覚鑁上人の教学

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 上人の教えは あくまでも 真言教学の徹底と実践であり、 ひとえに 「即身成仏」 をなさんがためのものである。 上人の言葉を目にするとき感じることは、 それが、 「常に実践とともにある」 ことであり 「所依しょえの経典に学ぶ」 結果であることである。 学び実践する、 これが上人の第一の教えであろう。

 上人の生きられたのは、 今から考えれば未いまだ迷信の多い時代であり、 皆人は本地仏を頼りこの世を仮かりの世とし、 あの世への逃避しがちな時代であった。 そんな時代にあって、 上人は、

「この世のほかにあの世があるわけではない、 いままさに仏と成れるのである。 時を惜おしんで努力しようではないか。 」

 と断言されるのである。

(弘法大師、 上人に対し、 尊敬の心を文に省略することを、 教相に対する熱意で持って替えさせて頂きますように。 合掌)

 

目次 序) 上人にとって成仏とは

一、 即身成仏の解明

a) 密教の優位性の明確化 (顕教との対比)

b) 仏身観 (成仏の仏とは何か、 六大法身、 法界身、 法界曼荼羅、 新説)

c) 教主義 (どの姿において説法するのか)

二、 実践法の単純化と内観の重視

a) 序 (タイプ別)  b) 五輪観 c) 九字曼荼羅観

d) 阿字観、 月輪観

1 序 2 方法 3 阿字本不生の義 

4 心月輪とは

(ア心とは イ月とはウ心月と世月 エその果)

e) まとめ

三、 時代思潮との対決と傾斜

 1) 阿弥陀如来、 浄土の密教的解釈

 2) 末法思想の否定

 3) 厭離穢土思想の否定

 4) 深信の重視

 5) 一密二密成仏の提唱

 6) あらゆる機根に対する対応

 7) 臨終正念の重視

 8) 密厳国土の展開

四、 むすび

1) 弘法大師との相違点

2) 上人の世界 ア) 境地 イ) 来世観 ウ) 三密とは 

 エ) 行の特徴

3) 問題点

4) 今日的視点序 上人にとって成仏とは 現実に生きられた人間の一生を論じることは、 分に過ぎたことである。 文にとらわれず、 たてまえにとらわれず、 「生きる」 ということに即して考えたい。

 その人の考えを云々する時、 最も大切なことは、 「世界をどのように捉とらえ」 「何を大切にして生きたか」 であろう。

 上人が、 常に考えていたこと、 それは言うまでもなく、 「成仏」 ということである。

「もし臨終の時までに成仏することができなければ、 大日の来迎らいごうに会い、 密厳みつごん浄土に往生し、 かの土にて仏とならん」

 また、

「人も動物もあらゆる生き物は、 師匠、 親族でないことはなく、 輪廻して様々に苦しむ者たちは、 だれ一人として恩をうけていないものはない」 「それらの衆生が皆、 苦しみを逃のがれて、 仏となりますように」 「そのために私は善根ぜんこんを (衆生の) 成仏に回さなかったことはない」

 と言い、

  「諸仏如来といえども、 昔、 修行中は仏を求めて迷うことは、 私と違いはなかった。 ただ仏は努力して仏になったのである」 「他者を救おうと思えば、 自分が暗くては他を明るくすることはできない。 衆生を本当に救おうと思うなら、 静かに黙念して雑務を止やめることである。 先ず一心を磨みがき、 自己の観行をなせ」 と断言される。

 上人にとって、 最大の目的は、 『本来の生き方をする』 ことであった。 「衆生は目の前の様々な事柄に心迷い、 仏という本来我々に備わった生き方を忘れている」 この備わったものを 『菩提心』 『一心』 と言うのであろうが、 この心を開発せよという訳である。

 

 その方法を下記に見たい。

 

一 即身成仏の解明a密教の優位性の明確化  成仏を目指す上で、 では何故、 密教なのか。

 平安時代、 中期以降、 大師教学の解釈、 整理がなされるようになり (済暹さいせん、 教尋きょうじん) 、 その流れを受けて種々の観点より平明にかつ発展させられた。 密教と顕教の対比 (五輪九字秘釈) によると、

密  教

1) 誰が、 何を説くのか

「法身ほっしん説法せっぽう」 「果分かぶん可説かせつ」

法身自らが悟りの境地そのもの (果) を説法する。

(性徳円満海) (迷いながら歩む必要がない)

 

2) 法の現れ方

「常住不変教」

時を超え場所を超え、 行ぎょうを行う時、 即ち成仏が可能である。

 

3) 法の表し方

「遮情しゃじょう、 表徳ひょうとく、 具ともに説く」

現実における仏としてのあり方を積極的に説く。

 

4) 我々と仏との距離

「一生証仏道」

仏の法を直に聞き、 三密をてだてとして、 この身ながらに成仏できる。

「機根きこんによらず成仏する」

煩悩や罪をひどく背負ったものでも成仏できる。

顕 教

 

「不説、 不可説」

法身自身は説かない、 悟りそのものは説かれず、 機根きこん(立場、相手)に応じて悟りへの道筋(因分)が説かれる。 (修行種因海)

(歩むにつれて道が見える)

 

「正像末の興廃こうはいあり」

正法、像法、末法あり。 釈迦如来の出現、阿弥陀如来の来迎など。

「遮情門を説く」

基本的には人間性を否定したところに仏が有るという立場から、 煩悩の否定としての仏を説く。

 

「三劫さんごう成仏」

凡夫と仏とは、 計り知れない道のりで隔へだてられている。

「重障じゅうしょうを具ぐすれば仏を見ず」

修行により次第に煩悩を少なくしていくのだから、 今、 段階の低いものは、 仏を見ることができない。

密 教

「五誓ごせいを立てる」

五智五仏の三昧に住さんとする。

〔衆生無辺誓願度〕 衆生の菩提心を開発し、 阿しゅく如来、 大円鏡智だいえんきょうちの三昧の成就を願う。

〔福智無辺誓願集〕 福徳、 智恵の二徳を積み、 宝生如来、 平等びょうどう性智しょうちの三昧を得んとする。

〔法門無辺誓願学〕 法を学び、 阿弥陀如来、 妙観察智みょうかんさっちの三昧を成就せんとする。

〔如来無辺誓願事〕 自利利他の三密行を完成して、 不空成就仏、 成所作智じょうしょさっちの三昧を得んとする。

〔菩提無上誓願證〕 究極きゅうきょく無上の仏果を證しょうして大日如来、 法界ほっかい体性智たいしょうちの三昧を得んとする。

「唯ただ呪じゅを誦じて成仏す」

 如来の三密である真言を成すことによって即身成仏の道が開ける。 というより如来の行ぎょうを行うことはそのまま仏であることになる。

「理事不二りじふに」 「理事倶同倶別り じ ぐどうぐべつ」

5) その他

「四印」 (四種曼荼羅) 「五智」 「三密」 「両部」 を説く。

顕 教

「四弘誓願し ぐ せいがんを説く」

四聖諦を成就せんとする。

〔衆生無辺誓願度〕 苦諦くたいを成さんが為

 

