真魚青年(後の弘法大師)は、四国を遍路していた。 六位の身分の面影はなく、やつれはてて、ぼろをまとっている。身分の低い貧しい家に生まれた者の姿である。色つやを失って顔は瓦の鍋のよう。卑しい身なりは体までも小さく見せ、骨と皮ばかりの足が長くさぎのようである。道祖神の賎しいわらぐつをはき、やせ馬の朽ちた縄を帯にし、かやくさの寝床を背負っていた。
街角の乞食もこの姿を見て大笑いし、つながれた泥棒でさえ、これを哀れむ。彼が町を通れば瓦礫が雨のように投げられ、港を過ぎるときには馬の糞が霧のようにかけられた。
(空海『三教指帰』より)
これが四国遍路の始まりである。
弘法大師・空海は、弘法さんとか、お大師さんと呼ばれる。幼名を貴物といい、皆に大事にされたよ
うである。
貴物は、六才の時、土をこねて仏さまをつくり、人のために祈ったという。また、十才の頃、「自分
が役立つ人か」を試すために、崖より三度飛び下りて、三度仏に助けられたという。おそらく、やさし
く責任感の強い人であったろうか。
貴物は名を真魚と名乗るようになる。
真魚は、西暦七七四年、香川県の多度津屏風が浦に生まれる。彼の父は佐伯一族の首領であった。佐伯一族は、昔、東北が平定される時、天皇の直属の軍隊として蝦夷を侵略し、その手柄によって讃岐の土地をいただいた。佐伯一族には二つの顔があった。一つは、広く瀬戸内の海に勢力を張っていたということ。真魚という名前も、海の豪族にちなんでつけられたのであろう。もう一つは、蝦夷の捕虜をたくさん囲っていたということである。七七六年、真魚二才の時にも、蝦夷の捕虜三五八人が連れてこられ、その内の何人かが真魚の所にも来たようである。
このように真魚の生まれた佐伯氏は、地方に勢力を張り、中央にも足掛かりを持つ、中間の位置にいた。それは、貴族の生活も知り、蝦夷の奴隷の生活も知っているという立場であった。
父、田公は、子供たちを集めて語った。
「佐伯の一族は、昔、五位の位を持ち、殿上人として宮中に上る事ができた。しかし、藤原一族や僧道鏡などが政治を自分のものにして、われわれは、どんどん没落していく。兄と思う大伴氏も策略にはまって、官位を追放された。佐伯今毛人を知っているだろう。あの方は、奈良の大仏の建立で手柄を立てて官位を得た人だ」
「力を認めてもらえれば、われわれも出世できるというわけですね。今毛人は東北で捕らえた捕虜や、各地の抜け人をうまく使って手柄を上げたと聞きます」上の兄が言うと、下の兄はいつものように反発して言った。
「しかし、その使われた捕虜たちは、倒れるまで働かされたといいます。多くの人が苦しんだおかげで、大仏ができ、出世ができたのでしょう」
「蝦夷のやつらは働かない。蝦夷の者でも、良く働けば良民となれる。働かないやつは奴隷の身分で当然だ」
「彼らには彼らののんびりした生活があったはずです。むりやり仕事を押しつけたり、税をかけるのはこの国の悪い考えです」
真魚が、言った。
「その東北の捕虜たちというのは、この佐伯の家に代々連れてこられている佐伯の民のことですか」
「つい先年も、何人か連れてこられたではないか。縄でくくられていて、暴れた者もいただろう。野蛮な人々だよ」
「かわいそうな人々だよ」下の兄が言い返した。
真魚は、黙っていたが、幼なじみの魚助が、その佐伯の民とは知らなかった。
父の話は、結局いつも「努力して一族を再興せよ」ということであった。
官位が下がったり、中央の同族が没落したりで、一族の行く末が危ぶまれた。中央の税の取り立てが厳しくなり、何人も労働に差し出せと要求され、苦しさに村を逃げ出す者もいた。逆に掟を破って逃げてくる者もいたが、役人がどこへともなく連れていく。「逃げ出した者は、捕らえられて大仏を造る労働をさせられ、死んでも行方はわからない」という噂さえ広まった。
真魚は、父や母のためにも一族のためにも、自分が頑張らなければと一身に期待を背負った。
真魚の母、玉寄姫の兄弟に、阿刀大足という親王の先生がいた。真魚は、十五才から大足について、本格的な勉強を始める。中央の大学に入学し、貴族への仲間入りをし、立身出世するためである。真魚は、喜んでつき従って学んだと述懐している。
