石手寺出版物

空海の道

観音さま宇宙旅行浦島たろう楽変化天

見えない矢

以上600円で配布

250円

梵行お勤めの本 般若心行解説

釈迦の道

同行二人

観音菩薩 宇宙の旅

 その国では、欲しいものは何でも手にはいったし、遊びたい時に遊び、仕事したい時に好きな仕事ができた。そして、暑すぎることもなく、寒すぎることもない、快適な生活空間がコントロールされていた。

 心地よい服、美味しいごちそう、最高の音楽装置、あらゆる種類の映画、そして、遠くへ速く移動できる空中移送機、開発された最高のものが、そろっている。しかも、だれでも好きな時に好きな分だけ手に入れられるのであった。

 ある日、両親は息子に向って一つの提案をした。

 「おまえは心がけもいいし、やるべき事を良くやっている。ひとつ、息抜きにどこかへ旅行をして来たらどうだろうか」

 さっそく映像機をとり出し、次々と星をうつし出した。この国では、今、宇宙旅行がブームなのである。

 赤い星、青い星、黄色い星。しま模様の星や、ぼうしをかぶった星など、行ってみたい星はたくさんあった。息子は赤い星に見入った。

 「なんてきれいな星なんだろう」

 「あの星も美しいわ」と、母がオレンジ色の帽子をかぶった星を指さす。父は、

 「本当にそうかな?」と口をはさむ。

 「ではもっとズームアップしてみよう」息子はもう夢中である。色とりどり、どの星でも選び放題だ。

 赤い星が大写しにされる。赤いのは実は炎だ。核崩壊が青・黄・赤の強烈な放射線を放っている。焼けつくエネルギーは何でも溶かしてしまいそうだ。これでは近寄ることさえできそうにない。「ならば、オレンジの星を見てみよう」と母がマウスを動かすだけで赤い星にさよならする。オレンジの星は有毒ガスが渦巻いている。酸素ボンベが必要だ。青い星は、氷の星。特別製の宇宙服をオーダーメイドしてさあ何日我慢できるか。いざとなると、なかなか良い目的地はないものである。

 そして画面に、緑色の星が映った。山があり、木があり、川があり、海がある。暑すぎる事もなく、寒すぎる事もない。

 「ここなら、安心して行けるだろう。期間は三十日だ、といっても、向こうの星では、約三万日だから気をつけるように。おまえ、気がすすまないのか」

 「勝手に決めないでよ。環境が良くてもまだまだ何があるか分かったもんじゃないんだから」

 「どうしたんだ、燃える星や凍る星を見たぐらいでおじけづいたのか」と、父が言うと母も、

 「一人きりで、だいじょうぶかしら」。父は、「それなら、わたしたち二人のかわりに、付き添い人の二人にいっしょに行ってもらおう。彼らには先に行ってもらって、住む所や服や道具を用意しておいてもらうから、これなら心配いらないだろう」。その上父は、

 「新鮮な気持ちで、多くの事を学ぶには、一切の予備知識は持たない方がいいのではなかろうか。先入観があるとありのままのものが見えない。今まで身についた常識や記憶は、かえってない方がいいのではないか」と話を決めてしまう。

 息子は、話が進むにつれて安心したり心配したり、胸ははらはらどきどきである。

 彼は愛情ある両親や心の豊かで思いやりのある多くの者たちに囲まれて育った。この息子は特に両親に恵まれていた。父は仕事熱心だが家庭を第一にしていた。必ず一日に一度は家族と話をする時間を取った。それは心が安らぐ貴重な時間だった。「自分の周りの人が幸せでないようではどんな善いことをしても嘘だ」と口癖のように語った。

 母も仕事をしていたが、彼女はもう絵に書いたような母親だった。何をするにも子供が第一である。仕事に没頭している時は唯一子供のことを忘れて、自分を感じていた。しかし、それ以外の時間ときたら時々自分と子供を取り違えているような熱中ぶりである。傍から見ると自分を押しつける我儘な母に見える。しかし、その底無しのだだっぴろい愛情だけはしっかりと子供に伝わっていた。「まあ、自分勝手なんだからついていけないけど僕を愛していることだけは確かだ。だけど、いったい誰のために愛しているのかは分からない」これが息子の偽らざる気持ちであった。

 そんな両親に育てられた息子は、未だ試練というものを通ったことはない。いつも困難になる前にしゃしゃり出てくる堅いガードにつつまれて暖かく快適なのが当然だと思っている。しかし今回旅行を前にして期待と不安は最高潮に達しようとしていた。「こんなに甘やかされて育った僕がやっていけるだろうか」そんな不安の中で、「ちゃんと見守っているからね」という母の言葉が不安を和らげ、「今までの記憶は捨ててやってこい。何かが出来るかもしれないぞ」という父の言葉が期待を励ました。

 この国は本当に何不自由ない国である。欲しいと思うものは誰でも手に入れられる。そして必要なものは皆が協力して開発している。その上、この国が素晴らしいのは物の面だけではなかった。人々は自分を制御する術を知っていた。「欲求不満で仕方がない」とか「欲しくて欲しくて夜も眠れない」とか「あいつが憎くてたまらない、殺してやりたい」とかという事がないのである。そんな嫌な心が湧いてこないのかそれとも自制できるのかは知らないが、みんな平静な心を保てるのである。