〔煩悩無辺誓願断〕 集諦を成さんが為

 

〔法門無辺誓願学〕 道諦を成さんが為

 

〔仏道無上誓願成〕 滅諦を成さんが為

 

 

 

「智観にあらざれば仏を見ず」

事 (現象、 現実) の背後にある理 (真理) を悟らなければ仏にはなれない。

 

「理一事多りいつじた」

b仏身観  (めざす仏とは何か、 新説)  以上は、 密教を他と比べての特徴であるが、 教の中心である大日如来とは何か、 について、 上人は新説を立てられる。

1)六大法身〔大日如来とは何か、本体として〕

 上人の思想を考えるとき、 キーポイントとなるのは、 おそらく、 この 『法身説 (六大法身ろくだいほっしん、 法界身) 』 と 『菩提心説』 と 『信相応しんそうおう説』 であろう。 中でも、 この法身説は、 思想の根幹こんかんをなすものであり、 上人の世界観をあらわす。

 弘法大師は六大 (地、 水、 火、 風、 空、 識、 つまり、 この世を構成しているもの) は法身の体 (三大=体、 相、 用の体、 本体、 構成体) であるとし、 六大能生、 六大能造といい、 六大は法界体性であると考えた。 弘法大師は、 「六大が」 四種法身と三種世間を作り出すと言い、 大日法身でさえも六大によってできているとする。 ここにおいて、 大日如来とは、 存在そんざいの一形態ということになる。 少なくとも、 大日如来が、 六大を作り出すことは考えられず、 六大のあり方が大日如来であったり、 我々であったり、 山川草木であったりすることとなる。 ここにおいて、 弘法大師は、 我々の本体は、 大日如来の本体と同じであって、 この身に即して成仏できるのであるとする。 付け加えるならば、 大日如来と我々が異なるところは、 我々が六大=存在の何たるかを良く知らないのに対し、 大日如来は、 存在自体を動かせる精神と鍵かぎを心得ていることであろう。 我々は、 六大に遊ばれているのであり、 大日如来は、 六大を操あやつることが出来るのである。

 無難ぶなんな言い方をすれば、 弘法大師は、 仏も六大でできており、 衆生も六大でできており、 体たいとしては同じであるから即身成仏が可能であると説いたのである。

 ところが、 上人は、 「六大はそのまま法身である」 としたのである。 こうなると、 「六大」 即ち、 「あらゆる存在」 が法身大日如来ということになる。 つまり、 六大で出来ている我々は、 そもそも大日如来に他ならないこととなる。 ここに、 我即大日如来が確立されるのである。 こうして、 衆生は生まれながらに仏であることになるが、 我々は煩悩の塵ちりによってその真実を隠されているのであり、 この塵を除けばよいのである。 但し、 上人は、 我々のこの心がそのまま仏心であると言うのではなく、 我々の意識の底に 『菩提心』 というのがあって、 『菩提心』 が出現するように無念無想に住せと言うのである。

 菩提心こそは、 大日如来の心であって、 我々はこの心の出現を待って、 全すべてをこの心に任まかせることとなる。 面白おもしろいことに、 『我即仏われそくぶつ』 と言いながら、 我々が最も望んでいる 「この世の楽しみ」 は一切止やめよと言う。 『我即仏』 の 『我』 とは、 我々の六大や菩提心のことであって、 我々の煩悩や小欲では決してない。 我々には想像もつかない世間外の事を言っているのである。

 

 弘法大師は、 『成仏は、 我が身そのものに可能性がある』

  といい、

 上人は、 『成仏は、 我が身の内に既すでにある』

  という。

 この考え方により、 上人の修行方法は、

  『悟りとは次第に完成させていくものである』 という考えではなく、

  『既に備わっている完全な悟りを、 露顕ろけんさせさえすればよい』 ということへ向かう。

(但し、 「四大所造の月は壊れる」 と言い、 この場合、 識大を含まないものは、 いったい大日如来と呼べばいいのか、 何と呼べばいいのか分からない。 識を含まないものはない、 という一方、 識を含まない非情 (物) を想定しているのか、 不明な点がある。 )

2) 法界身 〔大日如来の現れ方は〕

 自性じしょう身、 受用じゅゆう身、 変化へんげ身、 等流とうる身、 の四身に法界身を加えて五種法身とする。

 理由としては、 『分別性位経』 に、

「自性及び受用化身とまた現化 (等流身) とは、 仏徳三十六にして皆自性の所成なり」 つまり自性身から等流身まではすべて仏の徳の一つ一つであって、 いずれも自性身によって出来上がったものなのである。 だから、 この全体こそ法界身とし大日如来なのであるとする。

 また、 金剛界禮懺に 「自性身は阿〇しゅく仏、 受用身は宝生仏、 阿弥陀仏、 変化身は釈迦仏とし、 中央の大日如来を常住三世浄妙法身」 としていることから大日如来=法界身と考えて法身を五身数えるのである。

 考えるに、 仏教史において法身とは理念としての仏、 或いは、 この世に仮の姿をして出現するための、 本地仏 (永遠普遍の仏) としての仏として言われたのであるが、 上人は、 即そく事而真じにしん (あること、 起こることは、 すべて事実であり真実である) の立場から、 現実の中に仏を見、 その仏の一つ一つは別々の名称や特徴を持っていても、 いずれも仏であり大日如来であると考えられたのではないか。

3) 法界曼荼羅 〔大日如来の悟りの姿は〕  大、 三、 法、 羯の四種曼荼羅に、 法界曼荼羅を加える。 法界曼荼羅とは大日如来の曼荼羅とする。

c教主義 古義では本地身説、 新義では加持身説をいうが、 上人の説が、 どちらであるのかは明瞭めいりょうではない。

 例えば、 「大日、 往昔の悲願に報いて加持の門に入り、 因位の本誓ほんぜいに答えて等流身に出でたもう」 とありどちらとも考えられる。

 