真魚は、遊び慣れた友達の魚助と、今では会うことも少なかった。魚助は、船頭として荷物の運搬に精を出し、真魚は寸時を惜しんで勉強を重ねた。
昔は、小舟を二人でこぎ出して、よく遊んだ。ある時は、舟が流されて生死を共にした仲であったが、今は、将来の長として佐伯を支配する立場と、従う立場に分かれていた。
ある嵐の日、魚助が、真魚のところへ飛び込んできた。
「舟の荷が流れてしまった。俺のせいだ・・・」
「お前が無事なら、いいではないか」
「それが、都の役人たちは、何としても期日までに奉納品を納めろという。もしもできなければ、佐伯の民十数名を、朝廷に差し出せというのだ。何とか助けてくれ、真魚」
真魚は、言った。
「父に頼んでみる」
「その田公のだんなが、お前の失敗は、お前の仲間でなんとかしろと言うからここへ来たのだ。俺も妹も役人に売られてしまう」
あの仲のよかった魚助も、その妹もいってしまう。
そこへ、父の家来が押し入ってきた。手には棒と縄を持っている。
「若様に頼んでも無駄だ。魚助、観念しろ」
「いやだ、どうしておれたち蝦夷の民は、いつまでも倭人の言いなりにならなければいけないんだ」家来たちは、抵抗する魚助を無理やり連れていった。
真魚は、父に、魚助を助けるように迫ってみたが、どうしようもなかった。「自分が出世して助けるしかない」と、歯を食いしばるのであった。
真魚は、一所懸命勉強した。時々、魚助たちを思い出した。
真魚は、中央の大学へ行ける日を心待ちにしたが、今年も行けない。実は、彼の家の位では、入学できなかったのである。そのうち、年齢も制限を越えつつあった。
真魚十八才。やっと都へ向かう。しかし、大学での真魚の身分ははっきりしない。
都には、牛車が通り、駿馬が走り、青の瓦、赤い柱が目に眩しい。田舎の生活が色あせて感じられた。・・・この都で力を発揮してやる・・・。しかし、
「あいつが四国の離れ島からやってきた佐伯の若ぞうだ」「蝦夷のやつらといっしょに暮らしているそうだ」「さぞ野蛮で、失礼なやつだろうよ」と、聞こえよがしに囁かれた。
金持ちの貴族たちは、色染めの長い袖を見せびらかせて得意がっていた。派手な馬に乗り、豪華な牛車で酒盛りをしながら真魚たちを見下した。地方では若様と呼ばれた真魚も、都では貧乏なただの男であった。一方、一見きらびやかな町の片隅には、ぼろぼろの服をひこずり、うす汚れた肌をむき出しにして寒さに凍える乞食たちが、肩を寄せ合っていた。時々、役人が手に棒を持ってやって来ては追い払う。あるものは奇声をあげて逃げ、あるものはその元気もなくただ打たれている。そして、役人はどなり疲れて去っていくのであった。真魚は、ひょっとしてそこに魚助やその妹がいるのではと涙した。
貴族の子弟は、毎日遊びほうけていた。そんな者たちのいいなりになって、頭をぺこぺこ下げなければ、仲間にはしてもらえない。真魚は、なんとか体面をつくろいながらも、孤独に勉学に励んだ。
ほたるの光や、雪の明かりにすがりつく気持ちで、夜の闇に消え行く文字を追いかけ、眠気に意思が弱ると、首に縄をかけ、股に錐をさしたという故人の思いを呼び起こして自分を励ました。
努力のかいあって、真魚は一二を競う秀才となった。・・・この調子なら、いい成績で卒業して、誰か有力な人に召しかかえられるに違いない・・・乞食の人々を助けるぞ。その時同時に真魚は、牛車に乗り貴族ぶった自分の姿を見てしまった。いや、俺は、貧しい人々とともに一生歩むぞ。・・・いろんな夢がふくらんだことであろう。
ある日、真魚は、大学の岡田博士から呼ばれ、彼の屋敷に行った。
「すまない、君の成績は群を抜いている。だが、時が悪い。今は少し待て。時代の変わり目に、君のような人材が必要とされる。しかし、今は血筋の時代だ」
「私には、前途はないということですか」
「このまま、身分の定まらないまま、大学に居続けるのは無意味だ。一度帰るのが良いと思うが」
真魚の目の前が、真っ暗になった。
「どうにもならないのですか」真魚の問いに、博士はうつむいたままだった。