 この国のある哲学者は、

 「物が有り余っているから心も豊かなんだ。そして何より、その豊かな物を皆に平等に過不足なく分配出来るから、人々は安心してますます本来の善い心を表に出すことが出来はじめたのだ」と言う。それに対してある学者は、

 「もしも物が十分にあったとしても、それを十分と見るかそれとも不十分と見るか、はたまた独り占めしようとするのかそれとも分け合おうとするのか、それを決めるのは心だ。この国の人々は心が優れているから幸せを築いている。もしも独り占めする人間が居れば貧富の差ができる。貧富の差ができると優越感や妬みの心ができる。そうすると人々は不信感に脅え、他人を支配下に置こうとする。要は、物の豊富さではなく、物を見る心の豊かさがあるからこそこんな素晴らしい国にが出来たのだ」と反論する。

 まあ、どちらにしても、この国の幸せな人々にはいっこうに構わぬ事である。とにかく物も心も全てが順調なのである。ただここまで幸せな国になると疑うべきことを疑わない人々が出てくる。

 「私たちはもともと本当に良い生き物ね」

 「まったく、そうだ。僕たちは自分のことを優先するよりも常に他人様のことを考えている。これは生まれ持った僕たちの本能だね」

 「ときたま精神不安症とかで自分中心にしか考えられない人が居るんですって。乗合移送ボックスに乗るときも、自分が先に乗らないと置いていかれるって思うらしいわ」

 「そうそう、この間そんな人に遇った。その人はかわいそうに自分だけ席に座ろうとするんだ。そして隣が空いているのに座らせない。聞いてみると『ここは私たちの家族の席だからいつも取ってある』って言うんだ。これは憎めない話だけれど、本当に自分のことしか考えられない人っているんだ」

 こんな会話をする人はまだまだ自分に自信がない人。多くの人は物が沢山あるのもあたりまえ、人に優しくするのもあたりまえ、優しくされるのもあたりまえと思っている。さてその「人に優しくされるのがあたりまえ」という常識が裏切られる時に、この国の人がどのように反応したのかについては今は深入りするまい。

息子は、さっき映像機にうつし出された星を再度思いうかべるのだった。

 山があり、海があり、いろいろな動物がいた。どうも、その中で服を身につけている者たちが、星を支配しているようであった。

 息子は、コンピューターに聞いてみた。

 「あの星では、いろいろな生き物があるようだが、どのように生きているのか」

 ピッピッピッ

 「力の大小によって支配関係があります。弱肉強食、自然淘汰、この中で、進化の最高位のものが、最も残忍で、必要以上に貪り、怒り、殺す。しかし、すべてではない。次第に、自分を反省し、同情、共感を知り、愛や共同の喜び、動物の愛護を・・・・ピューン」

 父が突然、コンピューターのスイッチを切ってしまったのである。

 「ここから先は、おまえが自分自身で体験し見定めて来る事だ。いいか、おまえはあの星に何かしてやる事ができるかもしれないよ。まあ、今回は旅行なんだから気楽に行ってくることだ」

 「体に気をつけて行ってくるのよ。無理はしないように」

 瞬間移動ロケットは静かに始動した。わずか三十日の旅というのに、窓ごしの母は泣いている。父は早こちらに背を向けて、ぎこちなく歩みを返している。自分も必要以上に気負っている。まだ見ぬ星へ。

 

 

 数日が経った。両親は今日も映像機のスイッチを入れて、息子のようすを見守っている。あの星では一日に一千回も昼と夜がある。映し出される画面はめまぐるしく変化して、ついていけない。録画して、スローで見たりする。どうも受験勉強とやらをしているようである。付き添いに送った二人は両親としてめんどうを見てくれている。二人で何やら相談している。手には、蛍雪時代という本を開けている。息子もそろそろ自分を自覚し始める頃だろうと気が気でない。

 だが息子は、いまだに何も不思議がらずに毎日を暮らしている。たぶん幸せなのだろう。自分がどこから来たのかを思い起こし、どんな旅をするかスケジュールをたてる程、余裕がないのであろうか。「記憶の一部を残しておいてやればよかっただろうか」。などと二人は顔を見合わせる。

 「このまま、旅が終わったのでは・・・・。息子よ、早く自覚するのだ。お前は、緑の星の最高位の生命体なのだ。自分自身を知り尽くして、広い世界まで心を拡げて欲しい」。両親は、昔の自分たちの姿を見るように我を忘れて見入っていた。緑の星では。

 

 息子は、このところ、勉強ばかりしている。学校から帰れば、夜ふけまで、部屋に閉じ籠もったままである。遊びといえば、音楽を聞くだけ。それも長く休むと、よけいにいらいらする。明日の宿題と次のテストのことで、頭の中はいつもいっぱいになっている。

