見えない矢 シャカの出家

憲法なく、法律なく、力と、心だけをたよりとするとき

 ひとは、ともだちと共立ちの集まりが仲良く暮らす時代を過ぎ、民族と民族が広がり肉迫して、互いに衝突し合う時を迎えた。

 インド大陸は戦乱の十六国の時代。

 

 国は国を呑み込み、十六国は大きな二国へと変わっていく。その間、幾多の命が嘆き悲しみ痛んだことか。戦いの報償は、ぶんどった国の民と財産に向けられたのだから。男は殺され、女は辱められ、子供は奴隷として持ち物とされる。そして、しいたげられた者達のありさまは語られず、おおいかぶさる強きものの歴史のみが語り継がれる。これも次の戦いの備えか。

 

 これは今は地上から消えたシャカの一族の話である。

 

 シャカの一族は、十六国の中にぽつんとあった。コーサラという国がまわりの国を攻め滅ぼしながら広がる時、その支配下に商売を営み、富をほこっていた。しかし、南のマガダ国は、コーサラと同じ力を持っていたが、やがて、富を殖やしコーサラの国境に迫りつつあった。こんなころ、シッダルタという青年は、シャカの王の子として命を持った。シッダアルタとは「富をなした」という意味の名である。

  シッダアルタは今日も、愛馬カンタカを引いて、十数名の部下とともに西門を出た。このごろ西方の貿易隊が襲われることか多く、傷つく者が多かった。

 「ミトラがやられた。彼らは待ち伏せしていて、後ろからやりやがった。」

 「奴らは奴隷をいじめてやがる。子供を人質に奴隷に、捨て身の特攻をさせるのさ。」

 「それもだが、私が心配なのは、このごろのマガダの動きだ。彼らは力にまかせて、近くの国を征服していると聞く。従わぬところはみな殺しともいう。これは大きな声では言えぬが、コーサラはわれらをマガダの防波堤にしようとしているといううわさもある。そんなことになれば、われわれは、マガダと戦えば負けるだろうし、戦わなければコーサラにやられるだろう。どちらにしても戦いになれば、われらの生きのびる道はない。」 シッダルタは、真剣な目で遠くを見ながら言った。

 

 「王子。出撃を。」

 「またか。また死ぬのか。」

 「われわれも殺しましょう。食うか食われるか。敵を見分けながら戦うなんてできません。だいたい、われわれが開いた商隊ルートでしょう。彼らはそれを横取りしようというのですよ。」

 「ラーフラよ。私も、とんだところにおまえをつくったものだ。時代が悪くなる。この栄華をおまえにもと子供を欲しがった。しかし、それも間違いだったかもしれない。」

 「マーヤーよ。私が死んだらラーフラをたのむぞ。」

 「富を全部彼らに与えましょう。そうすれば助かるでしょう。そうすれば。」

 「おまえに乞食ができるのか。」

 「大変です。マガダからのししゃです。」

 「死者か。だれが・・・。」

 「大丈夫ですか。使いです。」

 

 「どうでしょう。シャカの王。いずれこのいったいは、わがマガダ王、ビンビサーラのものとなります。今、わが王と組めばシャカ族を殺すことはしない。ただし財宝のすべてと、通商の権利と、そして、男百人、女三十人を差し出しなさい。そうすれば少なくともあなたがたは助かる。」

 王はことば少なかった。

 「私は、争いは好まない。」

 使者は、

 「しかし、あなたは、西方の国々から珍品を運び、最高の栄華を得ているではないか。自分たちの繁栄がどのぐらい、まわりの国からうらやまれているか、ご存じないはずはなかろう。あなたの王子は、それを守るために、日々部下を連れて多くの人を殺している。好きで争うものなどいない。インドの統一が血に飢えているのですよ。大インドの共栄のためですよ。」

 「では、なぜ奴隷を持っている。」王は震えながら声を荒らげた。

 「彼らは、人ではない。野蛮な動物だ。人が違う。素性が違う。」

 「いずれ、あなだがたは、われらをそう呼ぶでしょう。」

 「それが、あなたのお答えと承りましょう。シャカの栄華は欲しいが、あなたがたを滅ぼすことなど朝露の消える如くであるということも、お忘れなきよう。」

 「今のままにしておいて欲しい。」

 「言ったでしょう。あなたがたは、皆にうらやまれている。歴史の流れに従いなさい。」

 その夜、シャカ王は、一族の主だった者を集めた。

 王は、「一族を守には、マガダに従うしかない。」

 王子は、「いずれ、殺されます。辱められてのち死ぬよりは、最後まで戦って死にましょう。」

 「おまえは、最近、血に飢えているのではないか。」

 「父上こそ、マガダにうまく乗せられて、弱気ではないですか。」

 「しかし、和平のためには、何人かの犠牲がいる。」

 王と王子は夜遅くまで話し合った。

 

