仏教小豆知識仏教百科
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最新号同行二人
CATU 世界平和 LOKA
石手寺
〒790-0852 松山市石手2-9-21 Tel:089-977-0870
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石手寺新聞
「伊予の国いして」
目次
・2003.同行二人三月号
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2002年七月号
○憲法九条は仏者の悲願
仏教教理を知らない人には不思議だろうが、現憲法の前文や九条は仏教の根本精神を体現している。
人類は武器のない世界、戦いのない世界をどれほど希求したことか。「不殺生」「命を痛めない」仏教は、苦や痛からの解放である。このことが、一国の法律ルールの根本である憲法に明言された。画期的な事である。このルールを変えてはならない。このルールこそこれからの世界の生き方であることは明白である。
○心の明るさ暗さ
仏教の禅定(精神統一)に軽安というのがある。心が軽やかで恐れのない心境をいう。その反対は、浮かれ過ぎと、ふさぎ込みと、恐怖と怨念である。心はいつも揺れているものである。
朝方、今日は彼女と逢うからとうきうきしていた彼が、デートの時間が迫ると荒れ始めたりする。期待が恐怖に変わるのか、そしてデートは巧くいったのに、帰ってきて「ああ言えば良かった。あんなこと言うんじゃなかった」とふさぎ込む。心がころころ変わって、うきうきしたりふさいだりするのは、致し方の無いことである。
では仏教が嫌う、うかれ過ぎ、ふさぎ込みはどんなことだろう。要は、つまらないことに何時までも虜になって、大事を忘れたり、過去のことを何時までもくよくよして、徒に疲れることである。
さて、この心というのは、結構いい加減な玉手箱で、例えばうきうきしている自分と落ち込んだ自分はまるで別人のようである。それどころか、お互いの存在を知らないかの如く、振る舞う。これぞ煩悩のなす妙技と言えようか。本題はこのクルクル変わるこころの、見えている世界と見えない世界である。この見えている世界と見えていない世界に二通りある。一つは知っている世界と知らない世界である。もう一つは、知っているけれど、見たい世界と見たくない世界である。
先日の重度障害者との一緒のコンサート合唱。障害者といつもお付き合いしている人は、よく障害者を知っている。でも知らない人は知らない。是非知って欲しい。特に障害者の環境を。
所で、障害者のことを知っているのに、そのことに深入りしたくないと思う人もいるだろう。知っているけど見たくない部分。または排除したい自分。これが、その人のこころの暗い部分になる。「そのことには触れないで欲しい」と思うことはないだろうか。それがわたしやあなたの、触れられたくない部分である。この部分こそが暗い部分へと変身する。
自分は完璧な人間だと思っている人が居るとする。坊さんや先生は御多分にもれずである。この立派なわたしが、そんなはずはない、という調子で居たとする。そんな自分が他人を貶めたり暴力を振るったりしているとする。そんな「有るはずのない」自分は、そんな自分が居るにも関わらず、意識から葬り去られる。その捨てられた部分はどんどん、暗い部分として沈殿していく。ここに、こころの明るいところと暗いところの二分化が起こり、心はひずみ、心は分裂していく。
ここからが問題で、この見たくない自分が自分に復讐を始めるのである。その復讐のパワーは自分へと向かえば良いのだが、他人様へと向かう。事も有ろうに、それも自分より弱い者へと向かう。これは差別の原因となることが多い。
ではどうすれば良いのか。簡単で、自分の暗い部分を認めれば良いのだ。でも完璧な自分にはそれは出来ない。だから、完璧な自分を止めればいい。自分はふつうの人だと思えばいい。ふつうの動物だと思えばいい。
だから立派な人間は、立派でない人間を創造し、誰でもいいから弱い立場の人間にその悪役をさせる。実は、自分の明るい部分と暗い部分の対決の構図を、外界に投影しただけである。
心は丸い方がいい。そして周辺と中心がない方が良い。そうすれば、差別はないだろう。人が人を見下げたり、高慢になったり、そして戦争を仕掛けることはないだろう。そう信じたい。
○妙玄寺さんと交流
阪神震災ボランティア
総勢十六名の打てば響く会のみなさんが、宝塚へ激励の太鼓演奏に行きました。石手寺では、震災よりボランティアを続けていますが、昨年倒壊したお寺の石や瓦とともに、除災鎮魂のお地蔵さんを立てましたが、そのご縁で、今回その妙玄寺さんに招待をうけ、宝塚での激励を兼ねて行きました。
○声かけ運動
人間は不思議なものである。ほんのちょっとした出会いで、生きる元気を頂いたりする。お四国参りの仏木寺での出来事。
その日は、少々落ち込んで、あの世も近い気分でお参りしていたから、なおさらであったろうか。
とりあえず、こちらから「こんにちは」と声をかけた相手は、お寺の方でお掃除をなさる方であった。すると「こんにちは」と声が返ってきた。更に続けて「お元気で、またいらしなさいや」と聞いたのである。何ともうれしい気分がしたのは、気のせいであろうか。
人は人の支えで生きていく糧を得るとはよく言ったものである。
○上役支配
支配されている人間は嫌いだ。上役や上司やもっと言えば自分より強い輩に支配されている人間は嫌いだ。なぜなら、話をしていて面白くない。会話が発展系でないからだ。
話は展開するのが楽しい。起承転結ならぬ起承転転すってんてんである。だからみんな主人公になって盛り上がる。
戦争は絶対してはならない
戦争に加担してはならない
防衛庁が「敵は本能寺ではなく敵は反戦にあり」と言ったかどうか。ならば、「敵は自衛隊にあり」になってしまう。そう言えば沖縄戦を語り継ごうとしてできた「平和記念館」の日本兵の銃剣は、沖縄市民の方に向けられていた。その剣は知事の交代とともに、あらぬ方向へと向け変えられたのだが。軍隊は国民を守るとは限らない。前の戦争では国体を守るために国民は多く殺された。しかし、その戦争を後押ししたのは他ならぬ国民だったようにも思われる。現今のワールドカップ熱の日の丸乱舞と東北地方の困窮が重なれば、国民はまた戦争を後押しするかも知れない。
戦争が愚かなことであることはみんな知っている。そして今の日本は平和ボケと言われようが、他国への憎しみはないし、戦争の動機はない。ただ前の大戦で何があったのかも知らないし、そのことへの懺悔がない。このことは外交にとって致命的で、アジアを旅する人々は、各地で、日本軍に殺された遺族に出会うのだが、返す言葉がない。だから平和を望む私たちの真意は空振りしてしまう。
私たちは、もう一度、戦争の反省に立つべきだろう。報復戦争加担の懺悔もすべきだろう。ピスタチオを剥き一s0.09ドル一日0.18ドルを手にする人々の頭上に爆弾の雨を降らせたことを懺悔しなければ、平和は語れない。
国民がもっとしっかりしなければいけない。ワールドカップのエネルギーをもっと平和への力に変えなければならない。
戦争法・有事法はいい加減なものであってはならない。
心と心の橋渡し
先日、重度身体障害者の共同作業所をつくろうと、ボランティアが集まった。松山市コミセンの大ホール。私たち石手寺子供会のみんなは、前日から合唱の練習をし今日は、障害者のみなさんといっしょに、「ぶらんこの歌」や「歩き出そう」や「いとしご」を歌う。また介助者が要るというので、信者さんや、ボランティアメンバーも来ている。
前日には、有志の方や御詠歌の方や信者さんから寸志ももらって今日寄付をする。語らずとも心が一つになって、嬉しい一日が期待できた。今日は楽しくなりそうだ。でも、障害者やその家族の人々にとって、この社会でみんなと「なかま」らしく生きるのは、今のところ困難に覆われている。そして今日支援する作業所は、その障害者の社会共生の着実な第一歩になるのだが、それは大きな第一歩でありながら、松山地区に生きている二万五千人の障害者にとっては、小さな小さな門出であると言わざるを得ない。
石手寺安養閣前のマイクロバスに集まった子供たちは、みんなはしゃいでいる。遠足気分なのだろう。前日のリハーサルで、目の見えない人、手や足に障害のある人といっしょに石手幼稚園で練習をした子供たち。「もしも手が伸びたら、自分でぶらんこにのろう」という歌詞に胸を打たれた子供も居た。でも、出会いのほんの数時間で仲良くなったわけではない。このバスに乗っている子たちは、みんな手や足が自由に動いて、何の屈託もなく、幸せに見える。
会場は、多くの人で埋まった。障害者の人、家族の人、ボランティア、声援に来た人、音楽が好きで来た人。そこに車椅子の子たち。目の不自由な大人たち。声をあげる子供たち。はしゃぎ回る子供たち。いつもとはちょっと違う人たちが集まっているけれど、これが本当の社会の姿だと思ったりする。ツーカーで通じ合える間柄も良いけれど、こうやっていろんな人がいっしょになって、最初は戸惑いながら、やがてはうち解けてツーカーの仲になっていくのが良いのだろう。
誰かが言っていたけれど、物心が付く前の赤ちゃんや幼児の時代から、隣に障害の子が居て、手が不自由でも足が動きにくくても、言葉がわかりにくくても、いろいろな人がいろいろな仕方で生きていて、互いに交流していれば、「その子たちはそれが当たり前なんです」。なのに僕たちは、どこかで線を引いたのか、閉鎖的になったのか、分からないけどいつの間にか都合がいいというか、変な常識に従って、自分の世界を創り上げてしまっている。いろんな人が居るのが普通で、自分のような人ばかりだったら、それこそ気味が悪い。でも、一度出来上がった常識は変更しにくいから、どうしても新しいことは、受け入れにくい。でもそうすると、なかまに入っている人は良いけれど、途中からという人は、大変苦労をすることになる。
そう言えば、他県から来た人がこう言っていた。「松山の人は、取っつきが良くて、当たりが良くて親切にしてくれる。だからいい人だと思っていたら、裏に回ったらみんなでわたしの悪口を言っている。表と裏があって、特によそ者は排除される」と。誰にでもそう言うことは多少有るのだけれど、これを克服していかないとならない。
そんなこんなで、会場には様々な人が居て、そして他人のお役に立ちたい人もいて楽しい場所になっていた。鼓太朗さんの太鼓、野田淳子さんの歌があり、僕たちの合唱が始まった。「ぶらんこがゆれる、ぼくのゆめのせて、ゆれている・・この手がこの足が真っ直ぐに伸びて歩けたら、ひとりでぶらんこに乗りたいな・・」この歌を百人で歌った。障害者も子供も老人も女も男も。この歌の途中、車椅子の人が自分の思いを次々と語った。
「ぼくはみんなと働きたい」「わたしはグループホームをつくりたい」「わたしは仕事に就いたが倒産してしまい、今は働いていない。今度は共同作業所でパソコンを習いたい」「新しいなかま作業所ができてうれしい」「年齢とともにだんだん障害が重くなっていきます。もっと長く仕事がしたい」などなど。
愛し子を歌った。「愛し子は今出ていく。・・この両手の重み、それは地球の重さ、この胸のぬくもり抱きしめて・・・」障害を持つお母さんの言葉を聞いた。「子供と一緒に死のうかと考えていた。でもたくさんの人の励ましで、私たちは今まで生きてこれました。わたしはだんだんと年を取っていきます。この子の行く末を思うと、胸が痛みます。自分たちで生きていける環境と協力が要ります」。
石手寺の信者さん二人は、目の見えない夫婦の介助をしていた。方に手を当ててもらい、誘導する。舞台にもいっしょに上がって、歌を歌い、朗読を聞き、障害者の希望に耳を傾けた。その信者さんはこう言っていた。「きれいな方でしたよ。小さいときに目が見えなくなったそうです。それまではだから見えていたんです。最初は、手を肩に当ててもらい案内するだけだと思っていた。でもいろいろと説明してあげたら分かるんですねえ。『風船が落ちてきましたよ。黄色や赤や。青いのも。たくさん落ちてきましたよ』そうしたら、喜んでくださって、嬉しかった。色も分かるんですね。きれいな方で」と。
そうなんだ。いろんなことがこの信者の方とご婦人の間で通じ合ったんだ。障害者とは通じ合わないかもしれない。分かり合えないかも知れない。そんな不安が僕らのどこかに無いだろうか。未知の世界のようで怖い気がしなくもない。でも信者さんは、しっかりと相手の心をつかんだように思われる。目が見えなかったり、手足が不自由だったり、耳が聞こえなかったり、人は様々である。
一見して、何かが出来なかったりすると可哀想だとか、出来た方がいいとか勝手に思ってしまう。でも、そんなことを通り越して、それぞれの肉体の向こうには、心があるということを感じた。何かが出来るから心が美しかったり、豊かだったりするわけではない。出来ないからといって、心が貧しかったり不幸だというわけでもない。心は心であり、その人その人が培っているものである。そのことに到達した人だけが言いうることなのだろうが、そのお二人は、心と心とをしっかりと交流させ、信頼の気持ちをつくったに違いないと思う。
その時の幸せは本当に「嬉しかった」「喜んで居られた」ということなのだろう。そんな気持ちを持っている人が心豊かな人たちなのだろう。
なかま作業所をつくろうと思い立った人々の願い。それは「みんなで集いたい」「みんなで働きたい」「わたしの居場所が欲しい」「一人は寂しい」というものだった。障害者が、行き場を失っている。場所をつくりたい。どうしてこんな当たり前のことが出来ていないのか。みんなが、みんなについて理解しようとしていないからではないか。心が貧しいからではないか。
