世界一立体曼荼羅皆一緒大楽仏建設中   

永代供養
       
  今から1200年前に弘法大師が大唐長安で両界曼荼羅を授かり京都の東寺に立体曼荼羅を完成されました。
1200年の時を越えて今、石手寺に規模を大きくしてこの立体曼荼羅まつりますのは、ひとえに修行を修行をする為であります。
この曼荼羅の正面中央においてあたかも自身がその中央に居るかのように観念して、大日如来や不動は、金剛ハラミツ、不動明王の印相にて真言を唱えつつその思いを心に刻むことで、次第に心の煩悩がなくなり、平常心となり、慈悲喜捨の心や安心満足という一切所平等平安の心を修練していきます。
これを繰り返すことによって心は軽やかになり、煩悩の苦がなくなり、人の痛みを知って罪をなさず人を喜ばせる善を行うことが安易となり、ますます心は向上して真に幸福な心を得ることができます。   
 即身成仏
   
  空海さんの偉大さはよく知られているが、その最も大事な教えはあまり知られていないのです。その一つはよく知られていて慈悲です。そしてもう一つは即身成仏です。成仏というと今ではあの世に逝くことと思われがちです。しかしこの即身成仏の本来の意味は仏に成るということです。ここで仏も死んだ人のことと思われがちですが、仏とはお釈迦様やお大師様を言います。仏は死んだら誰でもなれるのではなくて、一定の修行をした人のみが仏に成ることができるのです。そして仏になることを成仏というのです。
 そうすると成仏するには相当大変な修行をしないといけないこととなりますね。ある宗派では何度も何度も生まれ変わらないと修行は完成できないといいます。その理由は罪を消さなければならないからです。戦乱の時代には人を殺して生きる。あるいは貪欲に負けて財宝や異性を巡って略奪する。あるいは殊更に動物を殺して旨いものを食べる。貪欲と欲愛と怒りとヘイトと嫉妬と高慢など。これらは自分を悩まします。また時には人を傷つけます。だからこれらは煩悩と呼ばれます。この煩悩に走った人間は他人を傷つけて罪業をつむのです。この罪業を積んだ人は業が深いと言われます。悪事が身体や魂に染み込んで煩悩から抜け出せないのです。思いつくことといったら自分が得することばかりで、快楽にどっぷり漬かっているのです。良い事は思いつかないし、悪い習慣から脱出できないのです。業とは善への想像力の欠乏と悪い習慣です。長年にわたってこの煩悩に浸っていると身も心も悪に染まってしまって脱出不可能となるのです。
 そうなると、悪事の数だけ善行をしなければなりません。いやいや、魂に染み付いた悪業がなくなるには、その犯した何倍もの懺悔が必要です。懺悔が終わると次は償いです。傷つけた人々を癒して巡礼せねばなりません。償いが終わると次はその何倍もの救済が必要です。これは善行です。悔い改めと贖いと善行です。マイナスをマイナスと認め、償って回って、次は善行して人を助けて回るのです。懺悔と贖罪と善行です。何度も輪廻して行った悪行をなくすには何度も輪廻してこの懺悔贖罪善行を繰り返せねばならないのです。ですから、輪廻は恐ろしいのです。何度も何度も生死を繰り返してやっと身を潔白にして、それから成仏するのですね。
 それに対して空海さんは、そんなに何度も輪廻する必要はないと断じました。それには理由があります。まず大師は生死を繰り返さずとも、この一生で死ぬまでに成仏できると考えたのです。成仏とは、罪を贖って且つ至福を得るということです。至福といっても永遠の至福です。
 これを即身成仏といいます。
 その理由は二つあります。一つは、皆一緒であるということ。もう一つは、煩悩と慈悲と涅槃の解釈です。言い換えると空・無相・無願と平等です。無願とは煩悩の皆無なこと。無相とは煩悩が皆無となることで全ての誘惑が消えること。喉の乾きがなくなると水が見えなくなるように水の姿である相貌が消えます。つまり意識が変革して悪習慣が消えるのです。するとそれまで私たちを閉じ込めていた世界が崩れ落ちて私たちは宙に浮きます。つまり空です。ここで留まると宙吊りのままになり、地獄と天国を行き来します。此処で重要なのは慈悲の気持ちを強く持っていることです。つまり平等です。平等とは宙ぶらりんの宙吊りの空ではなくて、一切平等平安の空です。これには慈悲の願が必須です。そうすれば空を通り越すときに即身成仏するのです。そうでなければ逆に空と同時に地獄に落ちます。煩悩即地獄です。底無しの煩悩に誘惑されるのです。そうではなくて、最初から強い慈悲心を持っていれば空と同時に一挙に成仏します。
 そもそも空海大師が仏教を信奉したのも釈尊が仏教を起こしたのも慈悲心故です。自ら戦闘や自殺の淵に追い込まれつつ、敵や人々の苦難を自分に感じて、自他平等の脱出を試みたのです。人々の苦難に耐え切れず、その解消に全てを打ち込んだのです。それを慈悲といいます。慈悲が強烈だからこそ、煩悩の重罪を感じたのです。罪の重さに耐えられなくなり、全精力をその解決に向けたのです。だから強烈な反省。強烈な償い。強烈な御破算を意思に課したのです。決して殺してはならない。奪ってはならない。その相手の痛みは自分の痛みとなり自分の煩悩をこれでもかこれでもかと否定して空に至らしめたのです。
 ですから皆一緒という願と無願無相空の方法が融和して積み重なった業を一挙に御破算にすることができるという方法を釈迦も空海も成し遂げ他のです。
 ここで問題があります。空海さんも釈迦さんもそのような強烈な苦難を慈悲で乗り越えたからこそその強靭な意志力と修行をなしえました。では、そのような強烈な体験を持たない私たちは同じことができるのかということです。やはり、何度も生まれ変わって輪廻してその上で両人の獲たのと同じ意志力を身につけるしかないのか。
 空海さんは言います。今此処に曼ダ羅がある。これを観る者は真理を得ると。
 曼ダ羅とは、大日如来を中心とした五つの仏が幾重にも居並ぶ仏様の集合です。そしてこれは五智慧とも呼ばれ、五つの煩悩の心が五つの智慧へと変化した様相を表しています。特に三組の五智慧は涅槃と修行と慈悲行を示しています。
 煩悩の活動を三業といい、仏の活動を三密といいます。この三業を三密に変化させていく仕組みをこの曼ダ羅は持っているのです。
 それぞれの仏様の前でその仏の声と思いと姿を修行します。それを繰り返していくと煩悩が次第に仏の智慧に変化していきます。そしてこの世で罪障を克服して至福を得るのです。

