#松山医療福祉専門学校1年

#聖カタリナ女子大学一回生

#聖カタリナ女子大学 三回生

#仮説は語るその三

#仮説は語るその四

  
1月15日と17日阪神震災慰霊1.17希望の灯りと慰霊祭 そして愛媛県の被災者の交流会がありました
交流会でみんな笑顔があった
広島の被災者の会の山田さんを招いて被災者の交流会を行った。広島では震災から数カ月で被災者の会が結成されたという。五年目を迎え解散するかどうかが議論されたというお話に始まり、震災当初は生活に必死で何どころではなかった、ということ、そして、一年目になるとこころのケアが必要になったということ、二年目からは同窓会のように交流会を重ねたこと。そして四.五年目になると「もう甘えるのは止めようと」いう話をしたことなど被災者としての話が聞けた。
被災者が中心という会だけに悲しみも努力も腹を割った話が飛び交う事を知った。
今回二回の交流会ではのべ20数人の被災した方が集った。
「私は東灘、あなたは何処に住んでいたの」「私もそうよ」という話に始まり、話題は家屋のことそして家族の事へと移っていく。だんだんと自分自分の痛い話へと深まり、暗い顔と笑顔が交錯する。
宇和島や八幡浜から参加された方
病院から無理を押して今年も参加された方
皆さん、こころは被災とともにあった

「1.17希望の灯り」

 一七日、神戸では全国での希望の灯(愛媛は本会が代表)を集めた「希望の灯」(慰霊モニュメントのガス灯)が点灯された。このガス灯は永遠に「痛みと希望」の象徴として灯されていく。これは阪神・淡路の被災者の点灯だけでなく、全国に暮らす被災者の自らによって点灯された灯の集合灯である。

 また、全国の人々の善意の総体でもある。

 石手寺では、この被災者によって点けられた始点の灯を「常灯明」ともし、「平和の灯・四国巡礼結願灯」とともに灯しつづけていこうと思う。いまも、被災者の方は悲しみと苦しみを持ちつづけている。そのことと、それに対する私達の気持ちを忘れないために。その深意は、私達一人一人が自分で読み取らなければならない重たい灯である。

 
震災五年
私の見た被災と被災者
 
 1995年は悲しい幕開けだった。日本中がショックと悲しみに揺れた。しかし、言っておきたい。私達の瞼に残像として残っているのは、高速道路の横転とビルの崩壊と焼け野原となった長田区ではないだろうか。そして、その場にうずくまり何時までも肩をあげない花束と線香の前に手向ける人間である。
 どちらかというと、私達は大崩壊、大火災、六千人の死者で震災の痛みを見ようとする。しかし、本当に痛かったのはどこかということを忘れがちである。うずくまって頭を上げない家族や隣人の手向けの向こうに何があるのか。それは時間とともに薄れる。
 十七日神戸では六千余の蝋燭すなわち死者の数が灯された。そして、石手寺ではのべ二十名弱の愛媛県在住の被災者が集って蝋燭に灯した。今回会で送った二五〇通の案内と返信はがきに対して四〇通余の返信が来た。その中には、被災された方の今の気持ちが記されてあった。多くのはがきはこの時期に思い出される辛さを語っている。「この時期が来ると落ち込む」「やはり神戸へ帰りたい」「高齢になり外に出るのがしんどい」そして、「ひとりぼっちで寂しい」「震災について話す相手がいない」「元気であれば何とかして交流会と慰霊祭に行きたいのだが」と続く。
 実は、震災後、愛媛県に住んでいる人のケアは忘れられてきたと言っていい。私達の「打てば響く会」が県内被災者に案内をしたり電話をかけさせてもらったのは二年半前。震災から二年半が既に経っていた。それまで私達は、阪神方面へ太鼓の激励、伊予柑・お米を配付しながらの仮設訪問などをしていた。まさかこの愛媛という足元に被災された方がひっそりと寂しく居られるとは思わなかった。
 そんな時、ラジオで震災の相談窓口を呼びかけたところ、ある方から電話が来た。それは、こちらでも震災被災者が集まれる場所を作ってほしいということだった。実際、被災者は高齢者が多く障害者を抱える家庭、後遺症で様雑な困難を抱える家庭が多く、自ら呼びかけて会を開く余裕などなかったのである。そんな中で、ボランティアが本当に必要とされていた。しかし、このボランティア作業は大変であった。
 「いまさら震災でもなかろう」とか「いつまでも甘えることはない」という意見もあるし、何より被災者の一人一人に電話をかけて、身分証明から始めて心を打ち解け、お互いに心の深部を語り合えるまでは、努力と忍耐が必要だった。それは、忘れたい傷をもう一度思い起こし、そして共有するという作業である。
 「いまさら」「わすれたい」という気持ちと裏腹に、悲しい体験を話さなければ次へ行けない辛さをみんな持っている。一時間、二時間と話をするうちに、震災のこと、その後のこと、愛媛に来てからのこと、だれも分かってくれないという恨みごと、寂しさなどが語られていく。そして語るうちに愛媛の親切と冷たさが融和していくようだった。
 「ここ(松山)に来て差別にあった」という声もあった。「世の中はけっきょく冷たい他人さまだ」という声もいくつかあった。それは、単に人間が冷たいという意味だけではない、震災という肉親を亡くし、家財の全てを理由なく無くした、大きな悲嘆を「受けた者」と「受けない者」の「落差」である。神仏でさえもこの落差を一気に乗り越えることは出来ないだろう。そんな時、必要なのは話す相手である。頼り合うことである。助け合うことである。
 被災者の交流会も早二年半回数を重ねた。当初から参加している人々とは、顔を合わせるだけでホッとする間柄になったと思っている。被災の同窓会である。それは、宝塚の人々とも同じである。被災の痛みがまだ癒えない時に出会い、再開を繰り返し、そして今日また会う。それは被災の同窓会のような気がする。時とともに出てくる心の痛み。そして高齢化と生活の変化の中での新しい困難。それを語り合うなかで何が必要で何が問題なのかが見えてきた。
 被災者の声を聴くこと。ここに原点がある。
 実はプライベートを理由に、行政は被災者の名簿を私達に渡さなかった。だから、未だにこちらかち招待状を出せない方々が多く居る。そして今回、送った方々に一度はお会いしたいという気持ちが膨らんでいる。
 それは、今回も、参加された方がだんだんと「嬉しそう」に見えたからである。
 一生懸命自分の被災について語る真剣さ、そして、他の被災に耳を傾ける姿、そして、だんだんと本物になっていく笑顔。
 「また、今年も来てしもた」慰霊の日。重たい物を背負いながら希望へと進んでいく。
打てば響く会で二回目の阪神行きをしました。今日はその時のボランティアの学生さんの感想を見て下さい。