健常者と呼ばれる人々は、社会を謳歌している。そして自分たちの町を拡充していっている。どんどん肥大化する強者世界。強い者、元気な者が闊歩する世界。でも忘れていませんか。いろんな人、特に弱者との共生。
心と心は目に見える物を通してだけ通じ合うものではない。見えないからといって無いわけでもない。見えるからといって美しいわけでもない。心は心である。心は心の仕方を通してのみ知りうる。心は心のやり方でないと見えない。その心が見えたり、心が動いたり、心が伸縮自在になる構図や法則はその道に迷い込んだものにだけ与えられるのだろう。そして、そんな出入り口が閉ざされている現代は、みんなで変えていかなければならない。
心と心の真の交流。そのやり方を私たちは学ぶところへ来ていた。言葉や光や触れることや、そんな媒体は、心と心のふれあいのためにある。自分の言葉でだめなときは、相手の感覚を使う。相手の言葉を自分の言葉で聞くのではなく、相手の世界で聞く。そんな縦横無尽な融通無碍な心と心の交流が見えた。
追伸
「なかま作業所」設立の募金を継続しています。一口千円です。
2001年7月号
#ふくろう会 #チベット僧と平和祈願 #ビルマ学校
ホロコーストと慈悲
神は愛である、と、愛が神である
キリスト教の本質は「隣り人を愛せ」であると喝破した文章に出会った。私も仏教の本質は慈悲であると確信しつつある。慈悲とは「自分は愛しい。そのように他者を愛せ」というものである。
先の文章は、人類が長い歴史にわたって数限りなく行ってきた、ジェノサイド(皆殺し)と、それへの多民族の無関心に係わって放たれた文句と理解している。ユダヤ人の大虐殺や南京虐殺やチェチェンの悲劇や、関東大震災時の朝鮮人虐殺を自分は思い浮かべてしまうが、それらの虐殺、加えて、仏教の祖師であるお釈迦さんの一族は出家者を除いて皆殺しにあっている、その惨殺は、どうして起こるのか。ひょっとすると、人間にはもともと残酷で攻撃的な血が流れているのではないかという一つの諦めのような結論を、早々と性急に出して行動放棄してしまいそうな目眩に襲われそうであるが、何故、そんな酷いことを人間は行いそして、他の民族の滅亡と苦しみに対して、かくも冷淡であるのか。また、無関心でいられるのか。不思議であり、情けない。
しかし、アメリカ海兵隊の隊員が、ベトナム戦争に従軍中、突如、ベトナム人女性の出産に出会い、その人間を自分と同じ人間と錯覚(覚悟か錯覚か誤解を解いたか)した瞬間に、彼は、殺すことなど出来ず、任務放棄して反戦運動に身を投げた。それまでは、彼は軍隊に付き物と思っていた名誉と英雄を追いかけて半ば、幻想に落胆しつつあったのだが、彼は、世界の見え方が、自分たちとそれ以外から,同じ人間達に変わって、「隣人愛」に目覚めたのである。
それは、自分たちとそれ以外、仲間と部外者、人間と非人間という具合に、何処かに線を引いて、良きものと悪しきものという二分方の上に、暴力を思う存分振るっていたあり方から、引き裂く線のない、ボーダーレスの、言うなれば空か一味平等の世界に入ったのである。
それを見破る人は、少なくなく、キリストやシャカや私達にとっては空海(弘法大師)が、その惨劇を見破り、「生きとし生けるものの幸せが一杯」という境地を理想とし「隣人を愛せ」又は「慈悲」または「万灯会の願い」という宗教主張へと至ったのではないか。しかし、その当初の眼目が曇らされ、神学であるとか、覚りとか、超能力という馬鹿げた方向へと力が流されているのは、またしても、ジェノサイドを痛く感じない、利権的支配者のエゴの押し戻しと考えられるのではないか。
隣人愛や慈悲こそ世界宗教のメインテーゼであるという確信は、世界の殺し合い、自由競争の過激がおさまり、世界から貧困と暴力と苦痛がなくならないかぎり否定されない。
ふくろう会
地域の子どもたちが、幼稚園児から中学生まで集まり二十五名ほどになった。大人が十名ほど。昼間は四国霊場四十九番の清掃に始まり、歩いて石手寺まで約六キロ。。五十番さんでは本堂に入れていただき、自然に正座、法話を頂く。
途中、お遍路さんに「こんにちわ」と子どもたちが大声を出すと、笑顔の「こんにちわ」が沢山返ってきた。暑い日差しだったが、公園のベンチに大人が腰を下ろすと、子どもたちは水を得た魚のように追いかけっこをして活気づいた。
夕暮れの中、一人一人がたいまつを持って、「熱いーっ」と言いながらキャンプファイアーに点火。火の粉が生き生きとした顔を照らす。驚きだったのはプログラムにない全員でのカラオケ盆踊りだった。なるべく大人の手抜きでやるというのが意図であったが、自然に起こった騒ぎは、みんなで火の周りを走り回った。最後は心ゆくまでの枕投げ。火に照らされた顔と顔を思い出しながら寝付いた。
翌日、掃除して、食べ物の感謝をして、座禅。一足早く、心の中で家族の待ち顔に挨拶した。みんな輪になって握手しながら別れを惜しんだ。
「もっと、遊びたかった」子どもたちは元気である。次会は六月二十三日。
チベット僧と平和祈願
チベットの苦難は日本では殆ど知られていない。そんな中で「平和を祈る」とはどういうことなのか。独立国のようで独立し果てぬ国のことを同じ仏教国?としてどう考えるか。
いろいろなお寺さんの協力と浄財の寄付のお陰で、この平和祈願は開始された。日本の僧侶の「声明」というお祈りに続いて、低い低い声のチベット僧の読経が始まる。高い声の私達の経とは全く異なるかのような重低音。そして、煌びやかな衣装を纏っての僧の舞。鳥、丑、鹿、と続く。派手な振り付けとエネルギーに満ちた踊りというか躍動だ。溌剌としている。
終わると賛美歌のように美しいチベット僧の合唱。チベット日本の般若心経の合唱の始まりである。仏教青年会の三連太鼓に併せて式場の面々が手を合わせ始める。事も有ろうに老堂は、豪快な響きに天より塵を降らせた。思わぬ散華にたじろぐことなく、ご詠歌へと移る。静かな澄んだ声の中、私達は自然と手を合わせ平和を希求した。
ビルマ学校
タイの僧侶が四国遍路をしながら募金を集めています。
私達もその応援をしたいと思いました。ビルマには第二次世界大戦のインパール作戦で日本、ビルマ、インド、イギリスの多くの兵士・住民が死にました。日本兵も多く悲惨な最期を遂げたと聞きます。だから、現地にはナガヨンパゴダなど、多くの慰霊碑.パゴダが建設されています。しかし、戦後春秋を重ね、友も高齢となり、訪ねる人も少なく、かの僧が言うには、「『消えずに残るのは人々の思い、ビルマ人と日本人が協力し平和な世界を築こうという想い、戦地に散った人々への慰霊、祈り』だ。と思いたかったが、実際にその地に他って感じたのは、人の思い『心、祈り』は消え去り、形『パゴダ』は残った。ということだった」そうである。
その場所で彼は一人の僧と出会う。その僧は子どもたちに日本語を教えている。彼はその僧に協力したいという。建物と机と椅子と、鉛筆もノートも送りたいという。
私達も協力したい。
問い合わせは石手寺加藤俊生まで089.977.0870
ishiteji@interlink.or.jp
御願い
天災 人災 地災
難死供養塔建立
私達は戦後50年の供養に始まり、
ヒロシマ・ナガサキの慰霊
ミナマタの祈り
阪神淡路震災供養と救援
僅かに芸予地震救援
そして沖縄戦慰霊(予定)
と、供養を続けてきて、
災難、或いは人災に苦悩する人々に出会った。
或いは共に助け合い、或いは一人奮闘し、或いは人知れず孤立無援の恨みのうちに立ち上がる命に出会った。
有縁無縁知ると知らざると、
知られしと知られざりしと、
安らかにあれと
各々の魂の供養顕彰して
二度と戦争なく人災と無関心孤独のないことを祈りたい
供養地蔵の建立を御願いしたい
お地蔵さんは持ち込み願いたい
お寺用意は二〜八万円
開眼無料
2001年6月号
弘法大師誕生
弘法大師の誕生は生まれた時を言うのか、それとも受法のときをいうのか。それはさておき、弘法大師は讃岐今の香川の多度津、屏風が浦というところに生まれた。港であり屏風のような城西仕立ての島で防御されていたと考えようか。或いは魚に恵まれた海。或いは瀬戸内の交通の要所を占めていた。母は阿刀氏という名門、父は没落豪族であったという。さらには、蝦夷侵略の時代多くの奴隷が運ばれ父の佐伯氏はその統率に当たっていたという。ひよっとすると、奴隷として強制連行された蝦夷の子どもが後の大師であったことも過考えられなくはない。
古今歴史はダイナミックに動いている。苦難の波濤の中にあり、あるいは蚊帳の外に居て私達はあれこれと思案し、苦悶するのである。そう考えるとき、「生きとし生けるものの幸福」というお題目は、颯爽と光る。
石手寺奥の院石鉄寺大祭
去る五月十三日、広田村にある、石手寺奥の院石鉄寺のお茶堂(大師空海堂)の落慶法要がありました。
釈迦堂参拝、空海堂の落慶法要の後、空高く舞い上がる柴灯護摩の煙のもと、お詣りの方々に僧侶によるお加持がありました。また、お昼には広田村名産のうどんを食し、餅まきなど楽しいイベントもあり、地元の人にも喜んで頂けました。晴天に恵まれ、豊かな自然に囲まれた場所でお大師様のご加護を沢山うけれたような気がします。地域交流にも一役かったのではと思います。
お詣りに参加して下さった信徒会の方々のご協力に感謝致します。
今年の平和祭
テレビ番組で日本人と外国の人々が討論していた。テーマは日本の侵略についてであるが、話というものは相手を尊敬する気持ちがなければならないだろうが、「新しい教科書を作る会」の人々にはその気持ちが無いようだった。そして、理論においても日本は世界から取り残されていくのではないかという不安が湧いてきた。温故知新は同時に他者への理解を伴う。
誰かが転ぶことも不幸であるが、その時、手をさしのべることが出来なかったならば、それはもっと深い不幸へと繋がる。況や自分で転がしたとなるとその子孫はそれをどう回復するかは至難のことである。不幸な人々が死にゆくのを待つ気分は後ろめたく重苦しい。
元米軍の海兵隊員が語っていた。「アメリカから軍隊に来ている人たちというのは、アメリカでは黒人であったり、どちらかというと下層の生活者、マイノリティーなんです。彼等は本国では虐げられている。いつも上から圧迫を受けています。沖縄へ来るとなんでもできると思ってくるわけですね。本国でのストレス解消に。ところが、日米の地位協定見直しなんかで、窮屈になってくる。また、海兵隊は、いつどこへ飛んでいって戦闘しなければならないか分からない。そんなストレスから、(残虐な)訳の分からない行動(放火、強姦、暴行)などが起こってくるんだと思いますね。」
2001年2月号
#大日経
#平和へのメモリーウォーク
大日経
菩提心を因、
大悲を根、
方便を究竟
これは私たち真言宗の二大経典の一つ大日経の中の重要な一節です。起因は「菩提心」。エネルギーは「大悲」。究極は「方便」である。
もっと分かりやすく言うと、どちらへ向かって、何を見つめ、何をしたかが仏道の全てである。涅槃という目的に向かって、私達の悲しみや苦しみを力にして、そして行動に責任を持て、すると「生きてきて良かった」と言える人生を送ることができるということ。そしてその確信である。
加藤登紀子さんがこう語った。
「悲しみや苦しみに根っこがない生き方は、力が湧いてこない」
と。私は何故かこの言葉に感銘を受けた。感銘というより、自分が思ってきたことに納得したというべきだろうか。大悲。大悲とは大いなる悲しみ。もともとは仏さまが持つ、衆生への哀れみや思いやりを指す。私達にとっては、仏さまのように、子供を持つ母親のような心で、他の人々のことを観るということである。あるいは自分のこととして他人のことを考えてみる瞬間である。
世界中の人々に対してこんな行をしていたら、人間では体が持たない。しかし、人間も自分の子供や家族やに対しては、そのように振る舞うことがある。そして、災害に苦しむ人々を見て、同じように心を傷めることがある。
人間も捨てたものではない。自分の事しか考えない時もあれば、他人と自分を混同して、涙を流す事があるのである。
人間は悲しい生き物である。しかし、その悲しみを共有するとき、こんなに素晴らしい生き物はないのではないか。そして、それのみならず、この痛みのなかにこそ、私達が生きつづける意味があると言うのが先の言葉である。痛みのなかにこそ、生きる源泉が在るというのである。
私は、この「大悲を根とし」というお経の文句を目にしたとき、確かにそうだが、そんな綺麗事があろうかと訝ったり、また、そんな夢世界にどうしたら成れるだろうと遙かな距離を感じたりした。しかし、一方で、この言葉のなかに仏教のロマンを感じたものである。
ところが、その言葉と同じ言葉を、仏教を嗜む筈のない人が発しているではないか。
世の中には不思議なことがある。不思議とは、別の場所で、別の人が、別の時に同じことを思い言葉にし行動するということである。そこに、人間の持つ普遍性と人間性を見いだすのは行きすぎだろうか。
最近に思うことは、普遍的な言葉・真理と、故意に造られた言葉やキャッチフレーズの違いである。普遍的とは、人間がこの状況だったらこう思うだろうなという、人間の性というか、人間の人間たることというか、人間の生まれ持った運命的性格とでもいうものである。
人間は悲しい生き物である。そして、その悲しみを分かち合う力を持っている。その分かち合う力こそが、また、生きていく力を形成していく。そしてその力がまた共感する力を勇気づけるという連鎖であろうか。
「愛はきれいな言葉ではなく行動すること」
これは、止揚学園の福井園長さんの言葉である。
年始早々、素晴らしい言葉に二度出会った。その二つ目がこれである。不思議の連続であり、至福の時である。