 「あと、何ページ」。「のこり何問」

 時計は、ビュンビュン進む。鉛筆をすり減らし、フレーズを反復する声が涸れてくる。

 「次のテストでは、ばん回しなくては・・・・。あいつには負けない」。そして、意識が、本の中に吸い込まれていく。

 

 「緑の星の、あの二本足の生命体では、世界がどのように見えているのでしょう。宇宙とか、社会とか、生命なんかについて、反省したりする事はないのかしら」。彼方のふるさとの星では、母と父が緑の星からの映像を前に、不安な顔を見合わせていた。

 「あの子、小さい頃は、にこにこして、はしゃぎまわっていたのに、このごろは、ずっと暗い顔をして、部屋からも出ないで」

 「あの生命体として生きるという旅行に出たのだから、彼らと同じになりきっているのだ。今はどうしようもない。しかし、思ったよりもつまらないやつらだ。何を無駄に時間を潰しているのだ。それもあんなに苦しみながら。息子はあんなふうで終わるはずはない。いずれ自分を知り、世界を知って、彼らから、抜きんでるはずだ」

 「そうね。でも、あんな事をしていてどうなるというの。本から写し取るだけの勉強に意味があるの。それに、あの優しい子が、自分のことばかりに精一杯で、いつも顔をしかめて・・・。妙な顔だけど、気持が分かってつらいわ」

 

 時計が午前三時を回った。息子は、ときどき意識がもうろうとした。つぶれそうになる瞼をこすり、鉛筆を机の上に放り出し、頭を抱え込んだ。頭の芯がぼうーとして、ここちよい弛緩が、体に広がっていく。

 ・・・

 暗闇があった。声が湧いてくる。

 「よく勉強して、エリートになりなさい」。「僕は、今度九十八点だったよ」。「僕は・・・・」。「そんな事より、大事なことがある。おまえには、それができる」。「幸せになるのよ」。「おまえは、この星のために何かできる」

 ことばが次々と脈絡なく浮かぶ。言葉のする方向へと行こうとするが、見えない。

 前方に 人々の陰。長蛇が、向こうへと進んで行く。その中に友達がいる。こちらを向く。顔が表情なく笑う。みんな進んでいく。後ろをふり向くと、後にも列が連なっている。友達の方へ行こうとするが空間がゆるんでいるのか近づけない。

 声がする。番号と点数が読み上げられる。人々が、いろいろな方向へと別れていく。グループに選ばれてゆく。自分も引かれてゆくのがわかる。学校の名が宣言される。高いビル、スラム街、油くさい工場、背広、作業着、ボロ、シルクコートが、それぞれの場所へと降りてゆく。

 自分が、見られている。自分が選別されていく。あんど、あきらめ、ゆううつ、ねたみ、恨みの声。あちらでも、こちらでも歓喜し、あるいは、うめき苦しむ。

 友達の名を、わめき、大声で呼んだ。長蛇のうちの一人が・・・うしろ姿が振り向きざま、顔が眼前に広がった。鬼の顔だ。

 手が何本も、下方から伸びてくる。濡れた手だ。自分の足を、服を引っぱる。おれたちを引き上げてくれと、叫び声が体にまとわりつく。

 狂っている。勝手に前へ前へと進んで行く。逃げだすんだ。でも空振りだ。大地がつかめない。空中に手も足も取っかかりがない。もがいても、もがいても、変幻自在に伸縮するぬめりの空間にもてあそばれる。上下を失い前後左右を失い手足をもぎ取られてぐるぐるとめまいする怒濤の圧迫。大声を張り上げ、すべてをぶち壊してしまいたい。逃れられない搦手の地獄沼よ、根こそぎ吹っ飛ぶがいい。破滅への強い衝動! 「吹き飛ばしてしまえ。わあーあーー」

 ・・・

 次の夜も、息子は、勉強していた。しかし、昨夜の夢想が、気にかかって仕方がない。「あいつとあいつを抜けば、この学校では僕よりできる奴はいない。だが何かが、僕を後ろへ引っ張ろうとする。今のまま生きて行ったのでいいのだろうか」

 彼は、えんぴつを置き、腕組みをした。久々に焦りをはなれた静寂の別空間。

 彼は遠い昔に心の焦点を移した。友達の顔が浮かぶ。みんな楽しそうに笑っている。やさしいやつ・身勝手なやつ・ずるいやつ・弱虫。好きなやつも嫌いなやつもいる。だけどみんな友達だ。理由なんかない。なごやかでほんのりとしている。どこかで通じ合っている。

 毎日毎日「勝った」「負けた」を繰り返した。だけど「おれが上でおまえが下」ということはなかった。みんな同じ仲間だった。なのにいつか僕たちは距離を置くようになった。

 今の自分はどうだ。孤独の中にいる。重たく圧迫された孤独の中にいる。何のための勉強か。どうして有名大学へ行くのか。出世して、金と力、そして女の子が欲しいのか。・・・分からない・・でもそうしないではいられない。欲しい物を手に入れるために嫌なことを努力する。別に悪くはない。しかし何か不安だ。これが本当にしたい事。これが本当にすべき事なのだろうか。