この何年かの捨て身の努力は、いったい何だったのか。こんな知識や学問は、官吏に用いられなければ何になろうか。大学の知識など、地方では何の役にも立たない。地方で要るのは強い体力だけだ。・・・今までの努力は何だったのか。
真魚は、あいさつもせず、屋敷を出た。
お父さん、お母さん、いままでの努力は、全部無駄だったのでしょうか。
故郷に帰って、母に抱かれて泣きたい。しかし、どんな顔をして帰れようか。真魚は都を出たものの、あてもなくただ山里へと向かった。
途中、佐伯今毛人が手柄をたてたという東大寺の大仏の横を通った。今も多くの人夫たちが汗まみれで働いていた。・・・彼らはいつ自由になれるのだろうか。大仏のために苦しんでいる。神も仏もあったものではない。
「あっ」
その中に、魚助がいた。かたわらには、手に棒を持った役人が声をあらげて命令している。こんなひどい目にあっていたとは。・・・乞食よりひどい。
そちらへと足を向けかけたが、気力の失せた真魚は、その光景だけをしっかりと眼に焼きつけてその場を去った。
行くあてのないまま、真魚は四国へと戻った。いつしか、真魚の足は故郷へと向かい大滝山を超えて、雲辺山へと登っていた。
この坂を下れば両親に会える。しかし、足は進まない。
・・・お母さん。私はずっと、君主に仕えて立身出世して、世のために働くべきことを習ってきました。また、私を大切に育ててくれた人々の愛情を思うと胸が張り裂けそうです。そのためにずっと努力してきました。しかし、私を取り上げる君主のいない今、私に何ができましょうか。家が傾いて危ないことも重々承知していますし、兄が相次いで死んで、私が頑張らなければならないのも充分に分かっています。しかし、どうにもなりません。進むこともできず退くこともできません。この私の気持ちをどうか分かってください。
真魚は、とうとうふるさとへと坂を下ることはできず、西へと向かう。
その頃、真魚の故郷屏風が浦では、大変な騒ぎであった。二人の息子に先立たれた父田公は、真魚の失踪に追い打ちをかけられた。
「なんとしても真魚を捜し出して連れて帰るのだ。あの子は、気の細かい従順な子だ。ひょっとすると死ぬかもしれない」
「こんなことになるのなら、あの子に勉強なんかさせないで、普通に育てるのでした」母は、泣いていた。
真魚は、人目をさけて、山づたいに歩いた。その道は、しぜんと、四国の霊峰、石槌山へと続いていた。石槌は、人気を遠ざけ、霊気に包まれていた。
真魚は夢遊病者のように尾根を漂い、このまま死んでいけばなんと楽だろうかと思った。食べる物のない日が続いた。どんぐりを拾い、草の菜を取って食べた。雪を払い、肘を枕として休んだ。生きるも死ぬるも自然のなすがままである。
・・・私は、まるで仙人のようだ。家もいらない。美味しい食事もいらない。服もいらない。天を覆う青空が屋根だ。雲はたなびいて壁になる。夏は襟を開いて風に向かい、冬は首を縮めて体温を火とすればいい。こんな自由奔放な暮らしが他にあろうか。中国のどんな有名な仙人もここまでの境地は得なかっただろう・・・。
真魚はいつしか、仙人気分に浸っていた。
世間の道徳に縛られて生きる必要などない。おれが上だ、おまえが下だと区別して、富を争い、他人をおとしめ、そして、落とされる。今の大学で教えているのは、世の中の秩序を守ること。上に逆らわず、分に甘んじ、与えられた順位のなかで出世すること。強者の枠に自分を閉じ込め、心の自由をなくしてしまうやり方だ。見栄も体裁も捨てて、欲しがらず、自由人として生きて行けばいいではないか。
こんな浮き草のような生活。何にもしばられない自由があった。
しかし、冬の石槌は、真魚を下界へと追い出した。人はやはり、あくせくと働かなければ、食うことさえできないのか。
真魚は、伊予の友人、衛門三郎を思い出した。ひととき、彼の家に休ませてもらおう。
服はぼろぼろ、手足はさぎのよう、顔は鍋のようになった真魚が、町に出た。
その姿は、身分が低く、貧しい者の姿であった。うす汚れた顔、色つやを失って、見るからにみすぼらしく小さな体、骨と皮だけになった足が異様に長く突き出ている。腐りかけたわらぐつをはき、朽ちかけた帯を巻き、かやくさで編んだ夜具を背負っている。