「綺麗な言葉が氾濫する現代に、大事なのは行動する事だ」と重度精神障害者共同生活所の福井園長さんは言う。彼の日々の熱い戦いが目に浮かぶだけに、彼の言葉には抗しがたい現実味がある。実は、止揚学園の方が毎年石手寺に募金活動に来る。そしてもう何年が経っただろうか。何年もして私はやっとその人々の善意というものを信じつつあったわけだが、そして、その生活が大変だろうと想像しつづけたわけだが、その彼方から発せられた言葉は、「綺麗な言葉を言うより、愛のある実行をする事だ」という手厳しい真実の言葉であった。
先の言葉を思い出して欲しい。冒頭の「菩提心を因、大悲を根、方便を究竟」である。
その中の「方便究竟」である。究極的には私達が何を行うか。現実をどう変えるのかが問題だと喝破している。ああだこうだと言っても、どうするのか。現実に人々が苦しんでいるのか、救われているのかが問題だと言っている。私達は行動するために、行き先を見定め状況を知り、考えを巡らせるのである。ただし、目標は安穏という幸福であり、人々の悲しみ苦しみを見つづけるという行のなかでの行動である。
行動せよ。実際に何かをなせよ。と訴えている。
それは福井さんの「愛は言葉ではなく汗を流すこと」の文句に凝縮されていると思った。
心の時代だとか、心の豊かさをとか、物ではなく心をとか、共感とか、共生とか、綺麗な言葉が確かに氾濫している。そんな言葉を発する人のほうが行動が伴わない。詰まるところ語り、嘘つきなのである。しかし、そんな言葉さえ発せなくなっている現代人はもっと重病かもしれないが、やはり気がついた人からこそ行動に責任を持つ時代が到来したのである。
この二つの戒めを金言としていきたい。
平和へのメモリーウォーク
朝八時に私達は岩屋寺を目指した。車内に五つの種火が臭う中、緑の山並みを越えて、そして、計算外の急斜面を徒歩で歩いて、私は十時にお大師さんの修行場として確かなお不動さんの懐に入った。
私は心密かに岩屋寺の御山主さんの同席を願っていたが、何と、御山主さんは丁寧な表白・読み上げ文を用意して、八カ寺参りの出発にとって嬉しく心の引き締まる読経をしていただいたのである。その前に私達は香川から来られたという家族連れのお遍路さん一行に親しくされ、行脚を愛でられ、共に本堂に入った。
飛び入りで本堂に入れるなど、なかなか出来ないことであることは、周知である。
出だしが、お不動さんであることは身を糺すこととなった。今日も何のためにどのような心構えで行うのか。今日は多くの同僚や人々を巻き込んでの行脚である。行程はほんの十数キロ、と言っても迷ったり寄り道したりで二十キロは歩いたろうと思うが、ほんの一瞬のようにお思える多くの人々との出会いが始まった。但し、ヒロシマの人々、、ナガサキの、ミナマタの、そしてハンシンの被災者の方々と出会えたのかどうなのか、それはもう一度問い直さねばならない。
しかし、道中の風景が、足の痛みが、人との出会いが将来去来する度に、私はこの歩きの意味を問い直し、自分と世界と人々との営みについていかばかりか真摯な態度を喚起すると確信する。
五つの火種は、この行脚によって「慈愛の灯」となった。そして名実共に希望の灯となるには、数度の回顧と、精神の傾注を必用とすることは肝に銘じねばならない。
2001年1月号
閻魔さん
石手寺洞窟裏の奥の院「小乗寺(五百羅漢堂)」に「閻魔大王」が建立さました。春には落慶式を行いたく思います。果して、戦争の世紀と言われた20世紀から新世紀への関所を誰が「改心深く」超えられますものやら。乞ご期待。
魔除け開運
大士ダルマ
ご存じと思いますが、大師堂にダルマ大師さんが奉納されています。奉納されたのは神元さんです。神元さんは、若いころ彫刻の勉強をされ、現在、ダルマさんや観音さんを彫られています。魔除けと開眼開運のご祈祷をして皆さんにも配付しています。
新世紀
退屈からの脱出
苦境の打破
私は二分法が大嫌いである。二分法とは○と×に分けるやり方で、手っとり早いやり方である。二分法の反対は「全て保留」か「一味平等」という見方である。
しかし、世の中は確実に二分された社会へと向かっている。ある有名な女性作家などは、弱肉強食は人間の避けられない現実であり、あたかも、弱者はそもそも生きえないかの如くの発言をしているのはご存じであろうか。その意味の深意はともかく、弱者というものが確固として存在し、その存在を放置するのか、放擲するのか、それともすくい上げるのか、それとも、もともと同胞としての付き合いをするのか。そのことが問われている。
この国の社会というのは、長い間、和を重んじると言われてきた。和とは輪であり、その輪の外には誰も出さないという指向である。落ちこぼれは出さないといえば分かりやすい。しかし、事実としては、少数のアウトサイダー(落ちこぼれは)逆にスケープゴートとして虐待され、多数の結束の口実に使われてきたのである。ところが、昨今、社会は常雇いとパート雇い、金持ちと貧乏人とに分かれてきた。既得権を持つものと持たざるもの、乗ったものと乗り遅れたものである。裕福なものと貧乏なものである。そして新世紀の課題は、裕福なものにとっては「退屈からの脱出」であり、貧乏なものにとっては「苦境の打破」である。
表題の「退屈からの脱出 苦境の打破」というのは、そのそれぞれの階層にとっての課題を示している。この国の人々の課題は一つではなくなった。それぞれの階層ごとにテーマが異なるのである。
一つは裕福層にとっての「退屈」である。満ち足りたなかでの無気力が問題になる。実は、この問題はバブルのときにはあたかも国中の問題の様相を呈していた。しかし、その時には各種の警告を無視して、人々は金儲けへと走ったのである。だから、人々の堕落と没落は自業自得なのかもしれない。
退屈とは満ち足りたなかでの目的の喪失である。そもそも金儲け以外には目的がなかったのだから、貧者に侵入されないことだけを、唯一の金確保の方法とする、マイナス成長の時代には、弱者救済などという目標など持たないほうが身のためであることは間違いない。
根本的な解決方法は、既に持っている権益、財産、権利、身分を放棄することである。無一文になることである。少なくとも心に於いては物欲を離れることである。そして、本来の和=仲間を大事にする精神に戻ることである。
さて、貧乏層の問題は何か。それは甘んじて「酸っぱいブドウ」の考えを持続することを止めることである。現在、苦難の元は自分にだけあるわけではない。有り余った生産物が、労働したくても労働することを拒んでいる。生産を分配すれば世界の飢餓は解消されることは証明されている。しかし、ここでも問題になるのは、どの程度で満足するのかという「少欲知足」の問題である。自分たちこそ足るを知って、現状の打破を決心することである。
その根本は、世界は変わっていくという事実であろう。そして、私達人間は変わっていく、即ち、成長していくという事実である。戦争の悲惨さを経験したとき私達は国際連合を創り、平和へと前進した。男女不平等で、家族が次々と崩壊するのを苦しんだ結果、男女平等を推進した。しかし、辛さも喉もと過ぎればというか、権力が密室で予算を分配し、その事を秘匿し嘘の情報をマスコミにプロパガンダさせるようになってから、平和は後退し、平等思想は後退してきた。遅々としは人間は前進しているようだが、痛みは各所に個別に起こっている。
増える自殺者、交通事故被害者、公害被害者、子供の虐待、リストラ自殺、借金自殺、世界の戦争、飢餓、などなど。
ところが、この国においては、問題はもう一つ別のところにある。
「無気力の獲得」と心理学に於いて言われる病気である。人は、効果の上がらない仕事をし続けると心身不安になり体調を崩すそうである。政治や社会や家族に要求があっても、一切手が出ない状況に置かれると、「やる気が無くなる」のである。やる気の喪失こそ、仏教において最大の罪である発心の喪失である。自分を変えるというやる気を失う。社会=一緒に住んでいる仲間関係を変える気を失う。これは生きる屍を意味するのではないか。そもそも、金儲けに溺れ、家族にかける時間を失い、困っている人、苦しんでいる人々への思いやりを失った人間が生きていると言えるのか。その問いへの答えが、自分たちの幸福と密接に係わっている。人ごととは実は自分ごとなのである。
アウシュビッツで彼が連れていかれて処刑された。私は、リベートを渡しているから大丈夫。そして、また一人連れていかれた。まだまだ大丈夫。私だけは連れていかれない。私は反政府でも、個人主義でも、民主主義でもないから。そしてまた一人連れていかれて帰って来ない。そして私の番が来た。その時はもう遅かった。一人が犠牲になるときに皆で対処すべきだったと。
2000年11月号
遍路に悲観あるべし
私は五十番札所のご住職さんに「お遍路さんは人が人生に疲れたとき、壁に当たったとき、悲しいときに行くものですね」と話をしたところ、「お遍路さんは悲観が大事じゃないかな」と言われた。そして「常に悲観を懐くものは悟りを証す」と聞いた。
悲観を辞書で引くと「人生をすべて悲しいものと考える」と書いてあるが、その意味ではない。五停心観の一つ慈悲観の中の悲観である。様々な立場から考察して自分や他人の悲しみを共に考える心である。(今月の豆知識参考)今日言うところの共感であろか。ただし、重心は悲しみにある。好きなみすずの詩に大漁がある。今月の同行二人に書いてあるのでそれを見てほしい。
先日、加藤登紀子さんの講演でこのように聞いた。彼女は旧「満州国」から二才のとき敗戦で引き上げだが、その時は当然命からがらで、日本の島を見るときは青い山々が嬉しかったそうだが(これは加藤さんのお母さんの話)、自分たちはもうボロボロの身なりで帰ってきたのだが、日本の港には大勢の出迎えがあり、ある人々は着物の正装で美しい身なりで迎えた。加藤さんらは恐らく着替えもなく何日も身ごしらえなど出来ない風であったろうから、誰も彼女らの手を引いてタラップを渡す人もなかったという。その時、お母さんは「これから生きていく戦いが始まる」と思ったという。そして登紀子さんに言ったことには「決して着飾った立場に立ってはいけない、ボロを纏った立場に立て」という趣旨の言葉だったと。
流石に、男女唄と生きる唄を歌っては第一人者と思う人の語り始めだったが、地震は震えるし酒は呑むはで、最後は「知床旅情」「百万本のバラ」そして「花」「島唄」と南の島への思い深く彼女の思いと苦難を乗り切る意思の強さに酔う時間だった。
その「ボロを纏った立場に立ちなさい」というのが最高の贈り物だった。
その何日か前に、私はあるお坊さんから「釜が崎から見る視点」という贈り物を貰っていた。そういうと、私には私の大学時代に通った「京都スラムからの視点」がある。最近はだんだんとその視点から足を抜こうとしているが、それでも私はその視点を大事にしていることを思い出した。
「そうなんだ、僕はあの場所から世間を見ることができる。そしてその視点を失ってはならない」と思う。それは加藤登紀子さんの「ボロ服の視点」なんだろうと勝手に想像する。こんなことを言うのは不遜なことと思う。私は通りすがりの視点であり、彼女は体験としての視点である。その上、私なぞは裕福さも可能な中での悪ふざけかもしれない。しかし、そんな視点を想像できるのだと確信する。言葉の上でその視点への入口を確保しているのだ。あるいはその視点を手繰り寄せる糸口をまだ握っているのだ。
さて、私情が濃厚となってしまって見苦しいが、そのような個々人が持っている人間理解の視点が「悲観」であると言いたい。
お遍路さんの外してはならない視点が「悲観」と言いたい。お四国遍路は物見遊山ではない。時間潰しでもない。遊興ではない。好奇心でもない。人生の苦難や悲しみや物足りなさや自己嫌悪や、何かしら真摯で悲しくて黙っていられなくて、何とかしてほしい、何とかしたい人間の苦しさが歩いているのがお遍路さんだと思っている。
だから「悲観」が不可欠と言いたい。それはお遍路さんを迎える私達が持つべき祈りの心でありながら、決して表には出してはならない見果てぬ心なのである。何故ならお大師さんも言うように「誰か良く他人の腸を見ん」。だれも他人の心は分からない。だから分かってほしいと思うのである。
私は私の視点を失わないようにしたい。それはかっこよく言えば、自由自在な視点である。自由自在ななかに決して「重たいもの」を失わない視点である。決して未だ分からずとももっと深く重たいものが人生にはあると思う直截な心を失わないことである。それは学校で「人間の尊厳」と教えられ名付けられた不可知のものだろう。
見えないものでもあるんだよ。ちゃんと輝いているんだよ。それぞれの人生に、それぞれの仕方でちゃんと輝いているんだよ。と、恐らく一人一人のお遍路さんは歩む彼方に語りかけているのだろう。遍路を歩まなくとも、日々の営みに人々は問いかけている。その鍵を解くのが「悲観」である。悲しみをすくい取る心の襞である。
「誓いの火」と「もやい直しの火」。二つの火は、八月五日、松山市駅まえを出発した。愛媛県歩け歩け会の俊成会長さんから、今年も平和巡礼行をしようと声をかけられ、お願いした次第である。「継続は力なりと」さらに「保つべきものは縁と」。この日も暑い日であったが、炎天下二百名の人々が歩いた。文字通り巡礼行である。灯火を持っての行となった。足の痛み、酷暑の難は想像するばかりである。参加したい気持ちを抑えて私は境内の準備、お接待の用意に奔走していた。六時到着、御詠歌が迎える。昨年の延命寺での感激が再現される。
夜になると境内には六百人が集まった。
この日、私達は江戸家猫八さんの講演を頂いた。猫八さんは、軍隊にいて広島原爆投下後の救援を行った。「原爆が投下されて、線路の両側は死体の山だった。云々」そこから猫八さんの話が進まない。原爆の事は、思い出すと胸が張り裂けて絶句するというのである。その絶句の後、祈りが始まる。
ゆっくりと平和観音広島曲の御詠歌が流れ始める。先頭を石手幼稚園の稚児行列が進みそのあとを人々が続く。境内の六百人ひとりひとりがコップに平和の願いを書き込み、火をつけて灯した。日は暮れて、灯は明からむ。私達は二千個弱の灯明を囲んで祈りを捧げた。弘法大師から受け継いだ万灯会である。