二、 実践法の単純化と内観の重視a) 序 上のように、 大日如来と衆生を捉える結果、 おのずと、 実践法は次の二タイプになる。

1) 『我即仏』 の真理を隠す心の迷いを除く方法。

月輪観、 阿字観

2) 大日如来の真理を直接に観じて、 悟りを強化する方法。 五輪観、 阿字観

 これに加えて、 大日如来の加持力と阿弥陀如来の本願ほんがんによって、

3) 深信による浄土往生

が説かれる。 1) に徹すれば、 禅宗に進み、 3) に徹すれば浄土宗に進むことは明らかであり、 禅宗的な、 無為自然にして面目躍如な気分と、 浄土宗的な、 はからいを捨てて既に仏のふところに入るような面が見られる。

b) 五輪 (五字) 観  「五輪門を開いて自性法身を顕す」 (五輪九字秘釈) とあり、 上人は、 この五輪観によって、 即、 無上の仏果が得られるとする。 五輪すなわち大日如来であり、 五輪観を行うことは、 即、 我が大日如来となることである。 五輪とは五字、 五大、 五臓であり、 まず、 五字の意味を説明して真理を観念することを説き、 次に、 五大とは五智であり、 五臓 (内蔵) に当てはまることを説き、 身体と五大とを重ね合わせて、 我即大日であると観念することを説くのである。

五字の義

  「一字門に諸義を含す」 と言い、

「あ」 − 「本不生の義、 地が万物を出生するように 「あ」 字大地は堅固な大菩提心であって、 六度万行を出生し必ず万徳の果を結ぶ。 生長の義である。 」

「ば」 − 「出過語言道、 無碍げ三昧即不思議解脱である。 「ば」 字水大はよく煩悩の塵垢じんくを洗って心身精進して菩提の万行を散乱しない。 不散の義すなわち性徳円満海である。 」

「ら」 − 「諸過得解脱、 六根を浄める義、 火の如くよく業煩悩の薪まきを焼いて、 六根の罪障を浄除して菩提の果を證す。 」

「か」 − 「遠離於因縁、 三義 (因業hetu、 損減una 、 吾我mama不可得) の義、 また三解脱門 (空、 無相、 無願) である。 風大の如く 「か」 字風大も八万の塵労を掃いて四涅槃の理を證す。 因縁の風止息する時是を大涅槃安楽と名づける。 」

「きゃ」 − 「知空等虚空、 周遍法界等空無碍の義、 空大の万有を障らずして生長するが如く 「きゃ」 じ空大も浄穢の国に遍じて凡聖の依正えしょう (有情と世界) を成す。 」

 

 この五字真言によって父母所生の身で成仏できると説く。

(地とあ字大地、 風大とか字風大、 空大ときゃ字空大を区別しているということは、 上人も、 五大がそのままで仏であるとは考えていなかったのであり、 真言を介在かいざいしてはじめて五大が仏の力を発揮はっきすると考えていたと思われる。 )

 また、

 一切衆生の色と心は実相においては、 無始より毘盧遮那仏の身と平等である。 (ここまでは大日経疏) この色は開けば五輪となり、 心は識大である。 これは則、 六大法身であり法界体性智である。 ・・・色は心を離れず五大は即五智である。 心は色を離れず五智即五大である。 色即是空なれば万法は即五智、 空即是色なれば五智は即万法である。 色心不二なるが故に五大は即五臓 (肝臓、 肺、 心臓、 腎臓、 脾臓) である。 五臓は即五智である。

 上人は、 このように考えて、 五大と、 五字と、 五形と、 五臓と、 八識と、 五智と、 五仏と、 五転と、 五方と、 五行と、 四季と、 五色との不二を説くのである。

 すなわち、 宇宙と衆生 (私) と仏が同じように成り立っているとする。   下図の如し。

 このように五輪曼荼羅を開き、

「ここによって、 弟子 (上人) この秘訣ひけつを聞くことを得る、 深く信じて多年にこれを修し既に初位三昧を得た。 」

 と断言される。

 五輪観は単に、 五字の真理を観得するだけではなく、 五臓、 五行といった当時の医学、 科学の真理をも導入している。 五字はどちらかというと心の問題と言える。 一方、 五行は宇宙の活動を表し、 五臓は五行による人体内部の活動を表す。 ここに明らかに、 〔仏=心、 仏=宇宙、 仏=人体〕 の思想が見える。 上人は、 『弘法大師が、 六大よく四種法身と曼荼羅と三種世間とを生ず』 と言われたことを、 前進させて、 当時の科学を導入しつつ、 体の成仏をも解明しようとしたのである。  この成果についての賛否は分かれようとも、 上人の即身成仏せんがための熱意に尊敬なくしては居られない。

c) 九字曼荼羅観 阿弥陀如来の小呪、 おん、 あ、 みり、 た、 てい、 ぜい、 か、 ら、 うん、 九字の句義と字義を観ずることにより往生し得ることを示す。 (しかし、 『一期ご大要秘密集』 には 「な、 もう、 あ、 み、 た、 ぶの六字を唱え出す」 とある。 )

d) 阿字観 月輪観1) 序  「即心成仏の道に二なし。 只阿字門なりと判じたまえり」 (興教大師選述集、山喜房、上P226) と言い、

  「心月輪観は、 万行の尊主、 諸度の帝王、 出凡の正門、 入仏の直道」 (同、上P239) と言われるから、 上人が、 この観法を重要視していたことが分かる。

阿字観 月輪観とは

  「それ菩提心と申すは阿字観なり、 阿字観とは本不生の理、 本不生の理とは諸仏の心地なり、 諸仏の心地とは一切衆生の色心の実相なり、 これは我が一心の心なり。 この心蓮の上に、 一の阿字あり。 字変じて月輪となる。 月輪はすなわち我心起菩提心の形なり。 一切衆生ないし無心の草木、 皆悉ことごとくく備わりたり。 」 とあり、

 阿字は我々の心に備わる 『浄菩提心』 をさし、 根本的には我々が仏となんら変わらないことを示す。 この阿字= 『浄菩提心』 を、 自分の心に感知し、 また、 全世界にあまねく広がっていることを、 体験的に実証し、 生活そのものにおいて、 常に開発せよというのである。 阿字はすなわち仏の基盤=菩提心を顕し、 月輪はその菩提心の姿を表して、 菩提心の開発、 発展を示すのである。 してみれば、 『阿字観』 とは世界と自分と仏とにあまねく行き渡る 『成仏の可能性』 = 『阿』 (月輪や菩提の種子) を確認し自身に呼び戻す実践であり、 『月輪観』 とは、 その呼び起こされた 『成仏の可能性』 = 『菩提心』 を生長させ、 成仏を実現するための、 行なのである。

