阪神震災証言#平井京子さん談話テープ
#三枝さん談話テープ
#松山医療福祉専門学校1年
#聖カタリナ女子大学一回生
#聖カタリナ女子大学 三回生
#仮説は語るその三
#仮説は語るその四

 

 平井京子さん談話テープ

司会: 松山出身の帝産観光バス神戸支店でガイドをされている平井京子さんにちょっと伺います。お願いします。

平井: お話をお聞きした時は、やっぱり私自身神戸のバスガイドになったのは、将来一年か二年たって、私が一通り、やっぱり自分が生まれ育った町っていうのが松山なんですよね。私の生まれ故郷の松山のいいところを知ってもらいたいと思って、私は神戸のお客さまを、松山道後温泉に御連れするっていうのが夢だったんですよね。それでこういう形ではあるけれども、一番私の、震災があってからすぐ神戸をゆったり逃げて、松山へ一時帰ってきたんですね。そしてまた神戸に行きました。その時に、神戸から帰ってきた時、ああ故郷ってやっばりすごくいいなって思ったんですよ。温泉もあるし、緑もあるし、山もある。食べ物も溢れるぐらいあって。物資がなかった頃っていうのは、水も奪い合い、食べ物を奪い合い、みんながみんな自分のことしか考えていませんでしたよね。物っていうのは、奪い合えば足りませんけど、分け合えば絶対足りるんですよね。そういう気持ち忘れてたなかで、普通の生活ができたんですよ。その時の、私の故郷に対する気持ちっていうのを、神戸の人、宝塚の人も、同じように味わってもらえるといいなって、そういう風な案内ができたらいいなって、思ったんですよ。震災のこととはかけ離れてますけど、自然がたくさんあるなかで、何か一つでも得るものがあればなって思ったんです。それでやっばり、知ってもらいたいな、松山に来てもらいたいなっていう一心で、どうせなら他のガイドさんじゃなくって、私が松山出身なんだから、いいところいっばい知っているからって思いました。

司会: じゃあ、仮設のお年寄りの方々そしてボランティアの方々がね、今度招待旅行で道後温泉行かれる、そのために是非、是非にといわれた時は、逆に私こそって思われましたね。

平井: 自信なかったですね。実際今日バスのなかで、震災の体験の話しっていうのをして下さいって、代表者の方におっしゃられました時、やっぱりなんか、すごい自分自身、実際に私と同じような体験をされて、九死に一生を得た方もいらっしゃいますよね。その方々の前で、またあの震災のことを思い出して、せっかく招待旅行で皆さんの善意でこられているのに、気分を害するんじゃないかなとか、辛いこと思い出すんじゃないかと思って、喋るのも勇気がいりました。自信もなかったです。でも何でもそうですよね。一生懸命すれば伝わると思ったんですよね。その中で、・・・。

司会: 実際にね、じゃあと思って一生懸命伝えて、どうでしたか皆さんの反応は。

平井: やっぱり他府県からこられたお客さまとは違いますね。もう話を始めて、地震のおこった状況を口にした段階から、もう皆さん思い出されるものがあったんでしょうね。もうここから、感情が高まっている方多かったですものね。でも私が話してること以上の現実があったから、言葉にできるんですよ。私の言葉じゃまだ全然表現しきれないところが多いんですよね。それを皆さんは、自分が実際に体験しているから、同じ目線で、同じような表現で、幅広く自分の想像力で心の中で描けますよね。だからよけいウワァってくるものがあったんじゃないかなと思いました。

司会: 話してよかった?

平井: よかったかも知れないけど、でもかえって本当によかったのかなっていつも不安に思います。だって、話すことを仕事にしてますよね。こういうことって出来れば仕事にしたくないですよ。でもいろんな中で神戸の震災のことって表現されてますけど、二年たっても多分三年たっても、かわってないところは全然かわってないんですよね。格差が広がってるだけなんですよ。なのに、これだけ港は復興しましたよ、これだけきれいになったんですよ、観光客の方来て下さいっていっても、観光地はそりゃあたくさんお金が落ちていきますね。でも、観光地じゃない永田とか、高取とか、焼野原のまんまですよね。土も赤茶けたまま。お花も枯れてしまって、拝む人もいませんよね。そんな中で、集まるところは、たくさんお金がおちてって、あれだけ「寅さん」のね、舞台になったっていってクローズアップされても、1月17日以外は人っ子一人集まりませんよね。観光地じゃないから、みんなバスで通っても高いところから低いところを見下ろすようにしか見えないんですよ。だから、その人の立場ってわからないと思いますよね。実際道路の場所から被災地の奥を見ようと思っても、絶対見れないんですよね。今震災直後だったら、震災のことをどうでしたかって聞いたと思ったら、やっぱり現地にいらっしゃる方も辛かったし、「何聞いてんねん」って本当に石を持つような雰囲気だったと思うんですね。でも、今は落ち着いてます。市場自体の周りにも町がないんですよ。町がなければ市場は成り立ちません。お金も落ちません。そんな中で私はやっぱり、観光地は放っといても人がくるから、そういうところを見てもらいたいですよね。でも見てくれないですね。それがなんか一番辛いですけど。人ってその時に自分が同じような体験をしないと、絶対にその人の気持ちには慣れませんよね。わかりませんよね。なんかこう人の苦しみとか悲しみっていうのは、すごく深いものだし、目に見えないものですよね。ずっと笑ってて、ずっと泣かなかったら、大丈夫なのかなっと思いますよね。でもわらってる瞳の奥には、辛い悲しみっていうのがすごくたくさんあるんですよ。それを同じ立場にたって読み取れるような人になりたいなって思いません? ねぇ。なんか震災を期に、今まで私は与えられたバスガイドの案内っていうのを教本通り覚えて話してました。でも神戸に関しては、テキストがないんですよ。全部潰れてしまったし、全部ゼロです。ゆったらマイナスの部分も多いですよね。そんな中で、ガイドテキストがない分、自分が体験したこと感じたことをそのまま言おうと思ったんです。ボランティア活動や、また震災孤児って言われる、両親とも亡くして親戚中たらい回しにされた子供とか、そんな中で接していると今まで自分が当たり前だって思っていたことがどれだけ有り難いかってわかりますよね。私は、相田みつおさんって言う方の文がすごく好きなんですけど、その方の文の中で、

