仏教小豆知識

仏教小豆知識06年以降

0510精神の自由

0506仏教は幸福論

0505もうけ

0406「恨み多い人々の中にあって恨みなく楽しく生きていこう」

0405相互供養 人間愛

兼愛と別愛と非攻   SH0403-5月号

0307愛と慈悲

0306世界主義

0305妄想の戦争 恐怖 怒り 信仰心

#0306どちらの側にも立たないことと、大悲心
#0306大慈悲

#0304損得
#0303捨
#0302成人式と家内安全
#0301家内安全と厄除け
#0212はげみは不死の境地
#0211身心脱落
#0210涅槃(悟り)の後
#止
  1. #乞食0206
  2. #0205無財の七施
  3. #0204彼岸
  4. #悟り0203
  5. #一瞬成仏(即身成仏)
  6. #四無量心
  7. #大日経 菩提心大悲方便
  8. #慈悲
  9. ねはん
  10. 戒名
  11. 遍路
  12. 六塵
  13. 布施
  14. 精進 六ハラミツの一つ
  15. #五停心観の慈悲観
  16. #同行二人
  17. #菩薩道
  18. #お彼岸
  19. #お袈裟
  20. #三賢・十住心(見道)・瑜伽行
  21. #不殺生
  22. #本来無東西
  23. #秋の「お彼岸
  24. #厄除け (心と不幸と現実変革)推薦
  25. #生と死 死の迎え方
  26. #仁王経
  27. #同事
  28. #涅槃会
  29. #遍路考
  30. #抜苦与楽
  31. #布施
  32. #同事
  33. #発心
  34. #初詣
  35. #厄除け (その二)
  36. #涅槃に生きる
  37. #我慢(自己抑制と自己実現)について

0510精神の自由
 仏教の空の思想は、私達の精神の自由を確立した上で、大きな功績がある。この時、世界は空であるというのと、世界を空と認識するのとでは意味は大きく異なる。世界が空であろうと無かろうと、私達の多くは世界を空とは思っていない。事実としては、世界は空ではないし、私達は世界を空とは思っていない。真実としては、世界は空ではなく苦であり、私達は世界を空と観ることによって自由精神を得て、世界を変革することによって世界は苦ではなく楽となって、この時やっと世界は空的に変化して、常楽となる。
 それはともかくとして、私達は日々衣食のためにあくせくと働き、時には食べるために人に使われ、奴隷のように金銭に繋がれ、時には防衛と称して殺し合い、時には苛々して人を罵り、喧嘩し、正義だ利権だといって対立と闘争と苦痛を増大している。私達がもっと賢くなれば、瀬戸内に三本の橋を架け、月へと人を送り込む能力は、全ての人を養い、闘争のない世界をつくるに充分の大きさがある。その賢さとは、貪欲渇望、怒り恨み、無関心無気力を解決して穏やかな人間性を取り戻すことである。
 その時、私達は真から自由となり、煩悩に左右されず、暴力と貧困に左右されず、おおらかな人生を悠々とおくり、助け合いの友情に心は満たされるのである。
 ところがである、昨今、世界の平安を波立たせるいくつかのことがあり、その一つの先頭に首相が旗を振っていることに恐ろしさを抱いている。それは、隣国の友人が、靖国には参拝してほしくないと言っていることに繋がる。もしも、私の母が、中国兵に殺されたなら、私は彼に何と言うだろう。そして、私の父も殺され、隣の人も殺され、村中が中国兵に殺され、国中の多くの人が殺されていたなら、それも戦闘ではなく辱められ強盗せられて息絶えたなら、何と思うだろう。
 「報復してやりたい、もしも、現在の米国のような強大な武力が手元にあるなら殺してやりたい。それでも、一言でも詫びて頂くなら・・・」と俯くであろうか。首相にも一度、韓国、中国の街路を歩いて頂きたい。「このあたり一帯は、日本軍に焼かれました」「私のおじいさんは日本軍に殺されました」「あなたの国によってこの国の文化財の古いものは残っていません」。ひとつ私達が謙虚になって、耳を傾ければこのように語られます。
 自らの行動を反省することなく、「総理大臣の職務として参拝したんじゃない」という首相。今までの言動と整合性がないのに、びくともしない虚弱な人間としか思われない。何故、日本の「勇敢な」人には涙を流しても、他国の「弱い庶民、殺された家族」には涙が出ないのか。
 首相は、中韓両国の反発については「心の問題に他人が干渉すべきじゃない。ましてや外国政府が、戦没者に哀悼の誠をささげるのを『いけない』とか言う問題じゃない」と言われる。首相が哀悼しているのは、どちらかというと、戦没者よりも戦闘員だということを思うのだが、その上で、「心の問題に干渉しているのは誰なのか」と言いたい。
 私は、韓国や中国で出会った人々に申し訳ないと思うのだが間違っているだろうか。人間とはお互いに相手の痛みを感じる所に、人間の人間としての意味があると思うのだがどうだろうか。誠に情け無い思いがする。他人の足を踏んづけることだけはしたくないと思う。踏んづけたら虚心に謝りたい。そして相手の痛みを少しでも共有したいと思う。
 それが空ではなく、空を空じた精神の自由でありお釈迦さんやお大師さんが求めた境地ではなかったろうか。

0506仏教は幸福論

 先代俊行方丈師匠は「仏教は幸福論だ」と語った。私はこれを聞いてすぐに「そうだ」とは思えなかった。幸福論というと、要するに幸福になれば良いということで、瞑想も戒律も思考も修行も幸福へと至る道行きに他ならないこととなる。修行して何かになるというなら、仏に成るのであって幸福になるのではない。または涅槃を得るのであって、涅槃と幸福とはちょっと意味が違うとか考えた。
 しかしながら、仏教は幸福論かもしれない。少欲知足も、慈悲も、不殺生も、欲望からの解放も、平常心も、穏やかな涅槃心も、そして執着心の解体や、生存苦からの解放も、実は私の幸福を実現する方便なのかもしれない。そう思うと一つの大きな問題が溶けていくのである。
 涅槃という目標を掲げることの一つの良さは、単なる幸福ではなく、ちょっとやそっとでは得られない仏さまならではの巧妙な至福を得るという目標設定である。その欠点は、どこまで頑張っても「これが涅槃だ」という喜びに浸れないということである。
 お経を読みながら、その意味が解けて、至福に襲われることはある。しかし、その喜びは謎解きの成功に似た喜びであって、全身全霊を震わす感動ではないような気がする。人の温かさに触れて「良かった」と感動し、労働に汗かいた後の爽快感に「満足だ」と感じるようなあたりまえで贅沢な喜びがあるようなないようなもどかしさがある。
 その点、もしも「仏教は幸福論だ」と仮定するなら、問題が一つ軽減する。涅槃は、その都度手中に確認できるのである。幸福を感じるか否かが、仏道修行の成果の一つの判定をなすのである。
 確かにそうではないか。少欲知足という仏教の一つの道があって、その少欲知足を身につけているものは、多少の貧苦に見舞われても簡単に乗り越えることができる。贅沢に浸ってしまったものは、少しの貧困にも苦痛を感じるだろうが、清貧を良しとして裕福に塗れないものは、貧富の荒波を荒波と感じないである。
 慈悲にしてもそうである。誰に対してもいつくしみや共感や哀れを感じるように日頃訓練しているものは、他人のいじめや冷笑に遭遇しても、その痛みの深みに落ちないで済むだろう。それは、痛みの軽減になるのである。悪を想定し、他者を憎むものは、自分の心を壊していく。恨みの心や、敵対の心は決して休まらないし、自分を毒していくことをみんな知っている。かといって、ひどい敵対や加害行為に直面し痛めつけられるならばおそらくそんな呑気な優しさの温かい心はすっ飛んで、敵対と恨みと報復の鬼のような心に取って代わられるであろう。
 それでも殉教者は、自らの運命の悲惨を特別の哀れみの心をもって見つめ英雄視することで乗り切るか、それとも人類総体の悲劇を見通すか、あるいは同類の哀れに共感するか、そして慈悲心を真実に身につけいているなら、自他平等の哀れみと温かさと共通項の握手の中で、痛みを超えるのであろう。
 どこまで云っても、やせ我慢の感は残る。それでも、そのように修行したものには、困難を乗り越えていく、ヒントが充分に植えつけられるのである。
 仏教修行の一つ一つの修行項目を幸福への一里塚として受け取り、その修行の過程毎に、幸福を確認していくのも一つの方法である。そのことを方丈師匠は示唆していたのではないか。
 もとより、仏教で言う所の幸福である涅槃は、世間で言う所の幸福とは似て非なるもであると言い切りたい。それは長い修行を経て得られる確固たる幸福であり、揺るぎなく人々と自分とを共に幸福にする幸福である。そして、生まれてきて良かった、あなたもそうだろうと言い切れる内容を伴う幸福感であると確信する。

0505もうけ
慈しみと平静とあわれみと解脱と喜びとを時に応じて修め、世間すべてに背くことなく、犀の角のようにただ独り歩め。Sp73
貪欲と嫌悪と迷妄とを捨て、結び目を破り、命の失うのを恐れることなく、犀の角のようにただ独り歩め。
今の人々は自分の利益のために、交わりを結び、また他人に奉仕する。今日、利益をめざさない友は、得がたい。自分の利益のみを知る人間は、きたならしい。犀の角のようにただ独り歩め。(スッタニパータより)
 飽くなき欲望と、恨み怒りと、無知を捨てて、自由に自分で歩けという。
 世界が、「もうけ」一色になった。それどころか、もうけをつくり出せない人は用がないという。「人は役に立ちたい」と思うのだが、この社会は「もうけ第一主義」である。
人がそうなってしまった。それは昔で言えば、人ではなく人食い鬼である。こんな世の中でどうすればいいのか。
 一つは、貪欲な人々の中に在って、無貪に楽しく生きていくことである。争う人々の中で争わず生きていく生きかたである。
 もう一つは、自分の生きかたを持つことであろう。命が失われようと、自分の生きかたを貴いと感じて生きるのである。どこか悲壮感が漂うが、世間の汚濁に対して、汚ければ汚いほど、悲壮感は独行を糾す。独行とはいえ誰かと同行二人である。お釈迦さんやお大師さんや方丈師匠とである。
 すなわち
 もしも汝が、〈賢明で協同し行儀正しい明敏な同伴者〉を得たならば、あらゆる危難にうち勝ち、こころ喜び、気をおちつかせて、かれとともに歩め。(スッタニパータ45)


0406「恨み多い人々の中にあって恨みなく楽しく生きていこう」
 ここでいう恨みには、敵対とか反目とか対立という意味が含まれています。ですから「対立の多い人々の中にあって、対立することなく楽しく」という意味にもなります。
 恨みは気持ちのことであり、対立はその状態です。しかし、イラクやパレスチナの人々、また植民地の人々や弱い立場の人々のように戦争や暴力や人身売買を仕掛けられたら、おとなしく犠牲者になるのではなく、逃げるか、警察にいうか、戦うかしかないでしょう。
 お釈迦さんは、サンガという治外法権というか国家の権力が及ばない場所をつくって、逃避しました。今は出家と言うことは不十分ですから、国家の中にそんな自由な空間をつくっていく必要があります。
 さて、その前に、私達は自由な心をもっているでしょうか。
 ちょっとしたいざこざで、人間関係は崩れて、いがみあい、「あんなとこへは行かない」とひがんでしまいます。急に心が頑になって、閉ざされると「恨み」とか「嫌う」感覚の虜になるのです。対立を解きほぐして、自由でおおらかな気持ちを保ちたいものです。仲直りをするか、相手にしないか。ほかにはどんな方法があるでしょう。


0405相互供養 人間愛

 相互供養という言葉を始めて聞く人は、何だろうかと訝しがるかもしれない。人と人がお互いに供養しあう。
 供養は先祖供養とかなくなった人の冥福を祈るときに使われているが、実は、その人を大事にするとか、愛でる、徳を讃えるという意味である。供養とは、死者の霊を鎮めるのではなくて、その人の人となり業績を賛嘆することである。
 そのことによって、その人は仏さまと成るのである。
 相互供養というのは、お四国などにお参りに出かけたときに、互いに手を合わし「ご苦労さま」と声を掛け合う時が、まさにその時である。
 私達は人との出会いで、いろんな仕方であいさつする。
「こんにちは」「お世話になります」「よろしくお願いします」「何卒・・」
さまざまにあいさつをする。
 その時、心の中では、「この人は大事にしておけば、何かと便利だ、得をする」とか、「この人はやさしそうだから軽くしておこう」とか「目上の人にはごますりをして、目下には偉そうにしてかまわない」とか、ついつい思いながら出会いを繰り返している。
 最近では、「人の短所を観るより長所を観て褒めよう」というのが流行っている。確かに良いことだと思う。
 しかし、問題は「何のために褒めるのか」である。
 自分のために褒めるのか、他人のために褒めるのか?
 肝心なのは、他人が好きか、嫌いかではなかろうか。いや、他人が大事か大事でないかであろうか。
 仏さまの目から観れば、一切有情(または一切衆生、生きるものすべて)はわが子のようなものである。好きな子もいれば嫌いな子もいるのだろうか。それはさておき、どの子も可愛いのであるから、みんな幸福になってほしいと思っている。
 つまり、仏さまにとっては、一切有情は、みんな大事なのである。
 さて、私達は仏さまに手を合わせるが、仏さまは私達に手を合わせるだろうか。ちょっと考えにくい。
 お互いに手を合わせあうのが「相互供養」だとすると、お互いに「尊敬」していなければならないだろう。憲法には「個人の尊厳」というのがある。一人一人はかけがえのない「尊厳」をもっているというのだ。
 仏教ならば、尊厳や尊敬の中身は、「仏教を志しているという発心、慈悲、向上心(勝義心)」だろう。相手の中にそれを発見できれば、他人に手を合わせるのは簡単だろう。だからお参りの途上に出会った人には、そういう気持ちになれる。
 では、嫌いな人、俗に罪人に対してできるか。その人が、将来変わっていくということのために手を合わせるのか。
 他人に手を合わせる。他人を尊敬し大事に思う。難しいことである。もっと修行を積まなければできない。とりあえず、他人を好きになることから始めようか。
 それとも信仰として、形から入ろうか。
 相互供養。挑戦してみたい。