2) 阿字観 月輪観の方法  『阿字観儀』 『阿字観』 等に、 次のようにある。

  「先ず、 一肘量の月輪の中に八葉白蓮を書き、 その蓮の上に金色の阿字を図すべし。 ・・・先ず、 普礼、 着座、 塗香、 護身法、 結界、 発菩提心呪、 三摩耶戒印呪、 五大願、 五字明百遍、 数息観、 法界定印にて観をなす。 ・・・」

  「閉目開目、 一向に阿字に注ぐべし。 我が心月輪の中に、 本有法然の阿字あり。 これ本不生の義なり。 上かみ、 自性法身より、 下、 六道四生ないし土木瓦石に至るまで、 この本不生の理を備えざるはなし。 ・・・能観のうかんの心と所観しょかんの阿字と本来無二一体と観ずべし・・我が心月輪の阿字、 出息として外に出て他を度し、 ・・・諸仏の阿字、 我が心に住す、 かくの如く、 出息入息、 無始以来増減なし。 ・・・一切衆生の本不生の理も、 諸仏の本不生の性も終に我が心に収め、 息を臍へそより鼻の前のほとりにとおし、 出入の息を阿阿と唱念すべし。 ・・・・されば受生最初の阿と唱え出ていらい 「阿」 と悦び 「阿」 と悲しみ、 何に付けても阿と言わざることなし。 これ法性具徳の自然道理の種字なれば、 善悪諸法、 器界国土、 山河大地、 沙石鳥類等の音声に至るまで、 皆これ阿字法爾の陀羅尼なり。 ・・・・ただ一心に阿阿と唱うべし。 」

 さらに月輪観を行うに、

  「阿字は月輪の種子なり、 月は字阿の光なり」 と言い、

  「月輪の自性清清なるが故に貪欲の垢を離れ、 月輪清涼なるが故に瞋恚じん し の熱を去り、 月輪光明の故に、 愚痴の闇を照らす。 かくの如く三毒自然に離散すれば、 湛然たんねんとして自ら苦しむことなく、 大安楽解脱を得るなり。 始め月輪の一肘量を観じて後、 漸漸舒のべて、 三千世界ないし法界宮に辺満せしむ。 この時、 阿月をも忘ぼうじ方円の相をも忘じ、 自おのれの身と心とをも忘じて、 全まったく無分別に住す。 ・・・出観しゅっかんと思うときに、 一肘量観、 つづめて自心の胸中に収めて衆生を利せんがために、 大悲門の世界に住して出定すべし。 ・・・真実にこの行を成就せんと思わば行住座臥ざが、 浄不浄を簡えらばず、 間断なく一向にこの三昧に住し、 余念を生ぜず相続して、 退屈心なければ、 必定して現生に自然無上の大法成就すと思い、 努努疑念を生ずべからざる者なり。 」

 

 ここに明らかなように、 〔阿字観とは阿字本不生の義を、 我が心に出生し、 世界に広げる行〕 であり月輪観とは 〔我が心に月輪を無限に広げ、 無分別に住す行〕 である。

3) 阿字本不生の義  「真言念誦とは一向に字義を観ずるなり」 (鑁字密観) と言い、 ただ真言を唱えるだけではいけなく、 その意味を観じなくてはならないと言われる。

ア) 遮情の義、 1) 「一切の有為有漏ういうろの無明染法むみょうぜんぽうは本より以来、 自性空無にして、 不生なり」

2) 「一切の無明妄想の分別執着より生ずる諸法は、 皆、 悉く、 自性空無にして、 不生なり」

イ) 表徳の義、 1) 如実知自心の義、 自分の心の本質を見る

2) 衆生は究竟 く きょうじてこれ仏なりと見る義

3) 一実境界きょうかいの義、 「事も心も理より生ぜずして仏の身語の二密なり、  理もまた事より生ずるにあらずして仏の意密の智なり

4) その他、 自性清浄の義、 三句の義、 三諦の義、 など

 阿字観とは単に阿を唱えることではなく、 以上の意味を体得しなければならない。

 

4) 心月輪とは (秘釈)

ア) 心とは、 1) 秘密荘厳の宝蔵、 瑜伽輪円の金場、 諸法能生の所依、 万徳所帰の能説。

「人あって善と悪とをなさんと欲するに、 必ず先ずその心を標して、 而しこうして後にその行を行ずるがごとし」

つまり、 成仏の鍵かぎは心に有るということ、 心の開発次第で仏になることは可能であるというのである。 心以外に仏を求めてはならない。

但し、 ここで言う心とは、 我々が生まれながらに備え持っている 『菩提心』 のことであり、 一般に我々が思っている 『心』 のことではない。 あれが欲しい、 これがしたいと思い、 なしとげては喜ぶ世間心ではない。 私に潜んでいる仏心であって、 ある意味では私とは別物である。

イ) 月とは、

1) 一心の義、

万法不二の源、 一心平等の本なり。

明照、 除暗、 離迷の義、 不二一心は無尽の理事、 無量の心智。

「もしこの満月を観ずれば大日を念ずるなり。 広くは、 万法を観じ、 遍く諸仏を念じて、 万行を修するなり」

2) 両界の義、

色心の諸法尽ことごとくこの門に摂せっし、 福智ふくちの万徳こぞってこの重に入る。 種子を阿字に得るがゆえに胎蔵といい、 体性を鑁水に成ずるが故に金剛と名づく。 「この月輪を観ずることあらば自ら彼の両部の 行法を修するに成る」

3) 三密の義、

「三密の万行まんぎょうは悉く一月に入る」

4) 四曼の義、

「真俗の万行、 内外の諸法、 悉くこれを満月に摂す」

5) 五部の義

〔仏部の覚照〕 −衆徳満ち、 群類に辺す、

〔金剛部、 菩提心門〕 暗冥を破り邪道を捨て正道に向かう

〔摩尼部、 福徳門〕 欠少を離れ渇願を満たし他を愛喜させる

〔蓮華部、 智恵門〕 清浄無垢、 照明破暗、

〔羯磨部、 大精進門〕 常進不退、 業用円満

(また五智を成す、 上P251)

6) 六大の義

 

つまり、 心を月の如くに保つとは、 上の如くのさまざまな徳を心に備えることに他ならない。

 

ウ) 心月と世月

「一切の諸境を縁ずるなかれ、 仮に一の円明 (心月) のなおし浄月 (世間の月) の如しと想へ」 「月 (世月) は四大所造にして壊れ去るとも、 心月は壊れ去らざる」

