自死(自殺)者供養の案内        石手寺祈りの会 呼びかけ人 石手寺住職加藤俊生                                       目次へ

  お父さん今僕を見てくれていますか?
高校三年 赤宗 敏幸 
  
 お父さん、僕は世界一の斜張橋のかかる大三島に住んでいます。しまなみ海道が開通し、平穏な島にも人、人。一躍活気のある島に変身しました。
 七年前、突然父の死を知りました。出勤後間もなく心筋梗塞で倒れ、当時橋はまだ出来てなくて、救急艇で運ばれたときには既に意識はなく、治療の甲斐もなく天国に旅立ちました。
 亡骸を前にして、祖父は「男は泣くんじゃない。父ちゃんが泣くから。」
と繰り返し言いました。今思えば、本当は祖父も泣きたいのをじっとこらえて自分自身に言い聞かせていたんだと思います。また、火葬場では「孫のことは心配するな。一人前になるまで守ってやるから安心して天国へ行け。」と父に言ってくれました。
 小学五年生だった僕には父の死というものが理解できなくて、何か他人事のように思えました。 子煩悩で、家族思いの父とはよく旅行をしました。時々アルバムを眺めては、優しかった父に話しかけます。
「お父さん今僕を見てくれていますか?」
と。
 今僕は受験の真っ最中であります。希望を持って父に報告できるように頑張ります。
 
  「父がいない」と言えなくて
高校一年 天野 貴美子 
 
 私の父は、四年前の十一月、私が小学校四年の時に亡くなりました。本当に急だったので、母しか父のなくなる姿を見届けられませんでした。そのせいか、私は悲しいという気持ちよりも、父はまだ生きているんだという思いのほうが強かったように思います。たぶん小さいなりにも父の死を信じたくなかったんでしょう。
 あれから数年……。俗に言う思春期という時期を迎え、私にとって、とても嫌で嫌でたまらない時期が来ました。特に嫌な時期は中学時代でした。仲のよい友達数人は私には父がいないという事は知っていました。けど、クラスの子は私に父がいないという事は知らなくて、父に関する話になったことが何回かありました。私はいつも父がいないと言えませんでした。父がいると言わざるを得ませんでした。私はたまらなく嫌でした。その話しをクラスの子としている空気もだけど、自分が、父はいると言ってしまったことがたまらなく嫌でした。父がいないことを恨んだことさえあります。そんな私がたまらなく情けなく感じました。言うのが辛いだけなのに…。今は、恨んだりした私が小さく思えます。
 もし、今、父がどこかで見守っててくれているのなら一言謝りたい。
「お父さん、ごめんなさい。」
と。
 
 
 
  お父さんへ
高校三年 白石 有子
 
 「まあくん死んだよ。自殺したんだ。」
 学校に迎えに来てくれたいとこの言葉を聞いた時、頭が真っ白になりました。私は火葬場に行くことができず、誰もいない家で、音楽をかけて歌っていました。何も考えられず、どんな感情だったのかも覚えていません。
 死ぬ以前の父は、家族から孤立していて、私ともほとんど口をきいてくれなくて、「お父さん大嫌い」って思っていました.死ぬ前の日、父は私と弟になぜか「ありがとう」って言いました。私はいつもみたいにそっけない態度で、別に気にも留めていませんでした。次の日、「首をつった部屋のドアが少し開けてあったんよ。」って後から聞いて、私は泣きました。お父さんは気づいてほしかったんや、淋しかったんや、あたしが止めることできたんやないかって、今でもそのことを考えると胸が苦しくなります。
 父が死んでもう四年になりました。ずっと仲が悪かった母とも今はうまくやっています。父もやっと安心しているかと思います。唯一残っている父から私への手紙、十二歳の時のバースデーカードには、「お誕生日おめでとう。お母さんを助けてあげてください。」と書かれていました。
 ついこの間私は十八歳になりました。このカードを見ながら、「十八歳になったよ、みんな元気でやってるよ。」って父に言いました。「おめでとう」って聞こえた気がしました。
 「これからも仲良くやっていくよ。心配しないで。ちょっとは大人になったから。そっちに行くのはまだずっと先のことだけど、その時はいっぱい話そうね。幸せになりたい。だから精いっぱい生きるよ。応援してて。お父さんはずっとあたしのお父さんなんやけん。」
 