 親のない子、

 親のない子はね、声を出して泣かないんですよ。

 声を出して泣いても、抱き上げてくれる両親がいないから。

 だから泣かないの。

君見よ、双眼の色。語らざれば 憂い無きに似たり。って言います。憂いが無いのじゃなくって、悲しみが無いのじゃなくって、語らないんじゃなくって、語れないんですよ。語っても誰も分かってくれないから、だから語るのを止めてじっと黙ってる。ずっと笑ってる。そんなもんですよね。でもそれは、その子にしかわからないし、その子と同じ視点にたたなきゃ絶対にわからないことですよね。私もわからなかったし、震災の時にやっぱり生き埋めになってる人の、人間の最後の声、断末魔って聞こえますよね。その時、助けてあげられなかったんですよ。自分のことで精一杯。その辺に人がうずくまっているのがわかっているのに、その上を踏み付けて通るしか無かった自分がいるんですよね。自分が一番大切だったんですよね、その時は。そういう自分にも腹がたちます。でもその時には、そうするしかなかったんですよね。それからしばらくたって、私がお医者さんとかだったら、助けてあげて怪我を癒してあげることもできる。でも私はガイドだから現場復帰した時も、自分が逃げてると思って神戸にかえった時も、切符切りの仕事しかなくって、そんな中でガイドの制服なんて派手ですよねぇ。いい服着て、みんな毛布にくるまってるのに、お風呂も入れないのに、ニコニコして切符切りして、「あんた、ようそんなんやってられるね。」って言われますよね。でも私にその時できるのは、お風呂に入れない人をお風呂につれていく。切符切りの仕事。代替え輸送バスの仕事しかなかったんですよ。仕事したいって思いました。私はお医者さんじゃないから傷を癒してあげることはできないけれども、ガイドっていうのは、一年二年三年例え十年たっても、その時の気持ちを、見たものを忘れずに、じっと自分の瞳の中に閉じ込めておいて、みんなが嫌なことは忘れようとしますよね。でも自分だけは、絶対に忘れまいと思ったんです。そうすることによって、十年先でも二十年先でも、どんなにまわりが復興しても、跡形もなくなっても、語りつげますよね。広島の原爆のことでもそうですよね。ああいった雰囲気で、また意味合いが違いますけど、語れたらいいなって思いますよね。それまでやっぱりガイドさんっていうのをしてみたいって思いますし、あの時見たものっていうのは、今こうやって当たり前の生活をしてたら想像できないから、でもきっと今こうやっていらっしゃる皆さんもそうだと思うんですれど、明日の命保証されている人って一人もいないんですよ。明日、今日、今地震がくるかもしれないんです。皆他人事だって思っているけどそうじゃないんですよね。自分の身に降り掛かって初めてわかるんです。思いません? なんかやっぱり風化させないっていうことは、自分自身覚えておかなければならない、その時の事思い出さなきゃならない。いやですよねぇ。ガイド辞めようと思いましたよ。辞めて、もう震災の事なんか喋りたくない、忘れたいって思いました。普通の人と一緒。全部忘れようと思いましたけど、忘れてしまったら、皆が忘れてしまったら、神戸は一月十七日、何があったか誰もわからないですよね。手をあわせる人もいません。5時46分、集まる人もいませんよね。今、被災して焼け野原になっている場所も、いずれかは区画整理で家が建ってしまいますよね。どこに慰霊碑建てたらいいんでしょうかね。今は家が建ってないから、菅原市場や永田とか高取とか皆集まってますけど、家が建ったらどこに集まるんだろうって思うんですよ。皆復興復興っていってるけれども、復興急いで皆が集まって拝むところってどこなんでしょうね。神戸は今それどころじゃないって、土地がどうの、義援金がどうのっていってますけど、この後、今あったことをどうやって残すかっていうこと。忘れれば、もっとねぇ前に進まなきゃいけないと思うんですけど、立ち止る人がいてもいいと思いません。そんな思いで今バスガイドの仕事してます。今は他府県からこられる方に話すのも、すごくやりがいがあるっていったら変だけど嬉しいですよね。ちょっとでもその時の雰囲気を感じてもらえる、同じ土の上を踏んでもらえる、この土の下にはたくさんの苦しみや悲しみがあったことを分かってもらえる。さいわい観光地だけじゃなくって、皆同じ視点で降りて見てみたいとおもいません? っていったら賛同してくれる方多いんですよ。そしたらバスを止めて旗は持ちませんけど、ここがあそこがって御案内しながら、現地の方の話も交えて歩いて回ります。それができる、仕事ができる、生きてるっていう、生き残りましたからね、命があっただけすごく楽しいし、仕事があるだけこんなに嬉しいことってないですよね。働けるっていう事がこんなに嬉しいと思いませんでしたし、今までは在り来たりのガイドしかできなかったような気がするけれど、自分で考えてシナリオ作って、見たこと聞いたこと現実にあったこと、百年前二百年前のことじゃないんですよ、このあいだのことだから鮮明に覚えてる。語りつげるっていうしあわせ、感じてますね。

