祈りの空間 悲しみの共感
悲観のくに 悲しみを背負って
生活の空間 無一文で可能?
円環の世界 何度も再生まで
四国八十八カ所を世界遺産に
どこが遺産か
人か
自然か
それとも これからつくっていく

痛み・癒し・祈り・再生
若き弘法大師の遍歴

 弘法大師が四国を巡礼したのは厄年の時という説もある。その真偽はさておき、本人が書いた聾瞽指帰(三教指帰)という書物を私達は直筆に見ることができる。若い伸び伸びとした筆往きの墨跡に弘法大師の人生への対面がひしひしと伝わってくる思いで、さらに言葉の奥へと、誘われる。

 弘法大師は、若き名を真魚、後に空海と変わる。空海の名は、四国の室戸に立った南へと開けた明星の空を指しているか、或いは大中国へと漕ぎ出た遣唐使船のひと月にわたる海と空のみの苦難を表したかと思える名である。空と海、山を嫌ったわけではない。石槌によじ登ると先の書に書かれている。石槌での食うや食わずの乞食行の果てに、死の国への扉である室戸で、「谷響きを惜しまず、明星来影す」と声明するのである。このとき、真魚は、二十歳前後。十八才としておきたい。それは、真魚が都の大学から失踪したのが十八であり、聾瞽指帰を成したのが二十四才となっているからである。

 聾瞽指帰を要約すれば、幼少の時から大学へ入り官吏にならんと一族から期待を受けた真魚は、勉学に勤しみ、見事、都へと行く。しかし、大学へは聴講生であったとする説もある。というのは、身分が足りなかった。今と違って身分差別の時代である。斜陽する身分を回復するための唯一狭き門が都の大学であったことは、今日に通じる社会問題である。蛍の光窓の雪、そして腿に錐を突き首に縄を掛けて睡魔怠慢を退けて刻苦勉励したとの比喩は、藤原純友の乱などから推せば、あながち嘘とは言えない。そして時まさに、荘園割拠の時代へと歴史は動いていく頃である。

 さて、先の書物において、真魚は仕官できないことと親不孝を痛切に詫びようとする。出家は親不孝であるということを暗に示しながら、しかし、儒教と道教と仏教を看板にしながら実は、世情批判と自分の遍歴と将来を語っていくのである。一見、教理哲学の批判書のように見えながら、私には社会と生き方の批判書であり、自分の生き方の宣言に見える。

 時の権力者・朝廷そのものを批判しているかどうかは不明であるが(そもそも国家批判した書など後世に残る時代ではない)、租庸調の不労所得に群がる貴族階級のことを牙を研ぎらす蛭と喩え、武力盗賊と断定している。そしてその既存のシステムに胡座を組み、身分制度、忠孝の差別思想によって強化された社会全体を儒教社会とするのである。何も仁義そのものを否定しては居ない。しかし、人と人とのつながりや関係を善へと導いた一つの常識としての儒教は、ひとたび成立すると、上の階級、下の階級、働くものとその実りを奪い去る者、従えるものと従わざるを得ない者、もっと言えば、蝦夷の者は、そもそも人であるにも関わらず辱められた名を頂き、イクチ(生口=奴隷)として真魚の一族とともに暮らしていた、その者たちをそれぞれの身分、損得、支配関係へとくくりつけ固定するのである。

 その不自由な固定化の共犯者である考え方を儒教として退けるのである。それは、大学進学、官吏登用に破れた青年の恨みであったかも知れない。真魚は、敗者の気持ちで都落ちしたであろう。それは南紀へ、そして故郷四国への流浪となった。一時我が家への道を急いだであろうが、莫大な努力が無駄となる虚しさは、真魚の生そのものを否定せんと脅かしたのではないか。着の身着のままというより、行き先を失い、希望を失った、何も持たず何もない放浪が真魚を待っていた。それでも真魚は、書物や空想に道教の仙人を知っていたのではないか。不老長寿の薬を持ち、内裏と山脈をひとっ飛びに駆け、心は山へ海へ谷へと自由自在、何に捕らわれることもなく思うように満足し思うように動き回る自由な生き方。それを道教の世界として捉えたのではないか。

