浦島たろう

 太郎は、誠実で、思いやりがあり、苦労をいとわない働き者だった。朝早く海に出、漁が実るまで、家に帰らなかった。父母、弟妹を養う事が、彼の生きがいであり、家族のほほえみは彼の命の源であった。また、余った魚を、隣近所で分け合うこと、それが一番の楽しみであった。収穫の喜びが、いつも皆といっしょにあった。

 その日は、たいへんな嵐になった。太郎は舟を守りに海岸へ見まわりに出た。 「助けてくれ、子供を助けてくれ、波にさらわれた」年寄りが叫んでいる。浜にはすでに何人かいたが、だれも海には入らない。入れば死んでしまう。

 「どこだ、こんな波のはげしい時に、子供なんかつれて、うろつくばかがいるか」

 と、綱をもって太郎は飛び込んだ。

 運が良かったのか、当然、死ぬはずの二人は、浜へ戻り、息をふき返した。太郎は、その人の事を思うと、その人の事しか頭になくなってしまう優しいこころの持ち主であった。

 その夜、子供の父が、お礼にやって来た。二人は遅くまで話し合った。是非会社の手助けをして欲しいという。有名な大きな会社である。子供の父は社長であった。

 太郎は、幼い時の夢をもう一度見た。太郎の両親は代々の漁師である。海の自然は荒々しく、時代の流れも漁師には背を向けていることを太郎は知っていた。きつい生活から父母を楽にしてやりたい。そして自分の力も試したい。血気盛んな年頃に太郎がふるさとに留まっていたのは親を寂しくさせたくない一心であった。

 社長は太郎の素朴な性格に惹かれた。そしてただただ太郎の誠実な人柄と努力を、世の中に役立てようとした。

 両親も賛成する。太郎の心は父母のためと、自分のためと、日に日に分からなくなって揺れた。

 初めてふるさとを離れる。太郎は、期待を都会に走らせた。昔懐いた夢。

 彼は子供の父が、思った通りの働きぶりだった。仕事はどんどんはかどった。太郎は毎日、朝が来るのが待ちどおしかった。毎日、自分のやりたい仕事ができる。みんなにも喜んでもらえる。家へ仕送りもした。喜びの手紙も来た。充実感でいっぱいだった。たまには、仕事のけりに、社長と遊びに出る、飲みにも出る。それも充実した日々の一部だった。

 社長は、彼をどんどん昇進させた。周囲の者が目を見はった。彼は、自分のやる気と、実力と、誠実さとに自信があった。自分にはできる。より多くの仕事をかかえこみ、時間が仕事とともに流れた。彼の純粋さはそのまま仕事という巨大な器にはまりこんでいった。彼が動けば会社が動く。会社は大きくなった。そして彼の心は会社になっていく。

 いつか、太郎は重役になった。

 「おい、君、明日までにこれを仕上げるように」。「何まだ、そんな事も出来ていないのか」。「ああ、よし、下がりなさい」

 豪邸を構え、私宅に何人か雇った。

 「今夜は、都内の料亭で食事をするから」

 「あのー・・今日もですか・・少し・・控えた方が・・・お体に良いのではございませんか・・」

 「だまっていろ!これも仕事だ」

 太郎の頭の中は、仕事と明日のことでいっぱいだった。彼は、やりがいと充実感を求めた。そして息抜きのはずの快楽が、次第に領域を広げていた。いつか太郎の悪口も聞かれたが、その地位はびくともしなかった。

 いつものように、彼が黒塗りの車に向う時だった。

 「だんなさま、電報が」

 不吉な声だと思った。・・・・父が、死んだ。漁師の父が死んだ。「金は、十分に送っている。なんてことだ。やりたい事が終われば僕は帰るのに。病気なら病気だと早く知らせればよいのに」

 汽車の中で、彼は考えた。昔の事を次々と思い出した。漁の事。楽しい家族だんらん。

 「おじさん、さかな持って来たよ。体の具合はどうだい」。「ありがとーう」。隣のおじさんの喜ぶ顔。のどかな楽しさの中に、ほのぼのとする自分が遠くに見えた。

 「この二十年間、おれは一生懸命走った。走っている間、本当に楽しかった。というより夢中だった。そして、すべてのものを手に入れた。なのに、何も残っていないかのようだ」

 幼い頃すごした、いろいろな顔が、次々と浮かんでくる。みんな笑っている。生きている。なのに、この二十年間は一色のベタ塗りでしかない。自分の欲望と追いかけっこをしただけなのだろうか。

 太郎は、浜に立った。なつかしさが、じーんと湧いて来た。とたんに、激しい勢いで目の前が、泣けた。

 「おれは、なんてことをしてしまったのだ。とり返しがつかない。見てはならない夢を見てしまった」

 がさがさした手が、肩にふれた。

 「どうして、もっと早く帰って来なかったの。必ず帰って来てくれると思ってた。おとうさんは、死ぬ時も、おまえのやさしさをずっと自慢していたのよ」

 母の声は、遠いかつての母でありながら、やはり他人だった。「もう、この浜には、おまえを分かってやれる者はいないわ。それでは、あんまり、本当のおまえが、かわいそうだもの」