司会: ありがとう。

平井: 震災孤児っていうのが、私が何年か前に御一緒させていただいたあるお寺の団体さん檀家さんのお坊さんのお一人が、ずっと永田でボランティア活動をされてたんですね。震災直後からずっと寝泊まりされて、そんな中で私が震災の話を語ってるっていうことを聞かれたんでしょうね。「京子ちゃん、もっといろんな人の話きいてみたいと思わない? 」っていわれて、永田連れていかれたんですよ。私も最初、永田のあの焼野原の中で話なんて聞けないんじゃないかな。対等の立場っていっても私は家もある家族もいる、だのにこの人たち家族も亡くして目の前で奥さん亡くならして、そんな私よりも心の傷深いのにそんな人と対等に話せないと思ったんですよ。でも同じようにお坊さんと同じように話してくれたんですよね。その時に、両親亡くなった両親共に亡くなった幼い子供とかに会って話し聞いてたら、ニ階が一階になって押し潰されたんですよね。女の子はまだ三つか四つですよね。ほんとに言葉が喋りはじめた頃。話すのが楽しいっていう女の子で、「みいちゃんね、家ペっちゃんこになってね、お母さんと私つぶされてんよぉ。私はなぁまだちいちゃいから出られてんけど、お母さんな私がいくら呼んでも出てこうへんねん。まわりの人にお母さん出てこうへんねんって言うても、皆知らんふりしてん。だからな、一生懸命一生懸命お母さん探そうと思っていろんなところ掘ってん。でもなぁ手も血だらけになるしな、足も血だらけになるしな、痛かったけどなお母さん探してん。そしたらな指輪したお母さんの手がな、外から見えとってん。そやからなお母さんや思って手握ったらお母さんの手やなかってん。なんか人形みたいでな硬くてな、でも私をいっつもだっこしてくれてた手やから、これはお母さんの手に間違いないって思ってんやん。だから一生懸命全身力振り絞って引っ張ってんけど、出ぇへんかってんやん。まわりの人に頼んでも誰も一緒に引っ張ってくれへんかった。そしたら、あっという間に火事やって皆が騒ぎだして火の手が襲ってきた。そしたらお母ちゃんがいるところも火の海になってしまう。」女の子はね、その時にどうしますかね。その子はね、まわりに自分の奥さんとか子供を救い出そうとして、皆その時は必死だったから片足をノコギリで切って救い出したりした人って多かったんですよ。たくさんの目の荒い刃物が目の前にありました。その刃物を幼いその三・四才の子が持って、自分の体よりも大きな刃物を持って、お母さんの手切り落としてお母さんの手を胸にじっと抱いて、その手を持ったまま遠くに遠くに逃げたんだそうです。でもお母さんの顔とか体とかは火の中で焼かれてる事を女の子は分かってたんですよね。辛くってその腕を誰も見てないところで焼いて「お母さんごめんね。」ってその腕を食べたんだそうです。それぐらい女の子はお母さんの事愛しいと思ってて、またお母さんに抱き上げてもらいたいって、何も考えずに腕食べちゃったんですよね。骨もそのまま持って大きな自分の体よりも大きな鍋に入れて、ずっと素足でお父さん探しに言ってたんだそうです。でもお父さんもお母さんと一緒に焼かれてしまって、結局その女の子はノコギリでもって落とした手だけの骨しか残らなかったんですよね。骨もどれがどれだかわからないし、永田の焼野原には大きなお鍋の中に変色した骨か何かわからないようなそんなかけらを持ってる素足に血を滲ませたような女の子の姿が一人や二人じゃないんですよ。皆当たり前のようにしてウロウロ、ウロウロして、「何持ってんの ? 」って言ったら「お父さん」「お母さん」って、ただボーって歩いてるんですって。そんな姿、やっぱり真っ暗やみの中で明かりのない中で歩いてる姿、見ちゃったらもうね何も言えませんよ。大人だったらそんな残酷なことって言いますよね。「お父さん足ちぎって、足切ってくれたら出られるから。もうちょっとやけど、出られへん。だからお父さん、火恐いし助けて。」って言われたのに、だんなさんは「すまんけど、それはできん。」っ言って刃物持つことが出来ずに、奥さん火の中でまかれて、亡くなっていった人も多いんですよね。その方今も自分でお家ほんとにあばら小屋みたいなんですけどね建てられて、一人で生活してらっしゃるんですけど、その時の声が耳に焼き付いて離れないんだそうですね。震災は、亡くなった方も辛いかも知れないけど、残った人も辛い。いいことなんか一つも無いですよね。なんか特に仮設で生活されている方身寄りのない方は公共住宅当たって出ていかれたり、避難所にいる時はまだよかったんですよ、皆一緒だったから。仮設当たって行きますよね。なんかね、何してるんだろうって思うことも多いですよね。一年目は皆帰ろうって思うんですよ。お家に帰ろう、お家建ててくれるから、息子が娘が。でもそのつてさえもなくなった時、「もう帰られへんのや。」「ここでもう終わるんや。」だって、神戸のある仮設なんて十ヶ月以上も遺体発見されずに、誰にも看取られずに、夏を越えてるんですよ。異臭がするはずでしょう。誰にも看取られずに服を着たまま白骨化。誰がそんな最後を望んでますかね。生まれてくる時は、大きな産声あげて皆に祝福されて生まれてくるのに、亡くなる時は一人って言っても誰か一人ぐらいは看てて欲しいですよね。誰も気付いてもらえない。また仮設っていうのは同じような建て方だし、冬場だと物凄いところに建ってる仮設もあるんですよ。町中だったら幸せですよね。雪が降るような寒い日に、信じられないかも知れないけれど自分の仮設を探して凍死して亡くなった方もいるんですよね。それどころか、助かった命を仮設住宅の中で死ぬのは余りにも辛いっていって、それなら自分で命を断とうと自ら選ばれた命なのに断った方が、もう九十名越えてますよね。そんな時に、せっかく地震体験されて命の大切さって皆分かってるはずなのに、辛いですよね。くい止めるものって、やっぱり人じゃないでしょうかね。追い詰めるのももちろん人ですよ。あの時おこった火事も、あるおばあちゃんが毎朝五時になったらお茶を入れるのを日課にしてたんですよね。火をつけました。その火がまわりを焼きました。近所の人皆知ってます。あのおばあちゃんの火やって。おばあちゃんは助け出されました。まわりの人は家財道具一切合切焼かれました。おばあちゃんは自分で自分の首を絞めようとしました。手首も切りました。でも死にきれない。皆知ってる。あのおばあちゃんとこの火やって。だからおばあちゃんも苦しんでる。でもその時の火はお茶を湧かすための火だったから、人を焼くための家財道具を焼くための火じゃなかったんですよね。実際こうやって震災の話をしている上で「実は私も恋人を亡くしました。」「私も両親を亡くしました。」だから今は神戸を離れてます。でもガイドさんには、「僕の話も他の人に伝えてほしい。私の話も伝えて下さい。」って言う手紙が圧倒的に多いんですよね。反対に「あんた、何でそんなこと商売にすんねん。」って言われてもおかしくないって思ったんですけど、それだけ皆さんは自分の口ではいえないから、だから代弁して下さいって、そういう感覚持っているのかもしれませんよね。喋っていることはほんのごく僅かですよ。あった現実が余りにもすごすぎるから、私が喋った少しの言葉で皆さん想像されます。でも実際報道の方もね、今はいいですよ落ち着いたから、カメラで色んなところ写しても皆かんばってますって答えますけど。当初は「何カメラ撮ってんねん。」カメラ取り上げられてフイルム全部抜かれて、殴られ蹴られそれでも「すみません、仕事ですから。」「あんたが仕事なんもわかる、でも人間として許されへんって思わへんか。カメラ持つ手があるんやったらここで生き埋めなってる人助けられへんか」って。でも最終的には報道の方がいらっしゃったから神戸の事を広く知っていただいた。当初はそういう余裕も無かったんですよね。誰が正しいとか、誰が間違ってるとか無いと思いますけど、それぐらい人の気持ちも、いた現実も忘れたいって思うぐらいなのが震災だったような気がします。