0307愛と慈悲

 世間では愛という言葉がもてはやされる。それに対して慈悲は仏さまのことで、私達とは縁が遠いことだと思われている。
 そもそも仏教では愛は煩悩の一つとされる。たとえば、異性を愛するとは、時には、単なる性欲であって、セックスをしたいという快楽欲求であったりする。また彼女を自由にしたい支配欲であったり、彼を自分の物にしたい独占欲であったりする。だから仏教では愛は、何かを手に入れようとする煩悩のことを言う。
 それは、異性に対してだけでなく、物に対しても同じである。物を自分のものにしようとするときには、その欲望は愛である。
 では、親が子どもに持つ愛情はどうであろう。これは複雑である。自分の分身として、自分と同じように大事にする。自分の代わりに出世するの期待するのも愛である。ペットのように可愛がるのも愛である。これは独占であり愛玩具でもある。車にひかれそうになった我が子を、かばう母親はどうであろう。
 もしも、自分の一部として考えているのなら、自分を守ったのに等しい。自分の手を守るように子どもを守ったことになるだろう。これが親の深い愛情であろうか。
 もう少し困難な事例を考えてみよう。子どもが結婚相手を連れてきた。親の理想像とはかけ離れている。しかし本人は彼が相応しいという。実際はこんなに単純化はできないが、こんな時、どうするのが愛情の深い親に相応しいだろうか。本人の意思を尊重するか。否、本人には人生の伴侶を見分ける能力が低いと考えて、反対する。どちらにしても、子どもの立場にたって、子どもの幸せを願って行うことには相違ないだろう。親と彼が馬が合わないから反対するということにはならない。それが正しい愛情ということになろうか。
 お経文には慈悲はこう説明される。
 「世界中のどこを探しても自分より大切なものはいない。だから他人も自分と同じと考えて、自分の身に引き当てて他人を大事にしよう」と。もしも神通力があれは、他人の心が手に取るように分かるだろう。その思いが実現するようにいっしょに考えるのが慈悲となる。ではその思いが間違っている時にはどうなるか。もしも彼の立場ですべきことを考えるべきなのであろうか。それは押し付けにはならないだろうか。そこで登場するのが「人権」の考えなのだろう。素人にはこの人権を越えることはできない。ただ一人架空の仏さまのみが越えうるのだが、それはフィクションの性格を帯びてくる。
 愛と慈悲の違いは多少分かっていただけたであろうか。


 0306世界主義
 仏教に世界主義があったろうか。世界主義とは国境や人種を越えるという意味である。例えば、お遍路に出るとき、出会った人が何人とか、どこから来たということで接待をやめたり挨拶を変えるだろうか。だれでも、お遍路に出れば同じ同行二人である。
 だから、お遍路は世界主義である。普遍主義ともいう。
 今でいう世界主義は、人間はみなどこにいてもどんな生まれでも、人間であれば同じだよ、いっしょだよ、平和に暮らそうよ、幸せになろうよ、というのである。簡単である。 みんなで、お遍路に出ればいいのである。
 町で大きな外人さんに会ったら、ちょっとひるむかもしれない。怖いサングラスをかけて低い声で、分からない言葉でいわれたら随分恐いかもしれない。でも、白装束を来て、お堂の前で手を合わせていたら、親しく見える。親しく見えたら話もしてみる。お互い息子でもいれば話が弾むだろう。
 世界主義は遠くて近い。近くて遠い。でも、お遍路を知っていれば、できそうな気がする。

妄想の戦争 恐怖 怒り 信仰心
 イラク戦争はブッシュ大統領が起こしたのか、それとも米国民が望んだのか。この問いを考えるとき、私達は人類の迷妄の深淵に立ちすくむしかない途方にくれる。
 米国では少なくとも国民の半数以上が、イラク攻撃を支持した。その理由は何か。新しく創設された巨体官庁=国家安全保障省がテロリストによる攻撃の深刻な脅威があると発表したことによって、国民は恐怖したといわれる。その結果、国民は二年分の水や乾パンなどを一日で購入したという。
 私達には想像もできない恐怖が米国を襲っている。そしてその恐怖心をかきたてているのは大統領であることはいうまでもない。そして、フセインが核兵器を製造している証拠がいくらでもあると繰り返し主張したという。
 では、米国民は、大統領に騙されて恐怖心から戦争を肯定したのか。
 次に大統領は、イラクとアルカイダのつながりを強調したという。ビンラディンへの復讐心をかき立て、その矛先をイラクへと向かわせたというのである。ハイジャック犯人は全てサウジアラビア人であった。なのに国民の半分はイラク人だと思っているという。
 もう一つの戦争肯定の道は信仰心にあるという。
 ギャロップ社の世論調査では米国人の四八%が創世紀論を信じており進化論を信じているのは二八%にすぎない。さらに七〇%近くが悪魔の存在を信じているという結果が出ている。大統領が言う「悪の枢軸」というレトリックがこうした文脈から出てくるという。 私達はこれに対して、どのように対処できるだろう。もしも米国の策動と国民の異常心理を見るならば、その戦争を早々と肯定支持し税金投入も決めている日本国をどう評価批判するべきなのだろう。
 戦争の是非を云々する前に、私達は私達が依って立っている自分の足元を見るべきだろう。私達は一体どのような思慮分別をもち、どのような情報が得られていると判断した上で、何のために何を判断しているのか。あるいは何も判断していないのか。
 他人を批判することはたやすく、自分の足元を見透かすことは容易ではない。なのに戦争という大量殺害を容易に看過している。
 自分の残り少ない齢が過ぎ去るのを茫洋と見送るのも自己への怠慢であろうが、他者の魂が吹き飛ばされ、他者の魂を吹き飛ばす罪を見過ごすのは共犯であり共死であろう。

兼愛と別愛と非攻 SH0403-5月号

殺一人は不義、必ず一死罪あり、他国を攻めるは非にあらずとはなんたるか
(墨子紀元前5世紀)
 人間というのは不思議である。今から約二千五百年前、中国とインドで同じことを考える聖者がいた。
 戦争こそ最大の殺人だと説いて、諸国の王を諫めて回ったのである。中国の墨子さんは、一人を殺害すれば死罪に当たるのに、戦争で多くを殺しても罪にならない理由はないとして、為政者を諫めた。その言い分は、弱者にとっては戦争は不幸以外の何ものでもないということである。
 この教えは、その後の中国の歴史で、為政者によって焚書されていったという。権力者は、権力を取るときには戦いを正当化し、権力を取り終えると、儒教でもって世の中を固定化し、人々をカースト化した。
 これに対して、お釈迦さんは、不殺生を説いて殺し合いを諫め、自らは離脱して別世界である出家王国をつくったのである。徴兵も殺し合いもない、ただし少欲知足の程々の生活である。

兼愛と別愛

 兼愛とは生き物すべてを自分と同じように愛すること。別愛とは誰かを愛し誰かを憎むこと。
 戦争や犯罪が、別愛から生まれることを説いている。侵略するものは必ず、その人を憎み悪人と決めつけることから始まっている。逆に、兼愛のものは、人を傷つけることがないと説く。
 慈悲の心を保てというのである。汝の隣人を愛せというのである。
 これに対して儒教では愛に序列をつける。君臣を序列化し親子の上下を決めて、別愛への道を開くとして墨子は儒教を非難した。


0306どちらの側にも立たないことと、大悲心

 経文にこう書かれる。
 「敵対する人々の間において、敵対することなく大いに楽しく生きていこう」
 世の中で生きるということは皮肉なことである。痛みつけられれば、その痛みは恨みへと変わっていく。恨みは攻撃性へと変わっていく。痛みは身体的痛みを受けるだけでなく、精神の平衡、平和を崩し、精神を痛みの世界へ落とし入れる。
 痛みを受けて、我慢していても、再度痛みを受けると痛みは恐怖へと変わっていいく。
 あるいは、二人のけんかを仲裁しても、あまり熱心であるといつのまにか、どちらかの立場に立って、ついには自分が最も熱心な闘争者になったりする。例えば、自分のこどもを大事にするあまり、いじめられたこどもの代わりに報復するなどである。
 だからであろうか。それとも仏教は「平安の境地」「平和の心」を大事にするからだろうか。仏教は報復を最も恐れる。報復の連鎖にはまることを最も恐れるのである。
 まず第一に、仏教は涅槃寂静を第一とする。
 仏教は心の安定を何よりも優先する。心が掻き乱されないこと。心が穏やかで満ち足りていて、幸福なことを第一とする。仏教の目的は心の平和である。
 だから無闘争である。
 第二に、因果の法に従えば、私たちは悪行によって悪の種子を溜めてはならない。恨みを溜めることは、悪いエネルギーを蓄積することに他ならない。痛みを受けて恨まないことは大変な苦労である。不可能かもしれない。しかし私たちは恨んではいけないのである。攻撃されることへの恐怖は一時的であろう。しかしそれによって悪を想定し固定してしまうことは恨みへと繋がる。恨みは報復へのエネルギーである。それは悪の輪廻、痛みの輪廻である。だから、私たちは恨んではいけない。敵対してはならない。
 敵対とは、対象物への悪意である。まず人や物を対象として観ることに落とし穴があるだろう。対象とは相手の主体性や独自性を剥奪した状態である。相手の尊厳を無視している。そして悪意は自分の煩悩から起こるものである。私たちは何事も善意に理解すべきであるだろうから、または平常心で仏の立場で平等に観るべきだろうから、悪意は溶かされるべきであろう。

 では私たちは心に無闘争を誓い、悪意を捨てればそれでいいのか、というとそれでは無関心の非難を受けるだろう。仏教徒は世情を離れて隠遁して居ればいいのかと。完全な少欲知足であればそれもあり得るだろう。まず完全な無一物の生活はあり得ない。
 仏教には、不殺生の一方に慈悲がある。大悲の考え方である。それは共に生きるものへの配慮であり、生きるものへの思いやりである。
 他者を自分のこととして思え、あるいは他人を自分と同等と思えと再三経文に書かれる。他者の痛みが分かることと言った方がよいかもしれない。自分と他者、あるいは他者と他者の敵対において、または利害の対立において、私たちは、そのそれぞれの立場で自分のこととして考えねばならない。それぞれの立場の痛みを感じなければならない。大悲とは悲しみが分かること。悲しみを避けずに積極的に理解することである。

 だから、私たちは、「敵対する人々の間において、敵対することなく大いに楽しく生きていこう」としながら同時に「他者の痛みを自分の痛みとして感じる」大悲行をしていく必要がある。すなわち、敵対することなく共感しつつ共生を実行していくのである。
 不殺生かつ慈悲行が求められている。

0306大慈悲

 大悲ともいう。大悲をもってものを見るのを悲観という。悲観は物事を絶望的に見ることではなく、悲しみを真方向に受け止めて、力を溜めて、悲しみを克服していく行動をいう。
 自分のことはもとより、他人のことに対しても悲観を行う。その根底には、人間は悲しい生き物だという見方があるだろう。人間はあたかもこの世で苦しむために生まれてきたかのような生き方をする。努力は常に求められ、困難は次々とやってくる。現代、富むものはますます富み、失うものはますます失う。
 しかし、このことは克服されねばならないだろう。なぜなら富むものも失うものも、それを望んではいない。敵対は苦しみを増大するばかりである。
 その敵対を乗り越えるのは悲観である。大悲、慈悲である。自分と他人を同等に見る見方である。悲しみを基底として自分たちを悲しむ人間として見る見方である。
 大慈悲は実践であって、単なる思いではない。その理由は、実践することによってのみ慈悲心は開発されるからである。慈悲心は成長させなければ芽生えず停滞する。行動によって善の刺激を与えて開発成長させる必要がある。

損得

 戦争が始まる。不殺生の話をしていると「損得」の話になった。
 結局、金目の物が集まるところに戦争は起こる。中東、チェチェン、アフガニスタン、これらは石油の在るところ、そしてパイプラインの経由地。そして、大国の国境は必ず紛争に巻き込まれる。
 日本もそうだ。石油がどうの、米国がどうの。結局、経済のことを気にしているのではないか。
 貧乏の覚悟をしなければ、不殺生は貫けない。そんな話になった。しかし、結局、人殺しをしてまで、財をなして、生き延びてどうするというのか。何かが逆転しているように思う。
 仏教の第一は、戒律を守ること。その第一は不殺生。人殺しをしないこと。
 仏教徒になる心構えの第一は、名利損得を離れること。損得に縛られていては修行にならない。しかし、この損得勘定は常に人間の頭を悩ませる。
 そして、損得が切羽詰るのは、自分を取るか他人を取るか、自分の家族を取るか他人を取るかの時である。
 そうなってからでは実は遅いのだろう。
 損得を離れるとは、どちらかを選んでどちらかを捨てるという選択に追い込まれないために修行しておくことである。
 名利損得を捨てて、恨みを捨てて、恐怖を捨てて、他人を信頼し、そして常日頃から他人のことを考えておく。つまり、無関心無知を克服しておく。そのことが、不殺生を守っていく肝要だろう。

 同行二人に述べた「捨」である。
 何を捨てるのかというと、つまらぬ考えを捨てる。飽きぬむさぼりを捨てる。憎悪を捨てる。愚痴を捨てる。
 捨てるというより離れるが正しいかもしれない。悪い考えを離れるのである。
 捨は一時避難である。悪い考えも煩悩も、いずれは乗り越えていかなければならない。しかし、捨によって捨てるものは捨てるし、捨てきれないものも、一時的に離れて避難するのも一つの方法だ。
 たいていのことは、我慢できる。我慢できることは我慢すればいい。問題は、我慢できない我儘である。
 わが子を殺された人は、大変つらいだろう。でも我慢している。報復して殺してやりたくても我慢する。
 こんなとき、捨が役立つのだろうか。捨てても捨てても憎しみは蘇り苦しむだろう。どうしようもない。
 捨とはあきらめの極地なのだろうか。一時的に本当に捨が働くのか疑問がある。
 自分では良くないと考えつつも、どうしても邪な考えが出てくるとき、私たちは捨に逃避して時間が解決するのを待つだけなのだろうか。
 捨に転換の力がなければ、それは偽りになる。憎しみを転換して、問題解決に向ける。もの欲しさを転換して、人助けなどの大欲へと向かう。愚痴を転換して向上への謙虚な心に変える。その転換の力を捨が持たなければ、捨は単なる、自己欺瞞の諦めの途になる。
 お釈迦さんは、子どもを無くして泣き続ける母親にこう語った。「いつまでも自分を苦しめて憔悴するのは止めなさい。ただ悲嘆しているだけでは衰弱するばかりで、亡き人は決して喜ばない」と。
 悲しみや苦しみやつらいことの力は、生きる力に転換しうるのか。捨は待つことを可能にするのか。

成人式と家内安全

 今年の成人式は、各地区で行われた。道後地区は、公民館が中心となって小中学校のPTAが手伝って行われた。
 和やかで、新成人中心の楽しい成人式となったことは嬉しい。中学校の体育館で行ったこともあって、同窓会気分のものになった。残念なのは、地域の成人式なのに、地域の人がお祝いするということにはもう一つだったことである。
 成人式とは何だろう。町が子供を成人として迎える式だろうか。勝手に成人して、自分たちで同窓会をする式ではなかろう。地域に成人として迎えられるのが成人式だろう。
 だから、「大人」として迎える人と迎えられる人がいなければならない。迎えられる人は百七十人以上いた。大盛況だと公民館長さんが言っていた。迎える人はそれに比べて少なかった。
 なぜなら、子供が大人になったからといって、次の町の行事に手助けになるわけではないからではなかろうか。そもそも、町のすべき行事自体が無い。
 昔、各家庭は子供をこぞってつくった。そして大きくなって家を助けてもらうのを喜んだ。我が家では時々子供たちがお寺の手伝いをしてくれると仰山嬉しい。それと同じだろう。
 子供が成人して助けてくれるのは宝物である。新成人は、おそらく町や社会の役に立ちたいと望んでいるだろう。「大人として頑張るぞ」「役に立つぞ」というメッセージが聞こえてくる。
 問題は、そのエネルギーを受け止める受け皿がない。「町に入って一緒に町を守ろう」そうすると、みんな期待してお祝いにくるだろう。
 そんな地域や家庭はみんなが好きになり、お互いに役に立つことができる楽しい場所なのだろう。