 
 
  家族
中学二年 吉岡 真美
 
 私にはお父さんの記憶がありません。七年前、私が小学校に入学したばかりの六月、突然の死でした。生きている間も、あまり病院へ行く機会が無く、あまり会えませんでした。お母さんから、お父さんが死んでしまったと言われた時の気持ちはとても複雑でした。まだ「死」の意味さえ分からなかった為、泣くことも出来ませんでした。その時、お兄ちゃんが隣で涙を流しているのを見ても意味が分からず、お父さんのもとへ行きました。その時は、「やっと会えた。」という喜びでいっぱいだったと思います。でも、お父さんはなかなか起きませんでした。その時にやっと私は、「死んじゃったんだ。」と実感しました。でも私は、お父さんの姿が無くなってしまっても泣くことはありませんでした。今では四つ上のお兄ちゃんがお父さん代わりです。とても優しくて私達のことをよく考えてくれます。本当のお父さんは死んでしまったけれど、いつも私の肩にのって見守ってくれています。たった一つのお父さんの願い、「兄弟三人でお母さんを守ってあげる」ということだけは一生叶えてあげたいと思います。私がもし生まれ変わっても、また、お父さんとお母さんの子になりたいと思います。
 
  父との思い出
高校一年 原田 美佳
 
 私の父は、私が小学校六年生の夏に胃がんで亡くなった。あれから四年たった今、時々父のことを思い出す。そしていつも思う。やはりお父さんがいて欲しかったと。
 父は生前、マッサージ師で家の近くに診療所を開いていた。実は父は目が見えない。大阪にある盲学校に行ったらしい。私はよく父と母と三人で動物園へ行った思い出がある。その時父がいつも口癖のように言っていたのが、「この子の顔が見てみたい。」だったのを父が亡くなった後に知った。私も悔しかった。弟が生まれてからも父はよく遊んでくれたりした。仕事で本当は疲れている体を押して私達の為に時間を作ってくれた。その父が体の不調を訴え出したのは、小五の秋だった。もうすでにその時には手遅れで、あんまり長くないと言われた。本人には知らせたくないと祖母は父に胃潰瘍だと言っていたらしい。もちろん仕事なんてできないのに、かわいそうだからと言って診療所もそのままにしていた。それから十ヶ月後、父は息を引き取った。あの時、冷たくなっていく父の手を握ることができなかった私は、今でも後悔している。あんなに優しかったのに。そして今、私は高校生になった。この四年間本当に色々な事があった。そんな時、私はいつも父との思い出を振り返る。楽しかったあの頃のこと、大好きだった父の笑顔を思い出してがんばってきた。父のことを友人に話すのも大分慣れてきた。私は少し強くなれた。もちろん他の子より父との思い出は少ないけどそれはそれでいい。父が亡くなって、物質的には何も残らなかったけど、それ以上のもの"楽しい思い出"を残してくれたことに感謝している。そしてこれからも家族三人力を合わせてがんばっていきたいと思う。
 
