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自死(自殺)者供養の案内 石手寺では毎年年末に「自死(自殺)者の御供養(追悼・慰霊)をしいてます。その理由は石手寺に身を寄せた方々の何人かが自らいのちを断ったからです。一時は、何人かの人は死ぬのは仕方ないという悲しく諦めた気分になったものです。そんなとき、ある僧侶と話しているとき、世間に呼びかけて供養をしようということになりました。二人で共同で主催してやろうということになりました。本堂で は、思ったよりも大勢の方が遠方より詰めかけました。電話では、子どもが亡くなってからまだ家を出ることができませんが、よろしくお願いしますという話も 聞きました。石手寺まで来られても本堂の中に入ることができない人も居ました。 読経の間、わたしはずっとともに暮らし死んで逝った何人かのことを思い出しながらつらい気持に耐えていました。 思い出すことは本当につらいことです。しかし思い出さないように抑えることはもっとつらいことかもしれない。 読経が進むうちにわたしは同じようになきひとを弔う人々と居ることに安らいでいました。一方では自分の責任で死んだのではないか、自分は助けられな かったではないかという自責の感情が、安らぐことを卑怯だと罵り後ろめたい気分をひきずりながら、同じようにひたすら故人を思う人々とともに手を合わせて 幾分か安らぐ自分を発見しました。 つらい気持は増幅しながら、そして幾分か勇気に変わっていくようでした。 生の確認と死への覚悟 「死への準備教育(デーケン氏)」というのを読んだ。死の準備ではなく死への準備であると強調している。それは何かの『喪失体験』が起こる前にこれに備えるための予防学習であるという。喪失体験とは、配偶者と死に別れることや家族を失うことなどである。 一、自殺者の遺族の深い悲しみ 今日、不況リス(裏へ)トラの影響で人口十万人当たり、男性三十七人女性十五人が自殺しているという。男性は二倍半の自殺である。「自殺する人の心理を分析すると、ほとんどの人が一方的に自分の悩みや苦しみばかりを考えている」という。しかし、例えば夫が自殺をした場合、残された妻は生涯自分を責めることが多い。「もう少し夫の気持ちを理解すればよかった」「もっと愛情を示せばよかった」と。前回の自殺者供養の会の時も同様の話が印象的だった。「どうして父が死んだのか分からない、責めて遺書でも書いておいてくれれば・・・しかし、何もないからあれこれと考えるのだけれど無念でしょうがない」という。 デーケン氏は、この残された遺族の悲劇的事実を私達が知るならば、もっと自殺の予防になるという。 二、中年以降の六つの課題 1)「少しずつ手放すこと」 財産、名声、地位を手放すこと。ここで厄介な人は元医者、元社長、元大学の先生だそうだ。 2)「許すこと和解する心を身につけること」 3)「感謝の気持ちを伝えること」 4)意識がはっきりしているうちに「さよならを告げること」 5)「遺言を書くこと」 6)「自分なりの葬儀方法を考えて周囲に伝えておくこと」 これらの事をしないがために、死にがたく、また死を送った遺族が深く苦しみ、悲しみをひきずるのだということは、幾つかの葬儀から確かである。「あの時許しておけば」また「一言感謝の言葉を言ってもらえれば」あるいは「有り難うと一言いえなかったのが心残りだ」という事は多い。その気持ちを引きずる人は過剰に供養するしかなくなるのである。ことによると、その悲しみから生きる意欲を失い、後追いする。 しかし、「手放すこと」「許すこと」「感謝すること」などは、中年以降の死を迎えるに当たっての心構えというよりは、人間がこの世に生まれてから生きていく上での課題と考えられる。言い換えれは、名利を手放していくこと、世界への敵対ではなく和解と信頼、そして世界への貪欲ではなく感謝は仏教の教えそのものである。 死を迎えるに当たっての徳目が「捨てる、慈悲(和解)、喜ぶ(感謝)」であることは、人間が極限に至ってやっと人生を見つめることが可能になるということを示すとともに、何故、若年においてこれらのことが切実にはならないのかという問題を改めて考えさせられる。 そして仏教は単に慈悲喜捨(捨てる、慈悲(和解)、喜ぶ(感謝))ではない。これは入門である。この「手放す」等によって自分の生きる価値を作り上げる作業である。名利の為に生きるのではなく、他者といがみ合って生きるのでもなく、共感と共生に人生の目標をおいて生きるという生き方を発見する為である。 しかし、「これぞ生死を越えた我が生き方」と思いつづけた生き方さえも「死」を前にして「少しずつ手放すもの」でないという保険はどこにもない。そうすると永遠の葛藤の中に求めつづける安心というものかもしれない。しかしここで確信して至るのは、生への深い愛着がなければ、「手放す」も「感謝」も薄っぺらなものとなり、それは周囲の多くの人々を傷つける事になるだろうということである。生への執着が人の心を動かせ、その感動が深い悲しみを断ち切らせて永遠の生へ向かわしむと言うと虚飾的すぎるだろうか。 |
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多くの悲しみが、私の悲しみとかさなる日 まじめ教 存在の根源的問い 自死者供養の席上、わたしが言えたのは、亡き人々は真面目だったということだけであった もごいひとのよ 自死者供養の席上、わたしが言えたのは、亡き人々は真面目だったということだけであった |
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