 堰を切ったように怒りとも呻きとも言えない心が唸った。

 〃大学受験なんか止めたらどうだ〃

 途端にあざ笑う友達たちの顔が浮かんだ。「お前はオチコボレだ」。「アハハハ、気のいいスケープゴートよ」。その笑いは無表情で死んでいる。ただその笑いの奥にあるのは自分自身のような気もする。僕が友達を見下そうと構えるその同じこころ根が彼らの笑いの奥の視線に覗いている。これは同根の鬼だ。なぜ僕は友達を笑うようになったのか。この自分が仕掛ける呪縛が自分をどんどん惨めにする。

 「いや、友の笑いがなんだ」

 すると、今度は母が現れた。母は外からではなく内側から現れた。「大学に行くのはお前のためだよ。ここで頑張っておけば幸せになれるんだから。頼むから幸せになっておくれ」

 この声は強力だ。友達の笑いには対抗する自分が見えた。しかし、母の声は外ならぬ自分の内部と一体となって聞こえてくる。この声は自分の血や肉のようだ。母の優しさは自分が生きていける安心の大地を築いてしまっている。その大地が「これがお前の幸せだ」と訴える。しかし、「この母は僕のために言っているのかそれとも母自身のために言っているのか」。内臓を引き裂くような瞬間とともに、

 「それでも僕は僕だ、僕は僕のやりたいようにやる。母が思ってくれている僕の幸せというのは、結局は僕が僕の人生に納得することなんだ」。彼は遮断した。

 友達や母親との断絶。この断絶はますます圧迫された孤独を固いものにした。しかしそれとともに、彼は友達や母が自分へと近づいてくるように感じた。その友達や母は以前よりしっかりとした姿で。だがまだ新しい出口は見えない。

 「僕は僕・・僕のやりたいようにやる。僕のことは僕が決める。僕のやりたいこと!」

 しかし、自分がしたいことというのが何なのか見えない。

 「基本は、僕の欲望だろうか。出世欲。物欲。名誉名声。性欲。それに加えて皆とも仲良くしたい。母の気持ちも実現したい。

 したい事・・・

 したい事・・・

 ・・・・

 したいって何なのだ」

 ただ、むしょうにしたいから、したい事なのか。腹がへるから食べる。欲しいから欲しい。

 ほしい。ほしいんだ。その物が取りたいんだ。自分のものにしたいんだ。物が欲しくなる。この欲しくなるっていうのは勝手だ。勝手に欲しくなる。そしてその欲しいもののことで頭がいっぱいになる。いつもその物が頭に浮かび、居ても立っても居られない。

 その勝手に欲しがっているやつは誰だ。僕であって僕でない。自分のしたい事というのは自分で決めた事ではない。決めてもいないのにもう僕はそのことで頭がいっぱいになっている。大学受験にしてもいったい僕が何を決めたのだろう。自分が自由だと思っているのは、ほんのわずかだ。自分の選択なんて孫悟空の仏の手のひらの自由にすぎない。自分だと思っている大きな欲求は、いつも体のどこかからやって来たり、あらかじめ、そこに用意されていたりするようなものではないか。

 勝手に湧き上がる欲望。その機械である自分。

 このカラダが勝手に欲しがっている。その起動力は、だれが考え、だれが取り付けたのだ。既に有る起動力と無い起動力。用意されていない起動力は、後からは、取り付けられないのだろうか。

 ・・・

 したい事を追い求めてあくせくする。

 「まてよ!僕には『したいこと』だけしかないのか。いやそんなことはない。『そうしなければいけない』とか『そうすべきだ』とかいう事もある」

 子どもの頃は、何も知らないで、ただ湧き出る衝動のままに動き回る。体を動かして楽しい。周りのものを突っつきまわして反応がおもしろい。だが突然、「そんなことはしてはいけない」と叱られたり、そうかと思うと、「良くやったおまえはやさしい子だ」と誉められたりする。同じ事をして、また、叱られる。また、誉められる。そうしているうちに、これはして良い事、これはすべきでない事を覚えるのか。

 しかし、それだけではない。他人に迷惑をかけないとか、嘘をついてはいけないとか、自分で考えてみて「すべき事」「すべきでない事」というのも、確かにある。「したいこと」とは別に何かルールがあるのだ。哲学者が理性とか呼んでいるものか。

 いや、もっと何かがあるはずだ。

 彼は、自分の心を静けさに任せた。

 「有り難う、坊や。席を譲ってくれるのかい」。何時だったろうか。お年寄りの顔。本当に嬉しそうだった。その笑顔は空席に対してではない、僕にくれた。「気を付けて行くんだよ」。幼い僕を心配したのか、通学の横断歩道まで付き添って見送ってくれたおばさん。いまもずっと見て居てくれているような気がする。他にもいくつかの顔が光っている。あの笑顔や気持ちは何なのだ。それは僕なのか、あの人達なのか。強い力で何かを越えている。