翌日、二十名程の私達は、広島の灯籠流しへと灯を持ち出した。この時の灯は、広島平和の灯、阪神震災希望の灯り、誓いの火、もやい直しの火そして8・5二十世紀の供養が折り重なった灯である。
お寺参りを済ませて私達は昨年と同じ広島平和公園に着いた。同様に早坂暁さんが来てくださった。早坂さんは毎年灯籠流しに参加されている。原爆の絵を持って街角に立ち、巡礼したらいいと言ったのは早坂さんである。また白装束のお遍路さんに来てもらうのが有り難いと仰っていた。
事実、私達が休憩をしていると、通りかかった老人が尋ねてきた。
「今日はどこからお祈りに来て下さったんですか。私も昔、お四国に行ったことがあります」と。
「道後温泉の近くからです」と答えながら、すぐに親しくなった気がする。
この日は、この痛みを通して心が通い合いやすい日なのである。
昨年と同じ場所で持ってきた灯籠を流す。
白装束の読経はなぜか痛みを和らげてくれた。
長崎、水俣と巡礼して絡まっていた痛さが軽くなったような気がしたのは気のせいだけなのだろうか。
それより一言加えなければならないのが皆さんのご協力であった。単なる手助けではなく、やはり、痛みを癒したい、平和を築きたいという思いを感じた。一人ではないということを実感し、そこに私の癒しと生きる元気の源泉があるように思う。
2000年12月号
四国遍路の癒し
石手寺巡拝団で久々にともだってお四国に出掛けました。マイクロバスでの一行は、一番さんからどこまで行けるやら。道すがら皆さんにお約束したのは、少なくとも境内に入ったら、「こんにちは」と言うということでした。
もう一つの約束ごとは、しっかりと発心祈願をするということ。先日から言うよう遍路の心は「悲観」ということ。自分も他人も大事にして、その視点として悲しみを受け止める心を持つということでした。当然、お四国には、「子供の病気を治したい」「亡くなった連れ合いのお弔いをしたい」「自分の過去の罪障を消滅したい」というように重たいものを背負った方が多くお参りされます。そのことは言葉に出さなくても、お参りしている姿を見ていればひしひしと伝わってくるのです。却って、表に出さない方の方がつらいものと対面していると分かります。
さて、「境内では必ずあいさつをする」と言いだした私でしたが、細い通路で少人数と対面したというのであれば、ことは簡単ですが、広いお寺の境内に、あっち向いている人、こっち向いている人、知らんぷりしている人となると、出る声がしぼんでしまいました。
言葉を掛けるのも、なかなか大変です。あるお寺では挫けてしまって、しばらく黙りの行になってしまいました。悔しい思いでしばらく歩きましたが、これではいけないと発憤して、「行だ」と決めてやり直し。
するとどうでしょう。こちらのかけ声もしゃんとすれば、相手からもしっかりとした声が返ってくる。そして、躊躇していた心も、一線を越えると後は楽々です。その日の最後の札所は十二番でしたが、山の上に突き抜けて大杉の許を抜けたときの気持ちは爽快そのものでしたが、その、そんな爽快感というか、世間との距離の縮まりというか、嬉しさが返ってきました。
声を掛けてこえをが返ってくる。それは実は、他人が親しく感じてくる入り口だったのです。この入り口はどこまでも続いているように広々と感じました。そしてその好い感じの広々道はずーっと世界の果てまで続いているように思いました。
社会力
二十一世紀への希望 社会力というのは、自分で自分の社会をつくっていこうというみんなの力をいいます。今のこの国は社会力が弱っているわけです。
平和の祈りをメッセージに世界各地を回り朝鮮半島の三十八度線で結願された西村直紀さんがこう語っていました。「今は大人が子供をダメにしている。なるべく規制せずに遣りたいことを遣らすのがいい。子供は希望に満ちていろいろやるものだ。」という趣旨のことを。語っていました。
今やこの国は、子供が大変だ。大人がだらしないということで頭がいっぱいのようです。そして、少年法を変えたり、教育基本法を変えるといった復古的傾向で乗り切ろうとする人々があります。でも奉仕を義務づけたり、親孝行を押しつけるという形では益々こどもたちはこの国から去っていくような気がするのは間違いでしょうか。
私達はみんな何かの集団に属しています。それは、家族とか会社とか、ムラとか国とか地球です。そして、その集団のなかに自分がしっかりといれば、その集団が好きになり、その集団をつくっていこうとします。逆に、中心部から排除され、冷たく扱われると、その集団には背を向け、孤独になりあるいは反抗して破壊します。
それは、人間が社会的動物である運命だそうで、自分が属している集団に「好意」を持つとき、人は骨惜しみをせず布施(ボランティア)するのそうです。だからボランティアを強制するなどというのとは主客転倒、御法度です。
自分のマチやムラや国が好きになれば、自然と子供たちは社会に貢献するのです。そして四分の三の人々が社会に貢献したいと考えています。なのにそれが力にならないのはなぜか。気持ちはあるのだが、方法が分からない。そして何より、集団の中にいる気分が薄いのではないでしょうか。
集団で何かが出来る位置にいる人は当然せっせと働きます。ところが、集団からいじめられたり、認められないという経験が続くと、中に入りたいけれどはみ出してしまうという結果が起こっていないでしょうか。集団の中にみんなが入ってこれる状態を造っていくことが必要でしょう。それは当然、互いに認め合うことです。声を掛け合うことです。
お互いがお互いを認めあい、必要とし合うこと、「好感」を持ち合うことが必要なのでしょう。だからまず、批判的ではなく肯定的な言葉、気持ちが必要です。それと、一部の人が中心を握らないことです。みんなが権力や働きを分け合って、自分の力を発揮できる形態を模索することでしょう。民主主義とは、みんなが社会づくりに参加出来ることと言い換えた方がいいかもしれません。一部の人が得しているようでは、大勢はそっぽを向いて、社会が嫌いになっていきます。
例えが卑近かもしれませんが、家族があって、その両親が互いに反目しているならば子供はその家庭が嫌になって出ていきます。逆にみんながその家庭が好きで居心地がいいならば、自分のことはさておいて、働きます。互いが家庭を好きになるということはどこからくるのでしょう。まず、気がついた人から、相手を「好意」を持ってみること。そして優しい働きかけをすること。そして、但しダメなことはダメということが本当のやさしさだと行き着くことなのでしょう。それも、家族愛があってこそ、相手の間違いは間違いだと言い切れるのではないでしょうか。そうするとどこかの政治家かいうように「何か言うべきことを言えない雰囲気がある」とは、本当にはこの国この地球を愛していない人が多いということではないでしょうが。それはやがて、みんなで社会をつくっていく力=社会力が衰え、みんなが分離分散して、社会が溶けていく運命へとなるのでしょう。
運命共同体としての、この社会を好きになること、その工夫が今求められています。それはやはり、規制ではなく、自分の意志で、自分の責任で、遣りたいことをしっかりやるということではないでしょうか。
まず、人を受け止めながら。好感を持って・・・
同行二人
先日お四国へ行きましたが、その時は二十五人の同行でした。そこで、「お遍路さんは、いつもお大師さんと一緒です。つまり同行二人です。そしたらこのバスには何人乗っているでしょう」と問いましたら、大きな声で「五十人」と皆さん答えました。一応正解です。なのですが、お大師さんは歴史上唯一ひとりなのですから、二十六人という答えもあれば、みんなのお大師さんと唯一のお大師さんとで五十一人という答えもあります。
そこでまたまた質問してしまうわけですが、「この中には、亡くなった連れあいのご供養に来られている方もあります。その方は何人でお参りを?」と問うと「3人です」と答えが返ってくる。その人の家族がいて、きょうは来れない親戚がいてということになると、このバスには乗りきれない人々とお大師さんが一緒に巡礼していることになる。
そして、やはり妙は、他ならぬお大師さんと一緒なのです。お大師さんとは、私達が悲しみや苦しみに在るとき、そっと寄り添って歩いてくれる人、あるいはしっかりと先導して歩いてくれる人なのです。何も言わなくてもいい、一緒にいてくれるのが有り難いのです。ひょっとして、「隣人を愛しなさいよ」などと言ってくれるともっとお大師さんかなあと想像しながら。
面影の観音さんで、ご供養を
お大師堂に「いして大士」魔除けと開眼を奉納していただきました。その仏師の方が亡くなられた方のご供養に、お写真を見せていただき面影のある観音さんをつくって仏壇などでご供養されてと提案されています。観音さんはふくよかで清らかな感じのお姿でしたので皆様にもご提案します。
一体がご供養付きで十万円ぐらいで出来ようかと思います。
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2000年10月号
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たのも祭り
万灯会・平和の巡礼行では、もやい直しの火を灯して祈願を行ったが、そのもやい直しこそ人と人との絆の回復を祈っている。たのも祭りの「たのも」とは「たのもう」という掛け声である。
物質に満ち足りた中で、人間関係の崩壊が起こり、その内に貧富の差が広がりながら、人間の絆の希薄さから、離れていく他者の魂を繋ぎ止めることが出来ないという状況が起こっているのではなかろうか。個々人の危機的状況が多発しているにも関わらず、自己責任という名の題目が、悪しき偽物の個人主義と相まって、困難な人を見捨てる社会構造をなしている。
要は、昔であれば、世間の中から心理的剥離をして「淋しい孤独」へと落ちていく閉鎖された個人を、家庭や、共同体や、会社が色々な形で慰め相談に乗り手助けをして庇ったものである。所が希薄な人間関係の結果、ゆるやかな優しさは落ちていく他者を結果的に見殺しにする。そのような状況の中で、途轍もない犯罪が現れ、その犯罪の読み方として、怖い他者が再生産されるのである。
了解されない他者が幻想され、過度の恐怖が防衛本能を刺激し、他者への働きかけをしり込みさせるという悪循環ができる。この状況を打ち破るには、平常時に於ける他者への働きかけを増やしていくしかない。それも、見返りを期待した拝金主義の関わり方ではなく、自己への誠実さと愚かな他者への信頼信仰の上での、遊びの余裕を持つ関わり方が求められている。
その祈りを「たのもう」の掛け声の中に籠めることはできないだろうか。たのもうの掛け声は、現代の危うさからの脱出の叫びでもある。
菊花灌頂
灌頂は仏さまの水を頭の頂にかけるという儀式。その前に信者の皆さまから菊の花を献花して頂きたい。それは仏さまを喜ばせるため。仏さまとは私の心の中心と弘法大師が言われているから、仏さまを喜ばせるとは私の心=仏心を喜ばせること。仏心を喜ばせるとは、私達が仏さまへと向かう精進修行の旅に出る決心をすることである。
その決心出発は発心と呼ぶのだが、その発心こそ覚り=常楽我浄への確かな一歩であり、その決定が灌頂そのものである。
皆さまに多くの菊花を頂きたい。そして覚りと安らぎへの出発の決心をして頂きたい。
2000年平和の灯巡礼行
今年の巡礼行は長崎平和公園から始まった。前日までは快晴が続き、この日もおてんとうさま(太陽)に干上がらせられるのかと思っていたところ、大雨、突風という荒れ模様になった。
長崎の原爆被害を記念しての灯火は「長崎を最後の被爆地とする誓いの火」がある。昨年は四国霊場会の行事として広島より平和の灯を頂いて帰り、五十四番延命寺を出発、四国八十八ヶ所を巡礼、各地で供養祭、平和祈願祭、被爆者の証言会を行い、一月半をかけて八月四日に当寺にて結願した。その灯は今も石手寺境内の常灯明に灯っている。その灯に加えて、今年は長崎の誓いの灯を頂きに行くことになった。
以前に、京都でアジアの僧侶らとともに世界平和祈願があるというので、清水寺に赴いたことがあった。余談だがアジアの仏教徒からみると日本の仏教徒は仏教徒でない。理由は肉食・妻帯である。その時、何十名かで祈願を行った中に長崎の圓成寺さんが居られて、その事を思い出した私は早速に連絡をしたところ、長崎誓いの灯維持会に手配して戴いたというのが成り行きである。誠に縁は大事にすべきというか、成り行きは良い方へ良い方へと行うべきか。
長崎に近づくまでは、それ程でもなかった風雨は激しくなった。本当に私達は死者、被害者への思いがあるのだろうか、本当に平和を願っているのがろうか。その事を問われているような、不安になる天候である。早朝に出発し二時ごろ私達は長崎平和公園に到着した。
長々と待って戴いた圓成寺さんには今も頭が上がらないが、護持会の宮本さんらが到着した。皆さん供養と祈願のために馳せ参じるボランティアの方々である。早速、祈願の為に採火するのだが巧くいかない。関さんが何度も火を採るが、強風のためコップ蝋燭が消えてしまう。幸い雨は小降りで私達を祝福しているが、風は私達を試しつづけている。
やっと採火できた火を十数個の蝋燭に灯して私達は読経を行った。十万人の死者は今も増えつづけている。十人に満たない面々での祈りだったが、思いは深かった。
お礼を申し上げて私達は、長崎を後にする。天を指す平和像は、原爆の熱線と爆風と放射能の痛みを忘れるなと言いつづけている。地平を伏せる掌は、何処までも平和が広がれと願いを込めている。