 

 三枝さん談話テープ

三枝: 私AM神戸で報道制作局報道制作部長というのをやっております。

もともとは制作報道を中心に24年間いたんですけれども、震災の時の震災報道を機会にちょっと体力的にも気分的にもまいりまして、その後編成でしばらく仕事をしていました。つい先日制作報道部の方へ戻ってきたと。まぁあの昭和23年生まれですから、ずうっと現場現場できた団塊の世代のひとつのまぁ放送マンの見本みたいな男です。

司会: あの実際にですね1月17日震災が起きた当日の事、ちょっと振り返っていただけますか。

三枝: こういう質問をされた時、私はいつも大きな反省がでてくるんです。この阪神間神戸というのは、私自身長いジャーナリスト生活ですけども日本で一番安全な住みやすいところだろうという思い込みがありました。で、これはほんと疑いも無くそう思っていたんですね。私自身いろいろ報道現場では活動もしてきたつもりなんですが、こと地震に関しては絶対におきない、ほんとにこれは今思い出すともう涙が出る程悔しい思いがするんですけれども、なんの準備もないまままぁいきなり後ろから頭殴られたような感じがしましてですね、あの瞬間っていうのは頭が真っ白になった。これは真っ白になったというのはおそらく亡くなった方も含めて全員がそうだったと思うんです。いくらなんでもこれだけの地震がですね神戸にくるはずがないという、この思いというのはおそらく全員そんな思いがしたのではないか。だからああいうかたちで無念にも亡くなっていかれた方々はですね、まさか自分が地震で亡くなるとは思われなかったんじゃないか。だからそういう人達にとって、放送という小さな私共放送局ですけれどもあの世界に関る者として、もう少し事前にこの神戸にも地震が起きるおそれがあるんだと、可能性は充分あるんだという、日頃の供えの大切さというものをですね少しでも電波の世界に乗していたらという、これはね私地震これからも消えることのない反省というか悔しい件だろうと思いますね。ただ当時というのは目の前でですね木造家屋がぺしゃんこになってそれがもう見渡す限りそういう状況でしたんで、これはもうなんといいますか放送人として何をすべきかというよりも、人としてこの下に生き埋めになっている人のうめき声が聞こえてくるわけでしょう、これはほんとにもう人としてどうするかというね、まして私共社屋全体が全壊というふうなことでしたから、放送としてマイクを握って客観的に伝えるという事が出来ない状況だったんですね。そんな中で我々としては災害報道でいろんなまぁ評価もいただきましたけど、実はですね災害報道ではなかったと私は考えてます。あの実際に家が潰れてる、それも一軒ニ軒じゃない、でそのうちに火事が起きている。ところが見渡すと救急車は一台も来ていない消防車来てないパトカーも来て無い。ましてあのぉ助けようという近隣のですね人達の動きすら無い。なんにもないままあのしぃーんとした、あの被災直後発災直後の町というのは今だに私は覚えているんですけど、人の動きも無い泣き声も聞こえない犬さえ鳴かないという異常な世界でした。そういう中で私は一番小さな中継機械を肩に提げてですね、それで町へ入っていったわけなんですけれども、その時に町の状況を描写しようなんて事はこれは放送マンとして人間として出来なかったんですね。これは私だけじゃなく誰もが出来なかった。その時にかろうじて残っていた放送人として私がやれたことっていうのは何かというと、救いも無いまま家の下でまだ埋もれてうめき声を出している人たちの、ここはまだ人が埋まってますと、そんな状況が隣もその隣もその隣もあるんだといういわゆる事実をですね、電波に乗せて近隣から助けを呼ぶこと、とにかくいち早く来てくれと、今神戸の私の目の前の地域がこうなっているんだという事を電波に乗して助けを呼ぶこと。これしかない。これはもう瞬間にそう思った。それ以上の事はやりたくても出来ないような状況だった。これは後程まぁいろいろな方が救命救急報道とか非常に立派な名前をつけていただきましたけれども、これは後で言えるんであって当時は本当にそれしかなかった。ですから私がまずやったことというのは、電柱とか看板とか表札を見てですね、具体的な何丁目何番地のなんという方の家がつぶれてますと、ここからはうめきが聞こえますというまぁその事実を次次とこう言っていく以外なかった。これも後で考えますとまぁ恥ずかしい限りで私は永田町界隈のですね一つの町ぐらいの単位だろうというふうに思い込んでいたんですね。全体像が読めませんでしたんで、ですから私が歩けるところまで歩いて家が全部倒れ込んでましたからそれを乗り越えてとにかく事実を全部伝えると、私のこのマイクでその被災地はなんとかなるんではないかという、これは大変な誤解だったんですね。あんなふうなひどい状況が神戸のみならず阪神間淡路全域に広がったと、あの瞬間思いもよりませんでした。やれたやれたといいましても、本当にやれてないですから後でラジオ局としては発災直後の震災報道としてはよくやったという風にいろんな方から、まぁお誉めというか慰めかもわからないいただくんですけど、私その度にですねあのぉやっぱり何もできてない、悔しい思いだけでですね、そういう思いが結局この四年間ですけども、一つの放送局、一人の放送マン、ジャーナリストではなにも出来ない。あれだけの規模の災害がきた場合にはですね、地域その地域の一員である放送局がいろんなところと防災ネットワークを組んで共にぐるみで関らないことには絶対に太刀打ちできない。あれだけの震災で太刀打ちできないかもしれないけれども、少なくとも今のあの六千人のですね無念の死を迎えられた方々の数がですね、ひょっとしたら減らすことが出来たんではないかというそういう思いで、わたしはまぁ震災後そういう地域のいろんなところと放送局もなんですけれどもメディアもライフラインも、で地域のいろんな組織の方々と防災ネットワーク、でその時に放送局というその名前がですねうまく使えれば、つまり核というか接着剤になるようなかたちで使えればいいなとそういう思いでこの四年間活動してきたんですけれども、まぁこれはどっちかといいますと放送マンというよりも、あのとんでもない状況を見た人間としての宿命というかライフワークといったらいい格好すぎるんでしょうか。そういう思いがしてるんですけれども、まだこれからもこれは終わりがない一月十七日がくるごとに自分で反省しながらやっていこうかなと。これは本当に我々だけに終わればいいんですけれどもね、どうもいろいろ勉強していきますと、日本中まったく例外がないようでね、どの地域でも我々と同じ経験、空しい悔しい思いをする可能性というのがというのがあるわけですから、やっぱり全国こころしてかからんとですね、本当に本当にあのことはこの時期になると思い出さざるを得ないんですけど、あのぉ辛いですね。ああいう無念な静かさをこの文化国家で世界で何番目かに豊かな国でですね、あんなふうに亡くなっていく人っいうのはこれからは絶対につくってはいけないなというふうに強く今も思ってます。