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神戸ボランティアに参加して松山医療福祉専門学校1年

 最初は、私が行って何ができるのか?と、とても不安でした。

 でも、お米を手渡したりするだけなのに、すごく喜んでくれたり、家の中へ入れてもらったり、本当にうれしかったです。

 一番印象に残ったのは、家に入れてもらった時、壁に詩を書いたものがあって、その内容というのは、あたりまえのこと(笑える、泣ける、叫べる)が、できるのはとてもすばらしいことだ。と書いてあって、震災にあうまではあたりまえだったと、おじいちゃんが言っていたことでした。他にも震災時の話をたくさん聞かせてくれました。

 また、ボランティアで行ったのに夕食もいただいてしまいました。あのギョーザの味は忘れないと思います。

 今回の私の目的は、自分の目で現状を見て、どのようなものか知ることでした。その目的は十分果たせたと思います。マイクロバスの旅はとても長かったけれど、とても貴重な体験ができました。本当にありがとうございました。

 また、何か機会があれば声をかけて下さい。お願いします。聖カタリナ女子大学三回生

           

聖カタリナ女子大学一回生

 私が、この神戸のボランティアに参加しようと思ったのは、大規模な震災の傷跡を自分の目で確かめたかったからです。2年前のあの震災は、胸が痛くなるくらいテレビや雑誌で見ました。しかし、どこか他人事のように思っていたところがありました。私の住んでいる所ではあのような大震災はおこらない。自分の身は安全だ、と。でも、いつまでもこのような考えではいけません。そこでこのようなボランティアの話があり、参加することにしました。行く前に図書館で、阪神大震災に関する資料を借りました。戦後の姿のようで、とても日本でおこったとは思えず、出発前に不安になりました。そして、地域の方に何て声を掛けたらよいのか一番悩みました。変に「大変でしたね」と言っても同情にしかなりません。とても不安でした。

 しかし、そんな不安もすぐになくなりました。現地に着くと、地元のボランティアの方々に厚くもてなしてもらい私達がお世話になった感じです。仮設住宅に住んでいる人は、仮設の中同士で協力して暮らしているのだと思っていたらそれは違い、仮設の近所の人たちがボランティアグループを作り地域みんなで共存していることに嬉しさを感じました。そして、仮設に暮らしている方々はとても明るく、2年前に震災に遭った方々とはとても思えませんでした。しかしそれは外見だけかもしれません。震災の話をきいていると、私でさえ胸が苦しくなる思いでした。でも今こうして元気な姿をみると、地域のボランティアの力が強いのだなと思いました。

 別れる日の朝、おばあちゃんと握手をしました。「おばあちゃん元気でね」「ありがとうね」私は、その手のぬくもりを今でも覚えています。

 

 今回、ボランティアに参加したのは、正直言って人のために何かをするという気持ちからではなく自分自身に何か得られるものがあれば・・・という気持ちからでした。

 仮設住宅は、テレビでは目にしていたものの実際に見るのは初めてでした。お米を配って回った時は喜んで下さり、中には部屋に上げていただいて地震の時の様子などをいろいろと聞かせていただくことができました。短い時間の会話でしたが、大変な境遇におかれても自分のことは自分でという具合に、人間のはかり知れないたくましさというものを感じた一日でした。

 2日目には、いよかんゼリーを売りましたが、試食はたくさんしていただき、おいしいと言って下さったのですが、なかなか思うようには売れませんでした。もう少し何か工夫すればもっと売れたのではないかと思いました。

 私は、このようなボランティアに参加したのは初めてだったということと、一人で参加したということで知らない方々の中でどうすればいいかととまどうばかりで、あまり何もできませんでした。

 ただ単に何か役に立てればと単純な考えで行くのではなく、自分は何をするのか、何をしたいのかを具体的に考えて行くことが大切だと思いました。

 食事は、いいものを用意していただき、とてもおいしく食べることができました。また水軍太鼓の圧力のある演奏を聴くことができ良かったです。

 2日間という短い間でしたが、これを通してボランティアとは人を助け、人に助けられて成り立つものであり、他人のためであると同時に自分自身のためでもあると思いました。またボランティアの幅の広さや難しさも感じました。

 これからは困った時は気軽に助けてもらい、自分の方に余裕があれば気軽に手をさしのべるということを、生活の中にもっと取り入れていきたいと思っています。

 このような機会はなかなかないので、とてもいい経験をさせていただいて感謝しています。

 いろいろと大変お世話になり、ありがとうございました。

聖カタリナ女子大学 三回生

 太鼓が十三階建ての鉄筋マンションや周りを取り囲む山々に反響し、人々が自然と集まってきた。ワイワイ、ガヤガヤ・・・ちょっとしたお祭りさわぎだ。心がはずむ。笑顔がこぼれる。

 私がボランティアに参加した理由は、仮設の現状が知りたかったから・・・当初はただそれだけと思っていた。

 しかし「行動すれば今自分が知りたいこと、必要なことがそこにあるけんね。行動せにゃいかん」というメンバーの誰かの言葉で、自分自身、心に欠けている、飢えている部分を潤したいという気持ちがあることに気づいた。時間におわれ、毎日の生活になれ、あたり前のことにも気づけない、そう、私は目に見えない大切な何かを失いかけていたのだ。

 仮設で生活している人達には、強さ、あたたかさ、信頼関係、情熱、感謝する気持ちなどがあふれていた。そこには輪があった。二日という短い間だったけれど、その輪の中でいっしょに生活したおかげで私は原点に戻ることができた。

