を見て、こんな大規模な、しかも早朝の演習は初めてだと全員が西の空を物珍しげに見上げた。しばらくすると空襲警報のサイレンが鳴り響いた。私達は慌てふためいて蜘蛛の子を散らすように家路に走った。大空襲で那覇市が灰塵に帰したことをあとで知った。この日が沖縄ではじめての空襲で人々は十・十空襲と言い、戦争の怖さを体に感じた。米機動隊は勢いを増し、台湾や南西諸島に空襲を繰り返した。沖縄本島も戦時態勢に入り、中南部の住民は北部への疎開を始めた。昭和二十年三月からは、沖縄本島を中心に猛爆撃となり、空襲警報のサイレンはひっきりなしに鳴り響いた。三月末になると、奥武島の東方海に、青い海も黒色に染まる程に連合艦隊が終結し、島尻一帯への空爆や艦砲射撃が激しくなった。私達家族は屋敷裏の岩下の防空壕に避難した。真近に落とされる爆弾の炸裂の恐怖は表現のしようもない。大きな岩も、上下左右に揺れ動き、鼓膜も破れんばかりの爆発音、我慢も極限に達し、無意識に壕から飛び出そうとした時に、母に引き戻されて我に帰り、うつぶせで目と耳を塞ぎ怖さに耐えた。食事抜きの一日は非常に長く感じた。こうした日々を二、三日過ごしたが、我慢も限界となり、親ヶ原
の新川壕に避難することにした。何百メートルもあるこの自然壕は、立錐の余地もない程の混雑で、排出物があふれ、蚤が異常発生していたのには往生した。しかし、爆発音も聞こえず、三度の食事も取れ、安心した避難がしばらく続いた。首里外郭地での、敵味方入り乱れての攻防戦は、日本軍敗退という噂が壕内では広がっていた。しばらくすると、その敗残兵の一部が、私達の壕へ撤退してきた。その後、日増しに兵隊が増え、とうとう軍命で住民は追い出された。軍命には逆らえず仕方なく、元の壕へ戻った。そこへ兄の繁信が首里の戦地から、無傷で帰って来た。私達家族は非常に喜んだ。米軍は進撃を容易にするため、その前日までは、進撃する地方を猛爆撃する作戦をとっていた。それを知らずに、炸裂音の無い朝を迎え喜んだ。久し振りに、木陰で遊んでいた。なんとなく糸数城跡を見上げると、無数の米兵がのんきに歩き回っているのを発見した。
米兵はのんきでも、私達には生と死を分ける一大事である。慌てふためいて、食料品を全員に分割して、南部への避難に出発した。具志頭村までは、無数の避難民が、道一杯に何キロも続いた。そこには米兵による爆撃はなく、まさに嵐の前の静けさであった。しかし、前述した通り、米兵は前線部隊の援護射撃のため南部一帯に鉄の爆風を巻き起こしていた。それを知らず、多くの住民は、弾丸の中を彷徨った。道路の周辺には、無数の生々しい死体、助けを求める者、うめき声、爆風で吹き飛ばされ木にぶら下がった血だらけの死体が散らばっていた。まさに生き地獄とは、こんな悲惨な状況のことであろう。その異様な情景は文字では表現できないし、また思い出したくもない。
私達家族は弾丸の中をくぐり抜けて米順まで辿り着いた。そこも鼠一匹残さぬ爆撃があった。避難する場所もなく、爆風や破片を避けるため凹地や家畜小屋の焼け跡の石囲いの中に、二、三家族が避難した。そんな所に直撃に遭い死者や怪我人が続出した。そんな不幸がいつ降りかかってくるのか毎日が不安であった。先刻までの猛爆撃も静まり返った時、大城良春君が母の怪我で助けを求めてきた。私の兄が助けに行こうと外に出たら、数百メートル近くまで、米兵が進撃してくるのを発見した。助ける余裕もなく私達は後ろ髪を惹かれながらも、山容が変わるほど、砲弾が打ち込まれる地へと向かった。今考えると馬鹿げたことであるが、当時は「捕虜になって恥辱を受けるよりは死を」というサムライ精神が支配的であった。