司会: そしてこの四年間、あの全国本当に放送局呼ばれたと思うんですね、その時にやはりそのぉ今まで四年間考えてこられたことを、神戸でも中心になってすすめてこられたと思うんですけど、今の状況そのラジオ局が中心となってすすめて接着剤となって、神戸では新しい活動になりつつあるようです。

三枝: そうですね。あのこれもあまりストイックに考え過ぎるとですね、あのぉ出来るものも出来ないんでね、僕はどっちかというとまぁグループで一回集まろうやというところで気楽に呼び掛けてるんですけどね、具体的にはですねまず一番最初にやったのがAM局同士の垣根をなくそうやという、これはNHKさんも含めて、で我々の体験からしましてもラジオ局放送局は潰れるんですよ、ね。建物は全壊するし、人にも機材にも影響が出るわけですね、ですからそうなってくると、あのぉ防災機関であるけれどもその防災機関が潰れることもあるんだ、そうなってくると、もしもある放送局が潰れるとですね他の放送局が助ける、あるいはその復旧状況を電波にのせる、これは当たり前ですよっていうのがまず一つ。で例えばこれだけ大きな被害が起きた時には、お互いのレポーターの乗り入れもおおいにやりましょうよ、こういう形 AM 局同士の乗り入れって言うのが、最初にあった。そのあとライフライン、各社とのいざと言う時には命を守るための生活を守るためのライフライン情報をいかにスムースに電波にのせるか、そのための日頃のですねおつきあいって言うか顔つなぎって言いますかね、それをやって行きましょうという事で、月一回必ずそういう会合をやったりですしてますし、もう一つは地元の新聞テレビラジオていうのがお互いのメディアの特性を活かすと。で我々の震災報道の中の一つの反省が災害弱者にどの程度のものを出したか、震災報道出すのに出して無いんですね。目が不自由な人にはラジオが有効かもしれない、耳が不自由な人にはひょっとしたらテレビとか新聞とかが有効だ。。そうしてくると少しでもそういう漏れをなくすためにはですね地元のテレビ新聞ラジオという特性が違うメディアが組むことによってですね、そういうその漏れる人達が少なくできるんではないかと言う、この反省でですね新聞とテレビとラジオが今協定を結んでやっています。それとかつい最近ですけども県下の全コミュニティーFM放送と私共とが協定を結びまして、いざと言う時にはお互いのこれも特性をですね放送特性を活かしてより細かな地元への災害情報を出していこうと、でそのためには週一回持ち回りでですね、今15 分番組を作って放送をしあっているんです。全局で同じ番組をですね、持ち回りでずっと放送している、それもいざという時の為の予行演習といったらまぁ非常に変ですけども、その為の

