3.11みんないっしょ格差と被曝のない世を 石手寺住職加藤俊生
 東日本大震災から一周忌にあたる日、被災者の方約40名と、この一年ボランティアをしてきた石手寺の面々は同時刻、黙祷と元気回復の黙然の後、しめやかに読経をしました。この日の灯文字メッセージは「みんないっしょ、3・11、カクサ、ヒバク、ない世を」でした。
 その三日前、お送りした伊予柑の御礼の電話が東北の南三陸歌津の小野寺さんからありました。今春の四月十三日に私は行くことにしています。「何かお役に立てることがありますか」こんなことを小野寺さんに問うと、こう答えられました。
「とにかく来てみてください、みなさんの痛みを知ってください。しばらくの間、寄り添ってこの苦難をともにしてください」だいたいこういう内容でした。
 人が失われ、家が流され、仕事が壊滅し、古里の景色が剥ぎ取られた。これは想像に絶する苦しみだろうと思っていました。しかその想像力の及ばないもう一つ向こう側に人々の苦しみがあるのが見えました。その痛みを分かろうとするなら行かねばならない。そんな気持にさせられました。
 復興の原点は被災者の現実にあるのです。被災者の現実とは、壊れた景色や失われた人と物はもちろんですが、被災者の心にある。私はそう確信しています。この一年ずっと毎月何回も交流会を重ねて、思いました。「嗚呼、自分は何にも分かっていないんだな」。他人に対して「あなた方は被災した人々のことを本当に分かっていますか。分かっていないじゃないですか。分からなくては何を復興したらいいのか分からないでしょう」と言いたい気持でした。でも私が分かっていないのです。人の痛みは分からないということです。座視していたのでは分からないということです。
 でも愛媛にいてどうやって分かるのか。文集を読みましょう。三月十一日、津波で家族を失った方が語った言葉、被曝で古里を根こそぎ奪われた被害者の言葉、国は安全だというなかで高い放射能を見て幼子を抱えて逃げてきた人々の言葉をかみしめましょう。
 それは実は分かっていないという私達非被災者と被災者の溝を埋めるものです。
 小野寺さんは言っています。「まず、私達の苦しい心境を見てください」と。それは言い換えると「申し訳ないが、被災していない人には多分古希辛い気持は分かってもらえない。それでも来て頂いて見て頂ければ嬉しい」ということです。
 私達はもっと謙虚になる必要があるのです。こんな時のために謙虚という言葉はあるのでしょう。そのことがやっとこの年で分かりました。私達は自分の知らない事に対して謙虚であるべきなのです。
 私達と被災者の間には溝があります。溝ができてしまっています。痛みでつぶれそうな心と、それを何とか分かろう何とかしたい心。しかしその間には大きな断層ができています。それを今、日本中の人々が乗り越えたい何とかしたいと思っています。
 この時、その方法を誤れば、溝が開いてしまいます。格差が広がってしまいます。物においても心においても段差、格差ができてしまっていることを、まず認めることが必要なのです。それか灯文字に籠めた「カクサ」の言葉です。
 分からないまでも、ひととき一緒にお位牌の前に座って同じ方向を見つめたい。そして被災者の方々の一人一人のの言葉を聞いて何が起こったのかを心の上で確かめたい。そして何が本当に必要なのかを分かっていきたい。その中で私達はいつの日か和解ができると信じます。
 阪神震災のとき、現場に駆けつけて作業した何日目かの夜に、私は一人の被災者と会議室で話し合うちにこのように言われました。「なんで神戸なん」と。私にはこう聞こえました。「なんで松山じゃないのか」と。そうです被災者と私の間には埋めようのない大きな海溝が広がっていました。どこまで尽くせばこの隔たりは埋まるのか。それは大きな大きな埋めようのない大海でした。そして何度も伊予柑を持って行き来したり、太鼓の演奏や読経を繰り返しましたが、次第に世間はこの大災害を忘れていき、独り暮らしのよおじいさんは戦争で全てを失い、またこの災害で全てを失い、そして世間から閉じこもって、忘れ去られて独り居ました。
 二年後、私は機会を得て松山に移り住んでいた多くの人々に電話をしました。「ボランティアをしている者ですが、何かできますか」と自己紹介するとこう言われました。「ボランティア、ボランティアいうけど、いったいボランティアが何してくれた。行政も何してくれたいうんや。最初はなんやかやいうてたけど、一年も経ったら手のひらを返すように冷たくなって、みんな忘れ始めた」。