 あたり前のことがすばらしく幸福なんだということを心にいつもとめておける人間でありたい。

 仮説は語るその三

 住民の方々はご高齢であるということを言っておかねばならない。これは重大な問題を含んでいる。いつまで経っても日常化すべきことが日常化しないのである。

 私たちの普通?の生活では老若男女の役割というものがある。特にお年寄りと若者の組み合わせは普段は気がつかないが重要な助け合いの場を形作っている。まず若者が居なければ生活の様々な労働はうまく行かない。ゴミを出したり、荷物を運んだり、ちょっとした家具や電気器具の故障を直したり、電気の取替え、買い出しなど、生活は細々とした一見つまらないようで大切な行動で満ちている。お年寄りはそのちょっとした小回りは苦手である。そしてお年寄りは若者、特に赤ちゃんや幼児を見ているのは大好きである。心が和むのであろう。一方、若者もお年寄りと居ると心が落ち着く。しかし現代はこの構造は震災を待つまでもなく崩れつつある。

 農村の崩壊。都会での出世。核家族化。人間の孤立化。要するに人々は自分だけで生きようとするし、仕事は都会や工場や会社の場所に限定されて上京や脱農村や単身赴任・転勤・出張によって家族は崩壊している。家族の助け合いは心理的にも環境的にもますます困難になってきている。

 そこへ襲った震災は、殆ど既に崩壊していた家族のバラバラ状態の上に襲いかかり、仮設住宅の入居条件とも相まって、老人を集団で過疎地に隔離するという事態になっている。平均年齢七十歳以上のお年寄りたちとボランティアだけの生活という地域が出来上がっているのである。お年寄りらの若い家族は何処へ行ったのか。何処へ逃亡しているのか。そして他人のボランティアが何故世話をしなければならないのか。これは単に震災の傷痕としてではなく現代文明の落下地点のようにも思われる。もしボランティアの方々が居なければ、それは何時死滅したとも発見されぬ現代の「お婆捨山」なのである。神戸地域は行政が仮設地域へと人々を誘致したが故に咎められるであろうが、都会の片隅や農村では、つまり経済というものが遅滞しつつある日本の影の地域では、人知れずその「独居老人の孤独死」というものが進行している。それを私たちは他人事としているだけである。

 次に向かうのは市に二箇所というケア付きの仮設住宅。それは住人が十四人、介護の方が十二人からなる二十四時間介護の施設である。車椅子の方や様々な介護を必要とする方々が私たちを待っていた。水軍太鼓はてきぱきと準備され、先程と同じ威勢ある機関車のように着実でかつ心を持ち上げたり静めたりする細やかな抑揚を繰り広げながら心の底を震わせる。言葉ではどうしようもない震災の傷痕を溶解させるのか。物の受渡しや、一見優しい言葉掛けなどでは心を通わすことのできない被災と非被災者の落差を太鼓の音が一飛びさせてくれるのか。私にも、リズムではない何かが伝わってくる。太鼓の音を通して伝えたい何か、というよりいっしょに思いたかった何かが起こってくるようである。

 おそらく、いくら頑張っても私が持ってこれる美しい心は完全にはならない。人間は見上げたり見下げたり、威張ったり萎縮したり、寛容であったり貪欲であったり、清と濁の両方の心に塗れて生きている。その両方の心のなかで清浄の心をいかにして出すか。そんなことを考えるより、この今の太鼓の音はさまざまなわだかまりを洗い流して、何か皆が求めていたものを描きだしたように思う。ドンドンドン・ドンドンドン・・・これだけである。ひたすら叩く一人一人の顔が真剣である。微動だにしない姿勢から強烈な音が押し出される。  つづく

 仮説は語るその四

田辺婦人、平岡さん、池見さん、三人の締め太鼓は一点を見据えてそこへと確実に歩むかのように、単調な繰り返しが確かな前への力を伴って止まらない。淀んでいたものが確実な流れへと変えられていく。そして山内さん、宮西さん、岡本さん、中太鼓がわだかまりを吹き消すように走るなかを、大太鼓がドドン、ドドンと生命の拠点を繰り出していく。締め太鼓の着実さ。中太鼓のぐいぐい押す力。そして大太鼓の跳躍。人生に必要なものがそれぞれに現されているのかもしれない。それらの真面目さを浮き上がらせたのが田内さんの歩き太鼓?と田辺さんの二人の幼児であった。田内さんが飛び跳ねながらヒョウヒョウと軽やかなリズムを添えていく。心が浮き立つ場面である。締め太鼓の真面目さ譲らなさに対して、この融通性と跳ねる軽やかさは対のものだ。その背後で二人の幼児がちゃんとバチを振っている。あどけない無垢な肢体とその運動が私たちの純粋な心を導いてくれる。猜疑心に凝り固まった大人の混乱が解かれて、遊戯の開放へと集い直される。良く練習している。そして真剣である。その努力と熱意がやっぱり心を動かしている。

 現地ボランティアの方に聞くと、これらの仮設住宅は順次統廃合されながら恒久住宅へと解消されていくという。ここは来年の三月には取り壊されることが決定されているという。確かにここは公園である。仮設住宅の多くは公園や公共地所や工場遊休地などに建てられているという。実際私たちが回ったところは殆どが公園や山間部の空き地であった。しかし、仮設住宅を撤去するには住人たちはまた移住を余儀なくされる。震災から二年が経っている。お年寄りを中心とする人々は仮設で新しい人間関係を築いたところである。また人間の絆が崩壊していく。そしてお年寄りたちの最大の不安は「何処かへ行かなければならないこと」「何処へ住むのか住めないのか分からないこと」つまり「将来が不安」であるという不安である。

 人間にとって何が大事かというと、それは財産や名誉やそんな様様なものではなく、「明日が開けていること」であると思っている。明日何かができること。明日が明るいことだと思う。若い人もしかり、老人もしかりである。

 明日にいかに希望を持てるか。その活力があれば自立も可能であろう。しかし、震災で深い傷を負った上に多くを失って明日がどう見えているのか。そこに焦点を当てなければならないのだろう。