家内安全と厄除け

 石手寺では毎年大晦日に万灯会を開き「世界平和」を祈願している。その日、蝋燭に祈願を各人書いてもらうのだが、たいてい「家内安全」「良縁」「就職」「学業」である。世界平和と書く人は少ない。ところがこの数年、平和と書く人が増えた。世界平和とは簡単に言えば、「苦しんでいる人がなくなりますように」ということである。
 もうすこし言うと、世界には二つある。自分の世界とみんなの世界である。この二つは別々のようで実は切っても切り離せない。自分の世界だけ幸せであればいいと思う人は、最終的には幸福になれない。心が狭いからである。狭い心は幸福を取り逃がす。ではどうすれば大きい心を持てるのか。自分と他人とを隔てる壁を取り除くことである。ではどうしたら取り除けるか。他人のことにかかわることである。それには暇な時間を持つことである。それには自分のことに取り敢えず満足することである。それには自分を認めることである。認めるとは受け入れることである。云々
 年の初めに年内安全を祈願する。自分が幸せでありますように。家族が幸せでありますように。そして世界中の人が幸せでありますように。
 そのように祈れる人は、既に年内安全の半ばを得ているのだろう。
 心は環境によって泣いたり笑ったりする。でも心が全てを決めていく。

はげみは不死の境地

 古いお経に書かれている。
「勤め励むのは不死の境地であり、怠るのは既に死んでいるが如しである」と。また、「一日生きるとも、良く生きる人は不死の如くであり、百年生きるとも怠りなまけるならば、生きたことにならない」と。
 なかなかきつい言葉である。のんべんだらりと暮らすのも一つの生き方ではないか。中国古典の老子などを読んでいると、「無為自然、つまらぬ人為的計らいをしてあくせくするより、則天去私、天の声を聴いてのびのびと生きろ」と書いている。
 いやいや、励むと言っても励む方向が違うのであろう。仏典にも商売をして競争しろとは決して書いていない。過激な競争こそ一番嫌うところである。励め励めと子供に受験勉強を強いることとは方向が逆である。
 西も東も拝金主義、物が売れないのは努力不足の責任。もっと努力しろというのが現代資本主義の言い分であるが、仏教はその逆である。逆なのに努力しろ励めよという。
 「共生の大地」(岩波新書)にこう書いてあった。「今日に明日をつなぐ営みが経済なのであり、その営みは決して他を打ち負かしたり、他におもねったり、他と競り合うことなくしては成り立たないというものではなく、存在のもっと深い奥底で、そのものだけで、いつまでも消えることない価値高い息吹としてありつづける」と。
 たぶんそのような営みとしての「はげみ」が必要なのだ。加えて、仏教の励みとは、心が「満足」していることである。そして「慈悲行」に励んでいることである。自らつくり、耕し、満足し、他にも施す。簡単な行である。その簡単さが一番難しい。
 だから仏教では菩薩行を提唱している。仏さんの心の方向に自分の心の向きが同じ方向を向いている、そのことが励みであり、不死の喜びを得ているというのである。
 不死の喜びとは達成感ではなくて、仏教の目的へと行動が向いており励んでいることであると。こうなるとずいぶん簡単だが、ではいったい仏さんはどちらを向いているのだろう。何を見ているのだろう。

身心脱落

 「肉体(身)も精神(心)も、一切のとらわれをのがれて自在の境地に入る事。この身心のままでさとること」と辞書に書かれる。
 禅宗の言葉であるが、好きな言葉である。放下という言葉がある。放下とは「何物にもとらわれず一切を捨て去ること」。
 体の欲も心の欲も全て捨てて、身軽になることである。忙しい人間や、財産の多い人間や、欲得の多い人間は、重たい人間だといえよう。持つほどに豊かになる人もいるにはいるが、だいたいは持つほどに心は痩せ細っていく。
 さて、全てを捨てよというのだが、物を捨てるのはさして難しいことではない。何故なら、破産して無一文になることは多々あるし、物は捨てた気になれるものである。ところが、ここで捨てよといっている物は、財産や持ち物はもとより、自分自身である。
 自分自身を捨てる。どだい無理な話である。自分を捨てたら何が残るのか、訳が分からない。だから禅問答なのであろう。
 自分自身を捨てるとは、まず、身を捨てること。一切の感覚を捨てること。次に、心を捨てること。それは生きようとする意欲そのものを疑うことになる。
 生きたいから生きる。したいからする。明々白々な真理である。生きたいから生きる。だから生きたいように生きるとしか言いようがない。そう言い切れる人に一切の重荷は捨て去られている。
 心が軽い。何もなくても素晴らしく満たされているのである。満たされているから、それ以上あくせくしないのである。あくせくしないのに、行動的なのである。
 何故なにもないのに行動的なのか。人助けで身につけた、人生観を持っているからである。それは何か。仏さんの意欲である。

涅槃(悟り)の後

 果して、厭世的であったお釈迦さんが、悟りを開いて「ああ、心がやすまった。もう私には憂いはない。怒りもない。欲望に焦ることもない。死んでも永遠に生きる」と断じた後、彼はただ死ぬのを待って、意識朦朧と止まった時間を過ごしたのであろうか。
 スッタニパータにこう書かれるのに驚嘆した。
「心安らかになった涅槃を得た人が、次に成すべきことは次のことである。真実を語り、常に思慮深く柔軟な心を持て。そして生きとし生けるものに対する慈悲の心を持つべきである。生き物はみな、自分が可愛く、苦痛に脅え、幸福に生きたいと願っているのに逆境に遇う。長きものも短きものも大なるものも小なるものも、全ての生き物に対して、幸せであれとの慈悲の心を持つべきである」
 安らぎを得た聖者は、死すべき静寂の静物ではない。慈悲の心をしったりと確立して、この慈しみのエネルギーに因ってこそ生きるのである。それは再生の新しい命の芽生えとも言えるのではないか。新たな慈悲という「やる気」を得て、慈悲の行に生きるのである。果して、この慈悲の行に生きるならば、人はどのような幸福を得るのか知りたい所である。

 止観の「止」である。シャンティの訳である。何年か前、インドに亡命しているチベット僧らが「世界平和祭」をするというので、はるばるお釈迦さんの成道の地ブッダガヤを訪れた。

 なんと、そこにはチベット人が何千人と集結していた。隣国に追い出された彼らはインドに難民化している。その時、世界平和の「平和」のことを「SANTI」シャンティと書いてあったのだ。私たちが陣取った坊さん達の胡座座りの前面には、沢山の供物と大きな垂れ幕「SANTI」があった。

 このシャンティの意味は、「静まる」「おだやかになる」という意味である。心が静まる。欲望が止む。煩悩が静かに凪いで、穏やかで、安心な気持ちに浸る事である。

 私たちは、日々一所懸命生きている。あれもしなければ、これもしなければいけないと思い詰める。または、あれがしたい、これがしたい。人に負けたくない。これでは見苦しい。このように思って右へ左へと走り回っている。

 ちょっと忙しくしすぎていないだろうか。そんなにあわてて何か大事なことを見落としていないだろうか。

 シャンティは煩悩を静めるという意味であると同時に平和という意味である。平和になれば煩悩が静まるわけではなかった。平和は退屈なのだろうか。他者の汲々受難には無頓着ながらに自分の欲望をコマーシャルとともに増大させて破滅していく。

 みんなが世界の平和、地上の飢餓と暴力が無くなるために、お祈りしわたしやあなたの欲望を静める必要があるだろう。

 利己欲よ、しずまれ

 弱肉強食よ、しずまれ

 上下の意識よ、しずまれ

 恨みよ、しずまれ

 妬みよ、しずまれ

 つまらぬ競争よ、しずまれ

 金儲けの輩よ、しずまれ

 おだやかであれ 

乞食0206
 「こつじき」と読む。乞食と書いて「こじき」とは違う。こじきとは、働かずして法外な金品を手にしている人のことである。こつじきは、他人から物を貰うが、ちゃんと仕事をしている。その仕事は歩いているということである。前へ前へと歩いている。よしんばとまっていても歩いている。

 それは、心を立て直そうと歩いている。生き方を回復しようと歩いている。生きる目的をしっかりさせようと歩いている。

 これらは仕事とは言わないだろう。しかし、ひょっとすると仕事よりも大事な事である。仕事は「労働」という。労働の労は「いたわり」と読む。働は「はたらく」である。他人をいたわり、はたが楽になるようにするのが労働つまり仕事である。

 ではその仕事とは何であるかを分かっている人が何人いるだろう。人生の目的が分かった人でなければ、仕事とは何かは分からないだろう。だから、こつじきして、前へ前へと歩む人は、仕事以上のことをしている。

 さて、現代は、貨幣経済である。いくら他人のために働いても、所詮、その生産物を貨幣と交換してしまう。この交換比率が問題だが、どちらにしても、貨幣に交換したとき、私たちは堕落する。

 そしてまた、乞食を始める。さてはて、この乞食はどちらの乞食か。

 
0205無財の七施

 お金があっても布施行はしない。お金が無くても布施行はできる。

 無財の七施とは、体一つでできる布施の行である。

一、笑い

二、やさしい言葉かけ

三、思いやり

四、場所を譲る

五、手伝い

六、相談にのる

七、一緒にいる

 本来の七施とはちょっと違うかも知れない。皆さんも考案して欲しい。

 どうして、無財の七施かというと、施与の行の入門にはこの方がやりやすいし、却ってこの行をすれば自然と、本格的な施与もできるかも知れないと思うからである。

 その上、日常生活で必要なのは、右の七施の方かもしれない。

 でも、リストラの時代に、笑っているばかりでは、ワークシェアリングにはならない。根本解決をしないと却って問題の隠蔽や先延ばしになると言われるかも知れない。

 人間とは、とことん窮地に立たないと、根本解決しないものである。例えば戦争しないと戦争の悲惨さは分からないし、辞めさせられて初めてリストラされた他人のことが分かる。

 しかし、他人に笑顔もできないし、優しい言葉も発せられない人では、世の中の真の潤いも考えられないだろう。そんなことを思いながら、日々の些細な出会いを反省してみる。

 大言壮語してみるより、脚下照顧だろうと。

 
0204彼岸

 彼岸とは向こう岸をいう。こちらの岸は此岸で娑婆世界である。憂悲苦悩があり煩悩が燃えて苦しいのがこの世である。そしてそうではない苦しみのない理想郷があの世である。

 あの世には二種類有り、死んでいくあの世と、悟りを開いて住むあの世がある。

 彼岸と言うときは理想の世であり、仏教では煩悩の無い世界をいう。何故、向こう岸かというと、此岸と彼岸の間には濁流が流れている。その濁流は煩悩である。煩悩とは四苦八苦であり、生まれること、老いること、病に臥すこと、死ぬこと、求めて得れないこと、愛するものとの別れ、恨みを抱く人との出会い、そして体の欲求である。当然、飢餓の苦、暴力の苦がある。

 それらの苦しみを生み出す源泉が煩悩である。煩悩は他ならぬ自分自身が生み出すものである。或いは他生がもたらすものである。いずれも私や他生の悪い欲が煩悩である。

 この煩悩の濁流を渡りきったところに彼岸があるというのだ。

 果たしてその彼岸には自分一人で到達できるものだろうか。それともみんなで共に到達すべきものだろうか。

 昔の仏教は、一人で到達できると考えたようである。自分の心の状態は自分で決めるということであろう。物は犯されても心は犯されないというのであろう。それぐらい強い思いが無ければ生きていけないのかもしれない。アフガンの悲しい少女の顔を見ているとそんな気がしてくる。

 社会の恩恵や、他人の情に期待してはならないのだ。何時爆弾が降ってこようと、父母が殺されようと、そんなことで心を痛めていては彼岸には渡れないのだ。何故ならその不幸から逃れることができないからである。

 否、やはり憲法にも書かれているように、私たちはみんなで共に、暴力と飢餓から解放された世界を希求すべきなのだ。そのことと私たちの少欲知足や優しさが共に共同歩調して行くべきなのだ。そのように般若心経の末尾の真言に書かれている。ギャーテーギャーテーハラギャーテーハラソーギャーテーと。一緒に彼岸に行こうと。

 お彼岸の一日ご先祖様と一緒に人類の悠久についても考えてみたい。

 
悟り0203

 悟りと涅槃と解脱とはいずれも仏教の最重要な言葉である。仏教は無目的を目的とする。つまり悟っても悟っても終着はなく執着してはならないと言われるのだが、私は目的があると思っている。

 仏教の目的は、先の悟りか涅槃か解脱である。

 今現在、苦しみの真っ直中にいる人が居るとしよう。その人に必要なのは解脱である。苦しみからの解放である。

 今現在、誰かに誇りたい何か輝く宝が欲しい人が居るとしよう。彼に必要なのは悟りである。

 今現在、満ち足りている人が居るとしよう。或いは、満ちているのに不安でしようがない人が居るとしよう。彼に必要なのは涅槃である。

 このようにつべこべと議論をするのは、小賢しいからで、賢者は論争を止めて、直ちに涅槃に入る。それが悟りである。

 悟りとは考えてみれば、何か分からなかったことが分かると言うことである。仏教の開祖はブッダと呼ばれ、その意味は「目覚める」である。つまりブッダとは悟った人という意味なのである。

 では何を悟ったのかというと言い表せない。言えるのはブッダは、最高の境地、幸福な境地に入ったということだけである。「生きようとする煩悩が尽きた。成すべきことは全て成し終えた。利他行も成した。もう生まれることはない」このように断言する境地が涅槃であろうか。

 凡人はそうはなかなか思えない。もっと生きたい、もっと生きたいと願う。しかし、そうだろうか。家族も皆安泰で、生きることの意味を知り、努力を尽くした人は、死に去ることが欲望と成るような気がする。 そう感じるのが一つの悟りではなかろうか。悟るとは、なにか宝石のような人に誇るべき珠玉を得ることではなく、人生を合点することなのだろう。それは人生の年輪とか、苦難の乗り越えたもののみが手に入れる悟りなのだと思う。そしてそれは何故かこの世に放り込まれたことからの解脱なのである。

 
一瞬成仏
 学ぶという言葉がある。真似するという言葉から来ているという説もある。「まねぶ」である。ある信者さんが、優しいことばかけを行っていた。どうしてかと聞くと「お大師さんを真似ているのです」という。昔、お遍路にでて助けていただき、その感謝に真似をさせてもらっているというのである。