 無為にして真なり。何も成さずして完璧。既存の上下強弱支配のがんじがらめ、支配者被支配者の世界、即ち儒教世界から落ちぶれてこじき放浪する真魚は打ちひしがれ惨めな気持ちから、山野を歩くうちに次第に、気ままな世界へと気分を作り替えていったのではなかろうか。

 都のこせこせとしたしがらみと策略入り乱れ、人間の邪さに疲れる暮らしから離れて、自然の素直さに浸り、田舎の素朴な人々と接するうちに、伸び伸びとおおらかに生きる息吹を取り戻した。自然の中で癒されながら、あるときは町で石をぶつけられ、あるときは浜で糞を投げられた。そのように真魚は書いている。何も優しい人ばかりではない。汚い身なりの乞食人を、いじめる可哀想な人はどこにも居た。彼等はいつどこでやさしい心を失ったのか。何をくよくよと区別する必用が在ろう。だれも彼もみな同じ自然の一部ではないか。同じ生き物ではないか。区別しておののき嫌いさげすむのは私達の小心のせいである。大きな心を持てば、みな同じだ。心は常に悠々として自然を遊び場としている。何をはばかることが在ろう。悠々自適何を恐れることが在ろう。無一物、放浪浮遊の旅は、飢えながらも満ち足りた者であったろう。そう聾瞽指帰に書いてある。

 恐らく、逃亡と呼ばれ私度僧と呼ばれる御法度の抜け人紛いの自分と同じような身分の人とも出くわしたであろう。村を追われて、山間に逃げ込んだ人にも出会ったであろう。先の書には、その幾人かが記されている。そうか、私のように絶望して彷徨っている者は他にも居る。私はひとりぼっちではない。たぶん多く人が、村を追われ野に逃げないまでも、いつやってくるかも知れない租庸調や武力の恐れに戦いながら暮らしているのだ。自分ひとりではない逃亡の群に安心もしたろうし、その一方で、生きにくい人々の輪を感じたのではなかろうか。何故に、人は仲良く生きることが出来ず、競争させられ、血吸い蛭の牙研ぎに捧げものをし這いつくばらねばならないのか。もっとおおらかに伸び伸びと助け合って生きる仕方もあろうと。そう思ったとき、真魚は家へ戻る決心を始める。
 このまま浮き草のように流れ流れて気ままに生きていくことも出来る。親も捨てふるさとも捨てて、仙人のように心豊かに生きることもできる。しかし、それでは、多くの土地に縛られ租税に縛られた人々は自由であろうか。あるいは、この山奥に隠れ住みながら心の中だけの自由を楽しむのが本当の幸せであろうか。儒教世界とした現実社会そのものを変えて、だれもが自由な世界を取り戻すことが出来るのではないか。それこそは、憐れみ第一と断じた仏教への決心であった。
 僧は結婚出来ないということも頭をよぎったであろう。

 しかし、他に方法が在ろうか。既存のシステムと補強思想のルートに従ってぎすぎすした上下関係をよじ登るのか、それとも道教の仙人のように世捨て人として世間から遊離遍歴するのか。それとも、出家して仏教の道をいくのか。少なくとも真魚の見た仏教は、世間を超越した仙人然とした、ひとり楽しむことではなかった。独り都へ戻ってやると声明するとおり、既存社会そのものの悠然化を目論むものであろう。

 聾瞽指帰の末尾には、私も他人も動物も共に助かる道だと言い放っている。生きとし生けるものは、みな、それぞれの立場、貧富、身分、階級を離れて、こぞって仏さまのところへ集まり、みんなで修行をして、みんな幸せを覚るのだと、謳歌している。

 世間の弱肉強食のしがらみに押しつぶされようとした青年は、自分の世界を四国の山野友人とともに築き、再び、世間へときびすを返して自他共に助かる仏教の道を歩み始める。谷響きを惜しまず、明星来影す(苦難があればこそ、その苦難を越えていく道がしっかりと輝いている)と。
 