 不思議な感情だ。人に喜ばれる。そしてその人の気持ちが自分に跳ね返ってくる。僕はおじさんに喜ばれたから嬉しかっただけじゃない。おじさんは僕の席を受け取ったわけじゃない。おじさんは僕の気持ちを受け取って感謝してくれたのだ。「そうだ。これだ、これなんだ」。おばさんもそうだ。おばさんの心配してくれるその気持ちが今も僕に生きているんだ。

 「したいこと」はどこかで変化していく。固定された物ではない。彼は、ふとあの夢想の友達や母や人々のことを思い出した。彼らの心は僕の心でもあるような気がする。心と心の反射なのか。暖かい心が暖かい心に反射する。冷たい心は冷たい心に反射する。「いや、反射ではなくて、僕の冷えた心が人々の真実の心を受け取り切れないでいるのだ。心と心が融和する方法があるはずだ」

 彼は机の前の自分に戻った。毎日毎日机の前にすわって勉強に熱中している自分は何だ。自分が宙に浮いてみえる。ここで勉強している自分なんて、実はロボットのような他人ではなかろうか。そこには何にも心のはつらつさがない。

 「ああっ。一時間も無駄にしてしまった」。さあ勉強しなくては。久しぶりに何かを越えたような充実感がある。だけど勉強していないといらいらする。嫌な奴だ、この自分は。まあ、もう少ししんぼうすれば、この苦しみからも脱けられる。大学へ行けば、自由だ。何はともあれ人に負けてはいられない。 

 努力、努力。

 

 「少し、表情がやわらかくなったようだわ。何を考えていたのかしら。あの、へんな生活をちょっとは反省でもしたのかしら」。「もう、そろそろ、あの二本足の生命体としても、自分を見つめ反省しなければ手遅れになるだろうからな。ひょっとしたら、あの緑の星に行ってやらなければいけないかと思ったのだが」。「でも、まだ、何を考えているのか、さっぱりわからないわ」。「ここから見える、あの星の風景でも送ってやるか。なあ、おまえ」

 彼方のふるさとの星では、今日も、両親が気をもんでいる。その頃も、緑の星では。

 

 緑の星に、宇宙旅行に来た息子。この星での両親は、かなたの星から付き添いに来た他人である。しかし、その記憶は、消えていたから、本当の両親と同様に暮らしている。

 「そんなに、無理する事ないのよ。入試に失敗したってそれだけが人生じゃないのだから」。「人事を尽くして天命を待つ、でやれ」。両親はやさしかったが、優しい言葉をかけられればかけられるほど、まなざしの奥に自分への期待を感じてしまう。この親の愛情ももう一つの地獄である。後はない、崖っ縁だ。

 その夜は、息子は久しぶりに両親とテレビを見ていた。というのも、人が初めて月へ行くという。月は、光輝く姿とはうらはらに、死んだ灰色の星だった。それに比べて、地球は違っていた。緑の星だ。宇宙船から送られて来る地球の姿は、美しかった。すべての色がこの星にはある。地球は生きている。そこに僕達が住んでいる。

 一つの画面に、地球と、太陽、月が重なって映し出される。暗闇に光る三つの光源に胸がおどる。広い広い果てしのない空間。壮大な宇宙。この広がりはとてつもない。ここに居る自分が重力を失って吸い込まれていく。気が遠くなる目眩のような奥行きへと「自分」はルーツを失い新しい土俵へと舞った。この広がりと奥深さは自分を消滅させる。この身軽さは何だ。宇宙の大きさは自分を自分自身から自由にさせる。この宇宙への飛翔こそ魂のかろやな時。全くひとりの自由。・・・それを見つめる父と母と僕と。

 この宇宙に生命が生きている。こんな気持ちで幾つもの生命が宇宙に生きているのか。宇宙を駆ける心は悠久の時間を泳ぐ。長い長い魂の漂泊が我を忘れて心地よい。他にも僕らのような生命が生きているのだろうか。この僕のような・・・。太陽や月では無理だ。地球のような星に・・・。彼は美しい地球に見入った。

 みんな黙っている。

 ・・

 「私たちの宇宙・・・」

 三人はひとつの気持ちに永遠を見ていた。

 「今、何か感じません」

 ・・

 「使命感とでもいうのだろうか」

 「そうね」

 「うん、僕は、遠い記憶のようなものを感じたよ」

 三人は久しぶりに、ただ見つめ合った。

 いつか、かつて、同じものを見た事がある。息子は思った。息子は今、目の前の映像と重なろうとする、もう一つのイメージを意識した。何か聞こえる。

 弱肉強食の世界・・「おまえは、何かしてやれるかもしれない」・・言葉にならない何かが心を揺り動かす。古い記憶の中に、もう一つの自分が、あるような気がする。

 「善」「意思」そんな言葉が浮かんで来るのだが、はっきりしない。・・・・「真実」・・・・ただ、もどかしさが残った。

 

 大学の合格発表があった。〃合格〃母は跳んで喜び、父も陰で目頭を押さえた。その数日後、友達が死んだ。「彼は、僕のずっと前を走っていたのに、何故、彼は・・不合格・・なのか」。自分が罪を負ったような気がした。あてのない努力そして破滅。