私達は長崎を後にした。私の独りよがりであろうか。車は水俣へと走る。諫早湾の何処までも広がる田園はどしゃ降りの雨に緑が灰色の水滴となった。前が見えないほどの雨は、私達の行程を隔離するかのようである。水俣、それは何十年か前に見た忘れられない映像であった。公害と被害者と責任回避する企業と国。根底を走り人と人を切り離す差別、そして金儲け。被害者の無限に訴える姿の回りに幾つもの醜い人間の姿があった。
私は戦後五十年の時、ここの国、ここの人々の侵略戦争の無責任さ無反省さに突き当たり塞ぎ込んだことがあったが、その時同時に思い当たったのが「水俣」であった。その原点は私が小学生か中学生の時に見た写真や映像なのである。その最初の驚きと痛さを忘れた人のほうが少ないだろう。私にとってその人々の痛みは、政府や私達によって放置されたままなのである。
水俣に着いたのは翌日の朝九時。モーニングのコーヒーの味がしなかった。私達は水俣に二つの記念館があるのを知っていた。一つは反政府のでありもう一つは皇室が関係しているという記念館である。チッソの工場は今も幾つかが動いていた。通り越して行くと、一面は埋め立てられた水俣湾。この土に閉じ込められたのか、それとも墓場となったのか、その地中に怨念が沈んでいる。しかし、あの映像を知らない人々にとってはいずれこの埋め尽くされた人口の更地は、何事も伝承しなくなるのだろう。
記念資料館に先ず入った。衝撃がまた繰り返された。自分の身体に刻まれた痛みの同じ回路がまた痛んだ。逃れたくても逃れられない写真があった。その娘のお父さんは娘の成人式を迎えたのだろう。父は顔に笑みを浮かべていた。娘も笑みを浮かべていた。本当に嬉しかったのだろう。その娘は私と同じ頃の生まれか。「胎児性水俣病」。その顔からその娘は私が何十年の昔、映像を通して出会ったその娘に違いなかった。時は刻まれていたのだ。そしてこれからも刻まれていく。
私達は湾の崎の地蔵の傍らに蝋燭を並べて火を点けた。もやい直しの火である。汚染と病気と差別と金によってずたずたになった人間関係を協力関係へと直す努力の火である。 「行ってよかった」同行の一人がぽつんといった。「やっぱり行ってよかった」私達は言い合った。
長崎の平和公園と水俣湾を訪れただけの何もない、何の光景もない旅であった。しかし充実していた。それは実は、私達自身の心の旅だったのだ。私達は自分の心へと出掛けた。なおざりにしていた苦痛への問い直しだった。
やはり痛みはなくならないどころか、今も時々刻々と今の命を訴えているのだった。
来月号に続く
「誓いの火」と「もやい直し」の火。二つの火は、八月五日、松山市駅まえを出発した。愛媛県歩け歩け会の俊成会長さんから、今年も平和巡礼行をしようと声をかけられ、お願いした次第である。「継続は力なりと」さらに「保つべきものは縁と」。この日も暑い日であったが、炎天下二百名の人々が歩いた。文字通り巡礼行である。灯火を持っての行となった。足の痛み、酷暑の難は想像するばかりである。参加したい気持ちを抑えて私は境内の準備、お接待の用意に奔走していた。六時到着、御詠歌が迎える。昨年の延命寺での感激が再現される。
夜になると境内には六百人が集まった。
この日、私達は江戸家猫八さんの講演を頂いた。猫八さんは、軍隊にいて広島原爆投下後の救援を行った。「原爆が投下されて、線路の両側は死体の山だった。云々」そこから猫八さんの話が進まない。原爆の事は、思い出すと胸が張り裂けて絶句するというのである。その絶句の後、祈りが始まる。
ゆっくりと平和観音広島曲の御詠歌が流れ始める。先頭を石手幼稚園の稚児行列が進みそのあとを人々が続く。境内の六百人ひとりひとりがコップに平和の願いを書き込み、火をつけて灯した。日は暮れて、灯は明からむ。私達は二千個弱の灯明を囲んで祈りを捧げた。弘法大師から受け継いだ万灯会である。
翌日、二十名程の私達は、広島の灯籠流しへと灯を持ち出した。この時の灯は、広島平和の灯、阪神震災希望の灯り、誓いの火、もやい直しの火そして8・5二十世紀の供養が折り重なった灯である。
お寺参りを済ませて私達は昨年と同じ広島平和公園に着いた。同様に早坂暁さんが来てくださった。早坂さんは毎年灯籠流しに参加されている。原爆の絵を持って街角に立ち、巡礼したらいいと言ったのは早坂さんである。また白装束のお遍路さんに来てもらうのが有り難いと仰っていた。
事実、私達が休憩をしていると、通りかかった老人が尋ねてきた。
「今日はどこからお祈りに来て下さったんですか。私も昔、お四国に行ったことがあります」と。
「道後温泉の近くからです」と答えながら、すぐに親しくなった気がする。
この日は、この痛みを通して心が通い合いやすい日なのである。
昨年と同じ場所で持ってきた灯籠を流す。
白装束の読経はなぜか痛みを和らげてくれた。
長崎、水俣と巡礼して絡まっていた痛さが軽くなったような気がしたのは気のせいだけなのだろうか。
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2000年3月号
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- 目次
- ぶつぶつへ
- 「眼を開け観音」
御存知のように石手寺門前に観音さんが立たれました。龍に乗る、龍頭観音さんです。私は、観音というより観自在と呼ぶのが好きです。観音の音とは私たちの発する喜怒哀楽の声だと思っています。特に苦しみの声を上げるとき、観音さんは良く聞いていて下さって手を差し伸べてくれるというのです。
しかし、今回門前に立たれるのは、私たちこそが「眼を開こう」という決意によります。観音さんとは実は自分たち一人一人のこと。観音経にもそう書かれています。観音は太郎さんには太郎さんの姿で、花子さんには花子さんの姿をして現れると。すると、欲張りな人には欲張りな姿で現れ、優しい人には優しい人として現れるということなのです。
さて、今回は自分たちが自ら自分の眼を開こうというのですから、観自在が良いかと思います。自在に観るという意味です。観るのは人々の悲しみや苦しみを見ようということ。つまり生きとし生けるものへの共感です。共感をするためには自由自在に観ることが大事です。自分のいつものパターンで物事を決めつけるのではなく、柔らかい頭で物事を観るのです。
そのためには「他人も自分も同じ人間だと思うこと」「他人の立場で物事をみること」「自分がされたいように他人にもすること」などを心掛けることです。一番は相手の言うことに耳を傾ける事でしょう。こんなことを書きながら、自分の家庭や職場ではなかなか出来ないことです。
相手の立場にたって物事を考えてみる。これが観音さんの持ち味なのです。自分のセコイ考え方をちょっと置いておいて、心をゆったりとして相手の立場で考える、そして思ったことを言葉にだしてみるということでしょうか。
観音さんの持っている「幸せの玉」が、皆さんの心に輝きますように。
二十一世紀への
祈り
愛媛県の仏教青年会で二十一世紀への祈りを行った。お祈りして「世界平和」が実現できるかどうか。何より、本気で人々の安寧や平和を祈れるものかどうなのかの方が心配である。
僧侶が十数名集まり読経が始まる。参拝者は少ない。だから殆ど僧侶だけの祈りである。でも、それが良かった。法事や宗祖の為のお経を唱えるときとは多いが、例えば「世界平和」などと唱えることは稀である。私は以前、世界平和の為に万灯会をしたいと師匠に言ったところ「日々思い、読経していない者が突然やるものではない」と斬ってすてられた。
寒い日だった。僧侶は殆ど世間とは別の世界で祈っていた。何か清々しい気持ちだった。同僚の僧侶らと一緒にこんな法要をしたことはない。それぞれが自分から集まってきて、平和の為に祈るというのは希有ではないか。この時ばかりは、共に僧侶であることを嬉しく思った。見返りなしに拝むということは尊いことだと思った。
寒風に餅をつく
雪が激しく舞う日であった。お涅槃の日。お釈迦さんの誕生日である。朝から冷え込むとは聞いていたが、雪がこんこんと降るとは思わなかった。私たちは遺教経を読み、お釈迦さんの日々を慕った後、お接待の為の餅つきにかかった。
「雪が清めてくれる」と奉仕の信者さんが言う。雪なんか降って大変だと思っていたところに、この言葉は嬉しかった。
「雪が清める」しんしんと降ってくる冷たい雪が、お釈迦さんの説法だったのかもしれない。杵でついた餅を手で丸める。お涅槃のお釈迦さんの前で、寒風に吹かれるなか私たちは二俵弱をつきおわった。丁度、暖かな日光が地面を明るくした。
自然に清められるとはこの事だったろうか。
みなさん、ご苦労さまでした。お蔭様で、お涅槃会のお接待と「眼を開け観音」落慶のお餅ができました。このお餅でまた、参拝の皆さんが喜ばれる事でしょう。
ぶつぶつ
- 何でも決まっていく国会でいいのでしょうか。
どうも今の国会は何でも決めそう。そんなふうに僕には思えます。怖いという印象です。そして決めてきたことを見るとどうも政治がしやすいようにだけしてきている。つまり、戦争しやすいように、管理しやすいように、国民をまとめやすいように、そして憲法も書き換えやすいようにでしょうか。
今のところ、直接国民が弊害を被ったことは少ない?しかし、国民の多数と関係の無いところで重要な法律が次々と決まっていることには違いありません。こんなことでいいのでしょうか。国民主権ではないのでしょうかと思ってしまいます。特に、先日まで「世界平和」を唱え、反戦を口にしていたかの党が、このように体制翼賛的な法律をどんどん通すのはまるで、何かに騙されているようで恐ろしくてなりません。
厚生省 煙草屋に負けて 目標なし
世の中も変わったものである。厚生省の役人が公然と「煙草業界に屈して減煙の目標値を省きました」というのだから。金儲けに屈して国民の健康を棚上げしたというのだから何とも嘆かわしい。任務放棄も甚だしいではないか。方や煙草屋といっても実態はJT元国営である。だったら誰も困る人々となどいないはず。しかし、高級官僚が伯仲堂々と「屈して」などと言うところにこの国の陳腐さがある。また、業界代表の反対理由が「国民の嗜好品を国が制限するというのは・・・」というのが笑わせるではないか。屁理屈を言えば言うほど金目当ての腹黒さが見えるというもの。何で皆、大笑いしないのか。ここで世論が騒がんから問題が解決しない。喫煙は健康に悪い。それより火事の多くは煙草の火が原因なのを知っていようか。
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2000年1月号
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私達は一人ではないということ
- その事を知ることが如何に困難なことか
- 死ぬるときの安らぎの基本は一人ではないということ
- 震災に被災して家族や家を失い悲しむときも救いの一番は、一人ではないということ
- 家族が自殺して苦しむときも、この悲しみを共にする人が居るというのが救いになる
- 様々に苦境に立つとき、一人ではないということがいかに支えになるのか
- そのことを今の日本社会は忘れている
- 「世界中が幸福にならないうちは個人の幸福はない」
- 天声人語
- 「ヒロシマの心は人間の痛みが分かる心を持つこと」
- 高橋元原爆資料館館長
- 「生きとし生けるものへの共感」
- 中山千夏
- 真の「やさしさ」は弱さではない。強さである。誰にも冷たく出来ないなどの脆弱さではない。他人の痛みが分かるという強さ、そして何とかしたいと動きだす勇気と行動力である。その根本は、共感=他人の痛みが分かることである。
- この他人の痛みが分かるということ。これは一つの能力ではないかと思っている。能力ということは努力して身につけなければ出来ないということである。人間が生まれながらに、他者の気持ちが分かるのであれば、他人を傷つけたり、戦争をしかけたり、飢餓の人々を放置したりすることはできないだろう。しかし、残念ながら人間には、その思いやる能力がわずかしか備わってなかったに違いない。何となく気の毒であったり、かわいそうだと思うことは度々ある。だが、所詮他人は他人というより、本当のところでは他人の気持ちが自分のことのように思うことは並大抵の事ではない。
- 我が子を思う母親であってさえ、愛情の深さは凄くても、子供本人の立場を分かって、真に子供自身の為になるように慮るのは、単に愛の大きさだけでは出来ない。様々な経験と自己制御や表現を駆使して、真に本人の良いように成せるものであろう。そうすると、私達自身が、色々な事件のなかで苦しみや悲しみに出会い、試行錯誤するなかで自分を鍛えていなければ、他人のことを分かろうとしても、想像すらできないということになる。他人の事を分かろうという試みは、それをしようという意思がまず必要であり、分かるという能力がまた問われるのである。
- 人間も猿も、三才になるまでは同じ動物だということを聞いた。三才以後に人間は経験を積み脳を発達させて色々な情緒を伸ばしていくのだそうだ。共感する能力というのはその中で徐々に出来てくるものなのだろう。人間は生まれながらに人間なのではない。共感する力を身につけるなかで人間になっていくのではなかろうか。
- 大晦日に「生き生き万灯会」を行う。万灯会のテーマは「生きとし生けるものの幸福」を祈るということである。その基本となるのは「生きとし生けるものへの共感」「他人の痛みが分かること」そして「皆が幸福にならなければ幸福になれない私」ではなかろうか。
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- 悩み相談の部屋
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- 実に色々の相談がある。人間が幸福に生きることがいかに困難であるかが思い知らされる。そして、人間が罪深く、やさしさに欠けているかということも知らされる。そんな中で、一生懸命に前向きに生きようとしている人々の生の声を聴くことができる。