司会: 何かがあってからでは遅いですものね。

三枝: そうなんです。それと今度は兵庫県と災害ホットラインを作るとかですね、そんなふうに一局ではやっぱりあれだけの大規模災害がおきますと何もやっぱりやれない、自己満足はともかくといたしましてですね、本当に亡くなったり怪我をしたり家をなくしたりする人を少しでも減らそうと思ったら、やっぱり地元のいろんなそういうその生活に関るところがですね、揃ってかかっていかないととても対処できないわけですからそういうネットワークというのは僕はあって作って作り過ぎるという事はないというのが信念なんですね。ですからまぁ会社の中でも同僚とかもですね、おいどこまでやるんやということをねぇよくいわれるんですけど、私は無理矢理にでもですねつくっておく。つまりあしが引けないくらいにしておいても僕はやり過ぎじゃないなぁと。だからわれわれ人知がかかってですね押さえ込める災害なんてしれてますでしょ。たいがいが自然の方が強いわけですから、それがまして命とか生活とかがかかってくると、皆でかかっていざという時に役立たないとだめなんだと、これはやっぱり一番最初に申し上げましたけれども、この地域には地震がこないんだというその思い込みへの、まぁ私自身への反省が切っ掛けになっているのは事実ですね。

司会: 兵庫県とホットラインを結ばれると実際にどういうふうな活動になるんでしょう。

三枝: これはね、あのぉ私もずっと報道長いですから、行政からのいろんな情報は必ず記者のフィルターを通せというのがこれ鉄則ですから、そう思ってたんですね。ところがあの震災を経験しますとそんな余裕すらないわけです。ですからいざという時にすぐにですね間髪を入れず避難命令なりですね、いわゆる防災情報がすぐラジオから聞けるような状況にする為にはですね、取材に行ってそこから放送するとこのワンクッションはなんとか避けたいその為に今私共が兵庫県庁との間の専用線を、放送専用線を持ってますんで、それをですね防災官という兵庫県が新たに設けました防災のトップですね、そのセクションへひいてそこにマイク設備をですね設置してですね、いざという時には事前に電話で連絡をして相互の了解のもとにですね、防災情報をそのまま直接ですね兵庫県の防災の責任者が放送で喋ると、このシステムをこの一月十七日から発動さしたと、スタートさしたとこれなんです。ですから例えばあのぉ水害でてすね、水害で川が増水してかなりこれは危険な状況だと、その時には県が記者を集めて記者発表してそれを放送するよりも、そのままですね緊急情報としてラジオにのせる方がこれ早いわけですからその為に本当に命が少しでも救われればという思いからですね、私が若い頃持ってた行政の情報っていうのはワンクッションおいてフィルターかけて、これはねぇやっぱり災害の時には違うというねそういう思いでホットラインというを考えて、ようやく一年位の準備期間があってですね、ようやくスタートするということです。ですからこれはあの現場の責任者が私共の電波を使って地域に呼び掛けると、防災を呼び掛け避難等をですね、防災呼び掛けこういうシステムです。

司会: お話を伺っててやはりその三枝さんのラジオから流れてる声、南海放送でもよく聞いたんですけれども、その時のその現場の本当に何丁目何番地という地名を一生懸命言ってらっしゃいましたよね。その時のその思いが、やはり今まで動かしていらっしゃるというところですか。

三枝: あのぅこれはね、お答えになるかどうかわからないですけれども、あの震災の時に情報がね途絶えるということの一番の恐さっていうのをね身にしみて感じたんです。つまり水がないっていうのも困りますし、あのぅ電気がこないガスがこないのも困りますね。ところがあの瞬間のあの異様な静けさ、町のですね発災直後ってほんとに静かだったんですね。あれは何かということをいろいろ考えてみますと最初は恐怖に竦み上がってということの静かだったのかもわからないですけど、時間がたってもねしぃーんとした町だったんです、一時間たっても二時間たっても。あれは私はやっぱり情報が途絶えた時の静けさだろうと、皆情報があってこそ騒げるけれども一体私のすぐ隣で隣町で隣の市で何が起きてるかわかんないけれども、家は全部潰れるし火事は起きてるし、もうわけがわかんない状況の中で声すら出せない状況。そうなってくるとまず情報を発信し電波を発信し、我々はそういう仕事をしてるわけですね。そうしてくるとあういう途絶えた世界に対して我々は何を発信するのか、何をこう放送すればいいのかっていうのはこれはものすごく大きなテーマなんですよ。ずーっと私考えて来て、いまだに答えは出ませんけども、やっぱり私はあの瞬間情報のない世界の中で言えたのがデータというか、救命救急の為のデータ発信しかなかった。人間ってのはやっぱりそんなにも情けないものだし、私の二十四年間のジャーナリストというか放送記者としての経験なんて全然役にたたなかったわけでしょ。そうなるとほんとねゼロからスタートせざるをえませんし、そのゼロっていうのは何かっていうと地域の一構成員、これは非常に単純なことなんです。放送局なんて特別なものじゃない。地域のいろんな会社があり商店があり、いろんな人がいますがそのうちの一つにしかすぎないんだよところからスタートしないと、あれだけの大きな災害の時にはなにか誤りを犯しそうな気がしてね、いいかっこは出来ませんし、これまでの経験は役にたたないし町の中には伝えるべきことがあまりにもすごくあり過ぎる中でですね、何をやるかこれはね本当にもう放送人にとってあまりに大きすぎるテーマだと、私はいま思っているんですけれども、ですからなにもこれで完結はしていないしこれからもまぁ終わらない、終わりはないんじゃないんですかね。

司会: 中田が送っていただいたテープを一緒に聞いたんですけど中田の方も声がなかったですね。実際にマイクを向けた方の、そのどちらかというと感情を押さえた、本当に一杯吐露したい部分がすーっと消えてもう無になっている段階で喋って下さっている状態だったですね。