心月とは即ち菩提心である。

心月の種類1) 能有の仏尊には差別ありといえども、 所具の心月は殊異なし

2) 本尊を大日とすれば、 法界体性の浄菩提心を心月輪となす

本尊を阿〇とすれば、 円鏡蔵識の浄菩提心を心月輪となす

余尊の場合は、

 1) 法界智 2) 円鏡智 3) 当部の智

エ) 心月輪観による果

「よく熟せば、 一切の妄想、 貪瞋癡等の一切の煩悩、 断除を仮らずして、 自然に起こらず。 性、 常に清浄なり」

「この三摩地を修する者は一念に三祇ぎを超え、 一生に定んで三身を証す」

( 「諸仏如来 (といえども) 昔、 因地にあって本法身に迷うこと、 我と異なることなし。 しかれども大精進を発して、 すでに正覚を成したまえり。 我、 今、 いかんぞ、 淤泥おでいを貪恋どんれいして正行を起こさざらん」

「また、 深秘の行観あるべし、 紙に染める事あたわず。 法によってこれを行へ」 )

d) 実践法のまとめ上人の修行を段階的に考えるならば次のようになろうか。

1) 先ず、 我即大日如来であることを知る。 もともと私も衆生もはたまたこの世界もすべてが大日如来であることを知る。 また、 その鍵が、 心=菩提心という意識の下 (意識されない所) にあるものにかかっていることを知る。

2) 次に、 この真理を妨げている迷い、 欲望の対象、 意識の散逸をなくす。 心を真っ白にし、 無念無想、 無分別に住す。

3) ここで、 始めから備わっている菩提心が発動するはずであるが、 不十分な場合は、 2を繰り返し、 次には、 大日如来=悟りそのものをダイレクトに観ずる。 真っ白な心に悟りの世界をそのまま写し取るのである。 (写す又は移すといってもそのことによって、 菩提心が明らかに現れるということである)

4) しかし、 衆生はいずれ死ぬのであり、 この時こそ、 世界の力である仏の加持力、 本願力を信じ、 信によって我と仏が引き合うことによって、 浄土への往生が約束され、 、 悟りへの飛躍的向上が約束される。

 

 多少、 恣意 し い 的ではあるが、 このようにまとめられるのではないか。 ここで一言、 上人の方法はその原理よりはじめて、 極めて個人的な行法であり、 他人との交渉を全く欠いたものであるといえる。 内観の聖者とはこの故に言われるのであろうが、

 極論すれば、

『悟りは各個人の小宇宙の内部で完了できる』 とする思想と言える。 大日如来のみが、 種種の宝を雨降らすことが出来るのであって、 我々にできるのは、 自分に持つ菩提心を発掘することに限定されることとなる。 衆生の具体的苦しみというものが、 どのようにして解決されるのかについては問題が残る。

三) 時代思潮との対決と傾斜 法身説法といえども人々に訴えるには、 言葉を借からざるを得ない。 時は、 既に、 浄土信仰に覆おおわれつつあり、 末法まっぽうという時代感覚とともに、 浄土と穢え土 (仮の世) という場所感覚によって、 世界観が彩られていた。 上人は、 真言宗の見地より、 これらの人々に対して語るのであり、 この点、 現在の言葉とは多少趣おもむきを異とすることを考えねばならない。

 既に、 法界身の項で示したように、 上人の考えの基本は 『普門大日如来』 = 「あらゆる仏なるものは、 すべて大日如来なのであり、 ありとあらゆるものに仏の種子=可能性がある」 であって、 「諸事はすべてこの理そのものであり、 この理は事そのものである」 というのである。

 更には、

「魔の三密と我の三密は本来平等であり、 様々な魔物と諸仏とは同一の法界である」 とまで言い、 世界がすべて大日如来の法界であることを徹底てっていしている。

1) 阿弥陀如来、浄土、の密教的解釈 阿弥陀如来は、 大日如来の 『徳』 の一つであることを示す。 また、 極楽浄土とは大日如来の浄土世界の一つであることを示す。

  「顕教には釈尊の外に弥陀あり 密蔵には大日すなわち弥陀 十方浄土は皆これ一仏の化土 一切如来は悉くこれ大日なり 毘盧・弥陀は同体の異名 極楽・密厳は名な異ことにして一処なり 妙観察智の神力加持をもって 大日の上に弥陀の相を現ず」 (五輪九字秘釈)

 大日如来は普門であり、 阿弥陀如来はその一つの門である。

  「安養都率は同仏の遊處ゆうしょ、 密嚴華蔵けぞうは一心の蓮臺れんだい。 惜しい哉、 古賢は難易なんいを西土に諍あらそう。 悦しい哉、 今いま愚ぐ、 往生を當處とうしょに得る」

2) 末法思想の否定  「正像末の異なりを論ずることなく、 之を修する時、 是すなわち正法なり。 悉地時を簡ばず、 信修、 是れ時なり」 (五輪九字秘釈)

 しかし、 「仏法の流伝に正像末の時別れ・・・ゆえに時はこれ末法なり、 悉地成じがたく人は薄福なり、 災厄発おこりやすし」 (興教大師選述集、下20頁) とあり、 上人は、 いつの世も法身説法には変わりがなく、 これを聞くものに問題があるというのである。 上人は本覚ほんがく思想に立つにもかかわらず、 本人自身は常に修行の道程にあると考えていた。

 

3) 厭離穢土思想の否定

      (ただし阿弥陀の誓願を信じる)

「彼の極楽は何れの処ぞ、 十方に遍ぜり。 観念の禅房、 豈あに異い処しょに有らんや。 此の如く観ずる時、 娑婆しゃばを起ずして忽たちまちに極楽に生ず。 我が身弥陀に入りぬ。 弥陀を替えずして、 すなわち大日となる。 吾が身大日より出ず。 是すなわち即身成仏の妙観なり」 (一期大要)

  「己身の外に仏身を説き、 穢土の外に浄刹じょうせつを示すが如きに至っては、 深著の凡愚ぼんぐを勧め、 極悪の衆生を利せんがためなり」 (阿弥陀秘釈)

  「娑婆を厭いとって極楽を欣よろこび、 穢身を悪んで仏身を尊ぶ。 是を無明と名づけ、 又妄想と名づく。 縦たとい濁世末代なりと雖いえども、 常に平等方界を観ぜば、 豈あに仏道に入らざらん」

 これらの言葉を聞くとき、 上人が、 今まさに、 時を惜しんで修行する姿を思い浮かべずにいられない。 この今ある自分にこそ成仏の鍵はある。 他を探すなという。

4) 深信の強調 (唯信相応の成仏)   「信」 と相応して行えば、 能力が足りなくて、 三密のわずかしか出来なくとも、 成仏できるとする。

  「深智なしといえども唯だ信と相応し、 唯だ誦し、 唯だ結し、 唯だ纔に観する時、 ・・自ずからこの密誦の明力観念力の故に清浄となる」 (五輪九字秘釈)