- 相談をされながら、相談しているのは実は自分のほうだと思う。人生は分からないことの連続である。こんな人生もある。こんな生き方もある。というように色々な相談に直面して、相談の数だけ答えがあることに驚く。
- 以下に、交通事故による悲惨さを考えてみたい。これは、インターネットで捜し当てた、今日の交通死の一般的状況であるが、私が相談したことはこれとほぼ同じなのである。このようなことが、交通事故において往々にあるということ。そしてそれでいいのかということを考えてほしい。現代社会が、被害者や心傷めるものに対していかに冷淡で、自分と無関係だと思っているのか、そしてその事がいずれ自分にも降りかかってくる困難に対して無防備で冷たいことになるのかを考えてほしい。一体人間はその場限りの快楽を追い求めて、他人を押ししゃいで行っていいのか。笑いの裏に隠れていく本当の悲しみと人生の生きにくさをもっと皆で労り合わなければいけないのではないのかを、考えて欲しい。
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- インターネットで探し当てた交通死の一般例(TAV 交通死被害者の会より)
- 病院に運ばれた太郎君、懸命の救命処置の甲斐なく、数時間後息を引き取った。 本田は、病院で警察官から次のような簡単な事故の説明を受けた。 太郎君が道路を横断しようとして乗用車に跳ねられた どうも飛び出したらしい 加害者は23歳の青年 本田は説明を受けて、飛び出しなら、太郎にも非があったんだと自分を納得させようと努めた。妻は泣き叫んでいる。自分がしっかりしないと…。 お通夜、告別式と悲しみのうちに過ぎていった。加害者は告別式に姿を見せたようだが、改めて謝罪などは一切無かった。いずれ謝罪しに来るのだろうと思った。 半月がすぎ、警察から呼び出しがあった。なんでも事故の説明をするそうだ。そう言えば、詳しい事故の説明など聞いていなかった。 警察では、事故の説明ではなく、子供の性格や学校の成績など事細かに聞かれ、何故か掛けていた保険金の額までも聞かれた。最後に加害者もまだ若く将来のある身だから刑を軽くして欲しいとの文を書かされた。警察で調書を取られるなんて生まれて始めてである。緊張のうちに、言われるままに署名捺印をしていた。 本田はふと思った、「そう言えば、加害者から謝罪を受けていない。事故の詳しい説明も受けていない。」 本田は警察官を質した、「事故はどのように起きたのか?」 しかし、警官ははっきりと答えない。捜査中なので答えられないそうだ。何故自分の子供の事故について知ることが出来ないのだろうか? いったい事故の真相は…。 いろいろな話を総合すると、どうも目撃者がいないらしい。衝突地点も道路中央付近と思われ、飛び出しとは考えにくい。正しく捜査されているのだろうか? なんか変だ。 それからさらに数ヶ月がたった。捜査が終了すれば、警察から連絡が来て、事故の説明をしてくれるのだろうと思いこんでいた本田は、いつまでも連絡が来ない事に不信を感じ、警察に連絡してみた。捜査はとっくに終了し、処分も決まっていた。 行政処分 免停60日、刑事処分 不起訴不起訴と言うことは、無罪と言うことである。自分の子供が殺されてなんで無罪なんだ。 本田はたまり兼ねて、こちらから保険屋に連絡した。保険屋が言うには、事故の原因は「飛び出し」で太郎の過失を考えれば、補償額は自賠責の範囲内なので、示談交渉をする必要がありません、とのことだ。 なんてことだ、こんな理不尽な事が、今の世の中にあるのか…。
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- 私が聞いた話も全く同様と言っていい。この例と同じ様な事が交通死の中で多々起こっている。今の世の中は、自分の事でなければ放っておこうとする。無慈悲な世の中である。災難に遭った人を見殺しにして先へと進もうとするのは止めよう。
- 被害者ではないのに被害者を救援しようと立ち上がっている人々がいる。その輪に私達も入ろうではないか。
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- TAV交通死被害者の会への連絡は石手寺悩み相談まで
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2000年2月号
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- 目次
- 「眼を開け観音」
- 「1.17希望の灯」を常灯明へ
- 震災五年 私の見た被災と被災者
- ぶつぶつ私の「買ってはいけない」論争
- ねはん
「眼を開け観音」
- 当時正面の観自在菩薩のお名前を「眼を開け観音」としたい。そして眼を開くべきなのは私達自身である。観音さまは古今昼夜に私達の身と言葉と心を見守っている。それに対して、私達自身が観自在の気持ちで見る眼を開けというのである。
- 民主主義とは、そもそもリーダーのいないやり方である。そしてリーダーは特定の誰かであってはならない。住民ひとりひとりが主役でありリーダーである。ところが、この国の人々は地位や名誉やリッチは欲しくても、嫌なことを買って出る勇気と力量がない。ないだけでなく、実行する人を助けず足を引っ張る傾向がある。
- そうではなくて、他者の言葉に耳を傾け、善を勧め、悪は反省するというやり方が今必要である。ひとりひとりが眼を開こうというのが観音の願いである。「眼を開け私達観音」である。
- 震災日、被災者の言葉にこうあった。「私達は人の痛みを知るということを忘れず、助け合ったということを忘れない」と。戦争や災害という人類の危機に直面して、私達が学ぶのは共感と共生である。
- 共感とは
- 「他人の痛みを知ること」
- 共生とは
- 「助け合って生きること」
- 二つとも単純明快である。しかし、人間はこれを実践できないようである。そもそも普段は出来ないから、緊急時に際して人々は痛感させられるのであろう。この難題に何処まで迫れるか。地球は広く痛みは深く前途は長い。それは皆が観音になる日まで続く。
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ねはん
- 仏教の最高目的はねはんである。ねはんには二つ有って一つは、取り合えず自分が満足していること。二つ目は、自分が最高に幸せであること。先ずは自分が生きていることに感謝することが第一の涅槃である。これは自分の欲求を下げることができれば即座に可能である。欲の深い人は不可能であるが、少欲知足の人はねはんに長けているといえる。しかし、この世のなか、自分だけ満足しているというのが持続したりはしない。
何もなくても、憲法九条を変えようという人々がいる。沖縄に巨大な基地を作って設けている人々がいる。軍縮の時代に軍拡をしようとしている人々がいる。世の中とはそうしたものである。生活も便利になるのに、「もっと買え、もっと買え」と金の亡者がテレビやチラシで割り込んでくる。否、貧困国は、先進国に金を吸い上げられている。
どうすれば、皆が満足など出来るのだろう。やはり、先ず自分が満足することである。目次へ
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震災五年
私の見た被災と被災者
(震災コーナーと同文)
- 1995年は悲しい幕開けだった。日本中がショックと悲しみに揺れた。しかし、言っておきたい。私達の瞼に残像として残っているのは、高速道路の横転とビルの崩壊と焼け野原となった長田区ではないだろうか。そして、その場にうずくまり何時までも肩をあげない花束と線香の前に手向ける人間である。
- どちらかというと、私達は大崩壊、大火災、六千人の死者で震災の痛みを見ようとする。しかし、本当に痛かったのはどこかということを忘れがちである。うずくまって頭を上げない家族や隣人の手向けの向こうに何があるのか。それは時間とともに薄れる。
- 十七日神戸では六千余の蝋燭すなわち死者の数が灯された。そして、石手寺ではのべ二十名弱の愛媛県在住の被災者が集って蝋燭に灯した。今回会で送った二五〇通の案内と返信はがきに対して四〇通余の返信が来た。その中には、被災された方の今の気持ちが記されてあった。多くのはがきはこの時期に思い出される辛さを語っている。「この時期が来ると落ち込む」「やはり神戸へ帰りたい」「高齢になり外に出るのがしんどい」そして、「ひとりぼっちで寂しい」「震災について話す相手がいない」「元気であれば何とかして交流会と慰霊祭に行きたいのだが」と続く。
- 実は、震災後、愛媛県に住んでいる人のケアは忘れられてきたと言っていい。私達の「打てば響く会」が県内被災者に案内をしたり電話をかけさせてもらったのは二年半前。震災から二年半が既に経っていた。それまで私達は、阪神方面へ太鼓の激励、伊予柑・お米を配付しながらの仮設訪問などをしていた。まさかこの愛媛という足元に被災された方がひっそりと寂しく居られるとは思わなかった。
- そんな時、ラジオで震災の相談窓口を呼びかけたところ、ある方から電話が来た。それは、こちらでも震災被災者が集まれる場所を作ってほしいということだった。実際、被災者は高齢者が多く障害者を抱える家庭、後遺症で様雑な困難を抱える家庭が多く、自ら呼びかけて会を開く余裕などなかったのである。そんな中で、ボランティアが本当に必要とされていた。しかし、このボランティア作業は大変であった。
- 「いまさら震災でもなかろう」とか「いつまでも甘えることはない」という意見もあるし、何より被災者の一人一人に電話をかけて、身分証明から始めて心を打ち解け、お互いに心の深部を語り合えるまでは、努力と忍耐が必要だった。それは、忘れたい傷をもう一度思い起こし、そして共有するという作業である。
- 「いまさら」「わすれたい」という気持ちと裏腹に、悲しい体験を話さなければ次へ行けない辛さをみんな持っている。一時間、二時間と話をするうちに、震災のこと、その後のこと、愛媛に来てからのこと、だれも分かってくれないという恨みごと、寂しさなどが語られていく。そして語るうちに愛媛の親切と冷たさが融和していくようだった。
- 「ここ(松山)に来て差別にあった」という声もあった。「世の中はけっきょく冷たい他人さまだ」という声もいくつかあった。それは、単に人間が冷たいという意味だけではない、震災という肉親を亡くし、家財の全てを理由なく無くした、大きな悲嘆を「受けた者」と「受けない者」の「落差」である。神仏でさえもこの落差を一気に乗り越えることは出来ないだろう。そんな時、必要なのは話す相手である。頼り合うことである。助け合うことである。
- 被災者の交流会も早二年半回数を重ねた。当初から参加している人々とは、顔を合わせるだけでホッとする間柄になったと思っている。被災の同窓会である。それは、宝塚の人々とも同じである。被災の痛みがまだ癒えない時に出会い、再開を繰り返し、そして今日また会う。それは被災の同窓会のような気がする。時とともに出てくる心の痛み。そして高齢化と生活の変化の中での新しい困難。それを語り合うなかで何が必要で何が問題なのかが見えてきた。
- 被災者の声を聴くこと。ここに原点がある。
- 実はプライベートを理由に、行政は被災者の名簿を私達に渡さなかった。だから、未だにこちらかち招待状を出せない方々が多く居る。そして今回、送った方々に一度はお会いしたいという気持ちが膨らんでいる。
- それは、今回も、参加された方がだんだんと「嬉しそう」に見えたからである。
- 一生懸命自分の被災について語る真剣さ、そして、他の被災に耳を傾ける姿、そして、だんだんと本物になっていく笑顔。
- 「また、今年も来てしもた」慰霊の日。重たい物を背負いながら希望へと進んでいく。
「1.17希望の灯」を常灯明へ
- 一七日、神戸では全国での希望の灯(愛媛は石手寺が代表)を集めた「希望の灯」(慰霊モニュメントのガス灯)が点灯された。このガス灯は永遠に「痛みと希望」の象徴として灯されていく。これは阪神・淡路の被災者の点灯だけでなく、全国に暮らす被災者の自らによって点灯された灯の集合灯である。
- また、全国の人々の善意の総体でもある。
- 石手寺では、この被災者によって点けられた始点の灯を「常灯明」ともし、「平和の灯・四国巡礼結願灯」とともに灯しつづけていこうと思う。いまも、被災者の方は悲しみと苦しみを持ちつづけている。そのことと、それに対する私達の気持ちを忘れないために。その深意は、私達一人一人が自分で読み取らなければならない重たい灯である。
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私の「買ってはいけない」
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論争
「買ってはいけない」という本が「週間金曜日」という雑誌社から出て大論争になっている。「『買ってはいけない』は買ってはいけない」という本まで出る騒ぎである。有害物質・防腐剤や添加剤が含まれていて危ないというのである。これについては出来るだけ化学物質の入ったものは使わないようにしようという意味では「買ってはいけない」を推薦する。というのは、現代、人間の脳の調子がどうも変なように思うという直観からであって、それ以上ではない。但し、腐らないものや、妙に美味しいもの、それから美容のためとかいうものはいかがわしい。そして、現在ぼろ儲けしている企業というのは、変なものの開発に躍起になっている事実か裏にあるからである。