  お父さんの思い出
高校二年 岡本 彩
 
 私のお父さんは、私が中一の時、肺がんで死にました。お父さんは死ぬ数ヶ月前から入院していましたが、私はお父さんが肺ガンだということを全然知りませんでした。まだ中一だったから、おしえられないとお母さんは思ったんだと思います。
 お父さんが死んだ日、私は何日か前に休んでいた時にあった理科のテストを一人で受けていました。すると先生が急いで教室に入って来て、「早く車に乗りなさい」と言いました。こういう場面は、ドラマとかで見たことがあり、いやな予感がしたものの、私は、お父さんが、ガンだということを知らなかったので、何が起こったのか分かりませんでした。病室に入ると、お母さんが泣いていて、「お父さん、死んじゃった」
と言いました。私は、わけが分からなかったけど、すぐに涙が出て来ました。
 お父さんは、血をいっぱい吐いて、死んでいました。その前日、みんなで、お父さんのお見舞いに来ていました。なのに私は、お父さんとあまり話さず、他のことをしていました。お父さんが死んだ後、そのことばかりが、後悔として思い出されました。「何であの時もっと話さなかったんだろう。」
 お父さんは本当に優しい人で、習い事に時間がかかっても、終わるまでまっていてくれたり、病院から帰ってきている時に、病院がつらかったと思うのに、むかえに来てくれたり、中学校に入って初めての文化祭を、病院から見に来てくれたり。
 私は、今まだ家族に何もしてあげてないけど、学校を卒業して、仕事をしはじめたら、何か、必ず家族のためにしてあげたいと思っています。その時が来るまで、勉強や、学校生活をがんばっていきたいと思っています。
 
  生活の変化
高校一年 真部 友香理
 
 私が中学二年生の夏休みに入ってすぐに、父が入院をしました。検査の結果、頭を手術しなくてはいけなくなり、母が父に付き添うことになって、私たち姉弟は二人で留守番をするようになりました。近くに祖父母が住んでいて、助けてはもらったけど、さすがに夜は怖かったです。
 父は手術を無事終え退院をしたが、またその冬に二度目の手術を受けました。今度も成功すると思っていたけど、半身不随になっていました。この時、父は仕事ができない、生活はどうなるの?学校は?進学は?と、私の頭の中で黒い何かがぐるぐる回っていました。私はどうしたらいいんだろうとか思うことがたびたびありました。でも母が、「生活は何とかできるし、学校も行けるし、ただ贅沢な生活をしなかったらええんよ。」と言いました。私は我慢して友達とはちょっと違った生活をしています。でも、こんな苦しい辛い生活も、後で自分の為になるんだと思いながら今は生活しています。とにかくこれからも一日一日を大切に私なりに頑張っていきたいです。
 
  もっと話がしたかった
高校三年 川添 尚美
 
 私の父は、私が中学二年生の時、肝硬変でこの世からいなくなりました。ここ最近まで、死んでしまうほど父がお酒を飲んでいたのはただお酒が好きで、やめられなかったからだと思っていました。でもあしながのつどいに参加して、父の死について考えるようになった時、お父さんがお酒を飲んでいたのは、本当にお酒が好きだったからだけなのかな?と疑問を感じるようになってきました。人がお酒を飲む時、ただおいしいからという理由だけで飲むことは少ないと思うんです。むしろ、精神的に楽になりたい時に飲むことのほうが多いと思うんです。父にも何かお酒を飲んでいないとやっていられないような心配事、嫌な事があったんじゃないか、と今思っています。
 父がお酒をひどく飲むようになったのは、私が中二の夏頃。一日のほとんどの時間を父は自分の部屋で過ごし、そこでお酒を飲んでいました。以前は家族みんなで食べていた夕食にも顔を出すことが少なくなっていました。その頃に、父の様子の変化にもっと気を遣い、もっと話しかけていたら、今でも父はここにいたかもしれません。四年後の今になって悔やまれます。でもその時の私は酔っ払っている父が嫌いで、話しかけるどころか父から遠ざかっていました。秋の終わりには容態が悪くなり、病院嫌いの父も入院することになりました。でもその頃にはもう手遅れだったようです。それでも病院での父は、治そうと必死でした。そして何よりも、家にいてお酒を飲んでいた時よりも穏やかで、生き生きとした顔をしていました。なぜ、その時父の病状にしっかりと向き合って現状を受け入れ、もっと長い時間を一緒に過ごさなかったのか。もっと話をしたかった。そして、もっともっと生きていてほしかった。今はもう、そう思うことしかできません。
 