  「高く大日の悲願を仰ぎ、 深く弥陀の本願を信ぜば往生 (現身または順次 〔来世〕 ) の異路なし」 (五輪九字秘釈)

  「いかなるをや深信という。 謂いわく、 久久に修行して法験を得ずと雖も、 疑慮りょを生ぜず、 退心を生ぜざるなり。 ・・・或いは本尊、 行者を試さんが為の故に、 ・・・或いは宿障が重深なるが故に、 ・・・或いは魔、 妨をなして覆蔽ふくへいするが故に、 ・・・疑い怠るべからず」 (末代真言行者用心)

 

 これは、 『嘆異抄』 の

「往生が決まれば、 天に踊りて喜ぶべきはずなのに、 喜ばないからこそ益々往生は一定と思うべきなのである。 喜べないというのは煩悩の成すところだからである。 そういえば、 仏は煩悩具足の凡夫と言われるだから、 他力の悲願は我等のためと知られて、 いよいよたのもしく思われる。 」

 に比べて興味深く、 『信』 の強調とともに、 その背景に密教教理に対する 『不信』 の広まりが考えられる。 5) 一密二密成仏の提唱 大日如来の加持力を 『深信』 し、 その信と相応した行であれば、 一密であれ二密であれ成仏できるとする。 但し、

  「彼の二行一行等に依って成仏するとは 是れ正成仏の時に非ず 亦余の二行を修する不思議の加持力に由るが故に忽に余の二密等を出生して三密等を出生して三密具足して即身成仏するなり」 (五輪九字秘釈) とある。

6) あらゆる機根に対する対応 上図のように、 いかなる者であっても、 この真言の門において、 成仏が出来るのであると説く。

 特に、 それぞれの機根に応じた方法を明らかにしている。

 ただし、 決してあってはならないこととして、 非順因を挙げている。

非順因 (順次往生を妨げるもの)  

a他人の見聞を思い 仏陀の知見を信じない b他人の恭敬くぎょうを求めて 後世の苦行を作なす c名利をもって法華経等を読誦する d名聞の持戒 e自是非他 f十念の順因を別時意趣とする g顕密の行業 自を執り他を非す h弥陀弥勒の行者互いに是非を為す

7) 臨終正念の重視  「一期の大要は最後の用心にあり。 ・・・若し最後臨終の軌儀に依れば、 破戒の僧尼も必ず往生することを得」 とある。

 しかしながら、 次のことを強調する。

〔一〕 身命を惜しむべきこと 〔二〕 身命を惜しまざること 〔三〕 本住処 (名利を離れる) に移ること 〔四〕 本尊を奉請すること 〔五〕 業障を懺悔すること 〔六〕 菩提心を発すこと 〔七〕 極楽を観念すること 〔八〕 決定往生 (臨終) の用心 〔九〕 没後追修 (供養) の用心

8) 密厳国土の展開 大日如来の浄土 「密厳国土」 がいかなるところであるのかを、 詳しく記述している。 これは弘法大師には見られなかったことであり、 源信僧都の 『往生要集』 の影響を受けた時代の要請によるものであろう。 (密厳国土略観)

 

四) むすびa) 弘法大師と上人の教えの比較 もし、 弘法大師と上人の教えを比較することが許されるならば、 その根本的な違いは次の二点であろう。

ア) 我々の身 (心と体) というものが仏 (大日如来) と同じかどうか。

 弘法大師は、 同じ素質を持ってはいるが (六大所造) 、 それを生かすのも苦しめ会うのも三業 (身、 口、 意) が、 三密 (仏の身口意) として実働するかどうかにかかっていると考えた。 体 〔成り立ち〕 としては仏と同等であっても、 相 〔現れ〕 や用 〔働き〕 は実現されたときに始めて仏となると考えた。 六大は無碍むげにして瑜伽ゆがしている=世界は流動的に変化しつつまとまりを持っているのであって、 その意味では仏でも衆生でもない。 但し、 衆生には、 菩提心という目覚めの心が必ず芽生えるはずであるから、 その心によって働きが制御されて成仏が可能なのである。

 一方、 上人は、 六大法身=世界を構成するものがそのまま仏である。 法界身=衆生も仏の身である、 衆生も仏の一つの姿である。 つまり、 衆生 (おそらく物体も) は仏と同じであると考える。 或いは、 衆生は仏の一部分であると考える。 少なくとも、 衆生は、 仏と寸分違わないもの (=菩提心) を持っていると見る。 だから、 自分から自分の活動を制御することなく、 我即仏を確認するか、 我に内在する仏を顕現しさえすればよいこととなる。

 おそらく、 弘法大師が、 我即仏と言う時には、 自分の心と行いが、 まさに仏と同じになる可能性があるからこそ、 細心の注意と努力で持って、 自分の心と行いをまさにあるべき姿に近づけたと思われる。 そして、 即事而真、そくじにしん つまり自身によって現実にあらしめた事実のみが真実であるという考えを持っていたと思われる。

 上人は、 そもそも真理の中にある、 或いは、 自分の本質は真理であるという考えに立っていて、 自分がその真理を形作かたちづくるのではなく、 真理がすべてを解決するというような考えではないかと思われる。

 さらに、 弘法大師はこの世をいきいきと活動する世界と考えていて、 その活動自身が実の世界と考えている。 つまり、 真実の世界と、 虚構の世界を区別しない。 あるがままの世界が唯一の世界であり、 正しく活動する可能性を充分持ちつつ、 苦しみ痛みつつあるのが事実であり、 一瞬一瞬に 〔衆生の事実〕 が 〔仏の事実〕 へと切り換えられることを待っているのである。

 上人は、 この世はすべて大日如来であるというにもかかわらず、 悟れば仏、 迷えば衆生といい、 衆生が迷い苦しんでいることは、 虚偽の世界であり、 真実の世界と虚偽の世界を区別するのである。

 

イ) 仏と自分との関わりについて

 弘法大師の考えは、 仏とはこの世界の成り立ち、 構造、 動き、 の可能性やあり方をいうのであって、 仏という実体が世界に辺満していたり、 自分に内在ていたりするとは考えないから、 自分が実現しないものが、 他から訪れたり、 突然起こったりするとは考えない。 確かに、 真言を用い、 呪力を唱え、 不思議を行おうとしたりするが、 これは、 存在のしくみへと立ち入ろうとするのであって、 存在自体に何かを期待するわけではない。