また、米兵は鬼畜生で、捕虜になった者の手や耳、鼻等を切り落とし、苦しめてから殺すという悪宣伝がはびこっていた。そういう異常な戦場心理の中で逃避を続けたのであった。怪我して歩けぬ者は自決。逃げる場所を失った家族は集団自決と、陰惨な状況が発生した。無数の死体からわく蛆虫が道路一面に広がり、また、子牛程に膨れ上がった死体が散乱し、草むらに腐敗した死体があるのも知らずに、ブスンと足を踏み込んだりしたが、当たり前の出来事としてその場を去った。喉が渇き、溜め池で水をすくって飲んだ後で、少し離れた所に死体が浮いているのを見ても平気であった。放心状態も手伝い、周囲の現象に馴れっこになり、五感も麻痺して、死体が周辺にごろごろしていても、その怖さや異臭も感じなくなっていた。
私達家族は、東へ東へと砲弾の嵐の中を歩き続け、とうとう岩壁の縁まで追い詰められた。二、三十メートルの断崖は、現在では後ずさりする程の場所である。わずかな傾斜を見つけて草木の根を踏みつけながら海岸まで下った。そこにも砲弾は容赦なく打ち込まれた。私達が急ぎ足で岩陰に行く途中、至近距離で砲弾を浴びせられた。これまで無傷だった弟の繁雄、姉の子供のてる子と舅の佐一が即死。母、姉、妹も重軽傷を負った。こんな形での身内の不幸は初めてで、ただ茫然としてその場に立ちすくんだ。しかし、兄の機敏な誘導で、多少安全な場所に避難することが出来た。兄は三人の死体を海岸近くの一段高い岩陰に葬った。少し落ち着いた頃、私は防衛隊員であり、これから自分の部隊に合流し、北部方面へ海を突破していかなければならないことをぼんやりと思い出していた。。
「民間人は捕虜になっても大丈夫だと思う。命だけは大事にして下さい。」と言って母と抱き合った。一人一人と握手を交わしたが、目には涙があふれていた。兄は私に「母を頼む」と強く私の手を握って去って行った。あの寂しそうな後姿、うしろを振り向きながら去って行ったあの姿。これが最後の日になろうとは・・・・・。
翌朝は爆撃音は無く、ヘリコプターとグラマンが、低空飛行を繰り返していた。私達は大黒柱の兄と別れ、途方にくれながら三人の亡骸とも別れを告げ、海辺から東へと向かった。母と姉は亡骸のある岩方面を振り向きながら、悲しそうに放心状態で歩いていたが、その姿が哀れだった。しばらく歩いていると、草木を踏みつぶして出来たにわか道を見つけ、そこから頂上へよじ登った。頂上周辺ではすでに多くの住民が捕虜となっていた。はじめて見る米兵の青い目、無精ひげを生やしたゴツイ兵士のかたまりは異様であった。おどおどしながらも人影から彼らの様子を窺がった。負傷した人々を親切に介抱しているのを見て恐怖は薄らいでいった。住民と日本兵は区別され、私達住民はトラックに乗せられ、知念方面に送られた。私達は志喜屋で降ろされたが、幸いにも母が山里出身だったので親戚が居り、再会と互いの無事を喜び合った。島尻方面の牧羊民でどの家屋も所狭しの状態だった。しばらくすると雑居していた人々の中から苦情が出始めた。私達は戦場で嗅覚も麻痺していて、自分の体から出る異臭にすら気付かなくなっていた。しかし牧羊民の人達はまだ臭いに対する感覚が残っていて私達が放つ異臭に絶えられなくなって苦情が出たのであろう。私達は親戚に勧められて屋敷の隅に小屋を建てて移り住んだ。弾丸の音も無く食事もきちんと取れて不自由なく過ごすことが出来た。平穏な日々を味わいながらも、二、三日前まで元気だった兄や弟を思い出しては一人寂しく泣くことが度々あった。母や姉も身内を失ったショックは大きく私以上につらかったと思う。