石手寺と衛門三郎

 昔当国荏原の郷に人あり、名を衛門三郎と云いけり。その家代々富み栄ゆ。然るに此の人の性たらく・・・強欲非道、神をないがしろにし、仏を嫌う大悪人なり。石手寺の縁起にこう書かれていた。四国の土地は不思議な土地であった。富み栄え乍ら財を私有し、恵みを行わない者を極悪非道と呼ぶならわしがあり、求めるのみで施ししない者をさげすんだ。

 財を蓄えても一向に村の為にも町の為にも骨折らず、自分の家だけ良ければ良いと云う人は旦那様とは云わなかった。自分の自動車は買えても公民館に座ぶとん一枚寄付出来ないような者は因業者と呼ばれ檀那様とは呼ばれなかった。昔は村に町に一人や二人は必ず檀那様が居たものである。檀那とは程を越えて人に施ある者を云った。村の祭りに酒をふるまい、村の行事に何程か分限を越えて協力する者の名であった。衛門三郎は町の分限者であった。寄付は頭割りの分限以外は出そうとしなかったし、頭割りの負担金さえ出し惜しみした。自分の生活を守るに充分な財力があり乍ら、村の為にも町の為にも金を出そうとはしなかった。

 どこかの国の今の金持ちのように、外国旅行に無用な金を使っても公園一つ寄附せず、金もうけには目がなかったが、他人の為には一文の金さえ惜しんだ。大きな屋敷に大きな庭石をすえたが、ブロック壁を高くして他人をを寄せつけず、ぜいたくな車で行き来しても子供の遊び場一つ寄附しない下品なおとこであった。 自分の一門は守ったが、世の中の財産を一人じめする心算か飽く事を知らず金をため込もうとした。世の中には公害と汚水だけをまき散らせ、利益は会社の為だと云って明け暮れる事では今時まじめな会社の社長様程ではなかったが、どこかの国の商社の重役方に似ていた。彼の方には彼の方で云い分があった。”時代の波について行くにはこうするより外に方法はない。”彼は八人の子供があった。八人の子供に立派な家を残すにはそうするより外に道は無いと信じて居たからである。麦種が不足する時には、二年分でも三年分でも貯め込んで、一粒の種さえ他人に分けようとせず、義農作兵衛の様に妻や子供にも食べさせず、どこかの国の石油会社のようにタンク一溢石油があるのに売らなかった。物が不足するとみると、トイレットペーパーまでかくし、洗剤までも売り惜しみして金儲けに熱中した。どこかの国のお医者様の学校のようにいくら仕事を希望するものがあっても、自分の見つけた野いちごを他人に分けようとはしなかった。村の人達は漸くこの分限者が世の中の為には余りならない事に気づき始めた。三十七階のビルを恨めしそうに眺めたが、衛門三郎はそ知らぬ顔でその入口に石垣を築いた。 

 時の王様は、お国の発展の為だと云って衛門三郎の邸の前にだけ大きな道をつけたが、一般の者にはぜいたくだからと云って車の乗る事を禁止した。総て悪意ではなかった。世を想い、人を思う気持ちが無かった訳ではなかった。只、衛門三郎は余りにもせっかち過ぎた。八人の子供達の前途を思い、町の将来を考える事に急ぎ過ぎた。家にも村にも子供達にも無理が当たり過ぎた。子供達はやせ衰えたし、町の人々は疲れきっていたのに、衛門三郎は余りにも元気過ぎた。弘法大師は弘法大師はこれを気遣われた。

