自死(自殺)者供養の案内

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お父さん今僕を見てくれていますか?

石手寺では毎年年末に「自死(自殺)者の御供養(追悼・慰霊)をしいてます。その理由は石手寺に身を寄せた方々の何人かが自らいのちを断ったからです。一時は、何人かの人は死ぬのは仕方ないという悲しく諦めた気分になったものです。

そんなとき、ある僧侶と話しているとき、世間に呼びかけて供養をしようということになりました。二人で共同で主催してやろうということになりました。本堂で は、思ったよりも大勢の方が遠方より詰めかけました。電話では、子どもが亡くなってからまだ家を出ることができませんが、よろしくお願いしますという話も 聞きました。石手寺まで来られても本堂の中に入ることができない人も居ました。

読経の間、わたしはずっとともに暮らし死んで逝った何人かのことを思い出しながらつらい気持に耐えていました。

思い出すことは本当につらいことです。しかし思い出さないように抑えることはもっとつらいことかもしれない。

読経が進むうちにわたしは同じようになきひとを弔う人々と居ることに安らいでいました。一方では自分の責任で死んだのではないか、自分は助けられな かったではないかという自責の感情が、安らぐことを卑怯だと罵り後ろめたい気分をひきずりながら、同じようにひたすら故人を思う人々とともに手を合わせて 幾分か安らぐ自分を発見しました。

つらい気持は増幅しながら、そして幾分か勇気に変わっていくようでした。

12月第一日曜日自死者供養の会  
ところ 松山市五一番札所 石手寺本堂
電話089ー977ー8155
法要後茶話会
昨年の自殺者数は三万人を越えました。理由はいろいろです。どの死の場合も、あとには悲しみの者が残ります。遺族友人知人関係者の、胸の痛みはなかなか消えません。みんなで供養し祈る中で、その痛みを分かち合うことができればと思います
当日参加者のお名前はお聞きしません。特にご供養希望される方は、その方のお名前また戒名をお聞かせ下さい。
法要の後、リラックスして茶話会や食事会があります
どなたでもご自由にご参加下さい。
石手寺での御供養も八年になりました。毎年三十人ぐらいですが、全国各地からこの日のために遠方を厭うことなく亡くなられた方のために来られます。愛しい方の死によって、みなさん悲しみが深く、お家から出られなかったり、ひとに言えなかったり、一人で悲しみを抱えて苦しんで居られたりします。そういう私も、ここはお寺で多くの困難を抱えた方との出会いがあるわけですが、その中の少なくない方が自ら命を絶たれました。そのうちの幾人かは私が殺したと思いました。また他の人々のためにも御供養をしたいと思っているところに友人の僧侶から誘いを受けていっしょに祈りの会を始めた次第です。
御供養では、真宗禅宗真言宗の僧侶か集い、各々のお経で供養を行いました。そのお経はその年によって変わることもありますが、御供養の気持ちは変わりません。みなさん亡くなられた方の安寧と幸福を祈ってひたすら心を手向けます。
同じ痛みを持つ人々が集まっていっしょに合わす手は、不思議と幾分か心を安らかにしました。その後部屋に移って茶話会を持ちます。
三十年間故人のことを家族で話さず凍り付いていた悲しみの家庭もあります。お嫁さんを憎んですごす母親の方もおられます。それらの痛みや苦しみは、受け止めるところが無くて深く沈殿していつまでも痛みを発していることもあります。
みなさん同様に言われることは、「どうして死んだのかわからない、どうしてなんだ」といういつまでも続く問い。そして「あの時もうすこし違う行動をしていれば死ななかったのでは、私が殺しました」という自責の念です。この思いは私も同様です。十数年も前の話を私もしました。そうすると、列席の方々は次々と自分の家族や連れ合いのことを話し出しました。
「あの子にもっと気を配ってしてあげていれば良かった」とさめざめと泣かれるお母さんには何の罪もありません。「三日前に未遂を起こし、それまでは全然知らなかった心の苦しみを聞かされ十年も連れ添いながら相手の苦しみを知らなかった自分に唖然としました。でもその三日後に亡くなりました。そしてお遍路をしています。供養会があるというを聞いて引き返して来ました」
各人各様の痛みの話を聞かしていただきました。私は話を聞きながら、自死されたかたがたは、一生懸命生きようとして、死を選んだと思っております。それで私のいたらなさが解決される訳ではありません。しかし、亡くなられた方は懸命に生きようとした結果として死を選び取ったと私は思っています。
そしてそのことを時に着け忘れずに供養していくことが大事と思っています。
ご心配の自死のかたが成仏しないのではないかということは、多くの方の心配でもあります。しかし、一つには、そのようなことを書かれた書物や言辞は、根拠かありません。もう一つには、仏教においてそもそもそのような考えはありません。人は一生懸命に生きることによって必ず成仏します。成仏するというより、苦しみ続けるはずはありません。
そのために私たちにできることは、亡くなられた方を理解することです。自死はどうして死んだのかを理解するのが困難な点はあります。どの死も同じですが、逝った人は語りません。しかし、私はすべきは謂った方を良く理解することだと思います。良い仕方で良い方に理解していくことだと思います。
みんなにその努力が不十分でありますから、世間で自死は敬遠されます。その結果、暗いくらいところに追いやられるわけですが、それこそなくなった方を供養しないことになろうと思います。
たいへん辛い思いで過ごされていることと思います。聞こえない声を聞こうとする努力はまた厳しくつらいものとお察しします。私の信じる仏さまは、苦しい者をこそ受け止め救っていただけます。努力する者を見捨てず幸福を考えていただけます。そしてその心や営みは私達の中にこそあると信じております。
また、一見何も苦しみなどなく元気に生きている周囲の方々も、その幾人かはひょっとすると多くの方が、全ての方が何らかの苦しみを抱えて生きていることも事実です。ひとり悲しみを抱え込むことなく、娘さんのためにご精進していただければ幸いと思います。
     生と死 (石手寺新聞加藤俊生より)