 お大師さんの真似をする。真似行である。真似をしながら、優しい言葉、微笑ましい笑顔、そして布施行がなされる。行いは既にお大師さんである。そして感謝の気持ちが底に流れているから、単なる猿まねではない。れっきとしたお大師さん行である。妙に屁理屈ばかりこねて、難しい顔ばかり振りまいて、施しを何もしない何処かの僧侶より幾分もいいと、風評が飛んできそうである。

 お大師さんは、真言行を行うとともに、真言宗を確立し、社会事業を行い、だれでも無料で入れる庶民学校を作り、山野に遊行した人である。その志は万灯会の願文にあるように「生きとし生けるものが幸せであるように」の一行であろう。優しい言葉、仏への信念、そして実行力。これが弘法大師・お大師さんの神髄である。

 「私達は弘法大師になることはできない。しかし、その真似はできる」というのが「真似行」である。同行二人もそんな意味を表しているのかも知れない。お大師さんはどんなに未熟な自分であっても、自分の目線まで下りてきてくださる。また、どんなに自分が落ち込んでいる時にでも、お大師さんはその落胆の気持ちを理解して下さる。受け止めて、支えてくださる、一緒に考えてくださる。同行二人は、自分の目線で常に泣き笑いしてくださる優しい人と常に居るという意味であろう。

 そのお大師さんが説いた真言宗の重要な教理に「三密行」がある。三密とは仏さまの身・口・意をいう。仏さまの行いと言葉と心根である。または、仏さまの働きと様態と根性である。凡夫の身口意は三業という。三つの迷いの行いである。

 三業。独り占めや、他人を痛めつける行為。不機嫌な顔つきや反吐の出る言葉づかい、悪口。そして曲がった心。こう書きながら、私も仏さまには到底なれそうにないと思ってしまう。

 自分でくよくよしすぎないで、他人のことを常に重んじて思いやりを持って生きる。いつもニコニコ他人に接して悪口を言わず、温かい言葉をかける。そして骨惜しみせず施しをする。言葉に書けば簡単なようでも、行うとなると出来そうにもない。お釈迦さんは何万回も生き死にを繰り返して、優しくなり、仏さまになったというが、気の遠くなるような話ではないか。私はできないから、仏さまが代わりにやってくださいと言いたくなる。実際、観音様や、お地蔵さんの信仰は、仏さまに頼んで何とかしてもらう頼み信仰である。阿弥陀様もそうであろうか。自分がそれらの仏さまになろうというのではなくて、それらの仏さまに頼んで何とか助けてくださいという信仰である。

 ところが、お大師さんは「この世で成仏しなけりゃならん」と言った。飽くまでも生きているうちに、幸せをつかまにゃならんと言った。それを「即身成仏」という。成仏はこの世で死ぬことではない。本当の幸せをつかむことである。「生まれてきてよかった。死ぬのも怖くない」と言い切る人生を掴むことである。

 我が師匠さんが言った。「私達はずっと仏になることは難しい。しかし、一瞬のあいだ仏さまになることはできる」と。

 良い行いをずっとし続けることは困難である。しかし、一日に一度か二度、良い行い、良い笑顔、良い言葉を行うのはできる。その時、私達は仏さまになっている。というのである。もしも、その一瞬一瞬を続けれは、私達はどんどん仏さまに近づいていく。仏さまも夢ではない。それどころか、一つ一つ仏さまを重ねていくことが、仏道なのではないかとその時、思った。

 やはり、仏さまは遠い彼方に崇めるものではない。一つ一つ実戦していく事なのである。だから、少しの笑顔を心底持つ人は、その時、仏さまなのである。少しの身銭を切って弱者に施しするとき仏さまなのである。困難にある人に涙を流すとき仏さまなのである。もう少し考えれば、その時、行動と言葉と思いが一致していれば、その時、その人はすっかり仏さまなのではないか。仏さまは遠くて近い人なのである。そして我が身のことなのである。そして、私と貴方の幸福の架け橋を担っている事柄そのものなのであろう。

 お大師さんへの感謝の気持ちから、お大師さんを真似るというのも、一瞬成仏に似ている。行いと言葉と心を真似てみる。行いと言葉と心を同じにしてみる。これならひょっとして出来そうである。始めから仏さまになりなさいなどと構えては出来そうにないが、ちょっと、仏を真似てみる。ちょっと出来るところを同じにしてみる。どうだろう。

 こんなことを書きながら、弘法大師が「先ずはじめに思いあり、そののちに行いあり」と言ったのを思い出す。心が動いてそののちに行動が起こるというのである。軽やかな心。ちょっと満ち足りた心。穏やかな心。そして温かい愛に満ちた心。即慈悲の心。こんな心を大切にしたい。

 あるインド帰りの人にこう尋ねた。「覚りの心、涅槃のこころってどんな心だろう」と。そうすると彼はこう言った。

 「ただ在るって言う感じじゃないだろうか。だけど慈悲の心だけが在るって言う感じじゃないだろうか」って。

 只、慈悲の心だけがあるというような、あり方が果してあるのか分からない。でも、理論から言っても、仏さまの心というのはそんなことになると考える。満足したら慈悲の心が自然と湧いてくると語った高僧もいた。でも、不幸な?人が居るって言うことを知らなければ慈悲も湧いてこないと思ったりするが、満足と慈悲、いい組み合わせである。満足は自由自在の心を作りだし、自由自在の心は、世界を飛び回って他者を手助けしようとする。その手助けは、別に何でもなくて、余力なんだと思う。余力は破壊よりは慈悲を選ぶ。でも、慈悲をせんがために我欲から自由自在になると言うのもある。要は、人助けのために自己を省みずに汗をかくというやり方だが、事実そういう生き方もある。

 そうすると、我欲と自由自在と慈悲というのは相互作用であって、特に満足と慈悲はお互いを補い助け合いながら進む、両輪のようでもある。

 というのは弘法大師はこうも語っている。「無自性なるが故に、善を取り悪を避ける」と。意味は、物事は自由自在だから、善を行い悪を避けるということである。物事に囚われないからこそ、苦を除き楽を与えるというのである。自由自在とは抜苦与楽だとする。その自由自在の根本は自分の満足であることは言うまでもない。そしてその自分の満足や安心の根底に、他者の自分への温かい眼差しや思いやりがあることを忘れてはならないことは言うまでもない。他者の暖かさを受けるが故に、私達は、この世に温かい気分で居られるのである。無味乾燥の冷やかな世界に漂うならば、満足などあり得ず、敵対と不信が基調となるだろう。

 こんな話を思い出す。三才の子供にこういう質問をした。

 「愛ってどんな感じ」と聞いた。すると幼児はこう答えた。

 「あったかな感じ」と。

 自分の心に温かな感じを持っている人は幸せである。他人に対して、温かな感情を持っている人は幸せである。そして、あらゆる人、あらゆる人種のあらゆる人に対して、温かな感じを持っている人は、人を信じる人である。そして幸せである。それは、他人に愛されている証拠であるし、他人を愛せる条件である。その人は、容易に満足を得るだろうし、自由な心を手に入れる。そして、慈悲の心を懐いて、慈悲の行動を起こせるだろう。その時、その輪はどんどん広がっていく。

 その第一歩は、仏さまの真似、もっと厳密には、一瞬一瞬に仏さまになることである。

四無量心01.03
慈悲喜捨

 お彼岸には六ハラミツを行う。その戒についてであるが、真言宗ではサマヤ戒がある。サマヤ戒の真言は良く知られた「おん、さんまや、さとばん」である。サマヤ戒は、

一、向上心、自分(人)は変わっていくと信じる

一、大悲心、思いやりの心を持つ

一、信心、世の中は仏さまや善意が助け合うと信じる

の大きく三つから構成されている。その中の大悲心の訓練に、慈悲喜捨の心を無量に起こすという四無量心がある。

 慈は慈しみの心。親しみの心。他者を信頼する心。友だちの心。その心をまず小さなお盆ほどの大きさに思い描き、その心を次第に大きくしていく。そして宇宙全体に広げるというのである。同様にして、悲、喜、捨(喜怒哀楽遮断)について行うのである。

 悲は、痛みを和らげようと共感すること。ともに寄り添い痛むこと。ともに辛いことを忍ぶこと。辛いこと苦しいことへと心を開けること。

 喜は、ともに喜ぶこと。楽しみを分かち合うこと。

 捨は、詰まらぬ考えを放れること。浮かれた気分、落ち込んだ気分を捨て放つこと。ざわめき、いらいら、そわそわから放れること。それらを投げ放つこと。平安無動のこころ。

 この四つについて、次第に一つずつ、その心を造り、次第に自分の世界全てに広げていくのである。まず心中に作れるかどうかが問題となる。そして次に広げられるかどうか。

 不信感が心にあったり、嫌いな人がこの世にいたり、心配事が大きかったりすれば、巧くいかない。深い安心を持って、その上で、身を捨ててこの心を宇宙に広がらせる。広がらないときは、他ならぬ自分自身にわだかまりがあるということになる。巧くいけば、基本的に自分はフラットな素直な自分の形成の土壌が出来たといえるのだろうか。

 これは観念の上のトレーニングで、実生活へと出る準備のようなものである。柔らかく、親和感があり、何事も受け入れられ、それで居て動揺しない、そして包み隠すことがない全体性を備えた心の準備が出来る筈の前準備である。こうして、実際の慈悲の活動に入り込むと同時に新しい葛藤が又、始まる。

大日経 01.02
菩提心を因、

大悲を根、

方便を究竟

 

 これは私たち真言宗の二大経典の一つ大日経の中の重要な一節です。起因は「菩提心」。エネルギーは「大悲」。究極は「方便」である。

 もっと分かりやすく言うと、どちらへ向かって、何を見つめ、何をしたかが仏道の全てである。涅槃という目的に向かって、私達の悲しみや苦しみを力にして、そして行動に責任を持て、すると「生きてきて良かった」と言える人生を送ることができるということ。そしてその確信である。

 加藤登紀子さんがこう語った。

「悲しみや苦しみに根っこがない生き方は、力が湧いてこない」

と。私は何故かこの言葉に感銘を受けた。感銘というより、自分が思ってきたことに納得したというべきだろうか。大悲。大悲とは大いなる悲しみ。もともとは仏さまが持つ、衆生への哀れみや思いやりを指す。私達にとっては、仏さまのように、子供を持つ母親のような心で、他の人々のことを観るということである。あるいは自分のこととして他人のことを考えてみる瞬間である。

 世界中の人々に対してこんな行をしていたら、人間では体が持たない。しかし、人間も自分の子供や家族やに対しては、そのように振る舞うことがある。そして、災害に苦しむ人々を見て、同じように心を傷めることがある。

 人間も捨てたものではない。自分の事しか考えない時もあれば、他人と自分を混同して、涙を流す事があるのである。

 人間は悲しい生き物である。しかし、その悲しみを共有するとき、こんなに素晴らしい生き物はないのではないか。そして、それのみならず、この痛みのなかにこそ、私達が生きつづける意味があると言うのが先の言葉である。痛みのなかにこそ、生きる源泉が在るというのである。

 私は、この「大悲を根とし」というお経の文句を目にしたとき、確かにそうだが、そんな綺麗事があろうかと訝ったり、また、そんな夢世界にどうしたら成れるだろうと遙かな距離を感じたりした。しかし、一方で、この言葉のなかに仏教のロマンを感じたものである。

 ところが、その言葉と同じ言葉を、仏教を嗜む筈のない人が発しているではないか。

 世の中には不思議なことがある。不思議とは、別の場所で、別の人が、別の時に同じことを思い言葉にし行動するということである。そこに、人間の持つ普遍性と人間性を見いだすのは行きすぎだろうか。

 最近に思うことは、普遍的な言葉・真理と、故意に造られた言葉やキャッチフレーズの違いである。普遍的とは、人間がこの状況だったらこう思うだろうなという、人間の性というか、人間の人間たることというか、人間の生まれ持った運命的性格とでもいうものである。

 人間は悲しい生き物である。そして、その悲しみを分かち合う力を持っている。その分かち合う力こそが、また、生きていく力を形成していく。そしてその力がまた共感する力を勇気づけるという連鎖であろうか。

 

「愛はきれいな言葉ではなく行動すること」

 これは、止揚学園の福井園長さんの言葉である。

 年始早々、素晴らしい言葉に二度出会った。その二つ目がこれである。不思議の連続であり、至福の時である。

 「綺麗な言葉が氾濫する現代に、大事なのは行動する事だ」と重度精神障害者共同生活所の福井園長さんは言う。彼の日々の熱い戦いが目に浮かぶだけに、彼の言葉には抗しがたい現実味がある。実は、止揚学園の方が毎年石手寺に募金活動に来る。そしてもう何年が経っただろうか。何年もして私はやっとその人々の善意というものを信じつつあったわけだが、そして、その生活が大変だろうと想像しつづけたわけだが、その彼方から発せられた言葉は、「綺麗な言葉を言うより、愛のある実行をする事だ」という手厳しい真実の言葉であった。

 先の言葉を思い出して欲しい。冒頭の「菩提心を因、大悲を根、方便を究竟」である。

 その中の「方便究竟」である。究極的には私達が何を行うか。現実をどう変えるのかが問題だと喝破している。ああだこうだと言っても、どうするのか。現実に人々が苦しんでいるのか、救われているのかが問題だと言っている。私達は行動するために、行き先を見定め状況を知り、考えを巡らせるのである。ただし、目標は安穏という幸福であり、人々の悲しみ苦しみを見つづけるという行のなかでの行動である。

 行動せよ。実際に何かをなせよ。と訴えている。

 それは福井さんの「愛は言葉ではなく汗を流すこと」の文句に凝縮されていると思った。

 心の時代だとか、心の豊かさをとか、物ではなく心をとか、共感とか、共生とか、綺麗な言葉が確かに氾濫している。そんな言葉を発する人のほうが行動が伴わない。詰まるところ語り、嘘つきなのである。しかし、そんな言葉さえ発せなくなっている現代人はもっと重病かもしれないが、やはり気がついた人からこそ行動に責任を持つ時代が到来したのである。

 この二つの戒めを金言としていきたい。

慈悲は一人子への思いの如く 01.1

 世界中の人が皆自分の子供であったらどうであろうか。涙が出て止まらないだろうか。それとも、自分の子供が金メダルを取って喜びが天を突くだろうか。

 仏さまとは、ひとりひとりの衆生(有情・痛みを持つもの)が、みんな自分一人の子のような思いで見える人だという。

 さて、母親にとって赤ちゃんが「おぎゃーおぎゃー」と泣き叫ぶのを聞くのは辛いことである。直ぐにもとんでいって、助けたい気持ちで一杯になろう。赤ちゃんがこのように泣き叫ぶ時、母親の反応が大切であるという報告がある。この時、放っておいて、赤ちゃんが泣き疲れ、泣き止み、眠り込んだとする。そして、そういう経験が積み重なったとする。そうすると、この子は、無気力な人間に育つという。恐ろしい報告である。その査証は沢山ある。例えば、例えはよくないが、施設、それも看護者の少ない所で育った赤ちゃんは、その後、精神不安や、無気力という症状を見せるという。