三枝: あれはねぇ実は私非常に気になりまして、あれ以後私は一切マイクを向けなかったんですね、被災者にね、向けられなかった恐くて。ずーっとあの方が、高橋さんとおっしゃるんですけど気になって気になって、で二ヶ月たった頃にですねどうもやっぱり気になるんで、お線香を上げたいというふうに思いまして苦労して探しまして自宅へお邪魔したんです。そうすると奥さんがいらっしゃいます、子供さんも残された子供さんもいらっしゃって、奥さんに非常に喜んでいただいて実はこうこうこういう事でということで、どうぞお線香上げて下さいということでいろいろお話してまして、その時にちょうどその私がインタビューしたお父さんがですね戻ってこられたんですね。で実は私こういう者であの時にこういう事をインタビューさしてもらった者で、どうも気掛かりでやっと今見つけだしてご仏壇にというお話をしたんですよ。そうするとその方まったく覚えていらっしゃらなかった。ええ、あのお父さんですよね。まったく覚えていらっしゃらなかった。だから私が行ったことも、火事の前で自分が立ってたことも、でそういうインタビュー受けたことも、息子さんの話をしたこともですねまったく覚えていらっしゃらなかった。ですからよけいそれでこうショック受けましてね私自身が、それから二三度御命日にはお参りしているんですけど、なんかだからねこういう話しますとだんだんねジャーナリズムの世界とは離れていきますんでね、私も本当にこうこういう話をする時は辛いんですけども。あのぉ本当に放送人じゃないんですよ。だから放送人が放送人でこう若干のかっこうをつけてですねマイクで喋るっていうのは本当にねぇあの平和な時期かもわかんないですね。まあまあそう思いますね。辛かったですね、あの時は。

司会: お邪魔して図々しくお話うかがいましたけれども、今三枝さんが何か伝えたいなぁと思うことは、放送人としてマスコミとしてそのマスコミの中で皆さんにネットを作ろうという事を発起されてますよね。一個人としてでしたら何を言いたいですか。

三枝: 個人というよりもね我々の世代っていうのは、あの団塊の世代なんですけどね、結局その個人と公的なというか仕事人ていうのがあまり区別がない人間が結構多いんですよ。ですから家でも同じだし会社でも同じだしというね、まぁよく言えば裏表がないんでしょうけども仕事好きというか仕事漬けという人間が多いくせもあるんですけどね、私の放送、震災後も放送の世界でお世話になってますけども、まぁその原動力はまちがいなく震災以後ですし、それになったのも僕はねこれもまぁ笑われるかもわかんないですけどやっぱりね、なんかあのなんか因縁かなと思っているんです。つまりね逆にいうとジャーナリストとしてはね世界の中で十人位に入る経験したわけでしょ。だからこれはやっぱりすごいことなんですよ。それが誇れない残念なことに誇れないような活動であったわけですね、もう私も本当に悔しい思いでしかない経験だった。だけども放送人としてやっぱり生まれて仕事している以上はですね、この世界のジャーナリストからするととんでもない経験をしたジャーナリストとしてはですね、やっぱりねそれに対して、なんていうのかなお返しという言葉がいいのかどうか、物凄く大きな荷物をしょっていることになると思うんですよ。これがやっぱり亡くなった、何で死ぬのかわかんないまま死んでいった方々へね、一つの手向けでもあるだろうし、特に子供今の子供達への、今大人がやる一つの責任だろうというように思いますしね、それから放送人というよりも一人の五十歳の男人間としてですね、今やっていることっていうのはやっぱり自分自身に対してもやりたいことの連続だというように思ってます。結局そうかな。だからこの荷物が無くなる時はないかな。そのまま僕は持っていくと思いますよ。ですからね自分達の経験を少しでも、あの日本の放送の仲間地域の仲間に語ってですね、少しでも役立ってもらえればなぁっていうところで、まぁ全国お邪魔したりしてですね一応してるんですけどね。どうもうまくまとまりませんで。

司会: それでおかげで南海放送の方でもねライフライン少し皆さんに呼び掛けて来ていただいて呼び掛けが出来て、それをこれからは形にしていくのはせっかく来ていただいて伝えていただいた私達の方のすることなんだろうなと。

三枝: そうですね。まぁ放送局の人間っていうのは結構飽きっぽいっていうかすぐふっと気がかわって、約束も口だけっていうのが多いですし、ライフラインの広報担というのは出世コースですからすぐかわるんですよ。ですからシステム的にはやっぱりものがものですから、いざという時の対策ですからそういう放送人の習性というか、とライフライン側の社内の人事の事も含めてですねよっぽど関らないと作れることは僕は作れると思うんですけどね、どう継続していくかでしょう。ですからうちがうちもさっき御紹介したように、いろいろいろいろやりましたけどこれはもうがんじがらめにしておかないとねだめなんですよ。放送局はなかなか、これからの事を考えますとね金になる金にならないことはねどうしてもね二の次になりそうです。だからその意味でも我々が卒業した後になんか起きた時にきちっと対応できるというふうな事をやるのが今の放送局のですねデスククラスの責任だというふうに思ってるんですけどね。

司会: ありがとうございます。

 

 