「あれを見ろ、うす汚い乞食だ」「抜け人じゃないか」「どっかの苦役を逃れてきたんだろう」「天下の犯罪人だ。あっちへ行け」
石ころや、瓦礫が投げつけられた。馬の糞まで飛んでくる。
彼を見るものは、乞食さえも笑い、つながれた盗人でさえも哀れんだ。しかし、真魚はいっこうにかまわない。彼はしっかりと何かを持ちはじめていたから。
「三郎殿の家はこちらでしょうか」
「おまえのような汚い者に用はない」と門番は怒鳴った。
「友人の真魚です」
「そんな者は知らぬ。三郎様はいま新しい堤防作りで忙しい」
そこへ三郎が現れた。三郎は連日の開墾でやつれていた。
「そこの乞食。裏へ回れ」
真魚は、土や岩と戦う人々を横に見ながら、三郎についていった。
「真魚、ここへ来てはいけない。田公さんから、君を捕まえるようにおふれが出ている。それにしても、ひどい格好だな」
「君こそ疲れているようだ」
「あちらこちらから苦しい生活に耐えきれず逃げてきた人々を養うために、田畑をもっと増やさなければならない。税を払うためにも、一日も早く堤防を完成させなければならない」
「逃亡者まで助けてやろうというのか。中央の貴族に頼んで、税や労働を減らしてもらえばいい。彼らは、それをまつりごとに使わず、自分たちのぜいたくに使っているのを見てきた。それにしても、君は頑張っている。生きるためには、やはり、汗を流さなければならないか」
「君がここへ来るだろうと思って、用意しているものがある。その姿では逃亡者だ」
三郎は、僧の衣と袈裟を差し出した。
「坊主の衣なんかいらない。都には、権力の顔色を伺い金もうけに走る汚い坊主ばかりいた。私は、仙人の気ままな姿のほうがいい」
「無理をせずに早く家に帰れよ」
「三郎こそ、収穫の前にみんな疲れ果てて死んでしまうぞ。そんなにあくせくしていると『強欲で人をいたわらぬ者』と悪口をたたかれるぞ」
真魚は黒衣をまとい、三郎の家を後にした。どうしたことだろう。出会う人々の真魚を見る眼が以前とは違う。
「お坊さんは、石槌の修行僧かね。それとも熊野のほうからやって来たのかね。これでも食いなさい。私のせがれは、役人にかり出されたまま帰って来ない。もし、室戸へ行ったら、死後の世界にいるのかいないのか見てきてはくれんか」
と、人の良いじいさんに出会った。食べ物をもらったり、わらじをもらったり、時には家に泊めてもらったり、そんな事が何度かあった。
お坊さんは大事にされた。以前は石や糞を投げつけられたのが嘘のようである。真魚はいろんな人に大事にされてうれしかった。久しぶりにあたたかいものにつつまれ、閉じていた自分の心が広がっていくように感じられた。
真魚は、光を求めていた。南へ南へ。
山の中では、多くの自由に生きる人々とあった。彼らは、はつらつとしていた。誰にも支配されることなく、働きたいときに働き、自分の生きる糧だけ採って暮らしている人々であった。・・・昔はみんな自由だったのだ。
平地の人々は、暮らしの雰囲気が違っていた。村々に役人がいて人々を見張っている。みんなおびえながら暮らしていた。言うことには、税が重く、一年に何十日もつらい仕事を課せられると。
真魚は、人気の少ない海岸を南へと向かう。漁師の村も、おびえる村、のどかな村があった。
・・・たまたま、この島をだれかが無理やり治めているのだという気がしてきた。実は、上も下もない。誰が治める、治められるという必要はない。みんな仙人のように生きていければ最高だ。なのに他人を自分の都合のいいように使おうとする者がいる。自分は楽をして、他人から横取りをするやつがいる。人を平気で痛めつけるから、誰かが仮に支配しなければならなくなる。支配したり支配されたりする国では、どうしても立身出世して、政治を正さなくてはならなくなる。そうして争いが始まり、村は恐怖におおわれていく。
・・・そうか、支配したり、支配されたりする中にいて、みんなが自由になる方法はないのだ。王にかしづくかぎり、上や下と争わなければならない。
「では、王の道を超えるものはなんだ」
「僧の道鏡さ」突然、後ろから声がした。