 介護を必要とする仮設住宅。ここでは多くの郷土の人々と遇うことができた。松山の人や宇和島の人。石手寺ですというと知っているという。「ふるさと」というのは不思議なものである。赤の他人が同郷というだけで以前から友達だったように振る舞える。といっても旅先ならではの話だが。やはり「ふるさと」というのは第二の母親のようなものなのだろうか。同じ景色、同じ言葉、これらは心のなかの同じ情景なのである。海や山や川を思い浮かべて一緒に憩うことができる。同じぬくもりが共有されて倍になって心に膨らむ。

 この仮設住宅には車椅子用のスロープが付けられたり洗面所などに工夫がされていた。行政が行ったものか、ボランティアの方々の要請によるものか。二年前に、神戸に初めて来たときのことを思い出す。地域のボランティアが速くからしっかりと機能している地域と、ただ物配りに暇を持て余している地域とがハッキリしていた。西宮地域はもともとボランティア活動が定着していたらしく、既に「要る物」「要らない物」「余っている物」「不足している物」が人材においても資材においても調査段階に入っていた。「誰が何処でどの様に困っているのか」という人対人の対応が既に震災後二週間半で始まっていたのである。

 してみれば、そのような先進的なボランティアチームはもう一つの行政なのであった。行政といってももともとは共同作業体である。一人でできないことを皆で助け合って福利を増やそうというものである。だから「自分の地域は自分で良くする」という理念がハッキリしている。その延長上に震災復旧のボランティアが活躍していた。だから一寸一日ボランティアして善意の欲求を満足させようとか、困っている人に一寸でも何かしようという浅いボランティア活動の域ではなく、最終的に何を責任を持って行うかという生活に根ざしたものだったのである。

 あの経験からすると、おそらく行政の努力もあろうが地域ボランティアの地道な調査と請願運動によってこれらのスロープやお年寄りが暮らしやすい生活の場が形成されてきたのだとは推測した。ボランティア? ボランティアに根を下ろしたボランティアというものを私たちはどう考えていけばいいのか。全人類的な問題の中で、全人類的家族の母親とでもいう役割である。

 ここでも多くの方が前へ出られて太鼓を自ら叩いた。得意そうな人もいれば恥ずかしそうな人もいる。もっともっと個別の一対一の対話をしなければならないのだが今日は太鼓を成功させようと次へと向かう。

 太陽の陰るのは早い。と思うと六階建てのビルのせいである。山のように高いビルがまだ四時というのに広場を暗く凍らせていく。まだまだ太陽の光を失うと急激に寒い。宝塚市の助役さんは今治の出身であったが再び来られている。どうも感激で涙を流されている。三度目の演奏。演奏というより「たいこ」である。蜜柑やゼリーを配る。一緒に持っていった念珠のお守りも喜ばれる。伊予柑は「あっ、これ前にも貰った」と言われる方もいる。「懐かしい」といわれると私の方は懐かしいのだがまさか震災直後の蜜柑を覚えていてくれたのかと感激してしまう。

 私たちは太鼓を片づけてお茶をいただきにふれあい棟に入った。ここは百二十八軒

 順番に感想を述べることとなった。みんな感激している。驚いてしまった。嘘かもしれない。お愛想をしている人もあるだろう。松山では水軍太鼓は聞き慣れている。いや、慣れている慣れてないの問題ではない。演奏が特別に巧かったからだとも思わない。何故か丁度、人々の心を溶かしたのだと思う。被災者の方々が持っていた被災の悲しみ、嘆き、憤り、・・・そして現地ボランティアの方が持っていた期待とわだかまり、・・・そして私にとってはどうしても心の隔たりを感じてしまう私と被災者と現地ボランティアの間隙・・・・・これらが融解していったのだと思う。私は皆さんのお礼の言葉が上辺のものなのか、それとも心のものなのかを疑い深く吟味していた。そして嬉しかった。その途端にやっと神戸で人に出会えたと思った。

 みんなの感想のあと、私は代表として何かを言わなければならない。「今回は来て良かった」それだけである。太鼓の音が揺さぶった。いや、皆の善意がいい方向へいい方向へと進んだんだ。運がよかった。いや、運ではない。やはり日頃の努力がこのような形になったのだと思う。わたしはここのボランティアの方を尊敬した。毎日の事なのである。

 その自分自分の毎日の努力の心の表現が自分をカタルシスし、そして他者へと打ち解けていったのではないか。

 ボランティアの松本さんが神戸市長田区鷹取への移動の道案内をしてくれるという。有り難いことである。時計は早五時を回った。一人一人がしっかりしているボランティアなのか。それとも組織が成熟していくボランティアなのか。ボランティアの方の顔が活き活きと明瞭に意識に残りながら私たちは宝塚を後にした。宝塚劇場の前では美しい並木道を彼女や彼が楽しそうに遊楽していた。その午前中の情景が浮かんだ。宝塚、大きな劇場と仮設住宅が点在する公園。所々更地が残り見るからに新しい即席住宅が同じような色合いで建っていく。二年前、豪華な建物は激震もものともせず何もなかったかのように建ちつづけていた。その合間を縫うように建て替えもままならなかったであろう文化住宅が大地にひれ伏していた。そ中である人は死にある人は助かった。ただそれは全部ではなかった。その時も既に無傷の人達は自動車を駆って通勤を始めていたのである。その傍らで被災の人々は泰然と聳える豪奢なビルや建築物の谷間に何かを見ていたはずである。そのものと私が融和できようはずはない。ここへ来る事自身が冷やかしではないか。そんな気持ちは太鼓の融和を経ても遂には無くなるものではない。新しい出発、これで公平だという出発はどこにあるのか。

 あの時はまだ青空を仰いでいた二号線に高速が貫通していた。日本の文化経済力というのはたいしたものだ。しかし、この余力の何割が心の痛みのために割かれているだろう。それは誰が決めることなのか。快適さと恨みのなかを三台の車は疾走していった。神戸三宮。大都会。高層ビル。豪華なイルミネーション。ガラスと光沢の輝く別世界。何のために。虚構のような真実の世界。若宮へ。