 その夜、シッダアルタは眠れない。昔、おばあさんから夜毎聞いた、伝説が頭の中を勝手に往来した。

 ・・・昔のことになるが、ドラビダという名の人々は、この大地にしっかりとくらしていた。皆仲間を友達と呼び、取れたものは皆で分け合った。隠し持つものはいない。仲間をさげすむ者はいない。他国から人が来ると、村を上げて歓迎した。最高の食事はそんな時のためにつくられた。長い間彼らは幸せだった。

 ところが、北からアーリヤの武士がたくさんやって来た。彼らは、今までのどの人達とも違っていた。殺すのである。殺すことが彼らの仕事であった。みな殺しにされる村。奴隷にされる人々。黒いドラビダは劣った人として、永久の低い身分を与えられた。かのやさしい人々が低い人と言われ、人を殺す人々が上に立った。それからというもの人は人を恐れ、びくびくしながら虚勢をはる人がこの世に溢れた。・・・・

 父が首をはねられ、ラーフラが奴隷にされる。昨日、自分が切り落としたマガダ人の顔と父の顔が重なった。

 翌日、今度は、コーサラからの使者が来た。

 「君、シャカ国は、わがコーサラの王に忠誠を誓った。決してマガダと組まぬように。そのような時は、娘の命はなく、また、シャカ族の血は絶えるものと思え。」

 翌日は、マガダの使者が来る。兵士の往来が多くなった。

 

 「もう、日は近い。」

 シッダアルタは、月の暗い夜、城をひとり抜け出た。

 マガダへ向けて、その姿は兵士ではなく、一人の僧の形で。

 シャカの王子が来たというので、門は開かれた。

 ビンビサーラ王は、

 「なんという恰好だ、その歳で世を捨てるのか。栄華を誇るものよ。」

 シッダアルタはかまわず言い放った。

 「私の手にした武器が、人を傷つける。恐ろしいことだ。これは、わが魂を傷つけている。人々は互いに腹を探り、睨み合い、争っている。あたかも、水の少ない池にさかなたちが、飢えてぶつかりあうように、人々は互いにもがき恐怖にふるえている。人々はさまざまな境遇に生まれるが、どの人も満足することなく、「もっと良くなりたい」「こんなはずはない」と思い、あくせくと走り回る。自分こそが正しいと思い込み、「われが絶対である」と言っては他者を攻撃する。私は分からなくなった。何故なのか。何故、こんな恐ろしいことになっているのか。

  その時である。私は、人の心に一本の矢が突き刺さっているのを見た。この矢の力で、人はあちらこちらへと突き動かされている。この矢を引き抜いたならば、人はさまようことなく、苦しみ傷つけあうこともない。

  財産が、家族が、名誉が、快楽が、さまざまなものが私たちを束縛している。しかし、いつまでも、それらに魅了され、寄り掛かっているのはやめようでないか。「わたしこそが」「わたしのものである」という自我意識と所有観が私たちを引きずりまわすのである。欲望にさらされたものを厭い捨てて、自己の平和、恐れなき平安をこそ学ぼうではないか。ニルバーナ。怒りの炎の消えるところ。恨みの歌の終わるところ。恐怖のなくなるところ。人と人が互いに素顔で憩えるところ。それを大切にしようではないか。

  私は、今日、城を出ました。私は、武器を捨てて出家します。

  どうか、王よ、対立を離れて、ニルバーナへの旅立ちを理解してください。」

 

 かくしてビンビサーラはシッダアルタに聞き入り、帰依をしたといわれる。

 ここに竹園を寄付し、シッダアルタと仲間の住居とした。

 遅れて、コーサラのパセーナディ王も帰依をした。

 マガダの竹林精舍やコーサラの祇園精舍には多くのシャカ族や心の平安を祈るものが出家した。

 しかし、シッダアルタ(ブッダ)が年老いるころ、パセーナディの子ヴィドーダバが王となり、シャカ族をみな殺しにしてしまう。そのヴィドーダバの国コーサラはマガダの後継者アジャータサットに滅ぼされる。紀元前二六八年、アショーカの時代、仏教の教えによる平和な世が築かれたといわれる。