 水を求めて突進していく動物の群れ。我先にと争い、他を蹴飛ばし邪魔し、追い抜き追い越されながら倒れる。その倒れた上を踏んづけて行く群れ。取り残されるのは累々たる肉片の山。また気の弱い者は群れを離れ引き返す。

 みんなそろって、まちがいへと進んでいる。

 

 「かわいそうに、なぜ、あんなに苦しむの。あの二本足の生命体は、どうして自殺したり、自責したり、だいたいつまらない競争に必死になったり」。「彼らは、自分の心を、制御できない。というより、自分で自分の心を創り出すことができないのだ。欲望が強く、ありのままの世界を見る事ができない。特に、みんなとゆずり合って協調していくことができない。だから、誰かが傷つくところまでいってしまう」。「欲望が強いというより、他人や周囲全体の事が、見えないのかしら。ここから見ていると、こんなにはっきりと分かるのに。緑の星ってかわいそう」

 

 

 「死」、友達が死んでから、死の事を考える。いっそ死んだ方が楽ではなかろうか。死ねば何もかもなくなってしまう。友のためにも・・・。ただ、両親の事を思うと死ぬわけにはいかない。

 死・・・死ぬと何もないのか。少なくともこの世とは何もなくなる。

 この世への未練。この世への関わり。この世への・・・。

 死んでしまえば、この世から解放されるのか。解放・・何処へ。何もない世界だろうか。

 友人、両親、僕の机、僕の学校、僕の自転車、僕の将来、栄光、栄華・・・・。

 すべては死ねば無意味な物。みんないずれは死ぬ。そしてこの世を離れる。地球を去る。無へか?

 死・・・・

 ふと、地球の姿がうかんで来た。広い広い宇宙の中の一つの星。その地球上のほんの一つの命・・・・・・自分。宇宙からすれば、ほんのわずかの時間。ちっぽけな命。こんな小さな自分。意味のない僕。

 しかし、いくらちっぽけでも、この命に自分はすがりついている。命が消えていくのが怖い。小さな、短い、短い、短い命。それでも、自分にとっては連続する自分がいとおしい。自分の関心は自分なのである。自分の事しか目にはいらない。

 単細胞の生命から始まって、太陽と生きる光合成植物、その草を食む草食動物、そしてそれを食らう肉食動物。その頂上に人間がいる。この不思議な命。なのに個々の生命は、生きていく事に苦しんでいる。絶えず脅えている弱い者たち。強い者は、弱い者を土台として生きようとする。食物連鎖がなければ、高次の動物は自分を保つことができない。生まれながらに、他の命を食わなければならない宿命の者たち。自分も・・・食べなければ、生きていけない。人の中で生存競争に勝たねばならない。負ければ馬鹿にされ、社会に捨てられる。強い者だけが生き残る。

 こんなに神秘的で美しい地球。なのにやっつけたりやられたり。分からない。はっきりしているのは、命が今も生きているという事。地球の青さの中に、生命が活動していること。

 やっと合格したというのに、沈うつな夕食。

 「僕は生きていても仕方がないと思うんだ。結局、他の生き物を犠牲にして生きるだけだ。頑張ったとしても結局戦い合うだけだ。・・・どうして僕を生んだんだ。生まれて来なければ良かった」

 「馬鹿なことを言われません」

 怒るかと思った父がゆっくりと口を開いた。「今はまだいい方だ。つらいといってもたかだか受験競争だ。おとうさんの若い時はこんなもんじゃなかった。銃剣を持って、これで人を突き刺せという。あんな事は思い出したくない。おびえきって手も足も出せない人を殺すのだ。女も子供までも」

 父は、言葉をつまらせた。

 「許してくれ、ああするより他になかった。おれの仲間を殺したではないか。だから殺した。一時的な感情だ。そして、私達は戦争に負けた。人殺しをして・・・肉親の多くをなくした」

 「あなた、昔の事を話すのは、やめましょう。わたしたちは、自分の正しいと思うように生きてきたのだから。ただ、おまえには幸せになって欲しいの。そして、人殺しなんかしなくていいみんなが仲良く生きられる世の中をつくってほしいの」

 「考えていたんだけれど、人間なんて生きていく価値なんて、ないんじゃないかと思うんだ。何もなかった地球に、偶然生命現象が起こった。そのつづきの一つが僕なんだ。僕は、宇宙の惰性で生きているだけだ。生きる理由なんてない。あるとすれば、おとうさんやおかあさんを安心させ、期待に応えるために生きている」

 「そんなことはないぞ。人間には理性がある、やさしい情もある。いつか、地球上の人々が、生きものが、みんな幸せに痛め合うことなく暮らせる時が来るんだ。その日のために自分たちは、生きていかなければならない。実際にそのために命を賭けた人が何人もいる」。息子は、父の言葉に自分自身が肯定されるのを感じた。

 深夜、両親は、話し込んでいた。

 「一生懸命生きて来た。しかしさっき話していて、私は思った。私の人生に何が出来たというのだろうか。私は、罪を背負いに生まれて来たようなものだ。人殺しが今だに生き長らえている。私は心を入れかえた。だのにこの二十数年、できた事といえば、この家を守った事だけだ。結局、私も自分のために生きているだけだ。決して何も生み出せはしない。ただ、いい事を言うだけだ」