 赤ちゃんが泣くというとき、私達はしっかりと反応しなければならないのである。反応しない、応答しないということは、赤ちゃんにとって「泣くという行動が無意味だ」という社会性を植えつけると言ってよい。私達は他人の人生に対して多くの責任を負っていることがここからも伺い取れる。対人関係における私達の応答の一つ一つが、相手の陣形に大きな影響を与えているのである。

 翻って、私達はだからこそ、自分が今思っていることを絶対だと信じてはいけない。今思っていることも何処かの人間関係で歪んだものかもしれない。より良い私へ、より良い私へと自ら誘導することが大事だと言える。私達は他人へのやさしさ=積極的な応答と、自分の強さ=常に自分を見直し、より良い方向へと向けることの岐路に立っているのだ。

ねはん 00.2

 仏教の最高目的はねはんである。ねはんには二つ有って一つは、取り合えず自分が満足していること。二つ目は、自分が最高に幸せであること。先ずは自分が生きていることに感謝することが第一の涅槃である。これは自分の欲求を下げることができれば即座に可能である。欲の深い人は不可能であるが、少欲知足の人はねはんに長けているといえる。しかし、この世のなか、自分だけ満足しているというのが持続したりはしない。

 何もなくても、憲法九条を変えようという人々がいる。沖縄に巨大な基地を作って設けている人々がいる。軍縮の時代に軍拡をしようとしている人々がいる。世の中とはそうしたものである。生活も便利になるのに、「もっと買え、もっと買え」と金の亡者がテレビやチラシで割り込んでくる。否、貧困国は、先進国に金を吸い上げられている。

 どうすれば、皆が満足など出来るのだろう。やはり、先ず自分が満足することである。

戒名 00.4

 戒名というのはだいたい人が亡くなったらつけるものと思われている。私などがつける仕方は名前から一字、あとは生前の生きざまとか性格とか好みとかを聞いてつける。戒名というが戒律の戒からきているから、戒律を守り仏教を実践しますという決意の命名である。だから死んだのちに故人の意思を確かめずに勝手に仏道に送るというのでは問題もあろう。

 僧侶は、得度という出家の儀式の際に戒名をつける。それは、世間を離れ、仏教の価値観と修行を志す決意の儀式である。そして名前を変えて生まれなおすというのだろうか。確かに死者は死んで生まれ直すのだろうからその意味で改名は正しいだろう。しかし、この際のもう一つの意味は、遺族がつけさせてもらうということであろう。

 僧侶が戒名を考えてつけるが、そのまえに家族や親族の方々によく話し合ってもらう。故人はどんな人生を送ったか、どういう良いところがあったか、何をしてもらったか、何をしてあげたか、どんな性格で何をめざしていたか、などを話し合ってもらう。つまり故人と対話しながら故人の徳を讃えるのである。そしてその人の良いところを文字にして刻むのがお位牌である。

 これは供養させてもらう私達の祈りの文字なのかもしれない。

 話は戻って、もともとは仏道を志すときにつける名だから、僧侶は死んで新しい戒名を貰うわけではなく、得度の時の名前のままである。僧侶でなくても実は、生きているときに仏教は目指さなくては意味がない。心を耕すということ。自利利他つまり一切有情が幸福になるという道を探すこと。多少の損得ではなく大道に立つということ。そういう生き方を選び取るのが戒名に託されたもう一つの意味である。

遍路 00.5

 昔は辺土といった。その意味は、へじ、端っこという意味である。端とは人の行かない場所という意味と、この世の果て、つまりあの世への入口ということになる。

 遍路はこの世の見納めに、精進潔斎してこの世の罪悪を悔い改め、懺悔して回る人と、悲しみを癒す、あるいは亡くなった人をお弔いするために徳を積む人に分けられようか。それに加えて、社会から一時期避難して体を休め人知れず辺土に身を置き、再生を期すために遍路をする。

 何れにしても社会ではない社会。ある世への入口である。

 死と隣り合った生を感じる場所である。

 今の遍路は札所という特定の場所を押さえながら巡っていくことで成り立っている。単なる放浪と違うのは、通過する場所を指定されていることである。四国遍路ならば八十八の霊場を押さえていくことが必要である。本来は、今のお寺の八十八というより四国の関門を幾つか越えていくということであった。そしてそれは弘法大師の再生の道や衛門三郎の甦り道に重なった。この道を辿り足跡を重ねることは、即ち、弘法大師や衛門三郎になることに他ならない。

 故郷と親しい人々を離れ、孤独にあの世の境涯に身を晒すことで、この世の自分を捨てて生まれ変わり、先人の息吹を得て生き返るというのが遍路である。

六塵 00.6

 六つの塵。塵とは私達を迷わすものの意味である。

 欲深い人が居た。通りへ出ると可愛い子犬を見つけて連れて帰った。また、翌日通りで見かけた可愛い子犬を連れて帰った。また翌日も連れて帰る。こうして五匹の子犬を連れて帰った。一匹の名前は「家族」もう一匹は「グルメ」もう一匹は「ポルノ」そして「名誉と財産」と「虚栄」である。

 子犬たち最初程よい大きさだったから、楽しい毎日であったが、だんだんと大きくなって、散歩に行くとそれぞれ好きな方向へと引っ張ろうとする。きょうはよりグルメへと引きずられ、今日は浮気へと引きずられ、今日は私はもっと偉いぞと引きずられてしまうようになった。

 ある日、気がつくと彼は家から追い出され、家には苦しみというドッグフードが運び込まれていた。

 六塵の六は「眼、耳、鼻、舌、身、意」である。だいたいは感覚と訳す。私達の中心には欲望が渦巻いているとして、その窓口が上の六である。窓口なのだが、窓口が独立して、こっちへ来いこっちへ来いと誘う。一度食べたら忘れられない味、そしてその記憶の美味。最初は自分が左右しているはずなのに何時の間にか逆に支配され、迷わされてしまう。それが六の塵である。

 では、六の塵はなぜ悪いのか。一は、度が過ぎると身の破滅を招くからである。二は、もっと大事なものを見失うからである。自分も大事だが、家族も大事である。家族に力を入れすぎると国が傾く。国に力を入れすぎると隣国が傾く。要は全ての人が等しく大事である。しかし、私達が出来ることは自分や家族からである。しかし、何が大事かを常に心しておかねばならない。

 時として六塵の眼鏡を振り捨てる覚悟が大事である。

布施 00.7

 ダーナという。英語でgiveだが、beneficenceに該当するらしい。日本国憲法を作成に参画した女性が「相手の為になることを与えることだ」と語っていた。彼女は、男女平等の世界を日本に贈ったと言いたかったのだ。相手の利益になって、相手が喜ぶことを与える行為をベネフィスンスというのだ。

 仏教の布施もこれに当たる。相手の利益になることを行動する。思っただけでは駄目で行動が大事なのである。この行動をする動機として慈悲がある。慈悲は、優しい温かい思いやりの心と行動を含む言葉である。生きとし生けるものを大事に思って行動するのが慈悲である。そしてその心をもって相手の為になることを行うのが布施である。

 奉仕とは意味合いが異なる。何かに仕えるのではなく、「相手の喜ぶ顔を浮かべながら行う」事だろうか。何よりも、自分が経験して楽しかったことを他人にも得てほしいということだろう。喜びの共有なのだ。

精進(六波羅蜜の進) 00.10

 お彼岸には精進をする事になっている。古いお経にこう書かれる。

「つまらない百年を生きるとも、充実した一日に勝ることはない。なぜなら遊び呆けた生き方は既に死んでいるが如くであり、目覚めた一日はたった一日といえども充実した生を得る」と。

 尊い目標に向かって努力するとき、命は永遠の輝きを持つ。反対に、永遠の長さを生きようとも、三毒に塗れ浮かれた快楽の時を過ごすならば無いほうが良いというのである。そうすると現代人のエクスタシーの日々は、長い長いゼロの時間の連続ということになろうか。

 あの世=彼岸へと向かう努力。自分の死の時点からこちら側を見たとき、果して私の人生は何だったと言えよう。本当にやりたいことをやっているのか。やるべきことをやっているのか。寿命が尽きたとき、累々たる快楽の屍に虚しく息吹を吹き込もうとする落胆が見えるようである。ならば、何処へと眼差しを向け変えれば良いというのか。

五停心観の慈悲観 00.11

 「ごじょうしんかん」と読む。五つの悪い心を停止させるための方法である。仏教の入門である。

 不浄観=好きな面には嫌いな面、嫌いな面には好きな面というふうに世情とは逆の面を思って「むさぼり」の心を静める。

 慈悲観=慈悲の心を起こして怒り恨み、無関心を静める。

 因縁観=縁起観・事の真実見て「おろかさ」を静める。

 界分別観=界差別観・自分も他者も同じ要素の集まりと見て、「私こそが」という自慢を捨てる。

 数息観=息を数えながら心を整える。

 時には「念仏観=仏を思い煩悩を静める」を加えて界分別観を除いて五とする。

 慈悲観は第二の門である。一番はむさぼりの心をなくすこと。これは何かへ向かって走る心を収めることであろうか。私たちを生かせる衝動のなかで「恨み」というのがある。昨今はやりの「いじめ」などは、その原動力をたどると「恨み」があるのではなかろうか。私たちは知らず知らずのうちに人を傷つけるのであるが、人知れず受けた傷は大きい。況んやあからさまに受けた戦争や暴力の傷は個人を越えて、ムラ的にあるいは国家的に増幅されることもある。恨みは恨みをもってして遂に静まることはないとは定説でありながら、従うことは困難である。

 人を恨まず温かい気持ちを持ったほうが自分も楽なのは分かっている。そのためには、もう少し、人々みんなが慈悲観を大切にすることも必要だろう。一人傷つけられたものは、慈悲観を持つどころか、「いまにみていろ」という潜在意識に人生を奪われていくのではないか。その痛みを私たちは凶悪犯罪という形で受けるのであるが、その憎悪の反復は無情にも続いていく。やはり社会的にもっと「悲しみを観る力」「弱者を観る力」「浮かれ心を静め無関心を除く心」を持つ必要があるだろう。

 犯罪の暴走は、虐げられた者の恨みの持って行き場のない無意識表現の氷山の一角であり、それは裏を返せば、私たち平常人と思い込んだ正義の側の者たちの「知らず知らずのいじめ」の結果だと言えなくもない。どちらにしても、今の世間には、笑いの視点はあっても、悲しみを見つづける優しい視点は失われている。

 それは自分の立場を知りなおすということかも知れない。犯罪者を裁いたり、他者を哀れむ時にこそ、自分の立脚点と思い込みと、傲慢と卑下の心があからさまに表現されるのである。その反省に立つとき「慈悲観」というものが脚光を浴びる。

同行二人 00.12

 先日お四国へ行きましたが、その時は二十五人の同行でした。そこで、「お遍路さんは、いつもお大師さんと一緒です。つまり同行二人です。そしたらこのバスには何人乗っているでしょう」と問いましたら、大きな声で「五十人」と皆さん答えました。一応正解です。なのですが、お大師さんは歴史上唯一ひとりなのですから、二十六人という答えもあれば、みんなのお大師さんと唯一のお大師さんとで五十一人という答えもあります。

 そこでまたまた質問してしまうわけですが、「この中には、亡くなった連れあいのご供養に来られている方もあります。その方は何人でお参りを?」と問うと「3人です」と答えが返ってくる。その人の家族がいて、きょうは来れない親戚がいてということになると、このバスには乗りきれない人々とお大師さんが一緒に巡礼していることになる。

 そして、やはり妙は、他ならぬお大師さんと一緒なのです。お大師さんとは、私達が悲しみや苦しみに在るとき、そっと寄り添って歩いてくれる人、あるいはしっかりと先導して歩いてくれる人なのです。何も言わなくてもいい、一緒にいてくれるのが有り難いのです。ひょっとして、「隣人を愛しなさいよ」などと言ってくれるともっとお大師さんかなあと想像しながら。

菩薩道 99.1

 菩薩という位がある。菩薩は仏(如来)に成らずに菩薩の位に留まり世間の救済を行うのである。私なりにいうと、自分は少欲知足して他人の事も気に掛けるということ。助け合いをするということである。こう書くと、どう感じるだろうか。「自分一人幸せに浸ることなく、他者の救済をする」。なんと横着な奴だと思うだろう。実はこの意味は深いのだと言ったところで、要は人助けである。

 人助けなどというと、何を思い上がってというのが落ちである。しかし、人助けの奥は深い。一つには、人助けなど簡単に出来るはずがない。第二に、人助けだと分かると助けられる側は拒否する。第三に人助けをすれば自分が冗長する。それでも人助けをすると自分の荷が軽くなる。ここが味噌である。

 生きるのは苦しいが、人助けをしていると多少楽である。そして事実として貧乏だったり弱者だったり、実際に人助けをしている人は社会的弱者の事が多く、その人々の心は清く美しく見えるから事実は頭では計れない。

 日本の坊さんは人助けを忘れている。人助けの落とし穴が沢山有っても、人助けは必要なのである。憲法にも人助けは書かれている。実は、人助けと思っていることは人助けではなくて自然な行いなのだから書かれている。あるいは、人助けは助かっていない人がいますよというサインに他ならない。

 だから人助けしない人は、自分も助かっていないし、助かっていない人を見つけられない人である。

お彼岸 99.4

 彼岸とは彼方の岸である。向こう岸といっても遠いところの岸である。お彼岸にはこの世とあの世が結ばれるという。この世に居ながらあの世へと行けるのである。そして亡くなった人々に会うことが出来る。

 もともとお彼岸とは「悟り」を開くための期間であった。修行をする。心を養うのである。実は悟とは何かを得ることよりも心が静まり心地よく澄んで、物事が真実の輝きを持ちはじめることである。心の持ち方である。そして心の成長である。これは、非常に近くて遠いものである。

 心は誰にでもあり、平安に保って「私は幸せだ」と思い込めばそのまま「涅槃」である。涅槃(ネハン)は至福を指す。ところが瞬間的には「私は幸せだ」と言い切っても次の瞬間にはその至福が崩れる。腹が減る、他人の屋敷が気になる、性欲が走る、広告が気になる・・・。心を常に幸福に保つのは難しい。物を手に入れるより困難なことといえる。

 古来、仏教の三大害毒は「貪欲」「怒り」「愚かさ」(貪瞋癡ドンジンチ)という。飽くなき欲望と得られないときの感情の暴風雨と無知である。この三毒を制御すれば私たちは安楽を得られる。そこに至る道に坐禅がある。

 坐禅には、軽安(きょうあん)と捨(しゃ)と三昧(さんまい)がある。

 軽安は心を軽くすること。肩の荷を下ろすことである。日々疲れた重荷を下ろし自分を褒め、リラックスすることである。自分で自分を「このままでいいんだよ」と安らげることである。

 捨は捨てること。離れること。欲望が走る欲しいものから離れること。また、調子良く浮かれる気持ちと落ち込む気持ちから離れて不動の心を保つことである。対象を離れ、比較する事を病め、心を平静に保つことである。