しかし、ここで言いたいのは、実は「買う」という行為が、社会の大きな問題であるという見方である。買うということによってお金が移動し、あるところに蓄積し、大企業ができて、日本が潤うというのは定説であるが、私達がどごに金を流すかという事によって、世の中は随分、良くなったり悪くなったりするのである。
消費者こそが金の流れを掴んでいる。そういうと血税を土建屋や一部の利権屋に流している傾向が政治家にあると言いたくなるが。私達、消費者こそが金の流通を掴んでいるということを時々思い出して買物をしたい。
「買ってはいけない」というより、できるだけ要らないものは買わないことである。そして、物が潤うのではなく、人間が潤う社会、人間にお金を払う社会が求められているのではないだろうか。
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ニュースレター6月号より
●暴力の連鎖と言い切るまえに
大河内秀人(パレスチナ子供のキャンペーン常務理事)
パレスチナ問題とそこで起きる悲劇を世界の多くの人々はメディアの伝える「事件」として知り、限られた地域の民族・宗教の「対立」とみなしている。「暴力の連鎖」もその延長線上にあるというなら、まずその認識を変えて欲しい。
パレスチナ問題の本質は、「対立」ではなく力による「支配」に対する「抵抗」である。
圧倒的な力の差がある以上、力の側に解決のイニシアチブがあるのは明らかだ。そこで絶大的な影響力をもつのが毎年20数億ドルの軍事援助を行う米国だ。パレスチナ問題はまさにアメリカを背景とした領土と利権の問題であり、紛争以前にパレスチナ人の人権をまず問題にすべきであった。
もちろん、私はテロを肯定しない。しかし、なぜテロが起きるのかという事を真剣に考えるべきだ。シャロンのシナリオにまんまと乗せられていく人間の性、弱さに対しても、平和と人権を獲得するために、私達は認識を深めていかなければならない。
▼2001年10月10日、ラファーでイスラエル兵に撃たれた10歳のパレスチナの少年
アムネスティ交流会
去る6月23日に道後温泉から石手寺まで少人数でしたが中国地方の会員の方たちと拷問廃止のためのチャリティウォークを行いました。
前日には難民救済のための講演会もありました。
関心のある方連絡をお待ちします。
紛争化の子供のための
ウォーカソン
報告
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- 12月5日10時本堂で
- お祈りののち出発
- 石手寺から繁多寺まで歩きました。曇りで小雨混じりの日でしたが、パンフレットを渡しながら遍路道を行きました。山辺の道は以前と比べて、住宅が増し田園の風景を遮っていましたが、楽しいハイキングとなりました。歩いた後、般若心経をあげ、喫茶室で紛争国の子供たちの実状を学びました。戦争で傷つき多くの子供兵士が死んでいくという事。そして男の子も女の子も、戦争による後遺症、特に精神的なものにより社会復帰が困難であることを改めて知りました。初春にはまた行いたい。もっと多くの人と共にこのことを語り合いたい。
- 連絡先
- 977.8155
- 石手寺まで 「紛争下の子どもたちのためのウォーカソン
- −希望へ一万キロ−
- 『私達子どもに今何が起こっているのかをお話しします。お願い、世界中にこのことを知らせて下さい・・・』このように語った15歳の少女は、1997年5月ウガンダ北部で政府軍と戦っている武装組織「神の抵抗軍」に誘拐され、「子ども兵士」にされてしまいました。脱走した子どもが殺されるのを目撃したり、彼女自身も人を殺さねばなりませんでした。年長の兵士に彼女は「ほうび」として与えられ、強姦され、重い水桶を運んで失敗すれば叩かれ、でもついに脱出に成功しました。彼女は、過去三年間に同じように誘拐され「子ども兵士」にさせられた5000人とも8000人ともいわれる子どもたちの中のひとりです。(アムネスティー、ウガンダ報告より)
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- 久しぶりに報告書を読んだ。胸が痛い。あなたもアムネスティーに入会しませんか。一緒にグループをつくって活動しましょう。連絡先089−977−8155俊生まで
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- 神戸震災ボランティアの続き
- 去る七月末に宝塚へ行った。立派な恒久住宅が完成し、おばあちゃんやおじいちゃんが入居していた。三年前だったろうか、私達が三千個の伊予柑ゼリーと蜜柑などを山積みしてやって来て、そして水軍太鼓を演奏したあの場所からそう遠くない空き地である。顔見知りになった人々が大勢いた。
- 震災から多くの月日が経っている。この日、初めて会う人々だったら、震災のボランティアをしている気分にはならなかっただろう。というのは、被災者といっても当時の仮設の面影は一見なくなっている。ところが「久しぶりですね、如何ですか」と問えば「一人ですからますます寂しくなって」とか「だんだん体が動きにくくなって」というぐあいに、震災以後の関わりのヒストリーが引き出されて、決して今回だけの太鼓演奏会ではないのである。恐らく、突然来た人々であれば、「なんだ単なる演奏会じゃないか」と、何をなすこともできず、ボランティアの不完全燃焼をして去っていくだろう。それは、震災直後のボランティア仲間のこぼした声だった。
- ボランティアを思い立つことが稀だとすれば、ボランティアに成功することはもっと難しいことである。逆にボランティアに成功することが困難だと知っているからこそ、ボランティアをしたい気持ちを萎えさせてしまうのだろう。
- 良いことをして、褒められたり、満足感を得れば人々はまた、良いことをする。しかし、良いことをして叱られたりすれば二度としないだろう。悪いことをした場合は推して知るべしである。人間、初回の運不運で人生を得たり損なうことにもなる。数度の成功や失敗で一喜一憂するなということであろうか。
- 人々は何故、ボランティアを目指すのか。
- 普通に食物を育てたり、普通に物造りをしていれば、褒められたり社会に貢献できる時代ではなくなった。ある人に聞けば、「ニーズに応えることが一番だという」つまり、造る精神は、造り手が決めるのではなくて、買い手が決めるのである。買い手=使い手が賢くなったともいえる。あるいは造り手の程度が落ちた。確かに職人さんではなく普通の人が操れるオートメーション機械が求められるというのも、そこそこの物を安くの考え方であろうか。そこで思うのは、開発途上国から沢山の安い製品が入るから価格が崩壊したのかもしれない。
- 何れにしても、仕事において社会的満足が得られにくくなった。そういう時代に、私達がボランティアに懐く幻想は、弱者救済である。困った人を助けるということである。
- 例えば、震災で家を無くした人を助ける。
- 先ずは、「何とかしてあげたい」という純粋な気持ちであろう。そして現地に踏み込む。何ができるのか。皆がしていることをする。荷物運び。瓦礫撤去。云々。この作業をして、被災者と会話することなく帰るのは簡単である。被災者のグループとボランティアのグループが別々にあって、そのグループとして活動する。この時、自分のグループ内にいて、グループのメンバーとだけ会話していれば、こんなに楽なことはない。
- しかし、このグループを抜け出し、一人の人間として被災者と対面するならば、一体自分は何が出来るのかが、強烈に真摯に問われる。
- 実は、その強烈さを知っているから、相当な充実感がなければ、ボランティアに耐えることはできない。
- 家が全壊したひとに、建築費相当の募金をする。
- 建築費が国から出るように政治活動をする。
- 云々。
- 極端なことを言っているわけではない。今日、国という組織に私達は相当の税金を納めているのだから、後者のように考えるのが合理的で且つ楽かもしれない。しかし、共に生きるというならば、どちらにしても途中で逃げだすことは出来ないのある。
- この中で非被災者の私達と被災者の私達との間で起こる葛藤、差別、落差というものがある。
- 一被災者と一ボランティア人が和解できるかという問題である。
- そういえば、ボランティアに行って、おじいちゃんおばあちゃんとはどちらかというと、会話が楽に出来た。今家計を背負っている中年の人とは、会話が難しかった。例えば、老年の人々から見れば、僕等は若者だから、自分の子供や孫に話す気持ちでリラックスして話したのかと思う。年齢の差が、僕等の横着な着想を大目に見たのかもしれない。「有り難う、よくきてくれたね」という言葉は、一番の労りの贈り物だった。「そうだ、こんな所で、私達ボランティアは救われていたのだ」と思う。こんな言葉を頂いて、ちょっと嬉しくなり張り切っていると「あんたたち、何しにきたの、本当の私達被災者の大変さが分かっているの」と若い被災者に問題を突きつけられる。これをどう乗り切るのかが問題である。
- 私達は震災に直面して最初に感じた素朴な気持ち=「何とかしてあげたい」に立ち戻らなければならないわけであるが、被災者と出会うなかで、私達は私達の意識の変革を強いられるわけである。この点と、そして最終的に何が成しえたのかの二点が問われる。
- 被災者は被災者であり、私と入れ代わることはできない。こうして両者は歩み寄ることが始まる。
- 或いは、金銭の問題ではなく、心の問題として、震災の癒しができるのかという問題である。
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- 被災者と非被災者の落差。これこそが最初に考えた、「弱者救済」の落とし穴である。弱者と強者。そして自分の立場は強者である。この構図を破るということ。そして、何かができるということ。それは、私達の心掛け次第なのだろうか。私達はこのことを永遠に問わなければならないような気がする。
- 永遠に問うということは、成長するということである。悩むということである。
- その悩みは、充分なことが出来ないということであり、相手の気持ちにはなれないということである。それは言い換えると、充分なことがしたい、或いは、充分なことをしなければならないということであり,相手の気持ちになりたい、ならなければならないということである。
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- 震災や戦争、そして経済戦争・貧困・南北問題などを通して学ぶことは無数である。「平和ボケ」し「自己責任」を押しつけられる時代に、私達が直面しているのは、自己確立である。そしてそれは結局、生きるとは何かということになるのであろう。
- こんな事を書いてきて思うのは、今「同行二人」に連載している高橋昭博・元広島平和記念資料館館長の言葉である。「平和の原点は人間の痛みがわかる心を持つことです。そして生きるということはどういう意味があるというのかということを考えることなのです」
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去る七月末に宝塚へ行った。立派な恒久住宅が完成し、おばあちゃんやおじいちゃんが入居していた。三年前だったろうか、私達が三千個の伊予柑ゼリーと蜜柑などを山積みしてやって来て、そして水軍太鼓を演奏したあの場所からそう遠くない空き地である。顔見知りになった人々が大勢いた。
震災から多くの月日が経っている。この日、初めて会う人々だったら、震災のボランティアをしている気分にはならなかっただろう。というのは、被災者といっても当時の仮設の面影は一見なくなっている。ところが「久しぶりですね、如何ですか」と問えば「一人ですからますます寂しくなって」とか「だんだん体が動きにくくなって」というぐあいに、震災以後の関わりのヒストリーが引き出されて、決して今回だけの太鼓演奏会ではないのである。恐らく、突然来た人々であれば、「なんだ単なる演奏会じゃないか」と、何をなすこともできず、ボランティアの不完全燃焼をして去っていくだろう。それは、震災直後のボランティア仲間のこぼした声だった。
ボランティアを思い立つことが稀だとすれば、ボランティアに成功することはもっと難しいことである。逆にボランティアに成功することが困難だと知っているからこそ、ボランティアをしたい気持ちを萎えさせてしまうのだろう。
良いことをして、褒められたり、満足感を得れば人々はまた、良いことをする。しかし、良いことをして叱られたりすれば二度としないだろう。悪いことをした場合は推して知るべしである。人間、初回の運不運で人生を得たり損なうことにもなる。数度の成功や失敗で一喜一憂するなということであろうか。
人々は何故、ボランティアを目指すのか。
普通に食物を育てたり、普通に物造りをしていれば、褒められたり社会に貢献できる時代ではなくなった。ある人に聞けば、「ニーズに応えることが一番だという」つまり、造る精神は、造り手が決めるのではなくて、買い手が決めるのである。買い手=使い手が賢くなったともいえる。あるいは造り手の程度が落ちた。確かに職人さんではなく普通の人が操れるオートメーション機械が求められるというのも、そこそこの物を安くの考え方であろうか。そこで思うのは、開発途上国から沢山の安い製品が入るから価格が崩壊したのかもしれない。
何れにしても、仕事において社会的満足が得られにくくなった。そういう時代に、私達がボランティアに懐く幻想は、弱者救済である。困った人を助けるということである。
例えば、震災で家を無くした人を助ける。