「仏だよ、仏法だよ。仏の前には、みんな上も下もない。みんながひとりの修行僧だ。争いや上下によって人を従える帝や貴族の王の法を、仏の法で包んでしまうことだ。仏の教えに耳を傾ければ、みんな自由だ。動物だって仲間だ。自由に自分の理想の山へ登ることができる」
後ろに、薄汚い僧侶が立っていた。彼は続けた。
「上下の決まった世界にいて自分だけ出世しても仕方ない。かといって、自分ひとり、自由な生活を無意味に続けてもなんにもならない。仏の世界をこの世に造ることだ。そして、困っている人々がみんな救われなければならない。みんな自由になる世界を作っていかなければならない」
そう言い残して僧はいなくなった。
真魚は思った。・・・僧侶か。僧侶という道もあった。しかし、僧侶では嫁ももらえない。子供も出来ない。では、誰が佐伯の家を継ぐのか。その時、真魚は、昔を思い出した。魚助の妹と楽しく遊んだこと。あの淡い思い出を。何故、僧侶は結婚できないのか。嫁や子供こそ、人生最高の友であろうと思ってきたのに。
・・・しかし、確かに仏の道は、すべての人々を救い、自由にする道を示している。やってみる価値はあるかもしれない・・・
真魚は、一つの観念にとりつかれたまま、室戸へやって来た。いっそ死んでしまおうと思っていた真魚は、室戸の岩場に砕け散る波しぶきに、圧倒さ
れた。そのエネルギーは、真魚の弱々しい心を吹き飛ばした。いつぞや、老人が気づかっていた彼の息子が、波に宿っている。彼が波となって荒れ狂っている。真魚の目の前に、白波がいくつも立った。「あっ。魚助が見える。妹がいる。母がいる。父がいる。三郎もいる」みんな宇宙の子供たちだ。そうか、仏から見ればみんな子供ではないか。
みんなの魂が、うねり踊っている。この世界には、あらゆる人の命が渦巻いている。その全ての命が救いを待っている。死ぬわけには行かない。それを果たすのはだれだ。王ではない。仏だ。仏こそ、あらゆる命のそれぞれをそのまま認めながら、それぞれの真の幸せを常に願い、待ち続けている。
仏の命がこの宇宙に充満している。
いや、この宇宙に満ち満ちている力を仏と呼ぶのだ。それは、心が震える感動であった。
私は、今、その弟子になった。
しかし、翌日、真魚の前に仏はいない。確かに自分をも貫いて躍動していた仏だが、何のとっかかりもない。真魚は、やや消沈して、室戸の洞窟に寝起きした。
いつぞやの汚い僧侶に教えてもらった呪文を、毎日唱えてみた。
ノウボウ、アーカーシャギャラバヤ、オーン、アリキャマリボリ、ソワカ
宇宙よ、真実を示したまえ、と心に念じながら。
洞窟はしんと冷えて、天空と、真魚の二人だけがそこに居た。その時、空に一つの星が、赤く燃えた。その光が広がっていく。仏からの扉が開いたのか。音を失っていた波が響き始めた。谷が唸り、星が明るく真魚を奮い立たせた。
よし、仏教をやってみよう。これが私に与えられた運命かもしれない。
真魚は、夢を見た。
天はとどろき、地は裂ける。海は氾濫して丘をおおい、あらゆるものを呑み込んでは吐き出す。生命が生まれては死に、また生まれては死に行く。昼は雷鳴、夜は地の割れる音。種々さまざま、無数のものとものが入り乱れ、ひしめき合う。奇々怪々なありとあらゆるものが生み出される。
あるものはむさぼり、ただひたすら生き物を食らう。
あるものはへつらい、虚栄によろこび、妄想に安んじ、眼の前の欲にくらんで悪をなす。
あるものは強欲非道、怒り狂い、争いを好み殺し合う。
だますもの、だまされるもの、食らうもの、食われるもの、苦しむもの、狂喜するもの。
上へ昇る者、下へ落ちる者、さまざまな境涯をめぐり、喜びにひたり、悲しみにうちのめされる。この渦の中で、幸せを得ようともがき続ける必死の者たち。あるものは、自分を制し、善行を行おうとする。しかし、悪の巨大な流れは彼らを押し流す。彼らはただ苦しみの辺に流れ寄る、失意のうちに・・・。
この苦しみの海を逃れ出るには、すぐれた心を自分で起こすしかない。しかし・・・
自分で助かるしかないそのものが、眼に入れても痛くない自分のひとり子だとしたら・・・。そんな思いで仏は溺れる者たちを見ている。ひとりひとりの苦しみを我がことのように悲しみ、ひとりひとりを大切に思いながら。そして、あらゆる手段で衆生に知らせようとする。あらゆる姿形、あらゆる有形無形のものに託して救いの手をさしのべようとする。