 弘法大師は存在の総体を仏と考えるのである。

 一方、

 上人は、 信によって仏が力を発揮すると考える。 何か実体としての力を期待するのである。

 以上の結果として、 弘法大師は、 三密を完成すること、 つまり、 実生活を仏の生活にすることが成仏であるとし、 聖人は、 仏に相応すれば (仏という実体と結合していれば) 、 何をしていても仏であるとする立場へ道を開くのである。

b) 上人の世界 次に、  少し、 自由な立場で、 上人の世界を考えてみたい。

ア) 聖人の境地

  「彼の極楽は何れの処ぞ、 十方に遍ぜり。 観念の禅房、 豈異処に有らんや。 此の如く観ずる時、 娑婆を起ずして忽に極楽に生ず」 「娑婆を厭って極楽を欣び、 穢身を悪んで仏身を尊ぶ。 是を無明と名づけ、 又妄想と名づく。 縦い濁世末代なりと雖も、 常に平等方界を観ぜば、 豈仏道に入らざらん」

 このように言われるとき、 既に救われているという感じがする。 また、

  「心、 常に仏境に遊ぶ、 身何ぞ迷にとどまらん」 と言い、 常に仏に向かい合っていれば、 そのことだけによっても、 仏の世界にある安心の心持ちが伝わってくる。

 他ならぬ上人が、 「さらに心の作仏をなすなかれ」 と言えば、 すでに 『菩提心』 が現れたような気持ちになり、 「一念の阿字に超え」 と言うと、 真理の世界に包まれたように思われるのは何故か。

 上人ほどに、 常に、 仏に向かい、 仏のふところに入って行を安んじた人はいないのではないか。

 

イ) 聖人の来世観

  「月も生滅なく、 心も為作を過ぎたり。 ・・・この土の縁尽きて、 他刹に移るといえども、 これ実の滅にあらず。 他境の化畢おわって、 この界に来といえども、 また真の生にあらず。 仮に去来を現ずれども、 実には去来なし。 ・・常如不変なり」 (興教大師選述集、上P262)

 ところが、

 この世で、 もし、 成仏を遂げられなければ 「大日の来迎に預かり、 遍照の引接を感ぜん」 そして、 自利利他しようと言う。

 これは矛盾したことと思われる。 一方では 「この世もあの世も嘘である」 といい、 一方では 「この世で無理ならあの世で」 つまり 「この世もあの世も」 というのである。

 

 結局、 上人の世界観は、 〔真の世界〕 〔仮の世界〕 〔この世〕 〔あの世〕 で分けられ、 〔この世〕 も 〔あの世〕 も成仏しなければ 〔仮の世界〕 であって、 成仏すれば 〔真の世界〕 である。 そして 〔この世〕 も 〔あの世〕 も成仏をする道場としては同じなのである。 ところが、 〔この世〕 から 〔あの世〕 へ行くときには 『仏の来迎』 という橋渡し (ここで、 ひとっとびに密厳浄土=真の世界へと飛躍する) を必要とすることになる。

 

 ここで、 大日如来にせよ阿弥陀如来にせよ、 もし、 如来の 『力』 を頼むのであれば、 それは広い意味での 〔他力思想〕 或いは 〔往生思想〕 ということになる。 (弘法大師はそうは考えなかった。 )

ウ) 上人にとって三密とは 真言宗は何といっても三密による成仏を説く。 それでは三密とは何かというと、

  「三密の実相とは浄菩提心」 であるといい、

  「もし浄菩提心に相応せざる時は、 身に本尊の印を結び、 口に本尊の真言を誦し、 意に本尊の義理を念ずとも、 真実の三密を成ぜず。 浄菩提心の実相に安住する時は、 諸の身業、 諸の語業、 諸の意業、 皆、 三密を成ず」 と言う。

 これより明らかなように、 〔浄菩提心〕 の有無にすべてがかかっていることになる。 この浄菩提心とは大日如来の心地法界であるという。 とすれば、

 

〔大日如来〕 ↓ 〔浄菩提心〕 ↓ 〔あらゆる活動〕 ↓ 〔三密〕 ↓ 〔成仏〕

  であり、

衆生は浄菩提心を通してのみ、 仏と成れるのであって、 それ以外には道はないことになる。 このため、 上人は、

 一つには 〔浄菩提心の開発〕 を説き、

 二つには 〔信 (仏の加持力に対する) 相応の力〕

 を説くのである。

〔浄菩提心の開発〕

「諸境きょうから離れる」 事を説き、 「心に作仏を成すことなく」 仏の理=阿字本不生、 月輪観、 五輪観等に徹することを説く。

〔信 (仏の加持力に対する) 相応の力〕

能力のないもの=浄菩提心が未だ生じない者でも仏の加持力 (大慈悲の心) を深く信じれば、 なすことすべてが、 三密となって成仏できる。

 弘法大師は、

〔大日如来の三密〕 = 〔衆生の三密〕 ↓ 〔成仏〕

〔大日如来の三密〕 + 〔衆生の三密〕 ↓ 〔成仏〕 であり、

 我々は、 三密=用=仏の実働を自ら行う、 によってのみ、 仏と成れる、 とする。

これは、 ある意味では、 二人の六大の捉え方の違いの当然の帰結であろう。

エ) 結果として、 上人の行は1〕 『自分の心に専心し、 作為を悉く排除して、 菩提心の到来を待つこと』 であり、

2〕 『ただ深く信じて、 仏の加持力、 仏の来迎を待つこと』 であった。

 

天台宗の 「摩訶止観まかしかん」 に、

「須すべからく行じて願を填みたすべし、 行は即ち止観なり」 とある。 この意味は、

「行によって衆生を利すという願を満たせよ、 その行とは止観 (観法) である」 となる。 このあたりに、 日本仏教の 『実際の利他』 を欠いた 『利他を目的としつつ、 利他に至らざる内観ないかん行の終始』 或いは 『自主性を放棄した無為自然だのみ』 というその後の伝統の基もといを感じずには居られない。

c) 問題点 僣越せんえつながら、 いくつかの問題点を考えてみたい。

1) 大日如来、 菩提心、 阿字等を実体と見ているのではないか。

  「一切衆生すでに大日の実体を忘れたり」 (興教大師選述集、下41頁)

  「浄菩提心に相応するときはあらゆる行いが三密となる」 (同、上97頁)

  「この菩提心はよく一切諸仏の功徳の法を包含するが故に。 もし修証し出現すれば、 すなわち一切の導師となる」 (同、上26頁)