 「あなた、今夜は、遅いから、もう休みましょう」

 

 翌朝、父は、会社の屋上から飛びおりた。

 ・・・

 無限の時間が、静止している。死と生。一本線香の煙、その灰色の動く中に、時空が凍っている。

 「どうして、どうして死んだんだ、いつも、励まして、希望を与えてくれる父だったのに。おかげで、やっと安穏な生活ができるようになったところなのに。これから、家族三人幸せに暮らせるはずだったのに」

 「おとうさんは、おまえやわたしのために、ひたすら働いた。そして豊かになる事ができた。でも、大切なものを忘れていた自分に、とりかえしのなさを感じたのよ。戦争で、多くの人を殺した事をしきりに悔いていた。そして、地球上から、そんな事がなくなるように努力しなくてはと真剣だった。だけど人間なんて、自分が、生きていくだけでも精いっぱいなのに・・・・。おとうさんは、自分ではどうしようもない、大きすぎる使命を自分に負わせたんだわ」。母の声は、涙にむせながら力強かった。

 「なにもそんなに思いつめる事はなかったのに・・・。ここに、おまえに」

 母は、黒衣の袂から、封書を取り出した。父の最後の声。

 「ほんとうにすまない。おまえは、やさしい子だ。よく頑張る子だ。申し分ないと思っている。お母さんを守って幸せに暮らして欲しい。ただ一つ、考えて欲しい。おまえは、人生は無意味だという。みんな、自分のために生きているのであって、それ以外に意味なんかない。結局は、欲しいものを手に入れて、自分がしたいように生きるのだと。確かに、わたしも人生に特別な意味があるとは思わない。しかし、おかあさんの愛情や、人々の思いやりを知らないおまえではないだろう。ひとの心のいたみや、他人の事に夢中になる、そんな心を大切にして生きていって欲しい。わたしは、そんなふうに生きれなかった。ほんとうに大切なものを分かっているつもりで、実際には出来なかった。そして、おまえには結局、受験競争、仲間同士の蹴落とし合いをさせる事になった。合格であろうと不合格であろうと不幸だ。本当に大切なもののために生きてくれ。それは情の世界だと思う。あらゆる生命の幸せを大切にして生きることだと思う。おかあさんを幸せにして欲しい」

 父や母のために、必死で努力して来たんだ、なのに・・・。体じゅうが思わず涙をこみ上げた。おとうさん、僕は精一杯やっているじゃないか。どうして死ぬんだ。それじゃあ僕の努力の意味がないじゃないか。全身が重たく力いっぱいに悲しく震えた。思いが湧いては湧いては、全身を震動して噛みしめ渡っていく。

 ・・・

 みんな、自分のことだけで、必死だ。自分が自分の努力で向上していくのは悪くないじゃないか。自分は自分、他人は他人だ。

 息子は、父の遺影に訴えた。憤りながら、むなしさの広がっていく自分に、とまどいを感じた。父の〃思い〃が、自分への〃いたわり〃が胸に飛び込んでくる。

 父の口癖

 「・・・人間なんて、生きていたって苦しい事だけだ。人間の歴史は、殺害と残酷で満ちている。しかし、人には理性があり、人のいたみを知る情がある。いつかきっと、地球上のあらゆる生命が傷つくことなく、幸せに生きられる時が来る・・」 父が死んだ今、父の言葉が重たい。同じ言葉が、何度も何度も語りかけて来るのだった。

 

 自分がちっぽけだった。今まで自分が汗水流していたのは何のため。小さな自分。空洞の自分。自分の周りに、今まで輝いていた気がかりなもの、しがみついていたものが光を失なって、抜け殻だけがそこにある。

 何度も何度も払い落としたはずのチッポケな自分。落としても落としても自分は欲望のかたまりのような姑息な自分として後戻りしていた。そんな自分が消えていく。

 何か別の気分が高揚してくる。

 「おとうさんは、僕のことを一生懸命、自分の事として考えていてくれた。僕を本当に大切に思ってくれた」。この気持ちが〃あらゆる生命のしあわせ〃を思う気持ちなのだ。父の気持ちのかたわらに湧くように母のやさしい顔が浮かんだ。「ああ、おかあさんは、何時も居てくれたんだ。こうして大地のように僕が沈まないように支えていてくれたんだ」。そしていくつかの、ここちよい出会いが蘇った。いつか会ったおじさんや、おばさんや,いろいろな人々のやさしい言葉や微笑み。そんな出会いがいっぱいある。それらが、やさしく自分を包んでいる。その包みこむあたたかな力が自分を動かそうとしている。

 「ああ、僕は自分が生きていると思っていたけれど・・違う。僕には、実は、別の力がしっかりと加わっている。その力で生きていたんだ。僕を大事にしてくれた人々のあたたかい色々なものが、僕を動かしていたんだ。その力たちは僕の体にしっかりと根ざしている」