そして、待つのである。虐げられた者も、奢る者も、強き者も、弱き者も、いかなる者も、命あるすべての者が集まってくるのを。
生き物たちは、天より地より、雨のごとく泉のごとく集まる。雲のごとく煙のごとく連なり合い重なり合いながら。足を踏み合い肩をそばめ、ところ狭しと。彼らは、慎ましくして心を集中させて待っている。
この時、ひとつの声が鳴りひびく。その声は群衆の心の闇を払う。喜びの雨を降らせる。
あらゆる生命は、この幸せに腹鼓を打って喜ぶ。みんながそれぞれに喜ぶこんな素晴らしいことがあろうか。もっと良い国をもっと自分たちで造ろう。皇帝君主の政治など忘れてしまう。これこそは、すべての国が集まる理想国。あらゆる命が集う理想郷。上下の隔てなく、喜び合う世界。
これが、真魚の見た夢であった。
ひとりひとりが、それぞれに努力し、自分の心に仏の声を聞いて幸せを得る。上もなく下もない。支配することもなく、されることもない。帝王もなく臣下もなく、皆が仏と同じ位である。そんな自由な理想世界があるのだ。
真魚は、仏教の理想世界の夢の実現が間近であるように思った。
欲望を捕らえるさまざまなきれいごとは、私たちを溺れされる海である。
上下栄光の世界は、私たちを縛りつける縄である。
そんなちっぽけなものの彼方に、いのちあるものすべてが楽しむ真の山がそびえる。
ならば、立身出世などという小さい山を捨てん。
この時、真魚二十四才。
後に出家、空海と名乗り、三十一才で唐へと渡る。
弘法大師は「仏の国」という高い理想を持ちながら、必ず現実を出発点として、且つ結果に責任を持ち続けた人と思っています。しかし、弘法大師が始めから弘法大師の道を歩んでいたのかというと、決してそうではありません。その事を弘法大師は、『三教指帰』という一見「儒教」と「道教」と「仏教」の優劣を説く書物を書きながら、実は自分自身の遍歴である「忠孝の限界」と「絶望の放浪」と「理想への再出発」として著しています。弘法大師さえも、人生の出発点においては私たちと変わらぬ「親の期待を一身に受け、出世を目指す大学(官吏)受験生」であったのです。もし、藤原氏など有力な権力者に抱えられたならば、一政治家として人生を終わっていたでしょう。しかし、身分の低い弘法大師は、官吏登用という儒教的世界に受け入れられず、進退困って四国の山野に放浪します。中国の有名な仙人も驚くだろうという「飢えて着るものなく、自然に命を任せた死の放浪」をするわけです。これは弘法大師が『三教指帰』に説く「道教」的世界だと思われます。そこでは「もしも『人は食わねば生きていけない』のでなければ、山野に自由に放浪して何に支配されることもなく誰に従うこともなく生きていける」と言っているように思われます。しかし「食う」ということは避けて通れなかったと言います。ここに、「食いつ食われつ脅し脅されつ苦しい生を生きる生死の海に漂う生き物たち」すべてがそっくり助かる「理想郷」が必然的に浮かび上がるわけです。それを支えるものは、仏の「生きとし生けるものをわが子のように案ずる広い慈悲」であり、「必ずみんなに響く一つの声(自分の内にある真実の心)」なのです。ここに、上下差別を孕み、苦しむ者と加害者に分かれた旧世界は原点に戻って再集合し、新しい理想の国が全員平等の上に築かれるのです。
秩序を守って努力すれば、その範囲内で報われるという(儒教的)受験時代を過ぎ、大自然に身を任せて生死の放浪をするという(道教的)四国遍路を過ぎ、自分も人も全てが助かるという(仏教的)理想へと辿るなかで、弘法大師はそのそれぞれの世界を取り出し、生き物社会の大きな変革を企てたのです。その結果、弘法大師の世界では、悪なら悪が、そのままに批判されつつ理想の光を浴びて可能性へと開かれる、「現実(苦)と理想のたゆまぬ往復作業」が、結果に責任を持つという緊張の上で運行されていくのです。
注)
(1) 空海二十四才の時の著作。ほぼ同じ内容のものに直筆が 今も残る『聾瞽指帰』がある。空海は自分の遍歴を書きつつ出家の宣言を している。一人の悪い貴族を導く形で戯曲風に展開される。まず、(悪
