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訪問先は、 |
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4000人以上が亡くなったとされる漁港の町ナムケン |
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モーケン族の漁村ごと消えた、パカランケープの人々の引っ越し先であるバーンカイヤ |
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最初に訪れたイスラムの村ナイライ |
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学費補助 |
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親を亡くした子どもさん20人の継続援助 |
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文房具お米の配布 |
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バーンカイヤでの配布と交流 |
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ビルマ人学校の援助 |
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80名規模のビルマ学校の幼年部の援助 |
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家庭訪問して2000〜4000baht |
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1baht=3.716円 |
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2、学校の管理で援助2000baht |
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文具やお菓子代として先生に申請して自由に貰えることが出来る |
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3、学校の子ども通帳に援助1000b |
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国王とマツダ等の寄付で出来たという全寮制の小中学校、食事など無料という |
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(一部通いという)親とは月に二度しか会えない?外出はできない様子 |
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貯金という仕方で各週20bahtを出すことができる。 |
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最初の支援を決めたパカランケープのモーケン人の人々が移り住んだバーンカイヤで、お米を配る、懐かしい顔がうれしい |
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幼年部の建物を寄付する予定で訪問したが、所有者の問題で、借家で行うことに決定、その費用を負担することとする。 |
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借家賃を寄付をする |
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初期の備品を寄付する |
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ナムケンなどで働くビルマ人の子どもは学校に行く機会がない。 |
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80人を集めてタイ語ビルマ語英語を教える。 |
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朝食昼食を支給 |
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(他のボランティア) |
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写真はCDCでの小学生以上の部、今回別の家で幼児部を始める |
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融資金で大工を始め、今回自分の家を建てているという。 |
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港も町もきれいになっていて、災害を思い起こすものは少ない |
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しかし家を再建したものの、津波の恐怖で家に帰れない人も多い |
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この村を訪れるのは二年ぶりだ。津波で村の殆どが流されたのに死者は一人。プーケットに近いこともあって当初から欧米人が救援に駆け付け寄付のみならず自ら働いていた |
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「私の母はビルマで三千人の生徒が通う学校を経営していました。しかし、軍隊がやってきて没収してしまい、両親と家族はアメリカに今住んでいます。私は、シンガポールの学校に行かしてもらい、タイ人と結婚し、北部に住んでいました。スマトラ地震の津波の時、私はテレビを観ていました。テレビで多くの出稼ぎのビルマ人が困っているのを観ていても立ってもいられなくなり、ここナムケンにやってきました。 |
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私は幸いにも学校に行かせてもらい、文字を読んだりいろいろな力をつけることができました。ここにいるビルマの子どもたちは勉強をする機会を得ていません。私と同じように読み書きができるようになってほしいと思ってこの学校を始めました」。 |
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そしてまたこのように言う。「ここにいるビルマ人はたいへん貧しいです。でもビルマはもっと貧しいのです。まだましだから国を出てくるのです」。北の方のタイとビルマの国境にはたくさんの難民キャンプがある。 |
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「タイの富裕層は貧困者に賃金を渡す。タイ人はビルマ人に賃金を渡す。そこに上下関係や貧富の差が出来ている。CDCでは仕事を教え、またお互いが共にスポーツなどをして共同して対等平等な社会をつくることを目指している」 |
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タイに行って体感したことは、日本の格差は世界へと繋がっていて世界のヒエラルキーを形成しているということだった。 |
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裕福な |
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タイ人 |
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↓ |
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タイ人 |
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↓ |
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ビルマ人 |
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災害当時の方が元気だった方も居る。たぶん人的な被害がなく、援助や人の温かさで頑張っていた人である |
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一方、親を亡くした子どもの顔は暗いと感じた。 |
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表向き、建物は再建され、町は活気が戻り、人々は暮らしを取り戻したように思うが、生活の困難や、心の痛みは、見えない部分へと潜みながら、続き、あるいは増大していると感じる。 |
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ビルマ人はようやく元の生活へと戻ってきたが、そもそもの生活苦や教育の問題が残っている。 |
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タイ人、富裕層、貧困層、ビルマ人、イカ漁従事者、ゴム園仕事、それぞれの貧富の差と、それに伴う差別を感じた。 |
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米国人宣教師、ウォルターさんは、言う。This is not boat`s
development ,but human development. It is important to think,and to work. |
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思索して方法を選びとり、そして共に働くことこそが。大事だ。 |
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ひと(他者)が困難に在る状況に於いて大事なのは、舟が無い家が無いという問題ではなく、この状況に人間がどう対処できるかという人間の在り方生きざまなのである。 |
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それは、正直(honesty)ということである。いかにこの局面において正直に向き合えるかということである。と、彼は熱く語った |
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SVAの研修をされた方の言葉が重い |
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・・・ |
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私はインターンの一ヶ月を通して、キャンプの内外で30家族40人の難民の方々にインタビューを行いました。 |
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インタビューを通して浮き彫りになったのは、私と同じ、ごく普通の人達が、地雷・殺害・レイプ・強制労働といったあらゆる被害の犠牲となっているという事実でした。暗い過去を淡々と語る人や、思い出し怒りに震える人、涙に声を詰まらせる人。彼ら一人ひとりの言葉を聞きながら、理不尽さへの言いようのない悔しさ、あらゆる気持ちが私の胸に押し寄せました。それと同時に、自分の無知さと無力さを感じ、私に何かできることはあるのかと、ひたすら考え続けた毎日でした。 |
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「日本人が私の話を聞いてどうするんだ。信じるわけがない。日本兵もビルマ軍と同じことをしてきたんだから」 |
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あるキャンプに住むご高齢の方が私に言った一言です。インタビューには応じてくれたものの、なかなか弾まない会話の糸口を探していた私には、彼の気持ちを察することができませんでした。想像もしていなかった言葉にショックを受け、戦争の被害がこれだけ根強く残っているということ、自分の生きる社会は彼と繋がっているということを痛感した出来事でした。 |
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相手との信頼関係を築くことの難しさ、そして私は常に私の目の前で起こる出来事の当事者であるという意識。・・・ |
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