 ”余り急ぎ過ぎると家の者も子供達も大変な事になりますよ”衛門三郎はお大師様の注意に耳を傾けようとしなかった。二度三度の注意も無視し、無理な土木工事に気をとられ過ぎた。家に集まる村の人達はだんだんと人がへり、子供達まで動員して進めた工事には無理があった。新しく開かれた田畑は広かったが、その護岸工事は余りにも弱かった。一夜の風雨に崖は音高く崩れ去った。八人の子供も村人も土砂くずれの下敷きとなり、八つの塚は骨さえとれない墓場となった。衛門三郎の門は残ったが一族は亡びようとしていた。くずれおち荒れ果てた屋敷の前に立って衛門三郎は今更のように弘法大師の注意された事を思い出して涙を流した。財も田畑も今の衛門三郎には何の価値も無かった。今更乍に思い止まらなかった自分を悔いたが、無くなった子供らを呼び戻す術とてなかった。今まで村の発展に生命打ち込んできた衛門三郎はどうしてよいか解らなかった。田も畑も崖の石積みまでもが後悔の種であった。お四国に大師を頼って四国巡拝の旅に出た。一本の大杉の下で行き倒れた衛門三郎、一生の大半を一門の繁栄のために投じ、妻や子供や村人達にまで見放されて一人旅先に後悔と恨みに涙流さねばならぬ自分の一生の悔恨を石に刻んだ。衛門三郎、まじめな努力が、そして一生の骨折りが、たった一寸八分の石に刻まれた。しかし後悔先に立たず、今は旅先に一生の過ちを後悔する外方法が無かった。一本のちびた杉の杖は朽ちて世を終わりはしなかった。人々の心の中に再び芽をふき、四国の山野に大師を尋ねる人々に話かける。”衛門三郎のなげき”は人の心にきざまれるべきであった。石に刻まれた衛門三郎の石は、河野の血すじに新しい風を吹き込んだ。”明日には明日の風が吹く”伊予の国に衛門三郎の難儀を再び繰り返してはなるまい。

 ”八人の男子皆悉く死に失せたり”そして、四国巡礼いく度と云う数を知らず、旅先に病んで、その身まさに終わらんとするに及んで、弘法大師一寸八分の石に衛門三郎と銘み付け両手にさずけ給う。それより幾ばくの年月を経てか、河野息年の男子に生まれ来り、遂に家をつぎ息方と名乗り此の国を領せり、この石を当山に納むと云う。衛門三郎の名は忘れられ一寸八分の石の字は疑われても良い。しかし一門の栄えに気を奪われ、子供らが机に青ざめ気力衰えて行く姿は、衛門三郎のなげきに連なるものではなかろうか。一寸八分の小石に刻まれた衛門三郎のなげきの物語は浅草の観音様の大きさでしか無い。そして伊予の一寸八分の石の刻みはその真偽さえも定かではない。しかし、今、今日衛門三郎が町々村々に立ち、家も子供も誤り何れ悔恨の涙にくれる事も忘れて、財余っても衛門三郎よりもきつく、檀那の美徳に背を向けて、”我が一門の繁栄のため”に帰依も無く施も無くて、檀那となれるべき時に檀那とならず、利益追求のみにあけくれる飽く事を知らぬ営利法人、血も無く情も無い営利法人商社の衛門三郎は、やがて人の血も涙も吸いつくし、地上に八つの塚を浮かび上がらせる。極悪非道、神を無いがしろにし、仏を嫌う大悪人、衛門三郎は一体どこに屋敷をかまえ、どこに八つの塚を築こうとするのか。飽く事を知らぬ営利主義の亡者がこれ以上世を乱す事は許されてはならない。一寸八分の石に衛門三郎と刻まれねば止まる事を知らぬ現代に、石手の奥に納まる一寸八分の石は一体何を物語るのであろうか。そして、十八丈に刻んでも眼にはいらない衛門三郎と町一溢に積み上げられても解らぬ人のなげきを、はっきりと世に刻み、再び繰り返してならぬ人の過誤を正さねば、鉄とセメンの文化は人の上に八つの塚を築く事になるのではないか。
 四国遍路の人

 「これは最高の贅沢ですよ」。大学生と見間違えたお遍路さんは、四十歳後半の実業家だった。真っ黒に日焼けして、白装束の男性は二十センチもすり減ったかと思える杖を持っている。一番からここ五十一番まで歩いて来たのだ。どこまで行っても何もない室戸岬や、ただ同じ風景が繰り返す足摺半島を彼は知っている。「うまい具合に休みが取れて」と言いながら、今日で二十二日目という日記を見せてもらう。一周すれば四十日以上かかる。「だんだん早起きになり、体が軽く快調になった」。それにしても健脚だ。