い)貴族の生活が表され、それを導くものとして、儒教が秩序と努力と出 世(家臣としての限界)を説き、道教が世間(権力)に縛られない自由世 界を説き、仏教が仏を中心とした無差別の平等世界を説く。この三つの教 えはそのまま空海の遍歴でもある。書中、空海は仮名乞児という名で登場 し、乞食に落ちぶれながらも山野に自由な心を失わず、親族の忠孝を求め る声に人間味溢れる反駁をしつつ、仏教の夢を高らかに歌い上げて出家の 宣言をする。空海が自ら書いた青春の総決算であり仏教への動機である。
(2) 「仏を作ったこと」・「三度の捨身」というのは 伝説であり、史実としては確かめられない。後世には、その出自を「弘法 大師は優良の種族、天才の血統」とするから、弘法大師の英雄化や神格化 が早くから行われていた結果とも考えられる。
(3) この時代は、大和朝廷が非常に乱れた時 代である。権力争いと天皇の後継者争いが熾烈化し、多くの権力者、親王 が殺し殺される。また、口分田の受給と民の土地固定化が行き詰まり、豪 族による土地と民の私物化と、民の逃亡が急増する。また、蝦夷への侵略 が本格化する時代でもある。
(4) 有力な豪族大伴氏は武力をもって優位を占めていた。その下 に佐伯氏があったと思われる。もともと同じ流れではないが、大伴氏を兄 と呼んだりしている。佐伯氏は大きく二つに分かれる。佐伯値と佐伯部で ある。佐伯部は、五・六世紀ころ大和朝廷の征服によって捕らえられた蝦 夷である。それを支配統括していたのが佐伯直である。大伴も佐伯もこの 時代急速に没落していく。
(5) ひとつの有力な文化圏が他の文化圏を蔑視して付けた呼び名で、
多様な生活様式が共存していく上ではふさわしくない。ここではその歴史 的問題を警鐘しつつ、この呼び名を使用した。
(6) 空海の父。善通ともいう。
(7) 佐伯とはいえ、真魚の佐伯氏とは別の流れと思われる。大仏の建設で指導性に力を発揮し、その功績により官位を得る。尚、財力 にも富み佐伯院という大寺を建てる。七九〇年死去。真魚との交流は疑 わしいが、佐伯院で勉学した可能性は高い。
(8) 魚助の話は想像である。しかし、このような事態は次々と起こ っていたことは確かである。問題は真魚がそれをどう受け取っていたか であるが、あらゆる生き物の幸せを、世俗の権威差別を超えて説く空海 であれば、本文のような出来事があったと確信する。しかし空海著作の 『性霊集』巻一の三にはこれに異を唱える記述がある。
(9) 『三教指帰』による。「余、年、志学(一 五才)にして外氏阿二千石文学(阿刀大足)の舅(母方の叔父)に就い て伏 し、鑽仰す」とある。以下多くの記述は空海著作の『聾瞽指帰』 と『三教指帰』による。
(10) 中央の官吏養成機関として大宝令後、特に奈良末期には 能吏・学者・文人を出す。地方には国学があった。
(11) 「 二九にして槐市に遊聴す 」(『 三教指 帰』)2×9=18才で大学に学ぶ。 正式に入学したかどうか 疑わし い。身分が五位以上、年齢が一六才以下という規定(大宝令)がある。
(12) 『三教指帰』に、蛭牙公子という思いやり のない人の道に外れた、狩猟・酒・色事・賭博に興じる人物(貴族)を 登場させ、彼を導く形で、儒教、道教、仏教を語り、出家の決意を説い ている。蛭牙公子は、「 人の痛みを知ることなく、親の恩を知ることな く、遊び暮らし、おごりたかぶり、善悪を考えず、酔うまで飲み、飽く まで食らい、色を嗜み寝床に沈む」とされている。
また、「軽肥流水を看ては電幻の歎き忽に起こり、支離懸鶉を見ては 因果の哀しみ休せず 」(『 三教指帰 』)[ 貴族がこぞって乗る高級車
(軽やかな肥えた馬)はなんとはかないものか。生まれながらに苦しむ ものや、貧乏なものはなんとかならないものかと悲しい]
(13) 「雪蛍を猶怠れるに拉ぎ、縄錐の勧め ざるに怒る」(『三教指帰』)[故人は、雪や蛍の光を頼りに学び、眠 るのを恐れて首に縄を掛け股に錐を刺して頑張ったと言われるが、それらを手本にして励ましても、自分が怠り、とどこおるのが情け無く腹立た しかった]