 三枝さん談話テープ 2

三枝: 大きくなった時に役に立ちますっていうんです。

司会: はい。

三枝: でこんなことを経験したのはね君たちしかいないんだ、あなた方はひょっとして将来神戸にいるだけじゃなくて東京へ行くかもしれないし九州行くかもしれない、ひょっとしたら外国へ行くかもしれないけども、その時に君たちが経験してきたこと、あの時の悔しい思いとか悲しい思いとか水を汲んだこととか冷たいお弁当を食べたこととか絶対に役に立つ。その為にもいやだろうけども、しっかりと今日はもう一回思い出して帰ってくれるといいね。子供達っていうのはものすごくしっかりしてますね。大人が思う以上に小学生でもものすごくしっかりしている。震災の事というのはひょっとして大人以上にしっかり整理して頭にはいってますよ。これはね間違いない。特に被災を経験した被災した子供達は特にその頭できっちり整理してます。ですからいざという時のあの悲しい顔と同時に、あの悲しい顔の裏には絶対にこの震災体験をね、なんとか将来の為にいい形で活かそうというね僕は意志があると思うし、その話をすると皆しぃーんとして一生懸命聞いてくれる。だから子供達へどう繋ぐかね、ですから私はいろんな話をする時に震災の語り部にはなりたくないって必ず言うんですけどね、「一杯のかけそば」なんていやじゃないですか、「震災のかけそば」なんていや、いやだけども僕はね子供達にはね放送局の震災報道の失敗も含めて、あの時の状況はね僕はずっと語り続けてるんです。忘れてほしくないし、嫌だろうけれども忘れて欲しくない。ですからやっぱり子供達が大人になった時にもう一回ね同じようなことを悔しい思いをさせないためにもしっかり覚えて欲しいと思ってしてるんですけど。これからの子供達はやっぱり大事だと思いますよ、特に放送局にはね。それだけ電波を持って出せるわけですから。大人ももちろんそうなんだけど、大人はね震災の話をしますととめどなくね思い出話しああだこうだってね。その思い出話ししてたらダメなんですよ。子供達はねあんまり思い出話しはしませんよ。その中で我々は子供に何を語り何を伝えて何を残していくかっていうのがね、非常に重要な気がします。ですからそうですね一週間に二・三校はね来るんですけども、全部は無理ですけど僕本当にね自分で頼んでですね案内役をかって社外まわってお話するんですけど、大事なことだなと自分では思ってるんですよ。司会: そういう意味では感動って言うのか、悲しみも一種の感動ですよね。喜怒哀楽その時に受けた感情をより鮮明に何かの行動と結びつけられるような、今学びの場がないのかなぁみたいな・・・

三枝: おっしゃる通りです。本当にそう思いますよ。

司会: だから本当に今日も虹の家に行ってきたんですけれども、実際にお父さん達を亡くされた学生達が、また遺児たちの子達のボランティアをしようとすることで、なんかこう通じるものとまた自分の傷をもう一回見て、もう一回自分が本当に癒されてるのかなぁっていうのを、もう一回大人になってもまだ本当は癒されていなかったのに自分の????気がつくって言ってましたね。

三枝: まあ本当に被災地のこの時期っていうのは本当ねなんか辛いんですよ。私今だにね、あの瞬間の私共の放送が中断したあの瞬間のラジオ聞きますとね、本当鳥肌が今でもずーんときますよ。私は家から三十分後には着いたんですね、走ってまだコンクリートの砂埃がもうもうとしてましてね、あの階段をあがっていった時ゆうのはいまだに僕はに忘れませんね。まさかねぇ自分がねぇそんな目に会うとはねぇ、まぁちょっと放送人が表現出来ないというのは屈辱ですけどね、あれはちょっと表現出来ないですね。だけどやっぱり人間っていうのは脆いなと思う反面、やっぱ人間てすごいなとも思いましたしね。人間のあの生命力っていうかあのすごさっていうか。まぁいろいろ本当に勉強させられました、あれはね。時々うちの子供でも大きいですけどね、時々夜中にうなされてますし、私自身二年間程は絶対に夜電気つけないと眠れなかったでしょ。これはやっぱりね、どうもねまずいんですこの時期になるとね。あの当時の事がこう出てきますんでね。

司会: 被災直後やはりもう神戸へ帰るまいと思って、だから被災地に帰るまいと思って県内にね戻られた方々も全焼して、やはりやはりもう一度っていうふうに、だんだん戻ってこられたりしてますよね、宝塚も四千人減ってたのが今また戻ってこられてだんだん元の人口にはなってるとかって。

三枝: 僕はね神戸は好きです、神戸の町は。あれで結局神戸のボロが出てしまったんですね。いろんな意味のいろんな意味の本当の、きれいな町だったんですけど、それがいかに張りぼての町であったかというのそれが露呈されてしまったんですけどね。ただ僕は神戸が好きだし、あれだけひどい目に会った被災者の方々もですね、やっぱりね神戸の町が好きなんですよ。下町に住んでらっしゃる方はやっぱり下町が好きなんです、神戸の下町が。で山の手の人は山の手が好きだし、海の近くに住んでらっしゃるこの潮風がこの港が好きだっていうように、なんですかね、やっぱり愛着は人一倍強いようですね。ですからそういう町でもあれだけの被害が出て、亡くなっていったわけですから、やっぱりね最終的にはコミュニティーの力しかないなという話をよくするんです、最終的にはね。だからまず自分の力で自分を守り家族を守り、その次は近隣でしょ、だからあの時にはパトカーも救急車もなんもこないわけですよ消防車も。そうすると近隣を守るっていうのが大きなテーマですよ。その時に放送で何ができるかっていう我々にとって大きなテーマなんですけど、それはまぁおいといてもですね、家族は守ると思うんですね。その次に近隣をどう守るかっていうね、これは全国まぁ全世界本当にね全員が持ってる大きな、だからねそれがね近隣がきちっと守れるところがね、亡くなっている方の率が少ない。ですからあまりお隣と付き合いが無い、だからそれが死亡率が高いとかそうだというようなことはまずいとは思いつつですね、事実そうなんですね。非常に隣近所の付き合いが親しくやってらっしゃるところは被害はひどかったけれども死亡率はそんなに高く無い。これは事実としてあるわけでね。まぁいろんな問題をつきつけましたね、あれは。是非だから神戸の教訓を活かして下さいよ。それが現実にならないことを祈りつつですね、そういう風に思いますね。

司会: はい。ありがとうございました。