  尊敬できる人
高校三年 吉田 未央
 
 私が小学校三年の時、父はガンにかかっていました。その時はまだ私には理解できず、入院している父のお見舞いに行きながら、「お父さんは何でずっと病院にいるんだろう。早く帰ってくればいいのに。」
と、思っていました。でも、時がたつにつれ私と二つ上の兄は知り合いの人の家にずっとあずけられるようになりました。父はそんなに悪いのか、と分かりはじめました。母は、ずっと父の世話をしていました。知りあいの人や学校の先生に、お母さんはスゴイえらい人ね、とよく言われるたびに何でだろうと思っていました。しんどい思いをしているのはお父さんなのに、というふうにしか考えられませんでしたが今になっては、いくら夫婦とはいえ、なかなかできることではないなと思うようになりました。私はあんまり覚えてないのですが、母が言うにはお父さんはどんなに痛くてもつらくてもしんどくても、口には絶対ださなかったそうです。しんどくても、私が人形で一緒に遊んで、といえば一緒に遊んでくれるような父でした。何回か少しだけ退院したことがありました。一緒にお風呂に入るとお腹に胸からへその下にまでかけて手術のあとが二つありました。それが忘れられず今でもはっきりと思いうかべることができます。そんなつらい思いをしても母や子供の私たちにはとてもやさしい父親でした。父が亡くなったのは母の誕生日の次の日でした。父は自分でプレゼントを買いにいくことができなかったため友人にたのみ母へのプレゼントを一週間くらい前に買ってきてもらっていました。私はそれを知ったときとても涙がでました。この父と母の子供でよかった、すばらしい生き方を習ったなあと思う事ができました。
 長い年月がたった今、母はたくさんの資格をとり忙しく働いてくれています。兄は医療の大学にいき、私も医療の勉強をしたいと思い、人の役にたてたらと思います。
 
  僕の父
高校一年 越智 真也 
 
 僕の父は仕事が好きで好きでたまらない人でした。今こうやって書いている時でも頭の中には働いている父の姿しか思い浮かびません。会社から帰ったらすぐに田んぼに出て働きます。忙しい時は、夜中の二時から三時ごろまで働いたいたように覚えています。だから僕の記憶の中で遊びに連れて行ってもらったことはほとんどないと言っていいくらいです。でも自然の中で教わったことはたくさんあります。ニワトリの世話をして何日でヒヨコになるかとか、きじを追いかけてころんで血が出た時はどんな草で止血をしいたら良いかとか、ウサギはどんな草を好むかとか、椎茸の菌の植え方とか、その他いろんな事を見てきました。他の子達とは違った父とのかかわりあいをしてきたと思っています。そのおかげで今、ずいぶんと役立つことがたくさんあります。
 その父が何を思ったのか神戸に旅行に行こうと言いました。父の古くからの友人に会うためです。その旅行は今までとは違った楽しさがありました。その一週間後に地震が起こって見覚えのある道が壊れてしまったりして、人間の作り出したものは自然の力の前では何とはかないものかと感じたりしました。
 その次の年の九月に父は仕事に出ていってそれっきりでした。昼過ぎに母が父に電話したそうです。あと一分早く切るか遅く切ると事故にあわなかったのにと母はかなり滅入っていました。思えば運命だったんだと、誰が悪いわけでもないんだと、それは仕方のないことなんだと、今なら母に言ってあげることができます。
 父は、何かの予感がして、あの旅行で僕たちに何か思い出を残したいと思ったのかもしれない…。
 
  私の自慢、そして決意
高校一年 永田 真理
 
 私のお父さんが死んでから、もう十三年ほど経ちます。まだ私が小さかった頃の事なので、お父さんとの思い出は、ほとんど覚えていません。話を聞いていても、何の事だかさっぱり分かりません。でも、私が小さかった頃のお父さんとの思い出は、今となると、私にとっては自慢です。写真には、いつでもどこでも私とお父さんが写っていました。話を聞くと、私はお父さんにいつも甘えてて、お父さんもどこかに出かける時は私を連れて行ったりしてた、と聞きました。こういう話を聞くと、いくら私が小さかったとはいえ、お父さんは自慢です。その反面、とても悲しく感じます。ほんの少ししかお父さんと接する機会がなかったからです。もっとお父さんに長生きしてほしかったし、いっぱい思い出をつくりたかったです。何かお父さんと一緒にやり遂げたかったです。お父さんが死んでからの年月、お母さんが一人で育ててくれ、とても感謝しています。これまで、お母さん一人で、とても苦労をかけたと思います。これからは、今まで迷惑をかけた倍くらい、お母さんを助けていこうと思います。
 