(14) 『空海僧都伝』に同郷の岡田牛養に就いて左氏春秋を習うと ある。推測すれば、真魚は既に佐伯氏、母の阿刀氏、その他の豪族の期待 を得ていたと思われる。佐伯氏あるいは真魚を後押しする集団から、岡田 博士またはそれに類する者へと内々の要請があったと考えられる。
(15) 大学を中退し四国を転々としたことは
『三教指帰』に見られる。阿國大瀧嶽、土州室戸崎、金巖(愛媛の金山出 石寺か)、石峰(石槌山)が記述されている。
(16) 『三教指帰』より意訳。真魚は自分 の行動が「忠孝」に背くことでありそれへの弁解の気持ちをかなり力説し ている。「退いて黙せむと欲すれば祿(出世)を待つ親有り。進退の惟れ 谷れることを歎き、起居の狼狽に纏はる」など。
(17) (次頁9行まで) 『三教指帰』より意訳。
(18) 『 三教指帰 』より意訳。「六府(内
臓)の蔵・・・巳に空し。・・・(仏教には)食に依って住することを顕 し、・・・飢人(自分)を(負って)早く豊郷(食べられる所)に託かむ には」豊郷は二つの意味に取れる。一つは文字通り食事の恵まれた所。も う一つは故郷または朝廷と考えられる。
(19) 遍路の創始者として知られている衛門三郎は俗説では強欲非 道の人物として語られている。佐伯氏と衛門三郎(河野氏に再生する)は 同じ四国、それも瀬戸内海側の隣の国の豪族であった。
(20) 衛門三郎の屋敷跡と伝えられる愛媛県松山市荏原には、大きな石 を動かした「網かけ石」の話と堤防跡と思われる「八塚」(三郎の八人の 子の墓ともいう)が残る。
(21) 紀伊の熊野。修験道の霊地。
(22) 最高権力者へと上った僧侶。道鏡は真魚が生まれる二年前に死ん だ。当時僧侶といえば、良しにつけ悪しきにつけ道鏡を思い出したであろ う。当時の僧侶は、国家公務員のようなものであったが、道鏡はその枠を 越えて権力を掌握し、仏教による政治を目指したとも考えられる。
(23) 『三教指帰』に「一生の娯楽・・・。
百年の蘭友、誰か妻孥(妻と子)に比せむ」とある。[一生涯の楽しみは 百年の親友でもあるが、それよりも妻や子である]
(24) 『三教指帰』に「一の沙門(僧侶)有り、余に虚空蔵聞持の法を 呈す。・・・」とある。
(25) 「土州室戸崎に勤念す。谷響きを惜しまず、明星 来影す」(『三教指帰』)
(26) この夢の部分は全て『 三教指帰 』からの意訳。
「生死海の賦」と「大菩提の果」からなる。「生死海の賦」は、この世の 発生から生命の循環・生命の不可解さ・生命の悪と不幸を表し、「大菩提 の果」では、生きとし生けるものが皆そろって差別なく集まり、幸せを得 るという「仏の道」が説かれる。若き弘法大師が見た仏教の理想郷と思わ れる。スケールの大きさと、無差別性が特筆される。
(27) この世とは別の世界があってそ こへと移動していくわけではない。例えばあの世や極楽などへと。それぞ れがそれぞれの場にいながら、惑いを離れ、自分の本当の幸せ、全生命の 幸せへと向かうことである。その時、自分の心の中に善意(仏とか良心と して表される)が生まれ、また、全生命の共同意識としての慈悲が生まれ る。それは、私が上だとか下だとか、支配するとかされるとかいう意識の 払拭であり、新たな命と命の関係性の回復である。
(28) 「一つの音(教え)がなされる」(『三教指 帰』)とある。弘法大師がこの時、実際の仏の声を期待したかどうかは分 からない。聞こえるものには聞こえ、聞こえないものには永遠に鳴り続け るとしか言いようがないものかもしれない。生きとし生ける者が救われる よう望まれている、それが仏の存在である。つまり、いかなる生き物も救 われなくてはならないし、救われるのだという希望と悲しみが、そのまま 仏である。その夢と確信が、「待つ仏」と「衆生の集合」と「一つの音」 に象徴的に表されている。
(29) 夢の実現は、他ならぬ自分にかかっているとの自 負が感じられる。「 何ぞ纓簪( 冠の紐と簪・貴族の持ち物 )を捨てざら
む」(『三教指帰』)
(30) 十八才で上京し、二十四才で『 三教指帰 』を完成させるま でに出家の決心がなされたと思われる。