 早速、回りはじめた理由を聞くがはっきりしない。皆そうである。四国遍路をしている人たちは理由がはっきりしない。しかし、はっきりしないだけに動機は深刻であったりする。悲しいことは皆伏せているから。そのうちに打ち解けてくる。

 「まず、自分を鍛えなければ」と言う。仕事は快調だが壁を感じている。現代皆そうだ。燃えていて不完全燃焼。そして「見えなかったものが見えてくる。四国を歩いていると政治も経済も見えて来た」と言う。四国には山と海と貧乏しかないのに。


 この言葉分かるだろうか。梅雨から盛夏へ、草の生い茂る獣道を杖で毒蛇を探りながら歩いてきた人の言である。大阪に戻れば、一糸乱れぬ仮面の経営者としての彼が待っているだろう。「帰りたくなくなった。ずっと遍路していたい気持ちだ」。そのままアウトサイダーして永遠に回る遍路さんになれるような気がする場所だ。
四国遍路の人 2

 この寺で多くの若いお遍路さんが途中下車する。そして途中下車する人はやはり人生で途中下車して遍路へ出た人である。「仕事で失敗して遍路している」「家庭が崩壊して・・」「高校は出たけれど・・」「一度就職はしたけれど・・」という具合である。

 遍路は一時の逃避地である。そして癒えた人、再起した人は遍路を途中下車する。この遍路、何度回ってもいいことになっているが、活路を見いだせなければそのままその人の墓場となる。「自殺行」「死に場所」「死国」といわれる所以である。遍路道の傍らには行き倒れの遍路たちの無名の墓が多く残っている。

 最初の遍路人は弘法大師であるが、彼は進退窮まって僻地に流浪すると自ら記している。彼がそのまま行き倒れになっていれば、四国遍路は社会に絶望した者の「自殺行」となっていた。しかし、彼は仏教を手掛かりにして活路を見いだすのである。それは社会に敗れた者が社会へと帰っていく「再生の道」であった。既存の支配社会への絶望、そして世捨て人としての放浪、四国で人々と自然に出合いその中で精神的自由を得て、再生と既存社会への復帰と変革。

 弘法大師が再生したことで、四国遍路の自殺行は同行二人のイメージを得た。四国を遍路するということは、絶望の淵に立つと同時に光明の間近にいるということである。
 四国遍路の人 3

 「気がついたらお寺に来ていた」。突然夫を亡くした彼女は、悲しみにくれていて、私にはなすすべがなかった。そんな彼女が四国遍路を始めた。そして二度目を回るという。「お遍路をしている時は気がまぎれます。お札所で会った和尚さんの言葉で少し気が楽になりました。まだまだいたたまれない気持ちですがもう少し回ります」と言う。

 最愛の人を亡くして、誰にも会いたくない、悲しみを独り癒したいという人はどこへいけばいいのか。同行二人。本来は弘法大師と二人連れという意味だが亡き人と二人連れの旅である。人が死ねば、そのお位牌を持って一緒に回れば功徳になるという。巧い話だが、実際に時間をかけて同行二人していると心が安らいでくるというから不思議である。

 何のことはない。時間が必要なのである。人と分かれるには全く空虚ではない時間が必要なのである。何か有意義な事をしながら時間をかけて自分を変えていくことが必要なのである。親戚の関係が薄くなった。人間関係の絆が弱くなった。人が無条件に大切にされる場所はどんどん減っていく。

 お四国はお弔いが認知された数少ない場所である。悲しみが寄り合う場所。その悲しさが悲しさを和らげる場所である。そして人が生きていくとはこんなに悲しく苦しいことだと知らされる。
 四国遍路の人 4