 心がほどけていく。

 列をなして突進していく盛りの獣の姿がはげ落ちていく。

 圧迫された孤独の悲しさが霧散していく。

 断絶し見下した拒絶のせめぎが溶解していく。

 頑に閉じ込めた「僕こそが」というエネルギーが融和する。

 「ああ、今までの自分は何だったのだろう。僕が周囲に送っていた視線は、なんと悪意に満ちていたことか。僕の欲得の裏返しではないか。僕が目指していた栄光や栄華は本当に有ったのだろうか。競争と対立と自画自賛。それは無自覚なカラダの欲望が創りだした牢獄にすぎなかったのではないか。ああ、今や世界の見え方が全く違っている。今までの暗く戦い合う世界はどこへ行ったのだ。世界が僕をだましていたのか。それとも僕が世界をつくっていたのか」

 彼を取り巻く世界は一変していた。

 彼にもまだ戦い合う世界があったが、それは周辺を形作る一つの様式として認識されていたにすぎない。彼の中央部は人々の暖かな心で満たされていた。それはゆっくりと、しかし着実に彼を動かし始めていた。というより彼はその流れに乗っていた。「善意の暖流」とでもいうものだろうか。その流れは彼を動かすだけではなく、世界全体を包んで流れているように感じられた。

 今までは、物も、生物も、すべて自分の自我の支配下にあった。自分の欲望の対象としてあった。その世界が、意味を失った。そして、新しい世界が現れた。彼は今、自分の周囲に多くのあたたかな心を見ている。それらは自分と同じように苦しんだり喜んだりしながら一生懸命に生きている。そのそれぞれの命が、寄り添いひしめき合いながら、みな同じ高さでピラミッドのように聳えている。それぞれがそれぞれの場所で、それぞれの仕方で輝いている。その高さはみんな同じ高さに、それぞれの色で輝いている。

 「これこそが大切なんだ。これこそが本当の世界なんだ」

 心は満ちていた。

 

 「おかあさん。僕は、今、本当に大切なものを得たように思う。死と再生を経たような。死が、小さな欲望の世界・・・・小さな自分の世界を吹き飛ばしていった。そして、おとうさんの気持ちが飛び込んで来たんだ。何かおとうさんに包まれて、導かれていくように。みんなの命を大切にする生き方。そんな生き方ができるかもしれない。物の世界は背景へと遠のいてゆき、たくさんの命がそれぞれに聳えて見える」

 「そうだね」。母はそれ以上言わなかった。

 

 息子は、自分の身の周りのことに、無頓着になった。スラム街へ出かけた。身体障害者の会を訪ねた。公害問題に取り組んだ。海外の貧民救済ボランティアに参加した。戦争の痛跡を目で確かめた。大学を中退し、種々の組織に世界を回った。

 想像以上に悲しい出来事が、あちこちにあった。川の上に建てられたバラックの家。じめじめとカビの涌く室内。仕事がない。あったとしても安い賃金。それを酒に飲んでしまう父親。そんな父親に殴られてはその苦しみを子供にはらしてしまう母親。朝飯は無い、百円玉一枚が昼食、夕食は即席ラーメンとちくわのかけらという八人家族。外国はもっとひどい。食料そのものがない。泥を食い、雨に打たれて眠る。病気に捕まれば、それは死である。子供は、次から次へととどめなく死んでいく。隣村に襲われ、殺され、又、女、子供を強奪されなければ幸いである。悪魔の病が、風を渡り、狂気の銃を手にした鬼が徘徊する。

 そんな荒野に、息子はひとり孤独を思い知らされた。一人の力は無力だった。

 どうしようもない絶望の大地。果てしなく広がる悲しみの呼吸。

 それでも、彼は夢中だった。状況が悪ければ悪い程、息子は生命の充実を感じた。彼は既に、小さな自我は消滅してしまい、ほとんど弱き人々と一体になって努力した。毎日が充実していた。ただ、自分の行った成果の大きさを反省する時、力の足りなさに自分と神とを呪った。でも、仲間が増えて最後にはすべての人々が共同して幸せになれる日を確信していた。

 月日が、流れた。

 ・・・

 

 息子は、異国で、母の死を聞いた。

 われに帰っていく自分。線香にくゆる父の遺影が浮かぶ。そして、二十年前、最後に別れた母の姿が、思い出された。自分の名前を呼ぶ優しい母の声に涙が熱い。

 「だんだん便りも少なくなって・・・・。もう、いいじゃないの、帰って来て、のんびり暮らしたらどうかい」

 あの時の母は、淋しそうだった。僕に留まって欲しかったのに・・・・はっきり言ってくれれば・・・・。これで本当に良かったのだろうか。本当のしあわせというのは、何なのだろうか。ひとり孤独にがむしゃらに努力したからといってなせるものではない。皆で協力してやらなければ・・。時間よ、母の命を取り戻して欲しい。

 自分、両親、他人、いろいろな人々。みんな大切だ。その中で、中心は何か。他人のために生きるなんていうのは幻想なのか。世界には問題が山積みされている。無関心でいるのは人でな