  父が車椅子になってから…
高校二年 山中 晶江 
 
 私の父は、私が中学校二年生の時に動脈瘤の手術をしました。父が、
「胸が痛い」
と、言って病院に行ってから三日目の夜に手術をしました。手術をするまで病院を二回移り、三回目の病院でやっと手術をしてくれるようになりましたがその時にはもう、とても危険な状態でした。手術が終わるのを待ってる間「お父さんが死んだらどうしよう」と。ずっとそんな事ばかりが頭の中をグルグルして、とても不安でした。手術は思っていたよりも早く終わり、父も助かりました。しかし、病院に行ってから手術が終わるまでの時間がとても長く感じました。
 父の命は助かりましたが、手術が遅れたため、車椅子での生活になりました。父は一生懸命リハビリをし、車椅子のまま仕事が出来るようになり、父の車椅子の生活が始まり私も一緒に出かけたりします。そんな時に思うのが、車の駐車場についてです。車椅子専用の駐車場に車椅子でない人が当たり前のように停めているのです。私は驚きました。専用駐車場というのは実際には、名前が書いてあったりスペースをとっているだけのように思えました。父が車椅子になる前まではそんな風に考えませんでしたが、車椅子になってからは、もっとまわりに目を向けるようになり、考えるようになりました。そうすると、他にも私たちは当たり前のようにやっていた事が、たくさんありました。例えば、眼の不自由な人のための道を、端ではなく真中を歩いたりしていました。
 父が車椅子で生活を送るようになっていなかったら、きっとこんな風に考えたりしていなかったと思います。私は、父が車椅子になってから、いろんな所に遊びには行けなくなりましたがもっと大事な事が分かったと思います。それになにより父の命が助かり生きていてくれる事が、とてもうれしいです。世の中には両親ともいない人や、片親だけの人もたくさんいます。それに比べて私はたとえ父が車椅子でも両親ともいる事がとても幸せです。
 これから先、家族を大切にし、もっとまわりの人に目を向け現状を見ていきたいです。
 
 
  私のお母さん
高校三年 藤村 知佐
 
 私は、自分の夢のために今の学校に通っている。だから親と離れて暮らしている。お金がすごく要るのに、いやな顔一つみせず私を応援してくれる。三年間、私は色々なことがあり学校を辞めたい時もあった。でも親は励ますばかり、それがあるから学校を続けられる。後四ヶ月で卒業。まだ苦労かけるけど少し楽になる。私は、就職するから苦労かけた分何かをしたい。考えているけど、内緒でやりたいと思う。
 いつもけんかになるけど、悪気があってしていない。親だから分かってくれて親しか出来ないからしてしまう。もう、高校を卒業するのに甘えちょう。自分の心が強くなれたのは親や周りの人達がいたから。だから強くなれた分これからの出来事に立ち向かおうと思う。けんかをしない様にしていこう。だってけんかは高校までだし、社会に入っていくわけだし、大人への第一歩をもう少しで踏み出すからには、けんかはしない様にしたい。がんばって働いている親がかっこいい。世界でたった一人の親を大事にしたい。
「今までありがとう…そして、これからもよろしく」
と、言いたい。
 
  これから
高校一年 伴野 愛美
 
 私は遺児ではありませんが、三年前の中一の十月二十四日、部活中「父が倒れた」との電話があり、それから母がずっと付き添いで、私と兄と二人で何日間か学校へ通っていました。父は左半身麻痺になり四ヶ月くらい入院していました。今は自分のことはできるようになりましたが、働いてはいません。よその家庭より生活が良いとは思いませんが、兄もアルバイトをしたり、私もできるようになればアルバイトをして、あまり親に苦労をかけない様にしたいと思っています。
 