 「私の父はどうしてそんな人々を泊めてあげるのか分からなかった。ライ病や肺病のお遍路さんを善根宿だといって泊めてあげるのです」。

 社会的困窮者への最終福祉施設としての遍路は実話であった。この寺にも常連の永劫回帰のお遍路さんが泊まる。手押し車に家財道具一切を積んで回ってくる親子もいた。着替えもろくに持たず、何日も風呂に入らぬ体に近づくには勇気がいる。「村で不治の病になるとその村から追い出される。行き場のなくなった者は遍路に出るのだ。四国には昔から、外から来たものを大切にする太子信仰があって、そんな人々をも食べさせ、お堂に幾日かずつ泊めた。そして次の村へと引き継いだ。途中で亡くなれば墓を立てた」。

 社会から忌避され追い出されてきた者と、それを「お遍路さん」として迎える者。不思議な世界がここにはある。元々、遍路する人は弘法大師であったり、外来の異文化招来の聖者、滅罪の修行者、ひいては自分の代わりに修行して回る人である。遍路の姿をしていても病人や悪人や生活困窮者を差別するのかどうなのかが、接待する側の人々には「やさしさ」として求められた。迎える側は、来訪者の難儀を知って迎えたのである。そこには尊い人であると同時に、底辺の人であるという構造が出てくる。難病の者を手厚くもてなすという捨て身の行為を導き出すこの遍路というシステムは、人間心理の清濁を包括している。
 四国遍路の人 5

 「成人式の代わりに遍路に出す」。こんな習慣が戦前にあったそうである。他の村の生活習慣、他の田畑、他の山河をみる社会勉強でもあった。しかし何より、自分たちだけで暮らし、他の人に会ってこいということらしい。

 お遍路さんには二種類の人があると言っていた。うつむいて歩く人と、上向いて歩く人である。どこが違うのか。それは人を避けて行く人と人に出合いを求める人なのだ。遍路は辺土といい、僻地の事である。わざわざ僻地に逃げてきたのが遍路だから、人々に会う必要はない。ところが人々に会うようになるという。

 まずは、お遍路さんには多くの人が声をかけてくる。「どうぞお接待を」とお菓子を差し出したり「次の町まで送りましょう」と車のドアを開ける。実は、逃避地でありながら、認知された逃避地であって、遍路地の幾人かは遍路を待っている。だから、独りになろうとする孤独な逃亡者も、世間へと引き戻されるのである。

 あるお遍路さんは「出会う人に声をかけようか、やめようかと思いながら、色々やって来た。するとだんだん分かってくる。この人はこんな人だということが」と言う。他人の存在を確認しにくい時代である。他人なんて居なくても生きていけると錯覚している。お遍路に出たら、「唯我独尊」を決め込むのは難しい。
 四国遍路の人 6

 納経帳というのがある。八十八の寺で本尊の印を貰う。そして真っ赤になった納経帳がある。それは何十回も回った印である。回れば回るほどいいから回っている訳ではない。気が済まないから回るのである。それより、回るしかないから回り続けるのである。

 その最たる人は行き場のない遍路人である。ある「四国遍路紹介書」に英語で「無一文で回れる遍路」とあった。実際に無銭で回ろうとした人も居る。それはそれなりのやり方がいると言っていた。お遍路の姿をしてお経を読む。そのスタイルが要る。失敗すれば、身を崩し単なる流浪の人となる。果して今日の仏教界に「布施」で暮らせる仏教があるのか問うてみたい。葬式代や参拝料で成り立つ寺院はあっても、仏教を志すものが布施を受けて生きていける道はない。その僧(人)の徳に対して布施するという事実はないのである。その意味では、四国遍路はその修行によって生活可能の幻想を持てそうな僅少の場所である。

 つまり、仏教は布施をするに値する幻想を喪失してしまった。仏教には崇高な理念も、悲しみへの労りの祈りも見えない。何を思っているのか、何を思いやっているのかがない。つまり、僧や寺に魂の宿りを感じないのである。それに比して、遍路にはまだ何かが残っている。それは遍路の行人の悲しみや祈りや汗の雫が醸しだす遍路の共感する魂である。
四国遍路の人 7