 そして、三昧は精神統一すること。そして自分の心を楽しむこと。呼吸を数え、心を落ちつけていくと深海の不動の水のように静かでどっしりとして濃密な心が現れる。その心に憩うことである。それは自分自身の深い心の世界であり、無意識の世界であり、過去の記憶の世界であり、仏の世界である。

 この時、色々な苦しみが蘇って来るかもしれないし、楽しい出来事の感情が蘇って来るかもしれない。確かに心は様々な要素から成り立っている。その中で、良い心、楽しい記憶、温かな感情、それらのものを中心に精神統一をしていく。

 そうすると、その澄んだ心を通してあの世と交信ができる。心の底はみんな繋がっている。温かな心と心は自然と交流する。それがお彼岸の出来事であろう。

お袈裟 00.5

 お袈裟は「無一物」の象徴である。無一物とは何も持たない、所有しないということである。財産、名誉、これを名利という。この名利を持たないのが無一物である。時には家族も持たないという場合もある。しかし、これを聞いて「それでは生きていけないだろう」と言われるだろう。無一物といっても「それは心の問題で、財産を持っていてもいいんだね」と言われそうである。

 事実、無一物で生活した人は少ない。貯金、家屋、高級車、地位、役職・・・。少なくとも衣食住が成り立たなければ生きていけない。しかし、である。無一物を訓練した者は、持つものが少なく、地位にこだわらなくても心が満足して生きていけるはずである。だから所有は少なくなければ奇怪しい。

 使う者がその使っている物を所有しているという考え方がある。また、色々な景色や絵画や建物など「全部自分のものなんだが、他人に貸している、そして保管してもらっていると考えればいい」と聞いたことがある。貸しているんだから、何時でも自分が見たいときに見せてもらえばいいというのである。

 所有とは面白い概念ある。もともとは「自我」の考えから始まるだろうか。或いは領域=テリトリーの考え方から捉えると面白いだろうか。

 自我とは自分の心、身体を起点として、「自分の物」というものが何処まで広がっているかという見方である。だれでも自分の身体は自分の物だと思っている。ただしお釈迦さんは飢えた虎に逢えば自分を食として与えた。それは魂は生まれ変わるという考え方も底にあるが、万物の命は繋がっているという意識も強い。だからそんな恐ろしいことが出来たというのである。これはお話として聞いておいてほしい。

 心は自分の物、身体は自分の物、この家は自分の物、財産、家族、地位、名誉・・・自分の物? これが自我の領域というものである。動物ではこれをテリトリーという。自分が当然思いどおりにして良い範囲のことをいう。狩りの区域ともいう。動物は他の動物とテリトリーがぶつかれば戦い勝ったものが居残る。共有することはできない。しかし、人間は戦うか共有するかを選べる事によって生き延びたともいえる。自由自在に所有物をやり取りすることで安穏に生きることを学んだ。

 逆に考えれば、私たちは自我の領域やテリトリーにしがみつかなければ生きていけないと思ってきたが、この思い込みを外すことによって自由に生きられるのである。これは危ない思想でもある。実際に無一物では生きていけないだろう。お釈迦さんのように、当たり前に布施を貰える人ならばそれも可能だろう。しかし、布施を貰えないものは名利にしがみつくしかない。

 手に職を持ち、或いは社会福祉が充実していて、努力さえすれば何時でも生きていけるという安心があれば、所有にこだわることはない。しかし社会が不安定で、ぎすぎすしてくれば益々人々は所有にこだわるのである。

 始めに戻ろう。お袈裟は無一物の象徴である。これは私のものだ、これは誰それのものだという思い込みを捨てたほうが心が軽やかになり生きていきやすいということなのだ。

三賢・十住心(見道)・瑜伽行(修道) 99.6

 修行に三段階がある。世間の修行が三賢。出世間に二種類。見道と修道である。見道とは頭で理解すること。修道とは見も心も分かり、行動と思いが伴うことである。自然とそう思い行うことである。

 三賢は、一、自分で生きること。二、自分を慎むこと。三、他人にも与えること。この三つである。

 人間は赤ちゃんに生まれて、何はともあれ口に物を入れる。口に物を取り込まなければ死ぬのである。人は貪欲である。しかしそれは死なないためでもある。自分で自分を生かせること。これが第一の賢さといわれる。人は働かねば生きていけないというだけの事である。しかしこれを知ると知らざるとは大きな差となる。出来なければ既に死んでいる。

 食べすぎれば腹を壊す。欲過ぎれば人に嫌われて身を滅ぼす。自分に厳しく他人に寛容でなければ生きていき難い。自分の行動をコントロールすること。お預けができることである。

 他人に与えること。他人が喜ぶのを自分も喜ぶ。先ず、自分の子供に与える。自分の両親に与える。親戚、友人に与える。有徳のものに与える。というように段階がある。自分が得するために嫌々与えるのはこれに含まれない。損得に関係なく喜んで与える。与えて嬉しいというのが第三の賢である。

次回より十住心(見道)・瑜伽行(修道)

不殺生 99.7

 「汝、人を殺してはならない。他者をして殺さしめてはならない」

 蟻を殺したりムカデを殺したりするのが殺生だと思っている人がいるが、今の人間はそんな高尚な段階にはない。同類を殺す程度の生き物が自分たち人間だと知るべきである。殺人はいけない。当然であるがこれが守れない。交通事故から民族紛争まで未だに人は人をあやめている。謹慎熟考すべきである。

 それはそうとして、不殺生とは「殺さない」というだけではない。「損なわない」というのが真意である。

 損なわない。他人に痛みを与えないという意味であろうか。「愛の笞」というのが何処まで通用するかはともかくとして、「他人に痛みを与えない」ということ。他人に迷惑をかけないというのよりは厳しい考えである。

 地球上に共に生きていて、他者に苦痛を与えないというのは、よくよく考えてみると、なかなか大変な事である。且つ、他人をして損なわしてはならないというのである。

 深く考えてみたい。

本来無東西 99.10

 これはお遍路さんの傘に書かれる言葉の冒頭である。本来無東西。東も西もない上も下もない。身分に上下なく地位や貧富に差はないということである。昨今、カーナビというのが出来て、本当に無東西になった。東も西も知らなくても目的地に着けるのである。

 元々の東西は太陽の方向、実りの方向であり、帰る方向、出掛ける方向、迷わないための道しるべとしての北斗七星であり星の動きや太陽の傾きであった。だから無東西では困る。所が文明人は東西は知っていても「行く先」を知らない。行く先とは行くべき所である。丁度頃は彼岸。貴方の悲願は何。行くべき悟り(涅槃=安心)の里は何処。つまり何の為に生きるかを知らないのである。何の為に生きるかを知れば東が西であろうと南が北であろうと無東西である。命に上下左右は無いのである。命は無条件に尊いのである。

 更に柘植がさには続く。本来無東西、何処有南北、迷故三界城、悟故十方空。「迷うが故に三界(=欲望と形と見えないもの)の城にこだわるが、悟れば何処も同じだ」と言うのだが、私の訳は「拙い欲得で物を見る限り、命より物が尊く見えたり、美醜にこだわったり、ないものねだりをする。これが迷いである。そして、生きるという尊さや命の大事さを知るというのが悟りなのである。それは身分の上下や貧富や能力の高下によって人を蔑んだり遜ったりして命を損なう世界ではなく、心が融通無碍に行き交う自由な世界である。更に言うならばこの世界は現実的にも無差別でなければ幻である。現実の差別の上に空想の無差別自由を夢想するのは丁度、お遍路に出ている間、路上の自由を得ているに等しい」。

秋の「お彼岸」 99.10

 いったいこの世の人々は何の為に生きているのか。結婚式の為、葬式の為、子供の出世の為? その日が良ければ良いという人が増えた。そんな人に限って「老後が心配だ」という。今日さえ良ければと遊び回る人に限って、明日もよかれと駄々をこねるのである。人間とは欲の深いものである。

 今日が良ければ明日は死んでもいいではないか。それがお彼岸であるというと信者さんが減るであろうか。

 仏教の理想を私なりに表現すると、「もうこれで死んでもいいという幸せの境地を得る」ことである。「生きてきて良かった」と心から思い、死んでもいいと諦めることである。

 人間は飽くなき欲望の塊である。満足すると又、もぞもぞと欲望を始める。しかし、それを止めようというのが仏教である。もっと楽しくもっと強烈に刺激的にと求めるのは仏教ではない。お彼岸は今日の日を「良き日」と定めることである。心を安定させ、心静かに、心の波を静めて、満足の海に漂う時である。この世の日々の憂悲苦悩を離れて、静かな心を楽しむ時である。

 この穏やかさは、日々の生活が苦しければ苦しいほど安穏であるかもしれない。生きることが苦しければ苦しいほど安穏は心地好いかもしれない。

 お彼岸は自分の心に楽しむときである。それは彼岸明けの一歩を踏みしめるための充電期間かもしれない。いや、仏教徒は彼岸に命を捨てるのである。最高の生を彼岸に得て、他の日々を捨てるのである。そして人生を握りなおすのである。

 五鈷を放擲して再び握るという。自分の人生を放り投げて再びこの手に確固として握るのである。その人生は投げる前の人生とは違う。煩悩や欲望に纏われた不自由な人生ではない。自分の心が果てし無く広がるまったき自由である。             

厄除け 99.12

 厄除けと俗に呼ばれる儀式。真言宗では加持祈祷という。何やら迷信染みた聞こえがするが迷信ではない。大金を払ってただひたすら神仏に頼むだけでは迷信であることに違いないが、自分の心に変化が在れば真実である。加持の「加」はピッチャー、「持」はキャッチャーとすると、Pは神仏であり、Cは私達である。PとCの力が互いに作用し合って福や厄が成立する。

 良い境内で良い神仏を前に祈る。そうすると心が安らぎ清浄になって柔軟になる。この時、私達が心を開けば、厄は福へと変わっていく。逆境を反転して成長の糧にできるのである。小さなストレスは却って私達を成長させるという謂である。キーポイントは「心の扉を開く」である。ものの見え方は私達の心次第で決まると言い切ったほうがよい。悪条件や耐えられない困難はある。しかし、所詮は私達自身の分別である。心がものに意味を与えるのである。私達自身の捉え方を変えれば、玉石、苦楽は反転する可能性に富んでいるのである。私は私の心の王さまである。他人と比べて嫉妬したり、また運が悪いと思う癖は、小厄を大厄にしていく。逆に、人生に困難はつきものと諦観し、自分にしかない一度きりの人生を自分風に生きようと決心する事である。宝を宝とするのは自分の心であり、瓦礫を瓦礫とするのは自分の心である。

 結局は、何を大切に生きているかということ。それは何を見つづけて生きているかということである。受け身の生き方を改め、自分が物事に意味を与える生き方へと変身すること、それが厄除けの儀式の中身である。

生と死 99.13

生の確認と死への覚悟

 「死への準備教育(デーケン氏)」というのを読んだ。死の準備ではなく死への準備であると強調している。それは何かの『喪失体験』が起こる前にこれに備えるための予防学習であるという。喪失体験とは、配偶者と死に別れることや家族を失うことなどである。

一、自殺者の遺族の深い悲しみ

 今日、不況リストラの影響で人口十万人当たり、男性三十七人女性十五人が自殺しているという。男性は二倍半の自殺である。「自殺する人の心理を分析すると、ほとんどの人が一方的に自分の悩みや苦しみばかりを考えている」という。しかし、例えば夫が自殺をした場合、残された妻は生涯自分を責めることが多い。「もう少し夫の気持ちを理解すればよかった」「もっと愛情を示せばよかった」と。前回の自殺者供養の会の時も同様の話が印象的だった。「どうして父が死んだのか分からない、責めて遺書でも書いておいてくれれば・・・しかし、何もないからあれこれと考えるのだけれど無念でしょうがない」という。

 デーケン氏は、この残された遺族の悲劇的事実を私達が知るならば、もっと自殺の予防になるという。

二、中年以降の六つの課題

 1)「少しずつ手放すこと」

 財産、名声、地位を手放すこと。ここで厄介な人は元医者、元社長、元大学の先生だそうだ。

 2)「許すこと和解する心を身につけること」

 3)「感謝の気持ちを伝えること」

 4)意識がはっきりしているうちに「さよならを告げること」

 5)「遺言を書くこと」

 6)「自分なりの葬儀方法を考えて周囲に伝えておくこと」

 これらの事をしないがために、死にがたく、また死を送った遺族が深く苦しみ、悲しみをひきずるのだということは、幾つかの葬儀から確かである。「あの時許しておけば」また「一言感謝の言葉を言ってもらえれば」あるいは「有り難うと一言いえなかったのが心残りだ」という事は多い。その気持ちを引きずる人は過剰に供養するしかなくなるのである。ことによると、その悲しみから生きる意欲を失い、後追いする。

 しかし、「手放すこと」「許すこと」「感謝すること」などは、中年以降の死を迎えるに当たっての心構えというよりは、人間がこの世に生まれてから生きていく上での課題と考えられる。言い換えれは、名利を手放していくこと、世界への敵対ではなく和解と信頼、そして世界への貪欲ではなく感謝は仏教の教えそのものである。

 死を迎えるに当たっての徳目が「捨てる、慈悲(和解)、喜ぶ(感謝)」であることは、人間が極限に至ってやっと人生を見つめることが可能になるということを示すとともに、何故、若年においてこれらのことが切実にはならないのかという問題を改めて考えさせられる。

 そして仏教は単に慈悲喜捨(捨てる、慈悲(和解)、喜ぶ(感謝))ではない。これは入門である。この「手放す」等によって自分の生きる価値を作り上げる作業である。名利の為に生きるのではなく、他者といがみ合って生きるのでもなく、共感と共生に人生の目標をおいて生きるという生き方を発見する為である。

 しかし、「これぞ生死を越えた我が生き方」と思いつづけた生き方さえも「死」を前にして「少しずつ手放すもの」でないという保険はどこにもない。そうすると永遠の葛藤の中に求めつづける安心というものかもしれない。しかしここで確信して至るのは、生への深い愛着がなければ、「手放す」も「感謝」も薄っぺらなものとなり、それは周囲の多くの人々を傷つける事になるだろうということである。生への執着が人の心を動かせ、その感動が深い悲しみを断ち切らせて永遠の生へ向かわしむと言うと虚飾的すぎるだろうか。

仁王経 98.1

 仁王経というお経がある。鎮護国家を祈ったという。戦時中であれば戦勝を祈った。今は平和を祈る。それでいいのだろうか。日本という枠を越えて、世界という境界のない宇宙の平和を祈る心掛けが必要である。そして仁王ではなく仁民衆であろう。慈しみ深い権力者が人々に慈悲を垂れるという時代ではない。人々が自分で自分の世界の事を考え、自分たちの世界を造っていく時代なのである。温暖化で地球は生命の危機に面している。危機を迎えるまでもなく餓死していく人々もいる。この自体に慈悲深い民衆たちは何を考え何を実行するのか。