 何軒も電話をおかけしたが、みんな揃って「何してくれましたか」という怒りの返事が戻ってきた。私は、この間、救援に行って真の共同はできなかったという無力感と悔しさと申し訳なさで一杯だったから、そんな言葉を食らっても「ああそうなんだな」と得心した。得心し叱責されて清々したりもした。自分の気持は現実に則したものだったのだ。だからこそ何とかしなければならない。被災者は助からないし自分も助からない。それは本質的には被災者の生活が回復していないし、そのための助け合いができていないということである。しかしその時起こるもっと恐るべきことは、被災者と私達のこころが離反していくことである。どんどん離れていくのです。離れていくだけではありません。助け合いを期待したから悪かったのかもしれません。期待は裏切られ期待外れ、失望、「なんで」という恨みに転化していきます。
 私達はいっしょに生きることをやめて、一人一人、ひとりぼっちに他人を無視してあるいは他人を恨んで生きることとなるのです。そもそも一緒に生きるなどということはなかったし、期待するべくもなかったのかもしれません。所詮、他人は他人、どうなろうが知ったことではありません。対岸の火事だったのです。
 でも本当にそうでしょうか。他人事だったのでしょうか。
 違いまず。あの震災の映像を見たときみんなが「嗚呼むごい、何とかしたい」と思ったのです。
 阪神震災から六年経ったとき私は「もう救援できることはなくなった」と思い、お地蔵さんを立てることとしました。そのために宝塚に地震で折れた石をもらいに行くことにしました。そして妙玄寺さんにたどり着き総代さんにお願いしました。その方は植田さんといい震災で奥さんを亡くされていました。最初は何しにやってきたんだ。ボランティアなんかにやる石はないという感触でした。私は今までしてきたことを説明しました。半ば諦めていた所に「こっちに来なさい」と案内され四トン車一杯の石を貰いました。お寺では住職さんと若奥さんがお亡くなりになっていました。その礎石や瓦や垣根の折れた石を並べて私はお地蔵さんと観音さんを作りました。まさか自分でお地蔵さんを自分のために作ることになるとは思いもよりませんでした。そして出来上がり、宝塚の人々を道後温泉にご招待しました。
 七年目の1・17の五時、境内に「生きる」の
文字を灯し、私達は読経をし、妙玄寺さんでも演奏した水軍太鼓を演奏しました。そしてこの言葉を植田さんから貰いました。「こんなに感動したのは初めてだ。この年になってこんな嬉しいことがあるとは思わなかった。私達にはまたまだやれることがあると思った」と。
 私はずっと無念に思ってきたこと。お地蔵さんを作ることによって形に残し区切ろうとしていたこと。区切って別れを告げようとしていたこと。そのことが、別れなくても良いのだ、こころは今溶けいくと感じました。
私達は和解したのです。何もこれといってできたわけではありません。でも私達は和解したのです。私達の間にできていた私達を隔てる大海を除き去ったのです。断層がなくなった、溝がなくなったのです。それは一瞬の幻影だったのかもしれません。それでもひととき格差は消えたのです。和解したのです。
 私はまだ生きいます。生きている限り次々と困難は私達を襲い、格差を起こします。今回は被曝という困難を見せつけました。自主避難している人々は本当に困っています。家族がバラバラ。避難する人と、避難しない人、できない人、国はしなくて?といっているのだから避難するなと言う人、国は避難を認めません。逆に避難している人を避難している雰囲気があります。マスコミはそのことに気づいていないのか、ワザと国や金儲け主義者に媚びているのか、日本は安全だと言い続けています。ほんとうに福島周辺は子供にとって安全な土地でしょうか。子供たちの給食には福島産が使われています。そして弁当は持参禁止です。少なくない人が給食の牛乳を捨てているといいます。あなたならこの給食を我が子に食べさせますか。
 先日、自主避難の会の方が「福島に帰ります」とお別れにプレゼントをくれました。小学四年生のお嬢さんが手作りの折り紙の花をくれました。涙の奥に激しい葛藤と苦悩がありました。帰るべきなのか。避難を続けるべきなのか。私なら避難します。でもそれは言えませんでした。この原稿を書いている今も彼女や彼らは帰郷の決断を呻吟していることでしょう。
 私達は古里を捨ててきた。古里の人々を見捨ててきた。もしもこのような怪物を人類が作っていなければ、これほどの苦悩はしなくても良かったのです。その原発の手助けをしたり、その電気の快適生活を貪ったり、安全神話に騙され続け、分かった現在も被曝している人々を他人事として、想定外、無責任、私には関係ないよと、何もなかったかのように逃げているのが私達ではないでしょうか。
 被災者の方が言いました。他人事にしないでください。
 被災して、世界の難民の気持が分かるようになりました。
 みんないっしょの日は近いか