 鷹取中学校へ着いたときには七時を過ぎていた。校庭を照明が照らしている。覚えのある光景である。でも二年前に文房具類を届けたどの校庭も似かよっていたので数カ所の学校が思い出されて特定しない。L字型の校舎の並び。所狭しと自家用車とテントが並び奥の方で焚き出しの釜が間もなく沸き上がりつつあった学校か?それとも左側から進入してどことなく寂しい校舎の中央から沢山の段ボール箱を搬入した所か?それとも・・・そうだここは南側のゲートから入ったんだ。そして自衛隊や偉そうなあんちゃんが居並ぶ雑踏の中をトラックを止める場所さえない混雑の中でなんとか荷を下ろした場所ではないか。水のドラム缶、お風呂の釜、テント、自動車、ひどい混乱と人数が思い出される。

 今は誰も居ない夜の校庭。校舎だけが静かに薄暗く立っている。私たちは残りのゼリーと伊予柑の箱を下ろした。五十一箱と二十六箱。このゼリー等は後日、学生さんたちが地域に手渡ししてくれるという。

 みんなかなり疲労していると思う。ここで私たち四人は西神中央の仮設住宅の宿へと移り他の水軍太鼓のメンバーは夜を徹して帰省する。後で聞けば彼らの帰宅は三時半であったという。私たちもこの日の夕食は十時となる。鷹取は長田区の中心部と考えればよい。ここから向かう仮設住宅の寝場所は約一時間もかかるという。高速を通り大通りを抜けてである。前々回の時に文房具を配達していたから通る道路は全てといっていいほど見覚えがあった。高速から西神ニュータウンへ。超高層のマンションと一戸建ての新しい大きな一戸建て、そして点在する公共施設の一際大きく堂々としてガラス張りのビル。広く真っ直ぐに抜ける道路。切り取られて残った原野の残存と新しく植えられたサバンナのような木々。アスファルトとコンクリートが仕切る区画の中にそれぞれの価格に応じた巨大さの建物が建っている。

 それらは暗闇のなかに眠っている。そしてたまに出てくるイルミネーションの山。作られた都会はたまげたように集団の商店街を持つだけである。突然大きなマーケットが明るくピラミッドのように聳えるかと思うと暫くは住宅の空白が続く。こんな所に人々は生きている。こんな不便な所に。私たちの求める弁当屋も早数十キロを走るかと思うのに有ったのはローソン一軒である。結局目的地からそれて第二のローソンで弁当を買う。

 広い道から以前に覚えのある切られたポールを越えて進入すると、宝塚と同様の仮設住宅群が現れた。ジャングルジムがあるから公園なのだろう。それをすれすれに車を運転して止めた。ふれあいの棟へ入る。お婆さんが長椅子に腰掛けていた。かなりの高齢と推測する。七十歳を越えるだろう。言い遅れたが私たちをここへ案内してくださったのは神生さんともう一人の若者である。神生さんは四十歳前であろうか。気さくな方のようだ。木城さんはインタビューを始める。仮設住宅への入居の様子。そして仮設の年齢構成。神生さんは留めなくまくしたてる。約二時間このインタビューは続く。木城さんはまだまだ続けている。他の三人はとうとう精根果ててか弁当に手を着けた。待っててあげようと思いながらも空腹と疲労が精神力を奪おうとしている。仮設の人々の苦労を思えばこれしきのことで負けてはならないのだが、人間はやはり肉体が精神を上回る限度を抱えている。そうすると被災の限界下では人々は空腹や疲労と家族愛や理性や闘争のなかで精神的にも大変な苦労をしたのだろうと自分の身も恥じずに想像をしてしまう。

 ああ、弁当が美味しい。あの時みんなに配って一緒に食べた弁当はもう一つだった。この弁当は美味しい。それは空間が広くなったからだろうか。確かに避難所の圧迫感とは違う。仮設はましではある。仮設住宅は非難されるようなみすぼらしい生活空間ではある。しかし、震災で学校やテントに非難した人々にとって、仮設住宅に入れるということは極楽への移動だったのである。第一次入居、第二次・・・第七時へと続く。それは当然弱い人々つまり高齢者や障害者を優先して選ばれた。みんな地元に近い場所を求めたが、それでも入居可能な人は良かったのである。入居が遅れて発病したり死に至った人も多い。学校の凍るような床の上を、ダンボールで仕切り、狭い場所に家族が他人と隣接して暮らしいたあの生活に比べればずっと楽な場所であったろう。

 しかし、気がついてみると例えば七十歳以上の老人だけが集う仮設住宅群がで出来上がって二年後通過していく。

 この部屋にはエアコンもある。私はエアコンを切って毛布を四・五枚被って用心深く眠りへと向かった。寝つくのは早かった。いつか体験したインドの眠りのようだった。一応夜具は揃っている。しかし寒気が底や隙間から体にしみ込んでくるように感じた。

 やはり朝までは安眠が持続しなかった。寒さのせいだ。仮設なのだから当然だが、壁は薄く床は低く薄い。冷気がどんどん入ってくる。でもインドと比べればましだなどと思ってしまうから旅人は楽だ。六時までは寝ようと布団に入るのだが週間のせいか寝つけない。あの時は、この時間に独りトラックを駆って長田区の焼け跡地に供養のお経をあげにいった。灰色の石と黒い焼け跡の平地。焼けた場所だけ低く黒くなって、向こうの建築物が見通せてしまう。その部分だけ全てを失っているのである。そして地面には割れた茶碗や生活の具が悲しく不動の様であった。誰かが備えた花が寂しく色を付けていた。虚しい読経は誰のためであっただろう。

 そんなあの場所へいますぐに出れば間に合うとも思った。しかし・・・。私は最近、早朝の月と朝日に興味を感じている。なぜならそれらはどこにいても同じように照らすからである。いろいろな場所の忘れたくないものを彼らの光はしっかりと留めていてくれる。