同事 98.2

 言葉が今日ほどおろそかにされる時代もない。コピーライターというのが流行ってからだろうか。言葉の地位は地に落ちた。今や言葉は単なるファッションである。だから「助けてくれ」と叫んでも、助けは来ない。助けを呼ぶなら「お金が落ちてるぞー」と言わねばならない。

 「お金が落ちてる・・・そのお金は弱者救済」

 こんな人をけなしたような表現をすれば、愚かな人の目に止まる。それを悪いとしない世である。そんな末法の世は再来した。それは満ちあふれる物資のなかで被災者(阪神震災の被災者、水俣病の被害者、薬害エイズの被害者、交通事故被害者などなど。被害者と被災者の区別は困難だ。しかし、これだけの国家予算を持つ国が弱者救済をしないならばそれは全て害(人が人を損なう)である)が放置されるという事実にある。

 放置の事実、それは実際の事である。「事」。これは、どんなコピー・言葉を弄しても動かない事実である。その「事実」「事」を人々は見なくなった。事をファッションにし、言葉を遊び道具にし、心を捨てた。それは、事実を事実として有らしめないことから始まっている。日本語はそもそもそうではある。というのは、日本語は流れる川の泡沫のような構造を持っている。日本語は全て指示言葉・指し示す言葉であって、言霊にはなりにくい。それは優れた点であると同時に弱点を持っている。

 あの人は悪人だと言うとき。あの人がずっと悪人であるかどうかは分からない。問題はあの人が注目されていて、あの人のあり方というものが社会に対して「悪」という仕方であるという事を示しているのである。言葉はすべて限界を持ちながら色々なことを示そうとする。語り手の感情。そして事実。その事実は「あれ」とか「それ」とかと示すほかはない。しかし厳然として行われている事実があり、それは様様の修飾で示される。

 言葉は現実の中からある事柄を取り出し、そしてその事柄へと自分を関与させることを示している。言葉こそは人間にとっての「真実への窓口」である。その言葉が愚弄されるとき、人間は自分自身を失う。

 同事。これは仏教の用語で「事を同じくする」つまり「他人の事実を自分で理解する」ということである。他者は他者であり自分は自分であり、ついに重なることなどない。しかし心はそのような行動を行う。心は他者を感知することで行動へと導く。その感知の仕方を同事にするのである。

「他者の立場でものを見る」「他者の気持ちになる」「思いやる」「共感する」などと示される事である。自分の立場で他者を見るのではなく、出来事をそのままに受け入れることである。例えば優しい人を見てうらやましく思ったならば、羨んだ自分という事実、優しい行為という事実、優しい人の心の動きというそれぞれの事実を見ることである。 それを同事という。

涅槃会 98.3

 涅槃といってもぴんとくる人は少ない。涅槃とは仏教の最高の目的である。金メダルである。参加することに意義があるである。涅槃には二通りあって、先ず「もう死んでも悔いなし、最高の生を得た」と解脱する涅槃と、この世の命を終えて心身共に涅槃するハツ涅槃である。涅槃会は涅槃解脱を得たお釈迦さんのハツ涅槃である。つまりご命日である。お釈迦さんは生前に既に涅槃を得たわけだから、それ以上に涅槃を得る必要もない。理論的にはそうである。そのあたりは曖昧にしておく。

 涅槃会には「遺教経」というお経を読むが、僕は最初これを呼んだとき、涙が出て仕方がなかった。僧侶の世界であるから皆さんに同情を得られるかどうか。特に、お釈迦さんの無くなる下りでは嗚咽を引きずるような感動に襲われた。その感動はこの日、七年ぐらい続いたが今は無い。慣れるというのは恐ろしい事である。何故、感動したのか。それは真の法を説く者がいなくなるという寂しさ、そして偉大な人が居たという事への有り難さである。

 何か最高に尊いものがあるという信仰。そしてそのものを伝える人がいなくなるという悲しみ。未だに僕の心のなかのこの構造は変わらない。ただ、読経の度に感じる感動が薄まっていくということは、尊い者への信仰が弱まってきているに違いない。初心忘れるべからず。否、所信忘れるべからずである。これは大事なことだと自分で見つけたこの世の宝を忘れてはいけない。

遍路考 98.4

休息の円環と古代福祉の場

 遍路を回る人は何種類かの人々である。昔の話を久万町のおじいさんがした。「昔は善根宿というて、遍路(の人)を自分の家にただで泊める習慣があった。私はそれが厭で厭でならんかった。というのは、昔は、遍路はらい病や肺病の人が多かった。手のない人や治らん病気に侵された人を泊めたりお接待したりするのは理解出来なんだ」と。

 それらの病気の人々は、村を追い出されたり、生計に困って四国へと流れてきた人々であった。この石手寺でも、私が小さい頃には手足をなくした人々・それは元軍人さんだったろうか・が門前に乞うていたものである。乞食とは福祉がない時代の福祉でもあった。

 そのような、世間で生きていきにくい人々が最後の頼れる場所として四国を目指したことは事実である。遍路はどの様な人であろうと大事にされた。四国遍路の底流には、いきばを失った人々の流れがある。そのような人々にとって八十八箇所は始めもなく終わりもない。どこまでも続く円の環である。

 四国の人々はそんな遍路人を大切にした。何故か。一説にはよその国からやって来る人は「大師」であったという。地元にはない様々な文化や技術をもたらす。彼らは奇人つまり見かけぬ畏れ多いものを運ぶ神であった。そして、遍路人は弘法大師の弟子であり衛門三郎の生まれかわりであった。時には、弘法大師その人であった。というのは、弘法大師や衛門三郎こそが、遍路の創始者であったからである。遍路を回る人々は弘法大師であり衛門三郎であった。彼らに接待をしもてなすことは、この上ない徳を積むこととなる。また自分の代わりに遍路をしてもらうことになる。

 遍路人はおそらくは病に疲れ痩せ衰えた人々であったろう。人々は彼らを迎え、人生の苦しみや悲哀を感じると同時に、永遠の生き方を感じた。最悪と最善を同時に感じる世界がそこにあった。

 遍路は供養の道と言われ、罪障消滅の道と言われる。

 供養の道とは亡くなった人の供養である。悲しみを癒しながら故人を偲び行方を案じ冥福を祈る旅路である。罪障消滅とはこの世からあの世へと向かう心掛けに生じる懺悔と悔い改めの清浄行路である。

 また再生の道でもある。

 弘法大師もしかり。衛門三郎もしかり。遍路に死んで遍路に生き返る。遍路道は円環であるとともに、いつかはそこから抜け出し、元の生活へと戻る再生の場所である。人生に行き詰まり、疲れ、絶望したり、あるいは悲嘆に身の置き所を失って、ひととき逃げ込む休息の場でもある。そして遍路のなかで、自然に揉まれ自然に癒され、人々に出会い人々に感じて自分を回復する起死回生の旅路でもある。

 遍路の観念は自分の日常生活と何処かで繋がっている。遍路の円環は、自分の悲しみの最後の砦として自分の底を支えるものである。どうしようもなくなったら遍路に行く。そして遍路から帰還する。その観念は、人々が共通して持っているという点で、遍路は私達の悲しみの故郷と呼ぶことができる。

抜苦与楽 98.5

 仏教は種々雑多な知識の大袋である。その肝要は「苦を除き至福を得ること」である。それは、多くの宗教に共通である。仏教の特徴は、先ず敵をつくらないことである。悪魔をやっつけて幸福が成就するという考え方はない。悪人も、仏心を持ち、悪の塵を払えば善人になるという考え方である。一切衆生は悉く仏性(仏の可能性)を持つという。だから根っからの悪人はいないと考える。人は修行をすれば誰でも善人になると考えるのである。だから死刑制度はいらない。悪人に必要なのは、周囲の愛と、良い環境、そして本人のやる気なのである。

 次の特徴は、自分の心が善悪を生み出すという考え方である。言い換えれば、全ての責任を自分が負うということである。被害を受けても自分が責任を負うというのではない。加害者は当然咎められることが必要であるが、それは被害者は被害者に対して責任を負い、加害者は加害者に対して責任を負うという仕方で成立する。一見矛盾しているような事だが、自分の思い、価値観、世界観は自分の心が創りだしたものであるという自覚を基本とするのである。そういう有情が多々集まって衆生を成立させている。そして社会を成立させている。社会が成立する以上、罪や罰は社会的なものとして成立する。というより社会的であるとういことがその罪と罰を含んでいる。だからお釈迦さんは一見社会から隠遁し離れようとした。それは、自分の存在の全てを自分が負うた結果である。他者との交わりは、交わる瞬間から自己と他者の境界を曖昧にする。自分で自分の責任が取れなくなるのである。私が苦しいのは「あいつのせい」という事になる。責任はすべて引き受けながら、他者に対してもても同様のことを要求する。その限界が大変難しい。すべては自分の心が生み出すとい基底の上で、他者と交わるという成り立たないことを成り立たせようとするのである。

 何事も宝とするのか塵とするのか、それを決定するのは自分の心である。この考え方は仏教の基本である。基本でありながら、社会的に生きるということがその領域を無意識のうちに、生誕の前から侵しているのである。

布施 98.6

 布施と聞くとお経をあげてもらう代償を思い浮かべるだろうか。布施の意味は、「与える」だから、何かをあげれば布施である。但し、見返りを求めてはならないという。では何に布施するのか。高僧・貧困者・困窮者? そもそも布施は自分がお世話になった人に上げることからはじめて、最高の布施は徳の高い人にあげることになっている。

 人格的に優れた人に対して財を差し上げるのが良いというのである。すると、徳のない僧侶には布施しなくて良いということである。徳のある僧に対してすれば布施か?、しかし相手が徳ある人であったとしても、もしも布施する事によって来世が約束されるとかの見返りが用意されているならば、それは布施にはならない。

 思うのに、私達は困った人を見るとき容易に「何かしてあげよう」と思う。そんなとき、私達は見返りを期待してはいない。たしかに高徳の者を見て親切にしたいという思いはある。大事なことである。だが、貧窮者に対して無償の布施を行おうというのが自然である。そしてその自然さがボランティアとして今日認められている。してみれば徳の内に弱者救済が含まれるからでもある。だから問題は徳とは何かである。そしてその徳は自ら身につけるべきであって、僧侶を迂回する必要はない。

 ならば、私達が布施に求められるのは、人間としての気高い生き方ということになる。徳のある生き方に対しての注意深さが必要なのである。そして財施に期待される第一はどうしても貧困や困窮の解消であろう。この点では、今の仏教は反対の方角へとひた走っている。なぜなら今日の布施は、徳とは関係ないところで動いている。却って徳の低い方向へと向かっている。

同事 98.7

 今、子供の虐待が明らかにされている。母親が子供を虐待する。信じられない事態である。片や溺愛する親も多い。どちらも困ったものである。人間は自分がかれたように他人にするという。ならば、虐待された者は他人を虐待するであろう。今や、国中子供の荒廃で話はもちきりである。子供がだめになっていく。

 私達は、この時、子供の苦しみを感じているだろう。子供がいじめる、いじめに合う。こんな事態を前にして、私達は自分の心を本当に痛めているだろうか。どうも他人の痛みに対して不感症になっているのは自分自身ではないのかという問いに突き当たる。

 私達は子供を含めて他人の為に何かをしているだろうか。四六時中自分の為だけに生きていないだろうか。他人を見ず、金儲けと出世だけに奔走する現代である。貴方も私もその類にもれず、他人に対して不感症なのではないか。自分の中にある虚栄心と、他者の眼差しに感じる羨望と劣等感、そして自分の快楽のみを頼りにして生きているのではないか。他者の心を痛む事が求められている。

 そして子供を虐待する親には、その親に対するいじめが何処からかなされているのに違いない。親が子を虐待するとすれば、その親を誰かが虐待しているはずだ。それは男女差別や、父親の不在や、上司の理不尽や、国家の不正なのだろうか。そしてこの悪の循環を立つには真の正義と痛む心が必要なのだろう。

 

発心 98.11

 発心と書いてほっしんと読む。心を起こすこと。心を奮い立たせることである。

 生まれ生まれ生まれ生まれて生の始に暗く、死に死に死に死んで死の終わりに暗いという弘法大師の言葉がある。無反省に人生を送っていたのでは虚しいということ。そして今を大事に生きようという言葉である。

 人間はそのままに生きたのでは自ら苦しみ他を苦しませる生き物だと仏教は考える。それでいて無為自然の生き方を説いたりもするのだが、ともかく煩悩に塗れて生きるのが人生と反省するのである。そういう坊さんが少ないのにこんな説教もあったものでは無かろうが、人は知らず知らずのうちに人を傷つけ、自分で沈んでいく生き物ではなかろうか。

 贅沢なんかしてもなんにもならない。そう知りながら私たちはクモの糸を登っていく。登っても登っても満足は一瞬でしかない。その満足と次の瞬間の不満を唯一の頼りとして私たちは生きつづけるのである。そして虚しいと知りながら欲望に駆られ対象物へと飛び付きしがみつき、焦り疲れて我が身を呪うのである。

 さて、こうして私たちの或る者はこの自分からの脱出を願う。また、或る者は自分の変身を願う。また或る者は富と幸福の公平な配分による生きとし生ける者の幸福を夢見る。何れにしても、この儘、私達が煩悩に身を任せていたのでいいのかを問うのである。それが発心の元である反省であり、仏教の第一歩である。

初詣 99.12

 「良い年をおくりましたか」。こう問いかけて、自分はどうだったかなと心細くなる。不景気で「金儲けの夢」は期待できない。高級車を走らせた日々も、小型車の今を仇討ちしているようだ。金と贅沢品に忘我のエクスタシーを感じていた人々は今はボロボロである。逆に、流行どこ吹く風と、趣味やボランティアに自己実現していた人々は出番である。

 この一年、金欲しさに捕まった人が多かった。防衛庁から保険金欲しさの毒事件まで、金・金・金である。防衛庁が国を守らずに自分を守る、正に自己防衛庁。銀行が金を生み出さずに血税を吸い込むという、禁治産銀行。そして保険屋は殺人者を利する殺人保険である。いかに人間が金に弱いか。こんな金で金を生み出す世の中は終わりにしてほしい。汗水たらして働いてこそ報われる日が戻ってこないものか。

 ボランティアの人々も苦境のなかでボランティアをやめてパートへ流れているというのだが、どっこい、金や地位に振り回されず地道に自分の道を進んでいる人も多い。ボランティアの本来の意味は「自発性」である。自分の人生を悔いのないものにする。「この一年が有ってよかった」といえる一年を作る。その姿勢が問われている。

 あれもした、これもしたと言いながら、終わってみると何もできなかった一年・一生にしたくない。自分の時を何に変えていくのか。初詣はそのことを真剣に考える祈りの時である。神仏に旧態依然の自分や家族を守ってもらうのではなく、自分の新たな姿を申告しに行くのが初詣だ。