 「四国が荒らされていく。せっかく残っていた自然が破壊されていく。現代の公共事業、社会資本の充実とは自然資本の喪失でしかない」。四国を歩いてみると現代が浮足立って見えるという。車上からでは見えない世界である。高速道路を伝っていくとコンクリートと金網越しのかわりばえのしない旅が待っている。それは豊かな自然を石灰の瓦礫で覆う危険を秘めている。日本中便利になって行き先を失った。

 しかし、コンクリートのこちら側に住んでいる私達はそれに気づくことはないし、失われていく自然を強烈にいと惜しむこともない。それは四十日もかけてとぼとぼと歩いた人だけが知る世界だ。

 歩きはじめる時、お遍路さんはあれもこれも沢山の荷物を持って出掛けるという。そして歩を進めるうちに身軽になっていく。これもいらない、あれもいらない。そうして最低限必要な物だけ持って歩く。それはお釈迦さんの袈裟と鉢だけの遊行を思い出させる。持ち物が減っていくにつれて、出会う人が大切に思えるという。

 一日、三、四十キロ歩く。「仕事のことを考えている時はなかなか時間が経たない。そんな時はお経を何十辺、何百辺と唱える。口は蟹のように泡だらけになる。こんな時は目的地に早く着く」という。時間の長さが違うんだ。「足で感じる時間」ということを聞いた。この自然、この人、求める方向が異なれば見え方も変わってくる。
四国遍路の人 8

 とくべつ何があるわけでもない。とてつもなく長い四十日間。何もないと言った方が良いかもしれない。こんな所へ何故人々は来るのか。どうして何時までも居るのか。

 「どこにも行き場がない」からだという。そういえば流浪人、尾崎放哉が「さみしいぞ、ひとり五本の指をひらく」と詠んだとか。世の中が暮らしにくくなると遍路が増える。若者の遍路や四十歳過ぎの遍路が増えるのは時代を反映しているのだろう。ただしその人々は「行けば何かあるだろう」ということでやって来るのである。明確に何があって何が得られるというのではない。逆に、自然と人間しかいないというべきだろう。その中の人間は怪しい。人間の姿をしても人間でない者が闊歩している。つまり人が困っていても手を差し伸べない人々である。そして自然も破壊されつつある。東京を遍路するのと四国を遍路するのといずれは同じになるかもしれない。

 そういえば地下街のホームレス・ダンボール生活の人々の方が同胞愛があるという話や、先の尾崎に共鳴しているという話が載っていた。四国遍路よりも地下街で托鉢をしたほうが自分の発見の近道になる日は近いかもしれない。
四国遍路の人 最終

 四国に来る人は型破りな人が多い。良くも悪くも世間から外れた人達である。

 四国遍路の物語は弘法大師に始まる。弘法大師は若い日、真魚と呼ばれた。真魚は、一族に期待されて努力した。それは身分制と強固な支配関係の中での「儒教的な努力」といえる。是非を問わず今の時代が決めたルール通りに努力する。しかし、その不自由さが我慢ならなかったのか。真魚は突如、都から姿を消す。浮草のような生活と後に語る四国放浪の辺土生活である。衣食住・名利を離れた山水に身を遊覧させ、権力と非権力、富と貧の間を自由に行き来する仙人の生活である。しかし、飢餓と逃避の孤立生活は行き詰まる。そして第三の道、この世がそのまま楽土、自由の大地に成る道を求めるのである。それが弘法大師の四国遍路の出口すなわち仏教であった。

 現代、何もしない一週間をつくれる人は少ない。そして四十日をつくるのは至難である。ならば、一生を無駄と決めるホームレスにやがては道を尋ねる日が来るだろう。

 四国遍路にモラトリアム=時間稼ぎする若者が増えた。しかし彼らが何から解放され何へと向かっているのかは見えない。現代は笑いと駄洒落とポルノで覆われ、真実の世界を見えなくすることで皆が我慢している。

 四国遍路は自分の心を遍歴する事である。自分を自由にする事である。そして身も心も社会も自由にする跳躍台である。

 心を旅する四国遍路が、弘法大師の遍歴を辿ることを祈って止まない。それは弘法大師が祈りつづけた「宇宙のあるかぎり、有情のあるかぎり、みんな涅槃を得るのだ」という希望の道である。