 私は鍵を開けて戸外へ出た。冷たい。霜が降りている。なんといっても山の山の中だ。下弦の月が出ていた。幸運だ。月は雲に隠れる日が多い。今日は快晴の予感だ。月の光を待つまでもなく、棟棟は明るい街灯に照らしだされていた。明るくて北極星が分からない。月の光にある思いを重ねながら、私はまた屋内に戻りコーヒーに時間を潰した。少しずつ辺りが朝やいでくる。今日は朝日が綺麗だろうと期待した。表に出て浦の丘を駆け上がる。原生林だろうか、私の上がった丘は周囲を切り取られて、虎刈りの中央のように丸く木々を生やしていたが、同様の雑木が所狭しと密生し行く手を拒んだ。次第に辺りは明けていくが木々の枝の重なりの向こうには見通しが効かない。ここでは朝日は無理だ。丘を降りて丘陵を右へと回った。なんと目の前にビルまたビルの新都会が展開している。遊歩道が左右と前方に広がりその広場の向こうに、天に聳える高層ビル、そして巨大な施設、そしてそごうとダイエーのマーク。マンションが林立し、裾にはカタログに良く見る即席建ての類似住宅がひしめいている。ニュータウンだ。

 その手前に色が褪せて草でも生えかけようとする煉瓦風のパンテオンのような大きな舞台がある。近づくと巨大ビルの屋上のような展望台である。上がってみた。なんとここは後ろに控えるニュータウンの中央公園ではないか。新都会を一手に支えようとする公園なのである。さっき登った丘は、この周辺では唯一開発されて切り崩されないで残った原生野であった。掲示板では野鳥の森となっている。なんだあそこだけ換金しなかったのか。という悪口も的外れではないだろう。想像してほしい。この中央公園の広さはグランドの四つや五つは優に呑み込むのである。そしてその周りに広がって膨張する高く広く無数に点在していく建物たちはひょっとすると十キロを越えているだろう。そして途絶えながら神戸へと手を繋ごうとしている。

 どうだ。仮設住宅はその中央公園の自由広場に見事に占拠して建っていた。

 一本十数億円のビル。それが何十本と建ち、その下にそれに続くビルがひしめいている。そして都会へと通う人々の努力の結晶である住宅。その中央に正確に緻密に計画されてできた公園と病院と公共施設。高額の予算がバッサリとつぎ込まれたことは間違いない。しかしその中で最も潤いの源泉となるべく期待された公園の展望塔は早苔むし始めている。この対照の中にブリキで囲んだ仮設住宅が眼下に並んでいる。光沢のガラスとブリキ屋根。天を突く高層ビルと地を這う冷たい住宅。自由社会は個人救済はできない。しかしなんとか仮設を作った。学校のコンクリートを段ボールで区切った狭い狭い非難所から見ればここ仮設は天国である。しかし仮設の目の前に見えるあの豪奢なビルはどうだ。できることができないでいる。なにが防いでいるのか。隔たらせているのか。これでは心は溶けようがない。固まって固まって恨んでしまう。

 しかし、この事態は全国で始まっている端緒にすぎない。どこでも貧富の差は広がっていく。老人と若者の乖離も進んでいく。人々はどんどん孤独を強いられていく。これも時代の流れなのだろうか。

 朝日がまん丸に赤く、黄色く、真っ白に目を染めた。同じ太陽が同じ光で異なった情景を照らしていく。同じ心が歪んだものを同じように見つめられるだろうか。その右上で、さっきの下弦の月が薄青い空を背に黙っていた。月は静かに黙然と半分しか見せない姿をしっかりと現した丸みに存在させていた。私は何も言わない。ただ証人としてものを言うぞとばかりに。

 私は展望台を下りた。階段を下りて冬枯れした芝生を進んでいると向こうからおばさんが荷物を両手にさげて出勤してきた。多分電車の駅へと向かうのであろう。ここから遠路神戸へと稼ぎにいくのであろうか。うつむいて、腰を曲げている。重たそうな荷物だ。顔が悲愴感に思い詰めている表情だ。吐く息がハアハアと苦しそうに聞こえた。足取りがしっかりとしていて重たい。過労を感じさせる労働感が漂った。私の思いすぎならば良いが・・・。

 私は西へと歩みを取った。朝日に炙られて私の陰が長く尾を引く。光は全てのものを分け隔てなく照らして暖める。いやっ! しかし、誰かに光が遮られたとき、その日陰にあるものは決してその光の恩恵を受けない。私はつい歌った。

 陰、陰の分だけ

 光をもらっている

 かげ、かげの分だけ光をもらっている

 かげ、かげの分だけあたたかい

 かげ、かげのない世界があるのか かげ だれのかげ

 かげは暗く冷たい

 かげはしっかりと息づいている

 青いブリキ屋根の仮設住宅へと遊歩道を歩く。この公園は冬だから物悲しいだけではない。設計当初の活気と安らぎは放棄されて久しいのであろう。というより既に忘れ去られているのかもしれない。右手に埋蔵物資料館が建っている。その前に銅鐸の復元が朝日の方向へ向けて建てられている。「カーン・カーン・カンカンカンカカカン」と鳴らすと古代の情景が野鳥の森と朝日と下弦の月の延長上に広がる。多すぎる文明とその一部として現に存在する仮設住宅。この住宅も埋蔵物のように忘れ去られていくのか、それとも丘陵の続きのように取り去られて世間から排除されていくのか。少なくともこの土地は世界から完全に隔離されて世界との接触を失っている。

 朝食、そして雑談。私たちは調子が上がってしまっている。少なくとも私は意気高揚して平常心を失っている。何時もの旅先の状態である。寝不足と特殊な日程はどうしても日常化してしまっている「仮設」の現実には則さない。この意識のずれを被災者の人々はどう取るであろう。

 九時。自治会の会長さんやかくブロックの代表者が来られる。一人あたりゼリーと伊予柑一個ずつ、たいした土産ではない。手押し車に数箱ずつを乗せて一件一件尋ねることにする。今日の目的は人々と会話をすること。家を見せてもらうこと。意見を聞くこと。親しくなること。人間と人間として対話すること。そのためにしなくてはならない自分を変えるということ。