先ずは、「何とかしてあげたい」という純粋な気持ちであろう。そして現地に踏み込む。何ができるのか。皆がしていることをする。荷物運び。瓦礫撤去。云々。この作業をして、被災者と会話することなく帰るのは簡単である。被災者のグループとボランティアのグループが別々にあって、そのグループとして活動する。この時、自分のグループ内にいて、グループのメンバーとだけ会話していれば、こんなに楽なことはない。
しかし、このグループを抜け出し、一人の人間として被災者と対面するならば、一体自分は何が出来るのかが、強烈に真摯に問われる。
実は、その強烈さを知っているから、相当な充実感がなければ、ボランティアに耐えることはできない。
家が全壊したひとに、建築費相当の募金をする。
建築費が国から出るように政治活動をする。
云々。
極端なことを言っているわけではない。今日、国という組織に私達は相当の税金を納めているのだから、後者のように考えるのが合理的で且つ楽かもしれない。しかし、共に生きるというならば、どちらにしても途中で逃げだすことは出来ないのある。
この中で非被災者の私達と被災者の私達との間で起こる葛藤、差別、落差というものがある。
一被災者と一ボランティア人が和解できるかという問題である。
そういえば、ボランティアに行って、おじいちゃんおばあちゃんとはどちらかというと、会話が楽に出来た。今家計を背負っている中年の人とは、会話が難しかった。例えば、老年の人々から見れば、僕等は若者だから、自分の子供や孫に話す気持ちでリラックスして話したのかと思う。年齢の差が、僕等の横着な着想を大目に見たのかもしれない。「有り難う、よくきてくれたね」という言葉は、一番の労りの贈り物だった。「そうだ、こんな所で、私達ボランティアは救われていたのだ」と思う。こんな言葉を頂いて、ちょっと嬉しくなり張り切っていると「あんたたち、何しにきたの、本当の私達被災者の大変さが分かっているの」と若い被災者に問題を突きつけられる。これをどう乗り切るのかが問題である。
私達は震災に直面して最初に感じた素朴な気持ち=「何とかしてあげたい」に立ち戻らなければならないわけであるが、被災者と出会うなかで、私達は私達の意識の変革を強いられるわけである。この点と、そして最終的に何が成しえたのかの二点が問われる。
被災者は被災者であり、私と入れ代わることはできない。こうして両者は歩み寄ることが始まる。
或いは、金銭の問題ではなく、心の問題として、震災の癒しができるのかという問題である。
被災者と非被災者の落差。これこそが最初に考えた、「弱者救済」の落とし穴である。弱者と強者。そして自分の立場は強者である。この構図を破るということ。そして、何かができるということ。それは、私達の心掛け次第なのだろうか。私達はこのことを永遠に問わなければならないような気がする。
永遠に問うということは、成長するということである。悩むということである。
その悩みは、充分なことが出来ないということであり、相手の気持ちにはなれないということである。それは言い換えると、充分なことがしたい、或いは、充分なことをしなければならないということであり,相手の気持ちになりたい、ならなければならないということである。
震災や戦争、そして経済戦争・貧困・南北問題などを通して学ぶことは無数である。「平和ボケ」し「自己責任」を押しつけられる時代に、私達が直面しているのは、自己確立である。そしてそれは結局、生きるとは何かということになるのであろう。
こんな事を書いてきて思うのは、今「同行二人」に連載している高橋昭博・元広島平和記念資料館館長の言葉である。「平和の原点は人間の痛みがわかる心を持つことです。そして生きるということはどういう意味があるというのかということを考えることなのです」
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この国のあり方
こんな言葉が流行っている。この国?とは何処か。日本である。日本が出来たのは何時か。本当は日本という国が在ったわけではない。村があって、人々は協同して暮らしていた。村と村をくっつけて国が広がっていく。ある時、その国に名前を付ける。そして又広がる。国は邦、邑とも書く。もともと村の広がりである。協同体が村であって、何か尊い国が有るわけではない。人々が尊くて、一人ではやれないことを協同してやる時、国の広がりが必要となる。
「くに」の成り立ちには色々な考え方がある。
社会契約説とか貴族政治とか代理政治とかである。その中で基本は、国民主権である。そして方法は権力の分権である。
つまり、国民より偉い人は一人もいないということであり、調子が悪ければ直ぐに違う人が代わって行うべきなのである。そして、分権ということは、一人が地位を独り占めしてはならない、また自分で法律をつくり、自分で管理し、自分で裁いてはいけないのである。皆で監督しあうというのである。
歴史の教訓にこんな事があるそうだ。「どんなに立派な人でも、長く高い地位にいると自分のために地位や権力を使うようになる」と。人間は補いあって巧く活動できるといえる。
こんな事を考えるとき、今のこの国は大変危ない。
皆の話題にのぼるのが、税金で銀行と土建屋を助けた話と、神奈川県警の不祥事である。税金は皆で集め、一人では出来ないことをするためのお金である。それを特定の人を助けるために使った。それも震災では困窮者を助けず、金持ちを助けたのである。
神奈川警察はもっとひどい、暴力を取り締まるはずの立場の人が、銃で脅すなどの極度な暴行を行い、その監督上司がもみ消したというのである。
「自分で捕まえ、自分で釈放する」昔の暴君となんら変わらない。こんな事で誰が法律を守ろうか。
法律をつくるひとと、捕らえる?ひとと、裁くひとは別でなければこんな無法な事になる。
「なんだ、取り締まられているのは弱い市民だけなのだ」
このあり方を早く変えよう。危機ですよ。
子孫にこんな国を伝えたくはない。
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自己責任についての仏教の見方
ぶつぶつで自己責任よりも自己確立が必要だと述べた。自己責任とはどうも自分のことは自分でしろということであろう。ならば何故、銀行の責任を国民が取るのかおかしいが、ともあれ、自己確立について。
仏教では如実知自心という。自分の心をありのままに知るということである。ありのままといっても、悪い心を悪いままに、良い心を良いままに知るということであろうか。自分の良いところも悪いところもそのままに知るというのが、大一歩ではある。これが先ず難しい。失敗をして問い詰められると、「私はこんな事は苦手ですから」と卑下するが、日頃は自分の短所を認めることは困難である。自分を全て認めてしまうと、自我が崩壊してしまう。自信がなくなってわけが分からなくなる。
自信を失わないように自分を認めるのはテクニックがいる。それが自己確立である。自分がしっかりせずに自分を認めると、自信喪失になってしまう。では自己確立とは何か。カント流に考えると次のようになる。
何があるか=何があると思っているのか
何を認識できるか=何が分かり何が分かっていないか知っているか
何を成すべきか=何をしているか
これを仏教流にすると、
何があるか=衆生と私と仏がある
何が分かるか=修行に従って分かる
何を成すべきか=命が大事である
実は、衆生と私と仏があると考える事が仏教だといえる。そして私は衆生であったり仏であったりするわけである。そして仏に成りきらないと本当の世界は見えてこない。だから修行に応じて見え方が変わってくる。ここが面白いところである。ところが、私達が大切にしなければならないものは、命というか心であるということが決まっている。高橋さんは「人間の痛みが分かる心」と言われた。人間は痛みを受けるものであるということ。そしてその痛みが分かち合えるということ。そして痛みを癒し合うということ。これが原点だという。
この方向を見失わなければ、いつかは仏様に行き着くのである。
自己確立とは、金銭や名誉に惑わされない自分自身の行き方、生きる方向を見つけることである。如実知自心とは、自分の中に修行とともに訪れる仏の心があることを確信することである。
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神戸の殺人事件における仏教徒の反省と提言(案骨子)
この件の論説コーナー(神戸の殺人事件に於ける仏教徒の反省と提言)
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(もっと的確なものを考えてください)
この悲惨な事件は近年の青年たちによる残虐な一連の殺傷事件、そしてオウム事件に続き現代の病める日本社会と行き場のない人生を改めて露呈したものと思う。この「生きにくい時代」の進行に対して、私達仏教徒は有効な精進と布教を行えず、のみならずこの負への進行に巻き込まれ、却ってその進行を押し進める事さえ多々あることを反省しなければならない。
まず、私達はこれらの事件をどのような視点で見ていくべきか。問題の設定として、たとえば加害者個人の責任というものを自分と同じ生きるものとしての問題として捉えなければならない。つまり一連の加害者が決して特殊な性格や生い立ちにおいて固有であったと捉えるのではなく、「自分も、環境や成り行き次第では同じように罪を犯す」という同じ人間の基盤で捉える見方である。それはこの世を生きるということを運命付けられた魂の共存とでもいうものであろうか。
環境・条件・時代・・・様々な仕方で私達は自分が生きている今を時と空間の連鎖の中で説明することができる。その中で、私達は人間という一つの類似性とか中心性を持ちながら個人として生きている。個人は環境や条件へと分解しそれぞれの要素で説明されるとともに、私は私として環境や部分へと分解できない魂という意思のまとまりを持ちその中心を譲らないものとしてある。その環境的要素への説明的還元と個人の魂の独立性は私達を説明するとき二つの重要な要素となる。
この中で私達は一連の事件を、魂の問題としてまず、心を共にすることから始めなければならない。この時、私は例えば被害者と、そして加害者とも心を通わせ、それらの事件での「心の痛み」を共有することから始めなければならない。魂の特性は、「痛み」を共有することである。そして、他人でありながら追体験することによって魂と魂の融和を図ることである。これは難しいことではなく、「私は被害者の気持ちが身に沁みる」とか「加害者の動機が手に取るようにわかる」という経験の深まりを指しているに過ぎない。問題は、どこまでも自分の心の中の共感であるにも関わらず、時として私達はこの感覚を通して、人生の最も底流の感覚や人生の意味や人生の知られなかった大切なものを勝ち取るという魂の浄化と深まりを行う。その魂と魂の寄り添いの行為において、私達は問題の重要性と広がりをしっかりと捉え、二度とこのような事がないように自己変革と社会変革を成しうるのではないか。
この時、家庭の領域、学校の領域、仕事場の領域、社会・政治の領域においてそれぞれの立場のものが自分自分の責任において主体性と新たな制度のもとで魂を守るということを可能にしていくのではないか。当然、それは私達の新しい意欲と方向づけを伴うものであり、その事がそのまま生きがいある人生と魂の憩いをもたらすものと思う。
そして如何に明晰な判断を行おうと、この魂と魂の共感なしに、問題を問題化していくならば、それは私達の無気力という根本問題をなおざりにし、新たな魂の彷徨という、より見えにくい問題を孕ませていくのではないか。
この議論に先立って、当然、加害者を厳罰に処せばいいという議論つまり加害者特殊論や加害者悪人論がなされる。あるいは、彼の境遇が悪かった。親が学校が悪かったという環境誘導論がなされる。管理社会が悪い。無責任社会が悪い。競争社会が悪い。つまり金儲けや名声のためには血道を上げながら、自分の事は棚に上げ、自分の為にだけ努力し、人を蹴落としても何とも思わない、そういう弱いものいじめをして無自覚でいる社会と人が悪い。そのとおりである。その通りでありながら、どうして仏教が反省しなければならないかというと、それらの議論は、痛みを共有しなくてもすむからである。
同じく生きるもの、同じ時を生きるもの、同じ世を生きるものとして、まず、魂の痛みに耳を傾けなければ、真実は真実だと思えば思うほど遠ざかるのではないか。
これが我が信じる仏教の提言である。
解 決 の た め に (草案中、提案に過ぎません)
誰もが指摘するように、今、日本社会は病んでいる。
1)責任者が過ちをしても責任を取らない。
2)優秀な人と他人を蹴落とす人とを間違えて競争を賛美する。
3)マスコミが頽廃文化を売り物にする。
4)管理社会=弱いものを支配下に置く弱いものいじめがまかり通る。
5)金儲けと名声以外には生きがいがないと思っている。
6)他人の子供を自分の子供のように大切にしなくなった。
7)他人の不幸を見て見ぬふりをする積極的無関心が責められない。
以上から次の事を提案する。
学校改革
1)三十人学級をつくる。
2)縦の締めつけを問いなおす。教育・教員の自主性を尊重する。
3)教科書を自由に作る。検定や入試目当てのものでは興味は湧くどころか減退する。
4)教員の採用の仕方、再教育制度を作る
社会改革
1)激化する競争社会に歯止めをかける。
2)競争の自由化としての規制緩和ではなく、皆が何時でも気軽に参加撤退のできるゆるやかな経済社会の育成に努める。
3)自由競争ではなく、競争の自由を保障するような体系作りを行う。
仏教徒改革
1)各人が、どのような仏教思想と生活様式を取るのかを反省・提出する。
2)仏教の為の会合・反省会(布薩会)などを宗派により設定する。
3)社会の問題と関わっていく。
俊生
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