三業を三密に変える
 三業の三とは心と体と言葉です。思うことと行いと発言といってもいいでしょう。弘法大師の真言宗はこの三つを整えると直ぐさま仏と成るというのです。
 言う事は立派だが陰では何をしているか分からない人。無口だが陰日向なく他人のために骨折る人。良い考えは思いつくが実行できない人。思いやりのこころは持っていても巧く伝える事ができなくて却って人を傷つける人。
 たとえばこんなことがありました。何年も姑さんの介護をして愚痴をこぼさない立派な方がありました。でもその人は心の中ではこの姑さんが嫌いでした。なぜなら一言もお礼を言わないからです。お嫁さんはそれでも毎日ご飯を作り部屋を掃除してお風呂に入れてあげて介護しました。そうしたら、姑さんが亡くなる前の晩に「ありがとう」と言われたそうです。そうするといままでわだかまりがあったのがいっぺんに吹っ飛んで嬉しくなったそうです。
 さて、この姑さんはもっと早くにお礼を言えば良かったのか。お礼を言わずにあの世に持っていけば良かったのか。
 でも一番大事なのは、人のために尽くせる事。ひとを大事にすることです。自分のことばかり考えて居ては心は煩悩に支配されます。他人を道具と思わず、他人を自分以上に大事にする。そんなこころを持つと、いろいろなことが発見できると偉人は言っています。
 ことばとこころとからだ。
 この三つを整えましょう。その方法が、毎年十月に行う福徳灌頂です。それぞれの仏様の真言を唱えながら作法をしてその仏様の心をじぶんのこころに広げます。
 皆一緒のこころ
 修行のこころ
 こころの清浄と空
 空と宝物の発見
 思いやりの眼差し
 正しい行動
 不屈の精神
 大日如来の心の習得・やさしさと平安

 これらの心を順次、サンマヤ真言、願掛け、不動明王真言、虚空蔵真言、阿弥陀真言、薬師真言、大日勇猛真言、大日一切所平等平安真言、そして南無大師遍照金剛で行います。

 まもなく石手寺境内地に十五体の曼荼羅仏が勧請されます。心を清め、あらゆる仏、あらゆる人々と親和合流しつつ御自分の生命の尊さを感得して生きている喜びに浸りたいと存じます。
 修行の大要については仁王門前の冊子にてご案内しております。どうぞ我こそはと思わん方は冊子にて心の準備をしていただき建立の暁にはご一緒に御宝前の前にて一緒に修行いたしたく存じます。