 会長さんは七十歳前。地区長さんは八十が近いように見える。どの家庭も六十歳を優に越えた人ばかりである。「伊予柑が足りるだろうか」と問うと、「一人暮らしか、せいぜい二人所帯だよ」と言う。そこで全員に渡ることが分かる。本当だ。各家に一人か二人しか居られない。それもご高齢の方ばかりである。臼杵さんの内に入れてもらう。おじいさんが暮らしている。綺麗なお部屋だ。立つのがやっとの台所と入るのがやっとのお風呂、そして二間が続く。一つの間はやぐら炬燵を置くと人が座るだけで部屋は一杯になるぐらい。そしてもう一部屋は日の当たる明るい部屋。私の感覚では四畳半が二つと思った。仮設としては大した物である。一人暮らしや二人所帯ならば、仮設としてはいいのかもしれない。

 しかし二年を経ようとしている。その間、なによりも寂しさに耐えられないのではないか。恒常化していくこんな生活は無味で変化がなく人間の匂いのない恐ろしいものに思えた。もと住んでいた地域の親しい人々、友人、隣人とバラバラになって一人だけでここに暮らしているのである。

 おじいさん、とはいうものの若々しいのだが、彼はもと大工さんだそうで、彫刻や杖を作るのが趣味だそうだ。私はいきなりずうずうしく、鴨居に掛けてあった皮を剥いで焼き上げ磨き上げた杖を物欲しそうに取り上げて「素晴らしいですね」と腹蔵無く語りかけた。彼は、嬉しそうに「あげますよ」と言う。もう一万本もの杖を作っては皆に配っているという。この仮設の人々も皆持っているという。でもその善行は震災からではなく以前からだという。「定年で、その後ペンキ関係の工場に努めていたが、震災にあってこんな遠方では通うこともできない」と語る。元気そうな方だが物悲しい。一番の希望はもとの場所の近くに住みたいということ。しかし望みは少ないという。新しい公共住宅などの情報を待つだけだという。

 確かにこのままでは「おばすてやま」になりかねない。神生さんが言っていた。「高齢者から順に条件を付けて、仮設の地域に入選したから、お年寄りだけが集合して住んでいる、だから何もできない、活気もない。若者と調和させて入居していたならば良かった」と。時間がないというので次へと急ぐ。臼杵さんはこれも見てほしい、この話も聞いてほしいという素振りで悔しそうである。私たちは間口二間程の玄関を次から次へと回った。同じ玄関、そしてどの家からも同じお歳のおじいさんかおばあさんが顔を出される。六十歳以下は居ない。一人一人自治会長さんと一緒にゼリーと伊予柑を手渡しする。笑う人、面倒そうな顔をする人、しかしだれもが興味深そうではある。ひとつにはこのようなお土産の行為に慣れているだろう。しかし手渡しでの交流のようなものはないのかもしれない。恐ろしい想像をすればこの棟の中には全く外へ出られない人もいるだろう。

 まだ日も低く、肌寒い季節である。しかし、もっと活気があってよいものである。寂しい集団住宅である。それでも私たちは次々と渡して回った。

 ある奥さんは「主人は下半身付随で、看護に苦労していたところに震災にあった。家財道具もどうしようもなく全て新調してここへ越してきた」という。この後、ご自分でご主人を連れて病院へ行くのだそうだ。ご苦労さまと頭が下がる。

 ふと、意識が途絶えると何処まで配ったのか分からなくなるようなまったく同じ仮設住宅が何列も続いている。ここだけで全部で二百人?と聞いている。一件一件まわるのはたいへんだった。何より感心したのは、お世話を頂いた会長さんら数人である。みんな高齢であるから途中で疲れられたのではないかと思う。お年寄りがお年寄りの世話をする。直に見られなければ分からないだろうが、これはたいへんな苦労である。

 中に赤ちゃんのご家庭が一軒だけ有った。違和感とともに、すごく心が和む。赤ちゃんのよちよち歩きが見える。それだけで微笑ましい。そしてお母さんの溌剌とした声。生きる力に溢れている。何も老人にはそれがないというのではない。老人だけでは寂しいのである。老人の良さも見えないのである。静かな落ち着きと佇まい。それだけでは私たちは太陽のような活力を得ることはできない。相乗効果となって自分を励ますものを私たちは知らず知らずのうちに周りからいただいているはずである。そのものがない。既に死に体のだだっひろい公園と全く無縁に背後に聳える超豪華ビル、それらのものどもはこの場所をますます惨めにするだけである。仲間を選ぶ自由、住処を選ぶ自由は人間の最も重要な基本的なもの、「最低限度の文化的生活」の範囲ではないか。そして誰がその責任を負うのか。

 おばあちゃんやおじいちゃんともっと親密な話をするべきだった。そんな気持ちを置き去りにして私たちは次の行程へと進む。もともと配達と視察という中途半端な目的が災いしているのをどうしようもない。

 移動する前に、お茶を頂けるというが、同行しているカメラマンの氏郷さんと共に朝太陽を拝んだ展望台へと向かう。ビデオカメラを前に、朝思った事を再度概念化する。なんだろう。一言で言えば・・・一言で言うと「人と人が離れていく」ということだ。都会にあふれた人・・それをすくい取る新都市・・そこに巣くう利益獲得集団・・そしてやはり震災に故郷を追われてここへとはみ出してきた被災者たち。故郷を追い出された人々がここにバラバラに生きている。ふるさとという心のオアシス。心が物から分離してあると思ったら大マチガイである。こころは色々な幼いときからの風景で満ちている。そして幼なじみや気の知れた人々が心のなかにこそ集っている。その中で私たちは安心感を得ている。住み慣れた風景と気心の知れた人々の中にいてこそ私たちは心安らかにいられる。老人が入院するなり惚けてしまうというが、だから当たり前のことなのである。住み慣れた心が新しい環境に破壊されてしまうからである。

 現代人は総じて、この故郷の心を喪失している。新しくなるや忽ちにまた造り変えられる都市空間。そして移住。とんでもない根無し草の放浪が心を索漠とさせていく。そしてその煽りを真方向から受けたのが今回の震災の人々ではないか。もともと私たち現代人は人間的な生活を失っていた。既にこのような山奥を開発し絵に描いた都市計画を実行し、予算の破綻とすれすれに這っていくような行政と、利潤の高下に進退を左右される企業に頼りっぱなしで、人間的なものが守られるはずはない。