  大切な家族いつまでも
高校一年 中井 誠志
 
 僕の父は十二年ほど前に脳血栓で入院しました。そういうわけで九年ほど前に仕事もやめてしまい、母の収入とお兄ちゃんの収入とで五人の家族を支えていくのは容易ではなかっただろうと思います。二年前にお兄ちゃんは大阪に行ってしまい、今年の五月に母も定年退職で現在職がありません。けれど、今母はホームヘルパーの勉強をしていて今度は二級をとるように頑張っています。二級をとったら家にもホームヘルパーの仕事にも役立ててほしいです。最近僕は母の苦労がほんの少しではあるけれど、分かってきたので家事の手伝いをちょっとだけしています。父も昔のいろいろしていた頃と違って体重も三分の二くらいに落ち、だいぶやせて、いろんなこともあまりしないでいるので、看病をする側の僕達にとって、ある意味、楽ではありますが、やはりどこにも行けない、連れて行ってあげあげられないということは少しつらいです。僕が十八歳になって車の免許を取ったら、家族と一緒に旅行に行きたいです。 
 
 
 
お母さんの心の声聞いてください
  
 問 今の生活で一番の不安は?
 
・ なんとか食べることはできているが、預金はゼロ。仕事もパートなので将来への保障は何もなく、体力的なことも含めていつまで勤められるか…。
(母 52歳)
 
・ 遺族年金と私のパート収入でやりくりをしている。毎月赤字を出さないようにと思って気を張っているが、たまに情けなくなって、悲しくなる時がある。また、遺族年金が支給されるのは、子供が一八歳になるまでで、一八歳をこえると子供分の手当てがなくなる。そうなると、生活ができるかどうか心配。
 
(母 47歳)
 
・ 家に介護を必要とするものが二人いるので、子供のことが思うようにしてやれないことが気掛かり。
(母 50歳) 
 
・ 三年近く主人の介護をしていたため、貯えもなく、これからの毎日の生活が心配です。
(母 50歳)
 
・ 夫の両親、息子二人、私の五人家族。長男は大学三年、次男は受験生。子供たちのここ一番の時の相談相手になれず、心苦しいことが多々あります。両親、ともに高齢なため、また、義母は身体障害となり仕事との両立がいつまで続けられるか、内心、ハラハラしています。
(母 47歳)
 
 問 仕事、生活に不況で影響していることは?
 
・ ボーナスがカット。正社員に、という話は六年間働いてもなし。いまだ準社員で給料体制が全然違い、手当てはほとんどありません。女の働く力など知れたものだと痛感しています。
(母 45歳 会社事務)
 
・ パート八年目になっても、時給は一円も上がらない。四十時間以上働いても厚生年金の適用がない。
(母 52歳 スーパー店員)
・ 内職をしているが、月々の安定しての収入が望めない。
(母 40歳 縫製)
 
・ 仕事が毎日遅くまで(午後八時~午後九時位)なので、体が大変。
 
(母 45歳 建築設計、営業)
 
・ 離島の小さな村でのホームヘルパーという仕事の収入は、毎月赤字続きです。わずかな貯蓄を崩しながらの生活で、通帳と財布の中が頭の中を離れない毎日で、不安だらけです。
(母 47歳 ホームヘルパー)
 
 
 
 問 子育てに関しての心配、不安は? 
 
・ 子供の一人が今年高校卒業で、車の免許を取りたいと言っていますが、経済的に苦しいので、取らせてあげる事が出来ません。
(母 50歳) 
 
・ 息子が私に話したい事、相談したい事があっても、私に心配かけまいとし、子供心に悩み、苦労をかけているのではないかといつも心苦しく思っています。
(母 47歳)
 
・ 子供が男の子なので、わかりにくいところがある。
(母 51歳)
 
・ 毎日炊くお米は十二〜十六合。食費、教育費はなかなか節約できない部分ですので本当に困っています。また、反抗期の男の子、女の子とも育てるのに相談できるところがありません。一人で考えるのは苦痛です。
(母 45歳)
・ 子供は専門学校に行きたいと言っているが、経済面で思案中。
(母 52歳)
 
・ 生活するので精一杯で、子供がほしがるのは「我慢、我慢」の連続です。
(母 50歳)
 
 問 政治に対して、何か訴えたいことは?
 