2) 1) の結果、 それらの実体と無関係のものは、 結局、 仮のものとなる。 この世における日常生活的なものは全て意味が薄れ、 大日如来、 一心 (菩提心) 等だけが重要になる。

3) これらから上求菩提が優先され、 下化衆生は後回しにされる。 (一心自覚頌)

4) 成仏ということが、 結果として、 〔この世〕 =実生活と隔絶かくぜつしたものとなる。 成仏とは、 そもそも 『苦しみからの解脱』 ではなかったのか。 〔三密加持〕 するといい、 〔方便究竟〕 するというのは、 〔印や真言〕 に限られたことではなく、 現実行動を含むはずなのに、 矮小わいしょうされに限定されてしまっている。 これを図式するならば、

〔私=心〕 ↓ 〔仏〕 ↓ 〔衆生〕 であり、 〔私〕 ↓ 〔衆生〕 がなりたたないのである。

 

 上人の思想に迫ろうとするとき、 我々現代人が最ももどかしいのは、 我々の実生活に対して、 上人が何も語らないことであろう。 上人自身は 「まず名利を離れるべし」 と言い、 「諸境 (欲望の対象) を離れよ」 と言い、 自ら実行して、 清浄な行に専念されたことは疑うべくもない。 しかし苦海に生死する人々を助けようという仏教が、 成仏するまで 「衆務を絶」 って、 ただ善根を回向して、 観念に浸っていてよいものとは思われない。 『毒矢の譬え』 を引用しながら、 尚、 現に災害に苦しみ、 飢えに苦しむ人々の、 その苦しみが、 上人の思想では解決されないのである。 「自行に専念すべし」 といい、 詰まるところ 「この世は仮の世」 「因果応報だから人が苦しむのはその人の自業自得である」 「誰もが菩提心を持っているのだから、 その人の領分」 を認めていたと思われる。 「理事不二」 と言い 「即事而真」 を説きながらも、 この場合の 「事」 とはそれぞれの具体的事実ではなく 「六大法身」 としての 「仏が辺満している」 という 『仏の事実』 であり、 苦しんでいるという 『衆生の事実』 では決してない。 もし、 苦しみが事実であるならば、 事実こそ、 働きかける対象だからである。

  『助け合いながら歩む』 という思想がないのである。

 それはどうしてかというと、

 上人が考えた菩提心とは 「実体」 だからである。 「固定的な、 何かを生み出すもの」 を菩提心と考えたから、 仏からの授かり物に頼る結果になったのである。 菩提心とは、 上人にとっては、 「自ら作るなかれ」 と言い 『我々の意識できるものではない』 と考えられた。 我々のはからうことのできないものと考えられたのである。 だから、 我々は、 沈思黙考して、 『菩提心の到来』 を待たねばならない。 菩提心とは、 苦悩の中に、 事実として現れてくるものである、 という認識がない。 だから、 菩提心だのみ (神だのみ) になってしまい、 自分の行動 (不十分であっても) がすり抜けてしまうのである。 菩提心が動かなければ、 何も出来ないことになる。 (ただし、 上人の築いた根来サンガ、 共同体においては平安な理想郷があったと考えられる。 )

  『大日経』 には 「ある時一つの思いが生じる、 善と悪とを思う」 とあり、 人として必然的にこみ上げてくる 「思い」 こそが仏の芽生えであるとする。 「自分はまだまだ足りないものである」 「自分は煩悩で生きている」 「他人にも私と同じ心がある」 「ともに苦しみながら生きている」 「なんとかしなければ」 という思いが生じるのが、 菩提心の芽生えではなかろうか。 純白や無念無想の満月のような心ではなく、 我欲や小心さや無知から解き放たれた汚れなき満月のような心であって、 さまざまに自ら考え実行する心であるはずである。  一挙に出現する菩提心に期待するのは無理であって、 努力し 「これではいけない」 と思い、 「ともに苦しむ人々をなんとかしようと思い」 、 「行いつつ反省しつつ向上しつつ生きる」 、 この思いこそが菩提心ではなかろうか。 菩提心はそびえ立つ山のような物ではなくて、 我々が誠実に生きるとき、 次第次第ではあるが、 必ず現れてくる心の必然性ではなかろうか。

 この問題は、 仏教を通じて言えることである。 平たく言えば、 人間性の中に 「仏」 を見出すのか否かの問題である。 無為、 無、 空、 と言われる問題である。 「仏」 とは 「有情」 が計らうことのできるものなのかどうかである。

 この議論も時を食い尽くすようであり、 我々が立ち戻らねばならないのは、 『毒矢の譬え』 ではなかろうかと思う。

d) 今日的視点1) 仏と衆生の解明

 現代においては、 西欧では 「神は死んだ」 と言われ、 日本では元々神を信じないと言われる。 キリスト教学においてさえも 「神」 の考え方は、 新しい展開を見せている。 こんな中で、 他を論ずるまでもなく、 真言宗の 「大日如来」 とは何か、 という問題は決して解決されてはいない。 仏を直接知ることが出来るとする真言宗であればこそ、 この問題は深刻であるべきである。

 上人は、 この問題から逃げることなく、 且つ、 自分の成仏の問題として捉えている。

2) 真言念誦の解明

  「真言念誦とは一向に字義を観ずるなり」 といい、 真言における観念の重要性を説く。 これはとりもなおさず、 我々の心の開発に、 成仏の是非がかかっているということに基づいている。 また 「一字門に諸義を含す」 といい、 一字を唱え、 観念することは、 世界のあらゆる仏徳を身につけることであることを明らかにしている。 真言行とは真言によって、 心を磨みがくことである。 真言によって存在へと立ち入り、 心へと作用して、 自身に仏を顕あらわすことである。

3) 身体論の展開

 身体の好調、 不調によって、 心が変化する。 常識ではあるが、 仏教では特に見落としがちな問題である。 上人は、 即身の立場より、 身についても修行あるべきことを説く。

4) 心の行

  「他者を救おうと思えば、 、 自分が暗くては他を明るくすることはできない。 衆生を本当に救おうと思うなら、 静かに黙念して雑務を止めることである。 先ず一心を磨き、 自己の観行をなせ」

 行による心の開発、 上人の一生はこの点に集中している。 自利も利他もともに、 心の完成なくしては不可能であると考えたのである。 楽しみを急ぎ、 慈善を急ぐ現代。 せかせかと動き急ぐ前に、 ものごとを生み出す原動力である心と身を生長させることこそ重要であると上人は、

  今も、 行の真っ直中から我々を励まされるのである。

 

加藤俊生