 一見豪華絢爛のような都市の装いも、一歩中に入ると孤独と無関係と無機質のなかで一人溺れていく弱い個人が住んでいる。この全く人間的なものを救い潤いを持たせ得るのは、この場所に根ざした生活者の活力以外にはない。地道に生きて根強く対話を張っていくこと。日頃からの助け合いと信頼。そのようなものがなければ、お金の援助も無駄であるし、期間限りのボランティアなど通りすがりの冷やかしでしかない。

 私たちは、西神中央の仮設を後にした。年老いた者だけからなる集団は今後どの様に暮らしていくのであろうか。おそらく仮設は廃棄される方向で人々は公営住宅などの公募にすがっていくだろう。仮設で知りあった者同士が一緒に入居するという計画もなきにしもあらずという。しかし多くの人々は再び今の故郷が御破算になる中で又もや心の傷を深くして散っていくのである。スペーストリップのような空間。まるでここは異次元空間のようである。私たちが日常に思っている何処までも延長がある空間ではない。この一帯だけが宇宙から隔離されている。ワープの途中で迷子になったような空間。そしてその空間自体が互いに脈絡が無くて一人一人に分離し隔離されている。そのバラバラになったものがまたもう一つ細分化されて孤独へと落ちていくのである。

 私たちの車は神生さんに案内されて西神ニュータウンの外環状道路とでもいう道を西へと走った。当然、神戸市からはますます離れていく。自家用車でもなければどうしようもない陸の孤島である。一目してこれは仮設だは思われる住宅群が見えてくる。おそらくこれから住宅地として用意されていた広大な土地、運動場のような広場一杯に仮設住宅が何列にも並んでいる。平屋の密集住宅群である。何百軒、いや何千軒ある。そのような住宅群がまとまってあちらにもこちらにもある。神生さんが言う。「あちらをみてごらんなさい。赤い屋根のもあるでしょう」。「ほんとですね。すこししっかりした建て方ですね」。仮設住宅は、実はいろいろなタイプのものがあった。見るからに薄っぺらなものもあれば、重厚そうなものもある。青屋根、白屋根、そして赤や黄色の屋根。しかし一つの地区には全く見分けのつかない同じ形の無味乾燥な家々が並んでいる。

 どこまで走っても仮設住宅はなくなりそうにない。住宅地が点在し所々に公共施設がある。その間に残っていた更地を利用してこの入居地ができたのである。考え様によっては大した行政の努力と財力である。文化憲法国家に相応しい力である。これだけ無数の被災者をこのようにして収容してしまったのである。今までの日本の国家のどれがこれだけの大規模救済をなしえたであろうか。現代でさえ、地球上でこれだけの福祉を行える国は少ないと感心する。しかし、これで事なしえたりと後は個人の自立に任せることはできない。まだまだ先に述べたように問題だらけなのである。

 「後は、行政の問題だ」「後は、自立するかしないか個人の問題だ」・・・という声の狭間で、国民はまだまだ自分たちに責任がある、何かしなくてはと思っている。これで終わったとは思っていない。だからある者は、行政の責任を殊更に問い、ある者は被災者の甘え振りを力説したりする。しかし、どちらにしても重大な問題が横たわっていることには変わりがない。そして今回の震災を待つまでもなく、各地の天災や交通事故・経済変動による極端な災難は常に起こっているし、それを「助け合おう」という動きは被災者にとって不可欠であり私たちの心の問題でもある。災害の周辺にいてそれを放っておくことは私たちの心の荒廃にも繋がる。実は、平常者と被災者の格差を補いたいし、自分の優しい心の疼きを放置しておくことはできないはずである。しかし、人々が各街に何百人と暮らしていて、共同体が崩壊している現在、誰と誰が向き合えばいいのか不明確なまま何もできないで心が死んでいくという状態が続いている。先に脳裏を掠めた「地球の母親」という形でのボランティアでしか今の大衆化の下での「個人被災」について考えることはできない。

 だから、ボランティアの役割はますます重大になっていると思われる。被災者からの「救済要請」の声の発信が重大なのである。被災者は多くの場合、悲嘆に打ちひしがれて孤独に沈むか、大声で自分の悲惨さや行政の無能や周囲の無慈悲を非難するしかない。実はそうでなくてもその様に聞こえるのである。被災者は大抵の場合、打撃を受けた閉塞の状態にある。自ら立ち上がることは物質的にも精神的にも困難なのである。だからそれを援助し励ます役割のものが必須となる。一昔前であれば、家族や親戚や村の共同体というものがその役割を果たしていた。しかし、国家という茫洋とした者が中途半端な救済を始めた今、家族さえも例えば仮設に祖父母を追いやって自分たちは別の生活をして過ごしているということがままあるようである。それは今回の震災がなくても各地での老人ホームや一人暮らしの現状を見れば時代の流れであったことは明らかである。

 そうすると、生活の核が崩壊しているという現代病が大震災という一見大衆災害のような公共的なものでさえも見えにくくしているのではないかと思われてくる。人間的な生活の場が無くなってきているから、恐らく予算はあっても具体的行動が組めないのである。生活の核・・・自分がいて、配偶者がいて、子供がいて、祖父母がいて、友達、同僚、地域の人々・・これらの自分を核とした濃密な生活の場が有るだろうか。もしも無一文になったとき、私は誰にすがれるだろうか。国家という顔のない福祉予算の条文にすがることしかできないのかもしれない。実は自分で作るべき助け合いの人間関係を作らない人々。その人間は、自ら他人への優しさの投資を怠っておいて、当然の如く国家救済を求め、ボランティアの派遣を求める。これは、震災という大災害が個人の人間関係でどうにかなるということを言っているわけではない。そうではなくて、人間関係を作れなくなった現代人が、果して制度だけで立ち直れるかを問題にしているのである。

 私たちは助け合いの人間関係(家族も同様と思う)を崩壊させてきた結果、冬のキリギリスとして蟻さんに助けを求めようにもそれができない。被災者は「もしも貴方が被災した時にもこれぐらいの国家援助はいるでしょう」という相互扶助の冷淡な理屈によって一人寂しく他人には決して分かってもらえない自分の状況を叫びつづけるのみなのである。そしてもしも、「地球の母」たるボランティアに恵まれて

打てば響く会より

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