生の確認と死への覚悟

 「死への準備教育(デーケン氏)」というのを読んだ。死の準備ではなく死への準備であると強調している。それは何かの『喪失体験』が起こる前にこれに備えるための予防学習であるという。喪失体験とは、配偶者と死に別れることや家族を失うことなどである。

一、自殺者の遺族の深い悲しみ

 今日、不況リス(裏へ)トラの影響で人口十万人当たり、男性三十七人女性十五人が自殺しているという。男性は二倍半の自殺である。「自殺する人の心理を分析すると、ほとんどの人が一方的に自分の悩みや苦しみばかりを考えている」という。しかし、例えば夫が自殺をした場合、残された妻は生涯自分を責めることが多い。「もう少し夫の気持ちを理解すればよかった」「もっと愛情を示せばよかった」と。前回の自殺者供養の会の時も同様の話が印象的だった。「どうして父が死んだのか分からない、責めて遺書でも書いておいてくれれば・・・しかし、何もないからあれこれと考えるのだけれど無念でしょうがない」という。

 デーケン氏は、この残された遺族の悲劇的事実を私達が知るならば、もっと自殺の予防になるという。

二、中年以降の六つの課題

 1)「少しずつ手放すこと」

 財産、名声、地位を手放すこと。ここで厄介な人は元医者、元社長、元大学の先生だそうだ。

 2)「許すこと和解する心を身につけること」

 3)「感謝の気持ちを伝えること」

 4)意識がはっきりしているうちに「さよならを告げること」

 5)「遺言を書くこと」

 6)「自分なりの葬儀方法を考えて周囲に伝えておくこと」

 これらの事をしないがために、死にがたく、また死を送った遺族が深く苦しみ、悲しみをひきずるのだということは、幾つかの葬儀から確かである。「あの時許しておけば」また「一言感謝の言葉を言ってもらえれば」あるいは「有り難うと一言いえなかったのが心残りだ」という事は多い。その気持ちを引きずる人は過剰に供養するしかなくなるのである。ことによると、その悲しみから生きる意欲を失い、後追いする。

 しかし、「手放すこと」「許すこと」「感謝すること」などは、中年以降の死を迎えるに当たっての心構えというよりは、人間がこの世に生まれてから生きていく上での課題と考えられる。言い換えれは、名利を手放していくこと、世界への敵対ではなく和解と信頼、そして世界への貪欲ではなく感謝は仏教の教えそのものである。

 死を迎えるに当たっての徳目が「捨てる、慈悲(和解)、喜ぶ(感謝)」であることは、人間が極限に至ってやっと人生を見つめることが可能になるということを示すとともに、何故、若年においてこれらのことが切実にはならないのかという問題を改めて考えさせられる。

 そして仏教は単に慈悲喜捨(捨てる、慈悲(和解)、喜ぶ(感謝))ではない。これは入門である。この「手放す」等によって自分の生きる価値を作り上げる作業である。名利の為に生きるのではなく、他者といがみ合って生きるのでもなく、共感と共生に人生の目標をおいて生きるという生き方を発見する為である。

 しかし、「これぞ生死を越えた我が生き方」と思いつづけた生き方さえも「死」を前にして「少しずつ手放すもの」でないという保険はどこにもない。そうすると永遠の葛藤の中に求めつづける安心というものかもしれない。しかしここで確信して至るのは、生への深い愛着がなければ、「手放す」も「感謝」も薄っぺらなものとなり、それは周囲の多くの人々を傷つける事になるだろうということである。生への執着が人の心を動かせ、その感動が深い悲しみを断ち切らせて永遠の生へ向かわしむと言うと虚飾的すぎるだろうか。

 存在の根源的問い  お手紙を頂きました

多くの悲しみが、私の悲しみとかさなる日 まじめ教 存在の根源的問い

自死者供養の席上、わたしが言えたのは、亡き人々は真面目だったということだけであった  もごいひとのよ
ホームレスの人々も自死の人々も共通点がある。それはHonestyということ。

自死者供養の席上、わたしが言えたのは、亡き人々は真面目だったということだけであった
わたしは憲法改正に反対である。由縁は日本国憲法はくそまじめだからである
こんなまじめな物を見たことがない。
もっと真面目な物が提出されるなら考えも変る
どうして真面目が要るのか。「まじめ者が馬鹿を見る」そんな世界に日本の人々は辟易しているからだ
まじめ、その反対は、拝金主義である。そのことを肝に銘じたい
ホームレスの人々も自死の人々も共通点がある。それはまじめということ。