厄除け 99.12

 昔の人は「良い気」と「悪い気」を見ていた。自然が発する自然運行のパワーである。厄除けはその「気」をコントロールする人知として発展してきた。現代人はそんな自然パワーとその制御を信じている訳ではあるまい。人の力は自然を圧するようになったと信じている。

 実は、自然空間を都合のよい人工空間で塞ぎ、その中で安住しているにすぎない。震災が来て台風が来て人々は自分の力のなさに仰天する。自分だけはと思っていた交通事故で我が子を失い、また突然の癌で妻を失う。またある日突然子供が不登校、自分も出社不安、妻はノイローゼともなると、何かに呪われているとしか思えなくなる。「あっ、そうだ厄除けをしていなかった」と思い当たる。

 しかし、様々の災難は来ないのが当たり前ではなくて、困難のなかで生きていくのが人生である。昔の人は無事を最高の喜びとした。今の人はもっと、もっと楽しくと欲にきりがない。

 厄除けは、実は心の切替えである。人生の区切りにやってくる心の点検である。迷信めいた事ではなく、真に自分の力を発揮するための自己点検である。その点検をみんなでやるから厄除けは皆で行う、そして家内安全を祈り、その札を皆の見えるところに祭る。

 体調の変化、環境の変化、突然の災難これらは避けがたいものである。それに対する心の準備と心の入替えが厄除けの真意である。もっと言うならば、自分の目標は大丈夫か。自分は本当に自分を大切にしているか。本当に家族を大切にしているか。命ある者を大切にしているか。ということである。なぜなら、その心の切り替えが不幸を幸福に変えていく第一の原動力だからである。

涅槃に生きる 99.12

 こころを穏やかに保つ。こんなことを言っても今の若者はエキサイトして充実した人生の方を好むだろう。そういう私も波風のない人生より波瀾万丈のほうがいいと思っているところがある。これも時代の反映だろうか。浮き沈みの激しい悲惨な時代には、安穏無事を願い、今のような平和な時代には事件が起こるのを願うということだろうか。人々の退屈が戦争を欲しがるという説もあながち嘘ではなかろう。確かに、戦争の悲惨な諸事実を語り伝えることで、平和を守るしかないと思っている私たちである。

 しかし、ここでいう涅槃とは単なる平穏無事とは違う。涅槃とは私たちの心の基底の状態を表しているのである。貴方の心はしっかりしていますかという事である。土台がしっかりしていないと荒波でこけますよ、あるいは人生そのものが歪んだものになりますよ、ということである。

我慢(自己抑制と自己実現)について01.3

 我慢とは忍耐、辛抱することと思われているが、仏教用語では、「我」+「慢」である。我は、「自分が、自分がと思いつのること」。慢は、「おごり高ぶること」である。慢はもともと三毒、五毒の一つであり、貪=貪欲、慎=怒り、痴=無知、慢=慢心、疑=疑いの一つである。

 慢に七つあるという。

1)慢

 劣った人に対して自分の方が優れていると思う。(注意、劣った人というのはあるのか、あるとすれば、どういう意味に置いて劣っているというのか。例、出来る出来ない、出来るのにしない、出来ないけど頑張る、優しい冷淡だという基準か)

2)過慢(かまん)

 自分と等しい人に対し、自分の方が秀でていると思う心。

3)慢過慢

 相手の方が優れているのに自分の方が優れていると思う心。

4)我慢

 自分の考えを唯一と思っておごり高ぶる心。

5)増上慢(ぞうじょうまん)

 まだ悟っても居ないのに、悟っていると思いこむ心。

6)卑慢

 ひとより劣っているのに、劣っていないと思う心。

7)邪慢

 悪事をしても罪の意識も持たぬ思い上がり。

 以上は、辞典からの引用中心であるが、要は、他人と比べて安住したり、自分の今の状態にあぐらをかくことであろうか。人と比べると言うことはもともと社会的な運動の中で起こることで、自信のない人が行うことでもある。自分の中に尊いものがなければ、せめて他人と比べて善し悪しを云々するしかない。自分自身に、信念があり、大事なものを抱いていれば、他人に左右されることはない。その大切なものを発揮するばかりある。

 信念が出てきたが、信とは信じること、信じるとは見えないものを見える形でとらえること。人の誠意を信じるとか、努力すれば報われると信じるとか、将来を信じるとかである。ここでは将来に形を与え、その希望を信じることとしたい。

 念とは、心に思うことであるが、過去の出来事から心に刻まれることがあり、それが将来へと形を残すこと。過去の辛いこと楽しいことを将来へと引き継ぐことである。そうすると信念とは温故知新と努力期待であろうか。過去に学び辛酸苦楽を忘れず、将来へと努力することを怠らないことであろう。

 

 さて、耐える意味での我慢である。現在の苦難を耐え忍び、将来の慢心を期待すること。一時の苦しみを耐えて精進し、自我の肥大を期待することとなる。自我の肥大とは、自分の心が鍛えられること。しかし、思いはどんどん深くなり、この世でのしたいことが増えていくことにもなる。その裏腹に上記の、我慢=自分の考えを唯一と思っておごり高ぶる心が生まれるのだろうか。堪え忍ぶ我慢にも二種類ある。一つは目的もなく苦境をただひたすら耐える我慢であり、もう一つは目標の為に今の期間を努力しながら耐える我慢である。

 一説に、我慢は、自我が強くなければ出来ないという。人間には「植物的心」と「動物的心」と「知的心(人間的心)」がある。

 脳幹は心臓の動き、血流の調節、呼吸などを半ば自動的に行い、植物的心の代表である。

 古い脳は、腹が空くと食物を追わえ、障害に当たると怒りと攻撃を起こすという、動物的心である。

 そして新しい脳は、上の二つの脳の暴走を押さえ、特に本能的行動を抑制しコントロールする。しかし、それだけではなく、人間らしい知恵と能力と意欲、情操は新しい脳の働きであり、知性脳と呼ばれる。またフロイトは「イド」と「エゴ」と「スーパーエゴ」があるという。イドは、本能的な欲望のままに働く原始的な心であり、快楽原則に従うとされる。上の植物脳と動物脳に相当する。エゴ(自我)はイドの要求を満たすためにイドから分化した心で、快楽原則ではなくて実現可能か否かという現実原則に従うとされる。またスーパーエゴ(上位自我)はエゴから生まれエゴの働きを補う。スーパーエゴは善悪の判断を行う良心である。イドは絶えず要求し、エゴに実現を迫る。エゴはイドの要求を実現するためにあれこれ手段を工夫するが、そのためには相手、つまり社会のルールを知る必用がある。こうして社会のルールを代弁するスーパーエゴは自分自身の主張を始め、自我に文句を言う。こうしてイドとスーパーエゴの間に挟まれたエゴの悩みは、我慢そのものである。人間らしい脳はエゴとスーパーエゴの働きに相当するが、我慢の基本はエゴにあると言えよう。(講談社現代新書、自己抑制と自己実現、礒害福島著)

 話が脱線するが、上記著にこう書かれる「我慢の心理学は、人間が人間になったところから始めなければならない。・・・我慢の光と影はまさに自我の強さにかかっているのである。・・・

 人間の前頭葉連合野は、いまだ開発途上の新天地だと言われている。この領野は、意志と創造と豊かな情操の心の場である。我慢し、我慢を乗り越えていく工夫を通して、前頭葉は今後さらに鍛えられることだろう。人間は人間であることをやめることができないのだから、それなら、一層人間的になることによって、困難を克服していくほかはない。けれど、人間もまた動物であり、生物であることも忘れるわけにはいかない」。

 ここには示唆に富む言葉がいくつもある。特に、人間は人間であることを止めるわけには行かないということ、そして、人間の脳は開発途上の新天地だということ。これは仏教に於いて人間らしく生きるのかそれとも、人間を否定して生きるのかの二者択一の一つの答えを用意している。人間性の肯定か否定か。そして、我慢の肯定か、否定か、何にとらわれて生き、何にとらわれないで生きるのか。ひろさちやさんへの挑戦も籠められている。

 さて、論を戻して、我慢の問題。

 先に我慢とは人間の器量の大きさとも関係すると書いたが、それは自我の大きさ強さに関わると言うことだった。そこで植物脳、動物脳、知的脳と、イド、エゴ、スーパーエゴが出てきた。仏教はこの件について具舎論以後論を重ねている。前五識、六識、七識、八識である(真言宗は九、十識を説く)。

 このうち七識が自我に当たる。その時、八識はイドや植物脳、動物脳に相当しようか。七識は自我意識とよばれる。他人をさておいて「われこそは、私こそは」と自分を全面に出す意識とされる。古来仏教では、通説としてこの自我意識をなくせ、つまり、私こそがと思うなというのだが、どうであろう。そうだとすれば、本能であるイドを弱め、死んだように生きろと言うことになるのだろうか。それとも本能とは別の意欲をどの箇所に創造せよというのか。例えは、この七識に造れと。真言宗では、八識が清らかになると、これを浄分というが、九識になり、仏の意欲になると考える(大欲)(小大日如来)。それが身口意に及ぶと十識になる(大大日如来)?。

 さて寄り道をしながらだが、耐える我慢とは苦痛との戦いである。そして楽しみをありありと描ける人は、多少の苦痛なら耐えやすい。美味しい焼き芋を食らう時の手の火傷は気にならず、なんでもない怪我の火傷は耐え難い。大きな崇高な目的のために人は死ぬこともできる。何ら楽しみのない目的のない人生では、苦しみは苦痛以外の何者でもない。

 こんなことも分かっている。何遍も同じ失敗で獲物とりに嫌気のさした猫に、好物を与える。そしてその味をしめた猫に失敗と同じ行為をさせるのだが今度は、餌を貰えることが分かっているからか、次第にその猫は痛みを乗り越えて、自分から餌をとろうとし始めるのである。

 人間も同様で、目標をしっかり持って、そして、その目標への手だて方法が分かっていれば、多少の困難は我慢しながら自己を成長させながらすすむのである。

 また、大きな安心や満足を持っていれば、不快や苦痛は少しずつ耐えていけるようになる。人は、大きな安心によって不安を薄めていくことができるのである。

 

強い快の心をつくりだす

 大きな安心で苦痛を飲み込む

1)大好きな食物を食べる

2)大好きな酒を気分良く飲むは?

3)少しずつ腕を上げている活動(例えば碁やゴルフ、テニスなど)に従事する。

4)好きで得意な活動(例えばデッサンをかく、ピアノをひく)に従事する。

5)適度の前進的運動で汗を流す。

6)気の置けない友人と談笑する。

7)昔の友人と会って、昔話をする。

8)子供の頃に好きだった活動(例えば、テレビ漫画をみたり、竹トンボを飛ばす)を行う。

9)くつろいで落ち着いていられる場所や相手を選ぶ。

10)ひそかに自慢に思っている持ち物や事柄について考え、心に描く。あるいは実際に話題にしたり、身につけたり、取り出してみたりする。

困難を分割する(我慢を分割する)

 坊主憎けりゃ袈裟まで憎し

 誰かにたいして、嫌いになるとその人の一挙一動が嫌でたまらない。そうすると何でもないことが鼻につき、嫌いで嫌いでたまらなくなる。困るのは相手だけでなく、自分も出勤が出来なくなる。顔を合わせると吐き気までし始める。どうすればいいのか。

 そんなとき、

 一つ一つの我慢を小さく分割してみることが大切である。

 重なる不幸も同じで、人間は二つぐらいの不幸の重なりは耐えても、三つ重なると苦しくなる。わけがわからなくなるのであろう。そんなときは不幸を分解して考え一つずつ解決していくと乗り越せる。

 

アリとキリギリス、シンデレラ、竹千代とその母に学ぶ我慢

 我慢のできる親の子は一般に我慢ができる。近くに我慢のモデルがあると我慢を学ぶ(まねる)。

1)空想解決モデル

 何か困ったことがあると、快適な事態を空想する。お腹が空いたらソーセージを思う。そして満腹に。自己(主体)と他(客体)との区別がつかない。乳幼児期の子供が好むモデル。

2)迷信行動と魔術のモデル

 「シンデレラ」「ひみつのアッコちゃん」「ドラえもん」など。何か思いどおりにならない事態に面して、モデルは右往左往するが、そうこうするうちに偶然の出来事が起こり、解決してしまう。モデルには期待があるが、合理的な手段は分からず、たまたま何かした時に、好都合な結果が起こる。

 おまじないをすると痛くなくなるとか、治ったというケースである。(迷信?)

3)待つ我慢のモデル

 思うにまかせぬ事態で、モデルは耐えて待つことに専念する。待つこと耐えることが、目標であるとともに手段にとなり、やがて良いことが起こる。母親から「待っててね」とか「後でね」「クリスマスまで我慢よ」と言われて、待っていると良いことが起こる。「三年寝太郎」など。我慢の状況が変化するのを我慢して待つのがこのタイプ。

4)アイデアと努力

 アイデアと努力によって我慢を続け我慢を解決する。努力と成長を重んじる児童期後期の子供。

5)自己抑制のモデル

 自己を対象化できるようになると、我慢とは自分自身に対する自分の主体的行動であることが次第に認識されるようになる。「我慢できるかできないか」が自己の価値にかかわると思い始める。青年。自己を高め社会に貢献するための努力は自己抑制のモデルに通じる。

6)関係調整のモデル

 人と人、人と社会の関係を、相互的相対的関係から捉えることができるようになると、我慢のモデルも、人と環境との相互作用の視点からのモデルが好まれるようになる。一、お互いに我慢をする。我慢のバランス。二、他者の動機への共感と洞察の成分。相手の視点と立場に立って物事を捉えることによって相互性の理解が深まる。三、相互影響の循環として我慢を考える視点。ここでは一歩引こうとか、ここは我慢すまいとか、長い人間関係、人生、宇宙の中で我慢を考える。大人?

 

我慢の強化因子

 我慢したら(たまたま)良いことがあったから、また、我慢する。これが効果の法則、結果による我慢の習得である。

子供)子供にとっては、親からほめられることと叱られないことが強化因子。しかし、親は我慢と褒美の両方を用意する。我慢を誉めて、欲しい品物を用意する。

大学生)

1)友人の評価

2)自分自身の評価

 強化因子は1)家庭から社会へという生活の拡がりに対応し、2)他者の管理から自己管理への自律の深まりに対応する。

 ある学生は、卒論に際し、英文の論文を読み切る事に「根性あるう」という台詞を吐き、自分をほめ、普段より高価な食事を取った。自らほめ言葉と褒美を用意して、がんばりを強化した。

「人はこうありたいという自分なりの目標を持っていて、その目標に近づいたかどうかで自分の行動を評価し、近づき得たと判断すれば自分をほめるが、むしろ遠くなっていると判断すれば自分を叱る。そういう能動的・自律的生活者のようである。

 他律的我慢とか受け身の我慢から自律の我慢へ

 我慢には社会的機能を狭めたり、精神的健康を損なう我慢がある。未来の展望へと開けた我慢ではなく、アプローチを閉ざされ、何をしても無駄だという発砲塞がりの絶望的な我慢がある。

 可能性を信じ、目標ある我慢をしたい。