戦後、人を殺したことのないこの国をこよなく愛し、誇りに思う

仏不殺生を体現する九条の会

宗教者九条の和
憲法九条は仏者の悲願
1)非暴力
2)相互信頼 有情の認識
3)少欲知足 涅槃主義
4)大悲主義
5)無支配 自灯明法灯明
結)解放 自由 解脱
第九条  (参考 平和祭 有事など
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 20世紀は戦争の世紀。二つの原爆は罪のない子たちを焦がした。戦争のない世界は人類の悲願である。前の大戦の悲惨さを痛感した人類は、国家と国家の紛争を解決するために、武力ではなく、国連やその他の国際的な機関をつくり、手段として武力を使わない方向で「平和的解決」を行うことを定めた。その流れは、日本国憲法に色濃く表されている。平和的解決への努力をし続けることにより、武力を保持せず、国としての戦争をしないという旗印を大きく掲げて、その合意を広めようというのである。

 当然、その立脚点は地球市民であり、その対局にあるのは武力国家である。しかしながら21世紀の幕開けはまたもや耐え難い悲惨で始まった。

 ツインタワーの崩壊。テロによる大量殺人。富めるものの安穏は忽ち脅迫された。しかし、この光景は彼方の神の視点から見れば、次の点が明らかであろう。地球の裏側では、草を食み土を噛んで「きょう家族が死なないことを喜んでいる」のに、集金マシーンとして天に突き昇る摩天楼は、生産せずして巨万を振り出している。満てども飽きぬ飽食の輩は、世界を飛び回り、眼下に目を凝らせど貧者の叫びと暴力の嘆きを聞くことはない。

 防衛か、同情か。利己か、共生か。

 分かり切った答えがなぜ封殺されるのか。人類の知性は何処へ行ったか。もしかすると、この愚かさは人類の歴史そのものなのかも知れない。であれば、その受難者はなんとも救われない。巨万の富を積み重ねて崩れゆく民も、大地を噛み飢えて暴力に沈む民も何れも塗炭の苦ではないか。

 ここに仏教の灯りを照らし、また現実から仏教を照らすことは有意義である。更に、一国の憲法に「戦争の放棄」が明言されることの重みは大きい。出来る限りこの英知を守っていきたい。

 1)非暴力  

 「武器を手にして恐怖が広がる。人々は互いに戦っている。」これは最古のお経の冒頭である。戦争→恐怖→軍拡。今まさに世界やこの国が向かっている方向ではないか。そしてもしかすると平和憲法を持つこの国こそが、その先頭集団を走ろうとし国民の多くが不明確なままにいる。

 釈尊(お釈迦さん)の時代は繁栄の時代といわれるが、多くの小国と十六国がマガダ国一国に征服される時代であった。統一ではなく殺戮による淘汰としての一国化である。その過程でコーサラ国によってシャカ国はホロコーストされる。釈尊は攻め入るコーサラの軍隊を三度制止して言った。「親族の蔭は心地よい。しかるにあなたは攻め上る」と。しかし戦いには参加しなかった。釈尊はどのような心境でそれを見送ったか。「不殺生」の戒律は重たい。度重なる人類の苦難の中から、

「殺さない。殺させない。殺されない」

は導き出された。何があってもこの戒律を守る決意が要る。憲法に仏教と同様の精神が吹き込まれたことは感嘆であり、その真意は深い。

 ある人は言う「テロの側につくのか、それとも我々の側につくのか」と。答えは明白である。どちらの側についてもいけない。私たちは不殺生の立場に立ち、戦争を止めさせる立場に立たねばならない。理由は私たちは今繁栄の場所に占有している。理由は私たちは憲法に「戦争放棄」の条文を持ち、戦わない仕方で世界平和に貢献できると信じるからである。理由は私は仏教徒であり、非暴力少欲知足を標榜するからである。

2)相互信頼 有情の認識  

 有情とは仏教用語で生き物のこと言い「情ある者」という意味である。仏教では私たちはみんな有情である。私たちは私たちを有情として見るとき、国籍や民族や地位や身分や貧富を白紙にする。私たちは皆、欲求を持つ者、思い悩む者、苦楽の感受者として同じ立場に立つ。ある人は言う。「貧しい者は努力しないから貧しいのである」と。しかしよくよく見ると「努力できることこそ」最上の能力ではないかということに思い至れば、世界は受難者として平等に見えてくる。

 どう考えても、私が私の家に私として生まれる必然性はなく、ある日突然私は私であることを与えられているのに気づく。だから私はたまたま私であり、私が貴方であっても良かったのであり、彼が私であっても良かった。そして私は私を生き抜いている。その時、みんなの有情性に気がつくことなく、彼我を区別して「私こそが」とか「私のもの」というように保身に走れば、個々の有情は対立し闘争を始める。逆にお互い同じ受難者、悲しみの器として「痛みもつもの」としての自覚に立てば、相互信頼の立場に立つ。

3)少欲知足 涅槃主義  

 インドでは平和のことをシャーンティという。シャーンティ=Santiは「静まる」「穏やかにする」「なごむ」という意味である。何が穏やかになるのか。まず怒りや恨みや焦燥の感情である。そしてその基にある自我意識や繁栄への過剰な欲望である。「私こそが」という思いや「飽き足らない快楽への欲望」「不快への嫌悪」を静かにさせることである。このシャーンティは涅槃(ニルバーナ)の同義語である。自分の欲望を静め、自分を制御したものは涅槃=不死の至福を得る。欲の上に欲を重ねる現代の拝金主義、勝つことを良しとする成功主義、物質的繁栄を良しとする新自由主義(無制限繁栄主義)は改めねばならない。それは自分が良しとするものへの反省であり、良しとしてきた習慣への対抗であり、根本的に自分の欲望を静めることから始まる。

 日本や先進国の歩んできた道は、はたして共存共栄の道であったか。一人勝ちの選択ではなかったか。今求められるのは、生活レベルが多少下がっても共に生きていくという他者への共感と共生の具体的模索である。

 シャーンティ。欲望を静めよう。

4)大悲主義  

 大きく見渡すこと。そして「耐え難い悲痛」を一番に見ることが大悲である。アフガンの苦難を見ること。世界の戦争や拷問に焦点を当てること。悲とはその受難者の視点で見ることである。

「自分がもしその立場だったらどうか」と考えることである。有情の立場やシャーンティを完成した者は大悲を行う。大悲の者は、保身の欲望を越える。悲しい人を見て悲しいと思うことは人情である。人情は煩悩の領域でありながら、悟りへの道を拓く。そして大欲=仏の慈悲の行へと進む。

5)無支配 自灯明法灯明  

 「他者を依り所とせず、ただ自己と法とを頼りとせよ」。仏教徒は誰にも支配されない。誰も支配しない。人にも国家にも概念にも。自ら正しく思い良心に従う。

結)解放 自由 解脱  

 憲法25条に「すべて国民は健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を有する」とある。私たちはいつ安穏を得るか。

暴力からの解放

飢餓からの解放

利己欲望からの解放

大悲大欲に生きる自由

「生まれてきて良かった」と全ての人が言える時、「もう死ぬことも怖くない」と言える時は、何時来るのであろう。

生きとし生けるものに幸あれ

 

第九条 日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。

A前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権はこれを認めない。

主催石手寺089-977-0870.8155 fax2608