ある程度の秩序維持のために、多くの牧羊民を各村の事務所に配置し、曲がりなりにも区行政が施行された。当時の役職員は、学校教育を一日たりとも怠れないと、青空学校を設立していった。山里の空き屋敷の二ヶ所を利用して学校が設立された。そこに百五十名近くの生徒が集まった。当時は鉛筆や紙や帳面も無く、砂地に字を書いての勉強であった。一月遅れで志喜屋にハイスクールが設立された。担任の平仲先生から編入試験があることを聞き、私は早速母と相談して受験することにした。青空のもと、缶詰箱を机代わりにしての入学試験であった。数日後合格の知らせがあったが、その感激は今でも覚えている。一緒に受験した中山出身の井上君や堀川出身の旧姓亀山さん等と合格の喜びを分かち合った。
戦後は軍作業が盛んで、現金収入の多いこの仕事に若者は憧れていた。私は高校卒業後教員を志し糸満教員訓練学校を経て、以後四十三年間教員一筋で、平成四年に定年退職した。戦争が終わり平和な時代を迎え、正月やお盆に兄弟同士がお互いに盃を交わす光景を見るたびに、羨ましく寂しさを感じずにはいられない。戦争がなければ自分も楽しい語らいが出来たであろうが、若くして戦争の犠牲になった兄や弟が不憫でならない。五十年以上経過しても兄弟三人を失った戦争に対する憎しみは消えることは無い。これからの世の中は貧しくても平和な社会であってほしい。
mailto:gonbe007@mahoroba.ne.jp
沖縄人は民族的にはアイヌ人と近い縄文系の民族です。琉球王国は日本の大和朝廷とは全く別に発展し、貿易国家と栄えていましたが、17世紀初頭に薩摩藩に侵略されて半植民地化されてしまいました。それでも一応王朝を保ってきましたが、明治に入って維新政府は沖縄の半独立状態を完全に解消する“琉球処分”を断行して併合してしまいました。
併合されて“沖縄県”となってからは、政府は沖縄を日本の前線基地として軍隊を置きました。そうした中でも沖縄に対する搾取は島津時代同様に行われ、また沖縄人は差別されながら軍隊にも徴用されたのです。太平洋戦争では、本土を守るための捨て石とされ、激烈な戦闘の渦中に置かれたのみならず、日本軍は住民から食糧を取り上げ、虐殺さえ行ないました。
戦後、米軍によって日本軍のくびきから解放されたと思えば、今度は米軍が居座ることになりました。日本政府は体よく米軍に沖縄を売ったのです。沖縄は朝鮮戦争やベトナム戦争をはじめとした戦争の出撃基地とされ、住民は土地を奪われた上に戦争の脅威にさらされ、また米兵犯罪の犠牲ともされたのです。しかし日本政府は抗議して基地を減らすでもなく、現在にいたるも、在日米軍基地の大部分が沖縄に集中して、薩摩の侵略の前には“平和の島”として栄えていた沖縄は“基地の島”として憶えられるようになってしまっているのです。
あなたの出身県が同じような目にあっていたら、我慢できますか? 普天間基地の移転問題で、本土への移転は強い反対にあい、結局は県内で移転を余儀なくさせられた沖縄県人の気持ちがわかりますか? 私たちには在日米軍基地の全面撤去以外に選択肢はないと思いますが、沖縄の経済を基地なしでも立ち行けるように支援することも大切です(こういう口先だけのことじゃねぇ…)。週に一度はゴーヤ料理、物産展やってたらすかさずお土産に豆腐ヨウ(おすすめ!)、飲み会は何回に一遍は沖縄料理、10年に一度くらいは沖縄旅行、というぐあいでいきましょう。
岩波現代文庫 1100円 おすすめ度★★★★★
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