・ 中学校も高校も授業料免除の申請をしましたが、育英会の奨学金と遺族年金が入るので免除になりませんでした。子供三人で学校に払っているお金は七〜八万円です。どうやって暮らせばいいのでしょうか?
(母 45歳)
 
・ 家庭の変化に関係なく、子供たちの希望する方向に進めるように手助けしてほしい。
(母 50歳)
 
・ 福祉といっても、老人介護の事ばかりに力を入れていて、夫のような体の不自由になった人の事ももう少し考えてほしい。
(母 42歳)
 
・ 急に病気にかかり、仕事が出来ずに収入がない。こんな時の対処法などもっとみんなに分かるように説明の機会を増やしてほしい。
(母 40歳)
 
 
 
  あとがき
 
 「大変だったんだね」そう声をかけた瞬間、子供はポロポロと涙を流し始めた。抑えていた感情が一気に溢れ出す。
「骨と皮ばかりになってしまったお父さんが怖くて病院にほとんど行かなかった」
「ガンだなんて知らなかった、すぐ病院から帰ってくると思っていた」
父親に何もしてあげられなかったと自分を責め続けている子。自分は幸せになんかなっちゃいけないんだと思っている子。父親がいないことを友達に言えず、仕事で遠くに行っていると嘘をついてしまう子。母親に心配かけちゃいけないから、いつも明るく振舞っている子。親がいないからといじめられている子。
 誰にも言えないことを心にしまいこんで苦しんでいる何十人もの子供に毎年出会う。
彼らは悲しいという気持ちを認めることすらできず、涙も流せないのだ。
 あしなが育英会では毎夏、遺児のつどいを行っている。そこで子供たちはようやく肉親の死というものと向き合うことができる。同じように親を亡くした者同士だから、同情の目や後ろめたさを感じる必要がない。父親の死、遺された母親の疲れた姿などを自分の口から出したとき、ようやく彼らはかけがえのない親の死を認め、悲しさ、寂しさにあらためて気づくのだ。
 病気遺児に奨学金をと訴え始めたのは、およそ十年前。当時私は交通遺児の学生として街頭にたち募金を呼びかけていた。以来、奨学金制度は見きり発車ながらもスタートし、これまで約一万人(災害、自死遺児含む)もの学生が進学できた。しかし病気による死者は依然増え続けており、現在では一年間に生まれる病気遺児の数は交通遺児の七倍にまでなっている。
 病気遺児家庭の経済状況は遺児家庭の中でも最も深刻だ。医療費のために貯蓄を使い果たし、生命保険も解約してしまっていることが多い。ガン遺児家庭千三百世帯の生活実態調査(九八年三月)では仕事で得た月収の平均は十五万二千三百円で一般世帯の三九%。四国ではさらに低いと思われる。母親の多くはパートなどの不安定な職にしか就けず、常に給料カットや解雇に怯えながら必死で子供たちを育てている。食べていくのがやっとで子供の教育費まではとても手が回らない。せめて教育だけは、という思いすら叶えてあげられないのはどんなに切ないだろうか。
 私自身、三歳のときに父親を交通事故で亡くした。片親であることを後ろめたく思いながら、誰にも言えず、必死で働く母親につらくあたっていたこともあった。しかしつどいに参加し、同じ境遇の仲間の中で父の死を話したときから、私は変わり始めることができた。奨学金のおかげで進学もでき、今こうして自分の足で自分の決めた道を歩くことができるようになった。
 これからも遺児は生まれ続けるだろう。彼らには、悲しい思いをしたからこそ幸せになってほしい。そのために、夢を持つための奨学金と素直に涙を流せる場所を作り続けていきたい。
(あしなが育英会 レインボーハウス ディレクター 束田健一)